夜明け現パロ2編
【坂の上の猫】
古い小さな教会が、坂のてっぺんに建っている。
ジェハナは毎日アパートメントから出て、てくてく徒歩で坂をのぼり、また少し下った先にある大学へ通っている。坂道を歩いていると煉瓦塀が右側にあらわれ、最初は頭のずっと上までそびえていたのが次第に低くなり(というか道路側が高くなって)、教会の正面に達する頃には塀の上に顔が半分出るぐらいになる。
高すぎない塀と、いつも開け放しの門扉。その際に造られたささやかな花壇に咲く四季折々の花。礼拝堂のポーチまで続く白い敷石はいつもきれいで、両側の芝生も瑞々しい。きっといつ誰がふらりと迷い込んでも、温かく歓迎してくれるのだろう、そう思わせてくれる雰囲気があった。もっとも、学業に忙しく無宗教を自認するジェハナは、一度も足を踏み入れたことはなかったが。
そんなある日、たまたま休講が入っていつもと違う時間帯に住まいを出た彼女は、道ばたに妙な景色を見た。教会の塀の下に、数人の学友がへばりつくようにして立っているのだ。学友、と言っても顔見知り程度の知人ではあるが。
「こんにちは。どうしたの……」
「シーッ」
声をかけた途端に遮られる。ジェハナが目をしばたたくと、相手は視線で塀の上を示した。見ると、頭上の高みで猫がひなたぼっこしている。
猫がどうしたのかと首を傾げる彼女に、知人は笑いを堪える風情でささやいた。
「ここの神父さん、面白いのよ」
「……?」
ジェハナは困惑を深めた。神父? 猫じゃなくて?
怪訝な顔をしたまま、いいからこっち、と手招きされるがまま、塀に身を寄せる。じきにずっと上のほうで、ガチャリとドアの開閉する音がした。
芝生を踏む足音がこちらへ近付く。どうやら神父が中から出てきたらしい。
「やあ、シルビア。いい天気だね」
穏やかな声が呼びかけた。それだけで学友らはふきだしそうになり、口を押さえて肩を震わせる。ジェハナは眉を上げた。いったい何を笑うことがあるのか。なじみの猫に話しかけるぐらい珍しくもなかろうに、盗み聞きしたあげく笑うだなんて失礼な。
「今日はひとりかい? うん、ご機嫌だね」
愛情深い声に、猫が喉を鳴らす音が重なる。撫でてやっているようだ。
(猫好きなのね、ずいぶん懐かれているみたい。声はわりと若いようだけど)
ふむ、とジェハナは推測する。この界隈は暮らしに猫が溶け込んでいるが、気安く人に触らせてくれるとは限らない。きっと神父は、猫がくつろいで身を任せるぐらいに安全で物静かな人物なのだろう。声からして、三十代から四十代ぐらいだろうか。猫好きのおじいちゃん神父様、というわけではなさそうだ。
ごろごろ喉を鳴らしていた猫がもそりと動いた。
「ああ、わかったわかりました、ほら」
声が笑いを帯びる。どうやら、もっと撫でろ、構え、と催促されたらしい。ほほえましいなりゆきに、ジェハナも緩みそうな口元をそっと押さえる。隣の学友がうんと声をひそめてささやいた。
「そのまま我慢よ」
警告されてジェハナが眉を寄せると同時に、上から予想外の言葉が降ってきた。
「ありがとうシルビア、よい一日を。またニャ」
「――っ!」
危ういところだった。ふきだしかけたのをぐっと堪えたはずみで、煉瓦塀に肩をぶつけそうになる。ごくかすかな猫の足音がたしたしと移動してゆき、やや遅れて靴の足音が遠ざかる。キィ、バタン、とドアが閉じると、学友らが一斉に笑い崩れた。
さすがにジェハナも彼らを咎められず、おかしいのと罪悪感とでややこしい顔になる。どんな人物か知らないが、神父様が「ニャ」はないだろう、「ニャ」は。
目尻に涙まで浮かべて、学友が息切れしながらジェハナに言う。
「ね、ね! おかしいでしょー! 毎回じゃないけど、たまに言うのよあれ!」
「初めて聞いた時はあまりの衝撃に声も出なくてねー。それが幸いしたわ。おかげで気付かれずに済んだの」
「知る人ぞ知る猫神父」
口々に言い合って笑いこけていた彼らは、ジェハナがそれほどには楽しそうでないのに気付くと、じゃあまた後でね、と適当に言いつくろって先に行ってしまった。
その場に残ったジェハナは、しばし途方に暮れて塀の上を仰ぎ見ていた。もう猫はいない。特徴的な灰色のぶち猫だった。
「シルビア、か」
きっと猫を相手にすっかり気を緩めて、神父としての立場もちょっと横に置いて、くつろいでいたのだろうに。無関係の、この町の元々の住民でもない学生たちが盗み聞きして陰で笑うなんて。
(教えて差し上げたほうがいいのじゃないかしら。それとも、余計な告げ口になる?)
それをきっかけにお説教されたりしたら面倒だし……、とジェハナはしりごみし、迷いながら腕時計に目をやって、とりあえず今はそれどころじゃなかった、と駆け足になった。
以来、ジェハナは教会を気にかけるようになった。通りがてら注意してみると、なるほど、猫の下に数人の学生がなにげない様子で立っていることがある。むろんただの偶然で、互いのノートやレポートを覗きこんでやいやい議論している場合もあったが、明らかに神父の珍発言を待ち受けているらしき姿もしばしばだった。
これは本当に、一度そっと知らせるのが親切ではなかろうか。学生らに親しまれて結構、と笑って済ませられることではない気がする。
わりと真剣に案じ、ジェハナは教会の前を通る度、迷って中を窺うくせがついた。
そうしてなかなか踏ん切りがつかないまま、むなしく一ヶ月が過ぎた頃のこと。
「あら」
珍しい、とジェハナは目をしばたたいた。猫が門扉の近くで丸くなっているのだ。いつも塀の上にいる時は、もうちょっと向こう――通行人に気安く触られない高さがある辺り――に陣取っているのだが。
「こんにちは、シルビアちゃん」
顔の高さにいる猫に呼びかける。が、ぶち猫は薄目を開けて、ふん、という顔をしただけだった。その様子がいかにも傲慢ながら似合っているもので、思わずジェハナは苦笑する。
「失礼しました、シルビア様。ご機嫌うるわしゅう」
丁寧に言い直す。実際この猫は、女王陛下とでも呼ぶべき貫禄を備えていた。ふさふさした毛にふくよかな体格、落ち着き払って下賤の人間ごとき歯牙にもかけないとばかりの態度。それでいて、つい話しかけずにいられない愛嬌を醸しているのだから不思議だ。
シルビアはもう一度薄目を開け、今度はちょっとだけ首を上げた。ジェハナがゆっくり、そぉっと手をさしのべると、指先をすんすん嗅いで、じっと品定めするように顔を見つめる。ややあってシルビアは鼻を鳴らし、くいと顎をそらせた。
よろしい、撫でるが良い。許す。
いかにもそんな声が聞こえそうで、ジェハナは笑いを噛み殺して恭しく触れる。
「いかがでございますか。……さすがに喉を鳴らしてはくれないわね。下手でごめんニャ……いやだ」
うっかり猫語変換してしまいかけ、自分に呆れて手を引っ込める。通行人がいなかったかと背後を振り返り道路を見渡したが、幸い誰もいない。ほっとして気を抜いた時、猫がジェハナの袖をひっかいた。
「なんですか。勝手にやめるでない、って? はいはい女王様、わかりましたからおやめくださいな。もう、駄目だったら、レースに爪がひっかかるわよ。ほら、だ・め・ニャ!」
指を鼻先に突きつけ、めっ、と強い語調で言う。直後、ごほっと誰かが失笑した。ジェハナは一瞬だけ固まり、ぎょっとなってとびすさる。
「ま ままままさか」
動転しながら門扉の内、敷地に踏み込んでみると、あろうことか神父が塀の際にしゃがんで肩を震わせているではないか。
どうやら花壇の手入れをしていたらしい。完全に塀の陰になっていて、道路側から見えなかったのだ。
すさまじい勢いで顔に血が上る。ジェハナは火照った頬を両手で押さえ、悲鳴を上げた。
「き、聞かなかったことに! 今のは無しで!」
「……す、すみません。つい、堪えきれず」
うずくまったままの神父が笑いながら詫びる。ジェハナは泣きたくなった。最初から聞かれていたのか。猫相手に延々と独り芝居をして、あげくにニャだとか言った、子供じみたざまを。
悶えるジェハナの前に、ようやく神父は土のついた軍手を外して立ち上がり、歩み寄る。地味で温厚そうな顔立ちに、縁の細い眼鏡。意外とまだ若く、三十歳かそこらではなかろうか。青年と言っても差し支えあるまいが、雰囲気は老成した落ち着きを纏っていた。
「失礼しました。私はこの教会の司祭、タスハと申します。学生さんですか? シルビアとはお知り合いのようですね」
紫をちりばめた灰色の瞳に茶目っ気を浮かべ、彼は塀の上の猫を視線で示した。ジェハナはどうにか気力を立て直し、姿勢を正してきれいなお辞儀を返す。
「初めまして、ジェハナとお呼び下さい。お察しの通りそこの大学に通っておりますので、いつもここにいる彼女のことはよく見かけていまして……」
そこまで言い、ためらいに口を濁して相手の表情を窺う。タスハは礼儀正しい控えめな笑みで、どうしましたか、と促すように、わずかに首を傾げた。この温厚な態度が本物なら良いのだが。ジェハナは思い切って続けた。
「シルビアの名前は、神父様が呼んでいらしたので知りました」
「おや。そうでしたか」
タスハは納得しつつ、あれっ、と何かがひっかかるような顔をする。ジェハナは恐縮しながら、相手の足元にざっくり深い穴を掘った。
「またニャ、って、おっしゃってたのも」
ごほ、とタスハがむせた。何か言おうとして咳き込み、真っ赤になって口元を覆う。長い手指が顔の半分を隠したが、耳まで茹だっているのでは意味がない。
大人の男性がここまで赤面するのは初めて見たもので、ジェハナは自分の羞恥を忘れてぽかんとした。
うわうわうわ、とかなんとか小声でうろたえながら、タスハはおろおろと明後日のほうを向く。
――何この人、可愛い。
そんな感想が喉元まで出かかり、ジェハナは慌てて飲み込む。つい先刻まで、同じ感想を自分が持たれていたなどとはつゆ知らず。
その時、二人の騒動にうんざりしたのか、シルビアが大きなあくびをした。ジェハナが振り返り、タスハもどうにか平常心を取り戻して猫のそばに寄る。
「シルビア。参ったぞ、君の魔力でずいぶんなことになってしまった」
情けなさそうに言いつつ、慣れた仕草で猫を撫でる。すぐに女王様は機嫌を直し、ごろごろ喉を鳴らし始めた。
「……本当に懐いてるんですね。すごい」
「昔から猫には割合、好かれる性質でして。もっとも彼女は私を召使だと思っていそうですがね」
「猫ってだいたいそういうものですし。それにしても、魔力、ですか。確かにこの子には不思議な力がありますね」
うんうん、とジェハナはしかつめらしくうなずく。タスハも面白そうに微笑んだ。
「そうでしょう。女王様の前に進み出て、ご機嫌伺いをしなければならない気にさせられるんですよ」
「よくわかります。わたし、特別に動物が大好きというほどじゃなくて、進んで犬や猫に話しかけるとか、あまりしなかったんですけど。シルビアには……逆らえないというか」
そこでジェハナは沈痛な面持ちになり、しみじみと述懐した。
「猫語になるのもやむなし、ですね」
「いやまったく」
タスハは恥ずかしそうに小さく笑ったが、今度はもう赤面はしなかった。その様子にジェハナは安堵し、こそっとささやく。
「実はうちの学生たちが、神父様のことを面白がって、ニャっておっしゃるのを塀の下で待ち受けてることがあるみたいなんです。今後はシルビアに話しかける前に、塀の道路側を確かめてください」
「おやおや。では今度、主のお言葉を猫語で聞かせて差し上げましょうかね」
神父はおどけて受け流した。さすがに含羞は残しつつも、まるで気を悪くした様子はない。のんびりとシルビアを一通り撫でて、仕上げに恭しく首のまわりに指を滑らせてから手を離す。
(匠の技だわ……)
などとジェハナは馬鹿げたことを考え、ふと思いつきを口にのぼせた。
「神父様って、お暇なんですか?」
言ってしまってから、しまった、と慌てふためく。
「あっ、いえあの、他意はないんです! あんまりお上手だから、よっぽど長く猫を撫で続けられたのかと。さっきはお花の手入れをされていたし、日曜以外はのんびりされているのかしらと思ったんです。わたし、特定の宗教に属さないものですから何にも知らなくて」
補足弁明するはずがどんどん墓穴を掘っている気がする。ジェハナは額を押さえてうなだれた。
神父は面白そうに聞いていたが、彼女が黙ると、おもむろに反問した。
「ではお尋ねしますが、我々聖職者が忙しいとしたら、何をしていて忙しいのだと思いますか?」
「え? えーっと……そうですね、礼拝や催し事をしたり……お祈りや勉強会をしたり? 慈善活動とか」
なんとなく思いつくままに挙げ、ジェハナは目をぱちくりさせた。
「数えてみたら、結構お忙しそうですね」
「そうですね、何かとやるべきことがあるのは確かです。ただ、クリスマスなどのように重要な祭礼の時を除いて、一番忙しくなるのはね、ジェハナさん、……お葬式です」
静かに諭す口調で言われ、あっ、とジェハナは息を飲んだ。そうだ、古今、宗教の主要な役割は冠婚葬祭だったではないか。彼女の理解を見て取り、神父はそっとうなずいた。
「今は各地で高齢化が進んでいますからね。あるいは教区に深刻な問題があって、その解決に奔走していたり、苦難から人々を救おうと闘っていたり……それぞれではありますが、我々が忙しいというのは、あまり良い兆候ではないように思われませんか」
「おっしゃる通りです」
それだけ言ってジェハナは恥じ入り、縮こまる。タスハは小さく笑いをこぼした。
「それほど困難に見舞われていないとしても、我々は神に思いを寄せ、人の心に添う者ですから、余裕がなくてはつとまりません。ですから私は、なるべく意図して暇をつくってもいるんですよ」
「……ごめんなさい、本当に失礼いたしました」
「いえいえ、何であれ教会のことを知りたいと思っていただけたのは、嬉しい限りです。実際まぁ、猫ばかり撫でていると言われても反論できませんし。片付けるべき雑務も控えているのですが、つい」
照れくさそうに言い、神父は猫を見やって目を細める。ジェハナも笑みをこぼした。
「シルビア、あなたってそこにいるだけで偉大な仕事をしているのね。神父様のお心を寛がせて、地域の皆様にご奉仕しているってわけ……じゃない、か」
台詞半ばでシルビアは大欠伸し、のうのうと毛づくろいを始める。そうして、興をそがれたと責めるような一瞥をくれると、のしのしと塀の上を歩いていった。苦笑しながら見送ったジェハナは、悪戯心を出して神父を振り返る。
「またニャ、って言わないんですか?」
「……ご容赦を」
タスハは頬を染めて降参の仕草をする。ジェハナはちょっと笑って、ぺこりとお辞儀した。
「それじゃあ、わたしもそろそろ帰ります。長々と話し込んで、お邪魔しました」
「とんでもない。またいつでもお気軽にいらしてください。シルビアも喜ぶでしょう」
「召使が増えて?」
ジェハナはおどけて切り返し、相手をややこしい顔にさせておいて首を竦める。わざとらしく逃げるように門を出たところで、去ったはずのシルビアが塀の端からナァンと鳴いた。
初めて声を聞いたジェハナは驚いて振り返る。タスハが猫と見つめ合い、それからジェハナに向かって、なんとも恥ずかしそうに手を挙げた。
「あー……またニャ、だそうです」
「……っ、はい。ではまた」
笑いを堪えて震えながらそう返し、ジェハナは唇を引き結んで坂を駆け降りて行った。
ではまた――この先その言葉を何百回、何千回となく交わすことになるとは、二人とも、まったく予想もしていなかった。猫だけは知っていたかもしれないけれど。
オマケ会話。
何回か塀を挟んで立ち話をした後、司祭館にお邪魔して話をするようになったりした後。
「度々お邪魔して心苦しいんですが、本当に良いんでしょうか」
「お邪魔どころか、今日は私が、ネットワークの設定をお願いしたんですよ。おかげさまで助かりました」
「このぐらい、お安い御用です。でもその、わたしみたいに教会に懐疑的で信仰心もない者が、いろいろお話を聞かせて頂いて……本当なら信徒の皆さんに割くべきお時間を奪っているのじゃないかと心配なのですけど」
恐縮するジェハナに、タスハは微笑んで答えた。
「きっかけが何であれ、あなたは教会の門をくぐり、まだ信ずることはできなくとも、主の教えに耳を傾けていらっしゃる。それはやはり、あなたの魂が神を求めているからですよ。答えが見つかるのは、この教会ではないかもしれません。ですが、生涯の探求の手助けになるのであれば、時間を惜しみなどしませんよ」
2017.5.8
【魔法の右手】
すっかり日暮れた後になって、いつもは静かなモバイルがいきなり鳴った。表示された名前は、近所に住む女子大学生だ。何かの非常時にはいつでも連絡していらっしゃい、と番号を渡した相手。
「どうしました、ジェハナさん」
慌てて出ると、なんと彼女は泣いている。かなり怯え、取り乱して、すぐ来てくれと言うのだ。警察沙汰のあれこれが脳裏をよぎり、タスハは大急ぎでコートを羽織って飛び出した。
アパートメントに駆け付けてみれば、ジェハナは自室のドア前で震えていた。白い息を吐きながら足踏みし、せわしなく周囲を見回している。
「あっ、司祭様!」
「大丈夫ですか、何があったんです。警察には?」
これはただ事ではない。タスハが緊張して問いかけると、彼女は涙まじりに詫びた。
「ごめんなさい、こんな時間に。でも、ほ、ほかに頼れる人がいなくて」
「構いません。そのために連絡先をお渡ししたのですから。お怪我はありませんか? 部屋を荒らされでもしましたか」
「……く、クモが」
「え?」
「蜘蛛が出たんです……っ!」
か細い声を振り絞るようにして言った直後、またぽろぽろと大粒の涙が落ちる。
拍子抜けしてぽかんと立ち尽くすタスハの前で、ジェハナは嗚咽を堪えようと手で口を覆い、合間合間に訴えた。
「ち、小さいのじゃ、ないんです! お、大きくて、怖くて、わたし」
「……それは、なんと……」
タスハは曖昧に応じ、震える肩にひとまず両手を置いてぽんぽんとなだめた。大事でなくて良かったのだが、微妙に複雑な気分ではある。
(いやいや、彼女にとっては一大事だからこそ、私を呼んだんだ)
たかが蜘蛛で、などと軽んじてはいけない。恐怖症の人間にとって、虫や蛇の類は死ぬほど恐ろしいのだから。現にこの怯えようときたら、蜘蛛どころか羆に襲われでもしたかのようではないか。
「では私が中に入って、退治してきたら良いのですね」
「ごめ、っなさい……お願いします。さっきはリビングに、いたのですけど」
ぐすっ、と鼻を鳴らしてジェハナはドアのキーを回す。ノブには触れない。扉を開けた途端に上から落ちてきたりすまいかと恐れているのだ。
タスハは慎重にドアを開け、素早く壁や天井に目を走らせてから滑り込んだ。余計なことは一切考えず、蜘蛛の姿だけを探してまっすぐリビングを目指す。電灯がついたままの部屋、温かな昼光色に照らされた白い壁の天井付近に、すぐそれは見付かった。
「アシダカグモか」
ほっ、と彼は息をついた。見た目は少々グロテスクだが、毒を持たない安全なやつだ。しかも、たぶん蜘蛛よりも嫌われているだろうゴキブリを捕食してくれるという、むしろ強い味方なのだが……まぁ、あの状態の彼女にそう説くのは酷だろう。
新聞紙を見付けて拝借し、適当に丸めたそこへ蜘蛛を追い込んで捕獲すると、ベランダに出て外へ放してやった。この寒さだからまた屋内のどこかへ逃げ込んでくるだろうが、とりあえずしばらくこの部屋に出なければ良い。
家主に報告しようとベランダから中へ戻った途端、不意に己がいる場所を意識してしまい、彼は今さらかっと赤くなった。若い女性の一人暮らし部屋に!
リビングに置かれた雑誌や新聞、コーヒーが飲みさしになったマグカップ。ソファやサイドテーブル、シンプルな収納棚などのインテリアは、ほどほどに女性らしい甘さを備えつつもどこか知的に洗練され、いかにも彼女らしい。
(って待て待て、何を観察しているんだ馬鹿、失礼だぞ!)
タスハは顔が火照るのを意識し、慌ててぶんぶん首を振った。カーペットだけ見つめて足早に部屋を出る。廊下の途中で、ドアが半開きになっているベッドルームに気付いてしまい、彼は玄関を出る前に三回深呼吸したうえ、十字を切って不埒な考えを抱いたことに赦しを乞わなければならなかった。
どうにか平静を取り繕って外に出ると、ジェハナが食い入るように見つめてきた。さすがにもう涙は乾いている。タスハは微笑を返した。
「もう入っても大丈夫ですよ」
「あっ……ありがとうございます!」
ばっ、と勢いよく頭を下げてから、ジェハナは恥ずかしそうに言い訳した。
「本当に、こんなことで呼び出したりして、すみませんでした。でもあの、……こんなことだから、余計に、頼めなくて」
些細なことだが彼女にとっては大きな弱みだし、人を部屋に上げることになるのだから、よほど信用できる相手でなければ。そのうえ近くに住んでいてすぐ来てくれる人。確かに、なかなか条件が厳しい。
タスハはしかつめらしく同情的にうなずいた。
「ご近所のよしみです、困った時はご遠慮なく。今まではルームメイトさんが?」
「ええ……あ、でも、わたしも頑張ったんですよ! 最近は、小さいのなら平気になったんです!」
このぐらいなら、と親指と人差し指で半インチもない隙間をつくる。タスハは失笑してしまい、ごまかそうとして口を滑らせた。
「あれは大きかったですからね。ですが毒のない種類ですから、安全ですよ」
言ってから、しまった、と気付いたものの既に遅し。ジェハナの顔はひきつり、また両目が潤みだしていた。目撃した蜘蛛の姿が脳裏に再現され、恐怖も戻ってきてしまったのだろう。彼女は唇を震わせ、無理に笑みをつくった。
「で、でも、もう出ませんよね。ね」
「たぶん……ええ、大丈夫ですよ。寒い時季ですし」
うんうん、とタスハも同意し、それでは、と撤退態勢になる。察したジェハナがはっしと袖を掴んだ。
「ま、待って下さい待って、あの、もう少し」
「いやしかし」
「帰らないで! またあれが出たらわたしもう部屋に入れません!」
力いっぱいコートの袖を握られ、タスハは途方に暮れた。華奢な手はガタガタ震え、白く骨が浮き出ている。本人も恐怖を自制できないのだろう。涙声で「お願い一緒にいて」と訴えられたものだから、彼は顔から火を噴きそうになった。
「い、いけません! もう安全ですから、心細ければ誰かお友達を」
「そんな人いたらお呼びしません! じゃあ、わたしがそちらに行ってもいいですか!」
「落ち着いて! 教会の方が古くていろいろ出ますよ!?」
玄関先でぎゃいぎゃい騒ぐ男女二人。このままでは通報されてしまう、とタスハは焦ってなんとか解決策を捻り出した。
「そうだ、このアパートメントの管理人は友人なんです、彼に連絡して奥さんに来ていただければ……」
名案だ、とばかり言いさしたものの、途中ではたと我に返る。ジェハナも変な顔になって瞬きした。
管理人の奥さんことシャスパは、以前からして「若い娘が一人暮らしだなんて破廉恥な」だとか古式ゆかしい倫理観でジェハナに厳しく当たっている人物である。そんな相手に、蜘蛛が怖いから一緒にいて、だとか頼もうものならどんな惨劇になるやら。
曖昧な沈黙のうちに、ジェハナはうなだれ、命綱であった袖を離した。
「……わたし、強くなります……」
「それが良いですね」
タスハも苦笑するしかなかった。
気を取り直したジェハナが、気合を入れるようにぐっと握り拳をつくる。タスハはもう大丈夫だろうと微笑み、ほっと一安心した。袖を引っ張られて歪んだコートの襟を直し、帰りかけて、そうだ、と振り返る。
「ジェハナさん。後ろを向いて」
「後ろ?」
怪訝そうに首を傾げたものの、ジェハナは素直にくるりと背を向ける。その肩甲骨の間に、タスハはそっと右掌を当てた。どきりと竦んだジェハナに、彼は笑みを含んだ声で「ちょっとしたおまじないです」と言う。そして、
「怖くない、怖くない」
なだめるように、励ますように。温かく力強く、とん、とん、と軽く二回。
その瞬間ジェハナは、本当に何か見えない力が司祭の手を通じて送り込まれたように感じた。胃の辺りがほんのり温かくなる。
驚きに目をみはって振り返ると、少し照れたような笑みがあった。
「では、おやすみなさい。戸締りをお忘れなく」
「あ……はい。あの、司祭様も、暗いのでお気を付けて」
やや放心したまま彼女が答える。タスハは礼を言い、寒そうに肩をすぼめて急ぎ足になった。その後ろ姿が暗闇に消える寸前、ジェハナは我に返って声を張り上げる。
「ありがとうございました!」
返事代わりに、司祭はちょっと手を挙げた。魔法のような、奇蹟のような右手を。
2017.2.20




