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彩詠譚  作者: 風羽洸海
断片・二次
65/127

夢の淵から


 濃密な、重い色が渦を巻く。夜の森の黒、深い沼の緑。揺らめく紅は現実の血溜まりだろうか。

 低く高く音がうねる。圧し潰されそうな力の波。

 ――とうさま、かあさま。

 せいいっぱい口を開き喉を絞っても、かすれた呼気さえ出てこない。

 ――かあさま!

 痛い。痛い、痛い。悲しみと絶望と苦しみの針が全身に突き刺さり、潜り込む。

 息ができない。鼓動が止まってしまう。

 倒れた母の白い腹。甘い香と絡み合って漂う血の匂い。

 すがりつくと、それは父に変わっていた。横たわり、目を閉ざしたままの父。いつかの未来。

 ――いかないで、おいていかないで……!


 透明な鞭に打たれたように、大きく竦んで目が覚めた。咄嗟に口を開いて空気を求め、息を吸い込む。

 いっとき確かに、石になっていたに違いない。そう信ずるほどに、冷たく硬い悲嘆で胸が詰まり身体が痺れていた。

 やっとのことで温かい血が巡りはじめると、シャニカは竦めていた身を緩め、握り締めていた拳をほどいて、ほうっと息を吐いた。

 瞬きすると、ぽろぽろ、と左右の目から涙が一粒ずつこぼれ落ちた。嗚咽が一気にせり上がったのを、危ういところで抑え、飲み下す。唇をぎゅっと引き結んで、彼女は寝台からそろりと抜け出した。

 絨毯の柔らかな毛が、小さな裸足をふんわりと受け止める。暗い室内を、隣室からの微かな明かりや、静かな音色を頼りに、歩いてゆく。帳をくぐると、穏やかな灯火の明かりがたゆたっていた。

「ん? どうした、シャニカ」

 毛皮に胡坐をかいて文机に向かっていた父が、気付いて振り返る。そしてすぐに身体の向きを変え、両手を広げて「おいで」と微笑んだ。

 目を潤ませ鼻をすすりながら、シャニカはその腕のなかへ飛び込み、しがみつく。なんとか抑えていた嗚咽がとうとう喉を震わせて漏れ出し、止まらなくなった。

 泣きじゃくる娘の背を撫でながら、父は白い羽毛の声で慰める。

「よしよし、怖かったなぁ。もう大丈夫だぞ、お父様がそばにいるからな。今夜はここで寝なさい」

「ふ、ぅ……っ、うぐっ、えっく」

 ぎゅうぎゅうと顔を父に押し付けて、シャニカは駄々をこねるように身体を揺らす。何を拒もうとしているのか、自分でも明確にはわかっていなかった。

 寝たらまた悪夢が来る。お父様はいってしまう。いや、いや……

「姫様」

 黄金の雫が優しい波紋を広げた。姫のいやいやが止まる。

「シャニカ様、お顔を見せてください」

 陽射しの色が胸に残った霜を溶かし、手指のこわばりを解く。仄かな熱を感じてシャニカがそちらを振り向くと、湯気の立つ手拭いをそっと頬に添えられた。

「――!」

 一瞬びくっとしてから、彼女は両手でそれを受け取り、顔全体に押し付けた。泣いて塩辛くなった唇も、痒くなった目元も、さっぱりと心地良くなる。

 手拭いを外した時には眉間の皺も消えていた。シャニカはつかのま茫然とし、いつからか差し出されていた手に気付いて、それを取った。

 すく、と立つと視点が高い。胡坐をかいたままの父が、眩しそうに娘を見上げていた。

「さあ、お父上はまだお仕事がおありです。私がお供いたしますゆえ、お部屋でお休みください」

「リッダーシュ……」

 振り向くと、夫の顔がすぐそばにあった。薔薇の花弁がそっと触れ合い、吐息に震える。

「おそばにおります、姫」

 しなやかで強い意志の宿る、森緑の瞳。シャニカは微笑を返した。


(ええ、知っています)


 知っている。あなたはずっと共にいてくれた。

 けれど、お父様は逝ってしまった。多くの人々が、愛した人もそうでない人も、皆、去ってしまった。


 ――寒い。


 ああ、これもまた夢。

 一点の明かりもない暗闇のなかで、彼女は震えた。もうここには誰もいない。母も、父も、そばにいると誓った人も、わたくしを置いていってしまった。

 お願い、このまま独りにしないで、誰か、


 ――ここへ来て……



2016.2.2


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