夢の淵から
濃密な、重い色が渦を巻く。夜の森の黒、深い沼の緑。揺らめく紅は現実の血溜まりだろうか。
低く高く音がうねる。圧し潰されそうな力の波。
――とうさま、かあさま。
せいいっぱい口を開き喉を絞っても、かすれた呼気さえ出てこない。
――かあさま!
痛い。痛い、痛い。悲しみと絶望と苦しみの針が全身に突き刺さり、潜り込む。
息ができない。鼓動が止まってしまう。
倒れた母の白い腹。甘い香と絡み合って漂う血の匂い。
すがりつくと、それは父に変わっていた。横たわり、目を閉ざしたままの父。いつかの未来。
――いかないで、おいていかないで……!
透明な鞭に打たれたように、大きく竦んで目が覚めた。咄嗟に口を開いて空気を求め、息を吸い込む。
いっとき確かに、石になっていたに違いない。そう信ずるほどに、冷たく硬い悲嘆で胸が詰まり身体が痺れていた。
やっとのことで温かい血が巡りはじめると、シャニカは竦めていた身を緩め、握り締めていた拳をほどいて、ほうっと息を吐いた。
瞬きすると、ぽろぽろ、と左右の目から涙が一粒ずつこぼれ落ちた。嗚咽が一気にせり上がったのを、危ういところで抑え、飲み下す。唇をぎゅっと引き結んで、彼女は寝台からそろりと抜け出した。
絨毯の柔らかな毛が、小さな裸足をふんわりと受け止める。暗い室内を、隣室からの微かな明かりや、静かな音色を頼りに、歩いてゆく。帳をくぐると、穏やかな灯火の明かりがたゆたっていた。
「ん? どうした、シャニカ」
毛皮に胡坐をかいて文机に向かっていた父が、気付いて振り返る。そしてすぐに身体の向きを変え、両手を広げて「おいで」と微笑んだ。
目を潤ませ鼻をすすりながら、シャニカはその腕のなかへ飛び込み、しがみつく。なんとか抑えていた嗚咽がとうとう喉を震わせて漏れ出し、止まらなくなった。
泣きじゃくる娘の背を撫でながら、父は白い羽毛の声で慰める。
「よしよし、怖かったなぁ。もう大丈夫だぞ、お父様がそばにいるからな。今夜はここで寝なさい」
「ふ、ぅ……っ、うぐっ、えっく」
ぎゅうぎゅうと顔を父に押し付けて、シャニカは駄々をこねるように身体を揺らす。何を拒もうとしているのか、自分でも明確にはわかっていなかった。
寝たらまた悪夢が来る。お父様はいってしまう。いや、いや……
「姫様」
黄金の雫が優しい波紋を広げた。姫のいやいやが止まる。
「シャニカ様、お顔を見せてください」
陽射しの色が胸に残った霜を溶かし、手指のこわばりを解く。仄かな熱を感じてシャニカがそちらを振り向くと、湯気の立つ手拭いをそっと頬に添えられた。
「――!」
一瞬びくっとしてから、彼女は両手でそれを受け取り、顔全体に押し付けた。泣いて塩辛くなった唇も、痒くなった目元も、さっぱりと心地良くなる。
手拭いを外した時には眉間の皺も消えていた。シャニカはつかのま茫然とし、いつからか差し出されていた手に気付いて、それを取った。
すく、と立つと視点が高い。胡坐をかいたままの父が、眩しそうに娘を見上げていた。
「さあ、お父上はまだお仕事がおありです。私がお供いたしますゆえ、お部屋でお休みください」
「リッダーシュ……」
振り向くと、夫の顔がすぐそばにあった。薔薇の花弁がそっと触れ合い、吐息に震える。
「おそばにおります、姫」
しなやかで強い意志の宿る、森緑の瞳。シャニカは微笑を返した。
(ええ、知っています)
知っている。あなたはずっと共にいてくれた。
けれど、お父様は逝ってしまった。多くの人々が、愛した人もそうでない人も、皆、去ってしまった。
――寒い。
ああ、これもまた夢。
一点の明かりもない暗闇のなかで、彼女は震えた。もうここには誰もいない。母も、父も、そばにいると誓った人も、わたくしを置いていってしまった。
お願い、このまま独りにしないで、誰か、
――ここへ来て……
2016.2.2




