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彩詠譚  作者: 風羽洸海
金枝番外
62/127

呪われた土地買います

即位3年後

「ワシュアールの王、諸王の王、偉大なる六彩の輝ける御君よ、ご機嫌麗しゅう」

 取り次ぎを経て入室した土地管理長官は、ふくよかな腹周りに陽気な雰囲気をまとい、機嫌良さそうな笑みを湛えている。どこかの国にこんな福の神がいなかったっけか、とシェイダールはぼんやり考えた。次いですぐ、丸っこい指が持つ粘土板に目をとめて気を引き締める。

「仰々しい美辞麗句はやめろと言ったろう。ご機嫌麗しくはないが、厄介事に取り組む気力は充分あるぞ。何か揉めたか」

「これはこれは」ハディシュは苦笑した。「我が君は仕事熱心でいらっしゃる、頼もしい限りでございますな。本日お目にかけようと持参いたしましたのは、さほどの難題ではございません。私めのところまで上がってきた訴えなのですが、恐らく王の興味をそそるのではないかと」

 持って回った口上をいくらか残しながらも、態度はざっくばらんに、すたすた歩み寄って粘土板を直接手渡す。シェイダールも当然の顔で受け取り、目を通した。

 いわく。

 管理する者のいなくなった古い祠の跡地を、周旋屋の紹介で購入した。店を建てようとしたのだが、ひっきりなしに怪異が生じて工事ができない。周旋屋に文句を言っても知らぬ存ぜぬとしらを切る。仕方なく町の神殿に相談したら、ここには古い神の怨念が染み着いているから祠や神殿を造って祀るほかない、でないと一族末代まで呪われるぞ、と言われた。丸損するのが嫌なら土地を買い取っても良い、とも言われたが提示された値は購入した値の一割にも届かない。なんとかしてくれ……

「ほう。ほほう、なるほど?」

 読み進めるにつれシェイダールの目は好戦的な輝きを増し、口元には鋭く辛辣な笑みが浮かぶ。傍らに控えるリッダーシュがひょいと訴状を覗き込み、おやおやと苦笑した。

「これは確かに、おぬし自ら現地に出向かねばなるまい」

「ああ。土地売買に絡む単なる詐欺なのか、それとも『怪異』とやらに別の理由があるのか調べないとな。まぁどうせ何か仕掛けをしたり、大工や人足を買収して怪異の被害とやらをでっち上げたりしたんだろう。そこに祭司が加わって丸儲け、というわけだ」

 何が怪異だ目にもの見せてくれよう、ついでに守銭奴祭司に一泡吹かせて、迷信もぶち壊してやる、とばかりの含み笑い。

「場所は……カザルか。ああ、道理で」

 醒めた顔で納得したシェイダールに、「道理とは?」とリッダーシュが小首を傾げる。ハディシュも不思議そうなので、シェイダールは訴状を返しながら説明した。

「あそこの町はそれなりに歴史も古いし、取引に関する決まり事も整っているだろう。だからこんな手の込んだ詐欺が出てくるんだ。ハディシュのところかそれより手前で処理できる類のやつは、俺の畑を勝手に取られたから取り返してくれ、って訴えばかりだからな。台帳を調べたり住民の証言を集めたりして、槍でちょいと脅せば片付くやつだ」

 単純とはいえ件数が多く、槍でちょいと脅す役が圧倒的に足りない(時にその当人こそが不正を働く)から、問題なのだが。シェイダールの故郷を含め、多くの土地ではまだまともな『法』がなく、所有地の境界すら明確にされておらず、ただ先祖代々の口約束、慣習、その場しのぎの合意に頼っている。人口の少ない集落であればそれでもなんとかなるが、ちょっと大きな町になるともういけない。だから王が立ち、裁きをつけ、共通の約束事を定めて民をまとめてきたのだ。

「もめ事をなくすために法をつくるんだろうに、今度はそれを利用して他人を食い物にするんだからな。まったく馬鹿らしい」

 忌々しげに唸りながら席を立ち、従者に目配せだけで支度を命じる。相変わらずせっかちな王に、ハディシュのほうが慌てた。

「もう出立なさるので? 急ぎ訴状の写しを作らせますが」

「要らん。覚えた」

「は……さようで」

 そういえば彼は異様に記憶力が良いのだった。改めて驚嘆するハディシュをよそに、当人はさっさと留守中の引き継ぎを始めたのだった。



 さて。カザルは入り組んだ岩山の隙間に位置する、城壁を備えた古い町である。

 周辺は一見、岩ばかりで荒涼としているが、隙間をくねくね走る道の先には豊かな杉の森があり、木材をはじめとする資源で町は潤ってきた。住民の気質は好戦的ではないが、木材を求める他国の侵攻には地の利をもって抵抗し、独立を守りぬいてきた歴史を持つ。

 それが、ワシュアールにはあっさりと膝を屈した。否、攻められていない内から同盟を申し出て、実質的に傘下に降ったのである。

 王の決断がいかなる考えのもとに下されたのかはともかく、そんなわけでカザルの統治体制はほとんど変わりなく、一般市民の生活もまた然りであった。違いと言えば、我らの王に訴えても解決しない、あるいは届く前に握り潰される事柄を、さらに上の『大親分』に投げてみることが可能になったぐらい。というわけで。


「ヤハドゥというのはおまえか」

 誰の紹介も通さず何の前触れもなく現れた偉そうな若者に、古びた食堂の厨房で仕込みをしていた男は、あからさまな不審顔をした。長年大勢の客を食わせてきたが、一度も見たことのない二人連れだ。いや、後ろにもう一人いるのか。

「さようですが……どちらの若様で?」

 身なりと態度から相手の地位を見積もり、ヤハドゥは慎重に答えた。装身具で飾り立ててはいないし、召使いを引き連れてもいないが、明らかに誰かに命令することに慣れた人物だ。ただ立っているだけで、なぜとはなく気圧される。恐らくまだ二十歳ほど、ヤハドゥからすれば小僧呼ばわりしてやってもいい年齢だろうに、とてもそんなことはできないと思わされるのだ。しかも連れの若者は剣を帯びているではないか。

 これはまずい、もしやいよいよ奴らが実力行使に出たのか――と、彼が身を硬くしたところで、最初に声をかけてきた黒髪の若者が、遠慮なくずかずか入ってきてヤハドゥの手元を覗き込んだ。

「何やってるんだ?」

 途端に連れから「好奇心は後に」と注意され、子供のように首を竦める。

「わかってる、つい癖で言っただけだ。ああ、手を止めなくていいから俺の話を聞いて、質問に答えてくれ。俺たちは土地管理長官からおまえの訴えを聞いて、調査に来たんだ」

「――! わ、私の訴えが届いたんですか! それでわざわざ、本当に!?」

「包丁、包丁! 気をつけろよ、まったく……ああそうだ、はるばる旅してきたんだから後で何か美味いものを食わせてくれ。おっと、名乗ってなかったな。俺はシェイダール、こいつはリッダーシュ」

 聞いたヤハドゥは声を失い、愕然と目の前の若者を凝視した。政治にあまり関わらない中流市民でも、さすがにワシュアール王の噂ぐらいは知っている。カザル王と重鎮たちが早々に恭順を決めた理由は誰もが不思議がったから、一時期その話題で持ちきりだったのだ。

「あの……まさか、そのお名前は」

 確かめようとして口ごもる。当のシェイダールは事もなげに肯定した。

「知ってるのか。ああ、俺がワシュアールの王だ」

「ひえっ!? お、お助け……」

 思わずヤハドゥは縮み上がり、狭い厨房で逃げ場もなく竦んだ結果、両手で包丁を握り締めて身構えるという物騒な体勢になってしまった。途端に、後ろの方にいたもう一人が駆け込んでくる。

「おいっ、貴様! 動くな!!」

 見ればこちらはヤハドゥも馴染みの、地元兵士だ。と言っても街中をぶらつくばかりの下っ端でなく、王宮を警護している親衛隊士。ますますヤハドゥが青ざめたところで、シェイダールが仲裁した。

「脅かしてやるなよ。もうこっちはいいから、おまえは戻って頼んだことをやっておいてくれ」

「いやしかし、御身に万一の」

「心配ないと言っただろう!」

 ここに来るまでに何回も押し問答したと察せられる、苛立ちもあらわな声。兵士が怯んだのをリッダーシュがとりなした。

「私がついている限り、我が君にはかすり傷ひとつ負わせはしない。それよりも貴殿は速やかにこの難題を解決し、我が君の御心を安んじる手助けを願えまいか」

 人当たりの良い温厚な口調で『お願い』されて、面目を保った兵士は「さよう仰せなら」と引き下がる。去る前にもう一度ヤハドゥを脅そうとしたが、シェイダールにぎろりと睨まれ、そそくさ退散していった。

「やれやれ、やっと行ってくれたか」

 清々した、とばかりにシェイダールはうんと伸びをし、それから眉を寄せてヤハドゥに向き直った。

「しかしさっきのはおまえも悪いぞ。何もそこまで怯えなくてもいいだろう、人食い怪物に出くわしたみたいな声を上げやがって。お助け、だと? 人聞きの悪い」

 整った顔立ちに似つかわしくない、ぶすっとした表情でぼやく。ヤハドゥは恐る恐る、リッダーシュの援護を期待しながら小声で言った。

「ですが、ワシュアールの王は、万の軍勢をたった一人で討ち滅ぼしたとか」

「はあ!? そんな噂になってるのか? いくらなんでも増やしすぎだろう! ドゥスガル軍がちょっかい出して来た時に、俺一人で追い払ってやったのは事実だが、百人だ、百! 様子見程度の先遣隊だったから出来たんだ。一万とか無茶言うな!」

 ほとんど悲鳴のように叫びつつ訂正する王に、リッダーシュが肩を震わせて笑う。シェイダールは忌々しげに友人を睨んでから、苦りきって唸った。

「本当にその噂を信じているのなら、王宮の連中も護衛だなんだと騒がずに放っておいてくれたらいいものを……それとも何か、うっかり誰かがちょこっと傷をつけようものなら、怒り狂った俺が町ごと焼き払うとでも思ってるのか? 俺は暴虐の化身か」

「そんなところだろうな。そのうちおぬしが歩いた跡、一足ごとに、祟りを鎮める祠が建つやも知れぬぞ。それが嫌なら癇癪は堪えなされよ、我が君」

 朗らかに嫌味なくからかわれては、さすがに怒れない。シェイダールは苦笑いし、やれやれと頭を振った。

「俺の話はいい。とにかく……ヤハドゥ、訴状によればおまえが買い取った土地で怪異があった、ということだが、具体的には何があった? ああ、手は休めなくていいぞ」

「は、はい」

 そう言われても、万にしろ百にしろ軍勢を一人で追い払った恐怖の大王が目の前にいて、なにやら強い力のこもった菫色の瞳でじっとこちらを見ているのでは、作業しながら会話などできるものではない。

 ヤハドゥは諦めて包丁を洗い、ひとまずその場を片付けようとした。途端にシェイダールは露骨にがっかりする。

「仕事の邪魔か?」

 面白そうだったのに、との落胆が言外に……否、実際に声にこぼれる。ヤハドゥは一瞬呆れ、畏れを忘れた。自分の仕事に興味を持たれて悪い気はしない。思わず笑みが浮かぶ。

「大王様にお答えするのも、仕込みも、どっちも中途半端になってしまってはいけませんからな。少々お待ちを、一旦ここを置いてきちんとお話しできるように片付けますので」

「話を後にしても構わないぞ」

「いえ、それはさすがに」

 ようやく一城のあるじらしい自信を取り戻し、ヤハドゥはてきぱきと段取りした。下拵えの途中だったものを手早く処理し、後で良いものは元の場所にしまい、まな板を清潔にして。

 ごく短時間だったが、その手際をシェイダールはほれぼれと眺めていた。

「大王様におかれましては、下々の働きぶりが珍しゅうございますか」

「珍しくはないさ、俺も田舎の貧乏人生まれだ。でも、だから逆に、こういう調理場は見たことがなかった。王宮の厨房はまた規模が違うからなぁ。一人で全部やってるのか?」

 興味津々と質問され、ヤハドゥは驚いて、思わず連れのほうを見た。リッダーシュがおどけて肩を竦め、いつもこうだ、とばかりの顔をする。

「我が君は誰かの仕事場を見るのがお好きなのだ。一日中でもへばりついて見入って、すべての工程、すべての手順と技とその意味を把握しようとなさる。付き合っているときりがないから、先に件の土地について話してくれ」

 やんわりと軌道修正しつつ促す辺り、慣れたものだ。

 ヤハドゥは厨房から出ると店内を見回し、ふむと思案してから口を開いた。

「現地をご覧いただくのが手っ取り早いでしょう。道々お話しします」



「例の土地ですが……あそこが祠の跡だなんて、言われなけれぱわからない有り様でしたよ。周旋屋の話ではもう清めと鎮めはとっくに済んでるってことだったんですが」

 しゃべりながら向かう先は、市街の西側、岩山に近い『奥』の方だ。シェイダールは行く手を見やって不思議そうに問うた。

「中心部から外れるんだな。今の店のほうが客が入りやすくていいだろうに」

「ええまぁ、おかげさまで繁盛しております。ただそのぶん手狭になって参りまして。時間によってはお客様を随分お待たせしてしまいますし、ゆっくり食べられないという声も……それに近隣からも苦情が出てはさすがに。閑古鳥も困りますが、賑わいすぎるのも考えものですな」

 ヤハドゥは冗談めかして説明したが、声音には苦渋が滲んでいた。背後を察したシェイダールは、ありがちだな、と醒めた表情になる。

「嫌がらせをされたか」

「とんでもない」

 ヤハドゥは反射的に否定したが、図星であった証拠に急いで話を進めた。

「元々、充分な資金が貯まったらもっと広い店に移りたいと計画していたんですよ。今の厨房は私一人が作業するのがやっとですからね。加えて材料の調達にも便利なところがいいと思って、以前から周旋屋に頼んでいたんです」

「なるほど」

 シェイダールは町並みの変化を観察して納得した。店があった中心市街はぎっしり建物がひしめきあっていたが、この辺りは建物の間に農地が挟まっている。岩山がすぐ近くまで迫っているので日陰がちだが、強烈な陽射しを避けられるぶん作物も育てやすいのだろう。

「もしかして湧き水も使えるんじゃないか?」

「おお、さすが大王様はよくご存じで」

「出発前に教わったんだ」

 まともに感嘆されてしまい、シェイダールはばつが悪くなって無用の説明を付け足す。

「岩ばかりに見えて岩盤の下には豊かな水の流れがあり、それが町の民を養い、杉の森を育むのだとか。地下水のおかげで変わった珍味名物があるから、行くならついでに買ってきてくれと、ちゃっかり……」

 土地管理長官の公私混同を暴露しかけた声が途切れる。シェイダールが足を止めると同時に、リッダーシュが前に出て主君を守った。道を塞ぐようにして、五、六人の男が待ち受けていたのだ。

 ヤハドゥがたじろぎ、後ずさる。シェイダールは肩越しに振り返り、小声で「知り合いか」と問いかけた。真ん中の後ろにいる紺色の上着のやつが周旋屋のダガンです、とささやきが答える。

 呼ばない内から悪役でございと出てきてくれるとは、話が早い。シェイダールはにやつきそうになるのを堪え、平静を取り繕って向き直った。

「何の用だ。こちらは先を急いでいるんだが」

「まあ、そう邪険になさらず。我々は歓迎に参ったのですよ。ワシュアールの立派なお役人様がおいでになったと聞き、是非おもてなしをと。美味珍味、美酒に美女も取り揃えております。どうぞ我々と共においでください。長旅の疲れを癒やし、憂き世のわずらいから解き放って差し上げましょう」

 ぺらぺらよく回る舌である。ふむ、とシェイダールは思案し、検討するふりでリッダーシュにささやいた。

「正体がばれてない、ということは王宮内の誰かが知らせたわけじゃないな。外から見ただけの情報だろう」

「そのようだな。面倒が少なくて良かった」

 上層部の役人たちまで不正に関っているとなったら、処分が大変だ。シェイダールは肩の力を抜いてわざとらしくにこやかに声を張り上げた。

「せっかくの誘いだが、さっさと仕事を片付けたい。その後で余裕があれば、ぜひとも馳走になりたいがな」

「なんとも真面目な坊ちゃんだ」途端に周旋屋の笑みが獰猛に深まった。「しかしそれでは都合が悪いんですよ。せっかくの料理が冷めてしまう。ぜひとも、今すぐ、お越し願おう」

 手ぶりの合図を受けて、いかにも腕っ節の強そうな男達がずいと前へ出る。さすがに剣や槍は持っていないが、拳に太い鉄の指輪をはめていたり、鞭か縄かとおぼしきものを両手でビシッと張って見せつけたりと、荒事に熟達しているのが窺える。

 リッダーシュがもう笑いを堪えるのも限界の様子で、剣の柄に手をかけた。

「成敗してもよろしいか、我が君」

「やってしまえ、……と言いたいところだが殺すと後が面倒だ」

 シェイダールは苦笑で答える。処刑ではなく、事実関係の調査と是正が目的なのだから、罪を犯した当人を死なせては色々調べられなくなる。彼はついと右手をもたげて周旋屋に狙いを定めた。

「しばらく動けないようにして、転がしておこう。

 《萌え出でよ蔓草 野ばらは茂り春を謳え

  絡み合い囲い込め 兎も狐も逃さぬように》」

 詞と色を載せた歌が放たれた直後、ダガンの足元から緑の蔓草がいっせいに生えた。驚愕の声を上げる間にも、光り輝く蔓が手足に巻きつき互いに絡み合って、人間ひとりをすっぽり覆い隠す藪へと生長する。中から恐怖と痛みの悲鳴が響いた。

 手下の一人二人は腰を抜かし、三人ばかりは背を向けて逃げ出した。それをリッダーシュの指先が示す。

「《白き風 渦巻き檻を成せ

  小さき鳥の迷い出ぬよう

  さえずる楽の音 地上にとどめん》」

 残響に被せて野太い叫びが上がり、大の男が突風に跳ね返されて転倒する。一人、二人、三人目も。限られた範囲から先へ進めず、走り回って逃げ道を探しては転がされ、罵声と呪詛が往来に響き渡る。

「さえずる楽の音か……案外おまえも厭味なところがあったもんだな」

 シェイダールが胡乱げに友人を見ると、彼は「間違えた」とでも言いそうな気恥ずかしい顔で首を竦めた。

「範囲が広かったもので、つい。先だって姫の機嫌をとるのに使った詞をそのまま」

「おい待て、いつの事だそれは」

「後で話すから、今はこの場を収拾しよう」

 阿鼻叫喚で混乱した状況がさらにややこしくなる前に、リッダーシュは例によって如才なく、あるじをなだめたのだった。


 騒ぎに驚いて寄ってきた住民に兵士を呼ばせ、周旋屋一味を引き渡してから、改めてシェイダール達は問題の場所へ向かった。

 ヤハドゥはもうすっかり畏れ入ってしまい、前に立つのも気が引けると、三歩下がって後ろから「そこを右へ」だとか声をかけてくる始末。そんな案内とも言えない案内でも、じきに問題なくなった。

「……そういえば結局まだ、怪異の具体的な内容を聞いてなかったな」

 前方を見つめたまま、やや呆然とシェイダールが言った。自然と歩みが遅くなる。リッダーシュも用心深い足取りになった。

 チリチリと微かな音が聞こえる。湧き立つ泉のように、音色が地の底から流れ出る気配。熱い炎が脈動する。

 いよいよ目的地に着くと、シェイダールは「参ったな」と嘆息した。両側を果樹園に挟まれ背後に岸壁を控えたその場所は、見るからに『遺棄された土地』だった。植えられていたわけではないらしい雑多な草木が茂り、整地しようと草刈りを始めたものの中途半端で放置されている。

 その中央に、相当に古い、風化の進んだ石がいくつか不規則に転がっていた。シェイダールが歩み寄って検分していると、後ろのほうでヤハドゥが困惑したように独白した。

「なんだこれ……こんな感じ、以前はなかったのに。本当に神の祟りが?」

「祟りじゃない」

 強い口調で即座に否定し、シェイダールは相手の反応を観察した。恐慌をきたす様子はない。ただ落ち着かない、不安にそわそわしている程度だ。さっき間近で二人がウルヴェーユを使ったのもあって、この場所の力が彼の『路』にも響いているのかも知れないが……

(そう大きな揺れじゃないな。問題ないだろう)

 判断すると、シェイダールは彼を手招きした。

「これを見ろ。おまえがここを買った時は、恐らく草に隠れていたんだろうな。ここが祠の跡というのは本当で、この石は大昔から土地の力を鎮めていたんだ」

「土地の、力……ですか? 何かの神様ではなく」

「違う。さっき俺達が不思議な力を使ったように見えただろう。あれと同じ力だよ。おまえもいずれ解るさ。普通はあれは人の内なる『路』を通じてしか出て来ないが、ごくたまに、それこそ湧き水みたいに染み出てくる場所がある。それがここだ。かなり小さいから、あまり気に留められてこなかったんだな」

 たいていの土地では禁忌の地だとか聖域だとか言い伝えられ、人は不必要に近付かず封印は保存されてきた。だがここはあまりに小規模なので、いつの間にか忘れられてしまったのだろう。

「元々かなり封印も弱まっていたんだろうが、あの石を動かしたせいで完全に壊れてしまった。それで、具合の悪くなる奴が出たりしたんだろうな。違うか? 怪異と言うのはここで作業していたら突然気絶したり気分が悪くなったり、どうにも目測がずれて上手くいかなかったり、そんなところだろう」

「ええ、そうです。その通りです。あとはその……妙な音が聞こえるとか、打ち込んだはずの目印の杭が抜けてたり、休憩中に草刈り鎌が消えてしまったり」

「後の二件は嫌がらせだろうな。あいつらを締め上げたらわかるだろう。ともあれ、ここがちょっとばかり厄介な土地というのは事実で、対処しないと店だとか無」

「待て待て待てええぇ――いいぃぃ!!!」

 いきなり大音声が割り込み、シェイダールはぎょっとなって振り返った。怒鳴りながら接近してきたのは、

「なんだあの爺さん」

 長衣の袖を翻し、角帽も脱げ落ちそうな勢いで疾走する、初老の祭司であった。

 呆気に取られているうちに、祭司はよろけまろぶようにして三人の前まで辿り着くと、息を切らせてしゃがみ込んだ。

「ま……ちょっと、待て……」

 ぜいぜい肩を上下させ、手振りで制して息を整える。ヤハドゥが困惑顔で言った。

「なんであんたがここに」

「なんで、じゃない! おまえさんが余所者引き連れて、なんぞおっ始めたと聞いて飛んで来たんじゃろうがたわけ! あれほど、ここは危ないと言うたろう!」

「そんなこと言われたって、買っちまった土地を遊ばせておくわけにいかんだろう。それにこの方々はな……」

「何か起きてからでは遅いと言うとるのがわからんか、不信心の石頭め!!」

 唾を飛ばして喚く祭司の悪態が、シェイダールの癇に障った。こめかみをひきつらせ、ヤハドゥを押し退けて前に出る。

「そうやって問答無用で脅しつけて、土地を巻き上げようって腹か。業突張りの」

「やかましい! 余所者は引っ込んどれ、ここに住むわけでもないくせに!!」

 驚いたことに祭司はまったく怯まなかった。雷鳴のごとき紫電の一喝でシェイダールを黙らせ、ずいと横を回り込んでヤハドゥの前に迫る。

「お、おい止せショバル爺、このお方は」

「そもそも、元は祠だと聞いておきながら先に相談もせんと、おまえさんは万事」

「ちょっと待てこら」

 再びシェイダールが割り込む。祭司の肩を掴んで強引に振り向かせ、また怒鳴られる前に畳みかける。

「口振りからして、おまえはヤハドゥと親しいんだな? そのうえ、事前に相談されていたらここの購入を止めたというぐらいには、問題があると知っていた。しかも、自分ならそれを何とか出来ると言うわけか?」

「しつこい小僧じゃな。なんとか出来るわけなかろうが! 誰にも、人間には手の施しようがないわい」

「だったら、おまえがここを買い取ってもどうしようもないじゃないか。雀の涙ほどの金で手に入れて、また転売するつもりなら別だがな」

「なんたる無礼千万! 雀の涙で悪かったな、わしが出せるのはあれで精一杯じゃ。それでもここを買い取れば、誰も近寄らせんぐらいはできるわ。それとも何か、おまえさんがどうにかしてくれるとでも言うんかい!!」

 あっ、とリッダーシュが声を漏らす。同時にシェイダールがこれ以上ないというほど、悪の親玉じみた凶悪な笑みを満面に広げた。

「ああ、やってやるとも。目をしっかり開けて見ているがいい。そしておまえとおまえの神の無能ぶりを心に焼き付けろ」

「なんじゃとおぉぉぅ!?」

 当然、祭司はいきり立つ。だがシェイダールは軽くそれを突き放し、冷笑を浴びせてから背を向けた。まだ突っかかろうとする祭司をリッダーシュが止めている、その騒ぎが一歩進むだけで遙か後ろへ遠ざかる。


 リィン……


 澄んだ音色が波紋となって広がり、雑音を消し去ってゆく。いつしか視界は深い暗闇に塗り込められ、眼前にふつふつと湧き出る焔の輝きだけが明るい。

 白、赤、緑……青、黄、紫……あらゆる色を溶かした光がゆるやかに浮かび上がり、とろとろと踊る。循環する流れから外れ、行き場を見つけられずにたゆたう火の粉。

 暗い世界に漂いながら、同時に内なる路を意識する。深い奥底、刻まれたいにしえの叡智。

 音が響く。色を連れて。

《オゥアァル……カ・エィェ……ルゥヴァーユ》

 古い古い、まだ解き明かせていないままに意味と韻律を己がものとした詞。六色六音を辿り、理の力を巡らせるいにしえの封印術が、路を震わせながら螺旋を描いて噴き上がる。

 輝く白雲、そびえる高峰を覆う雪。滴る血潮、咲き誇る花に熟れた果実……

 詠い上げる声にまつろう彩り、生命の歓喜。流れがうねり、淀みなくすみやかに地へ還る。星霜を巡る果てない旅へと。

 声の余韻が消えると共に、元から小さかった綻びはさらに縮み薄れ、湧き出ていた輝きは静かなつぶやきに落ち着いた。


 いつの間にか閉じていた目を開き、ひとつ息を吐いて振り返る。ヤハドゥが地べたに座り込んで放心し、その隣で祭司が平伏して祈りの文句を唱えていた。予想された光景ではあったが、シェイダールは苦い顔になった。

「おいやめろ。好きなだけ無力を嘆いて畏れ慄けばいいが、拝むな。俺は神じゃないし、今のわざも神の力だとか奇蹟だとかじゃない」

 はっきりと厳しく命じたのに、聞こえなかったのか祭司はまだ、繰り返し両手と額を地につけて伏し拝む。苛立ったシェイダールが舌打ちし、肩を掴んで止めさせようとしたところで、

「ええい邪魔するな!」

 予想外にも怒りをこめて振り払われた。驚くシェイダールを祭司は疎ましげに睨み、おもむろにまた祈り始める。

「こんな小僧を通じてでも、世に満ちる天の栄光を垣間見せてくださる神々の、なんと恩寵豊かなることよ!」

「……は?」

 シェイダールは困惑し、意見を求めるように友人を見る。こちらもさすがに面食らっており、森緑の目をぱちくりさせて首を傾げるばかり。二人の当惑など意に介さず、祭司はたっぷり長々と神々を讃えてから立ち上がった。

「ふん。おまえさんの力でないことぐらい、阿呆でもわかるわい。あんな広大無辺の力を、ただ一人の人間がどうこうできるものか。……まあ、それはそれとして、ここを鎮めてくれたことは礼を言わんでもないがの」

「いちいち腹の立つ爺だな」

 シェイダールが苦りきって唸ると、祭司は鼻を鳴らした。

「礼儀もわきまえとらん小僧相手に、いちいち気を使ってやれるかい」

「ちょ、いい加減にしてくれショバル!」

 袖を引いて止めたのは、やっと我に返ったヤハドゥである。なんじゃい、とうるさそうにした祭司だが、耳打ちされると石になった。

 重い沈黙が落ちることしばし。祭司はぎこちなくシェイダールに向き直ると、両手を袖に入れる臣従の礼で深々と頭を垂れた。苦渋と絶望を石臼で挽くような声が漏れる。

「度重なる無礼、大王様におかれましては何卒寛大なるお慈悲を……」

 今更すぎてシェイダールは溜飲を下げるどころかげんなりし、ぞんざいに手を振った。

「ああもう、詫びとかどうでもいい。おまえが周旋屋とぐるになって、『呪われた土地』をネタに詐欺をはたらいたんでないのなら、罰する理由もないからな」

 残念だが、とのぼやきは口の中にとどめておいたが、どうやら気配が漏れたらしい。慌ててヤハドゥが取りなした。

「それは違います、ショバル爺はその、決して悪人ではございません! あそこに店を構えてからずっと、最寄りの神殿ということで世話になっておりまして」

「わかった、わかった。……おい、祭司ショバル。正直これを言うのは不本意だが、無礼はお互い様だ。それより、おまえがこの場所の異状に気付く感覚を既に持っているのなら、今後ヤハドゥに協力してやれ。あ、土地を買い取るのは無しだぞ!」

 シェイダールは気力を立て直し、てきぱきと話を進めた。石を戻して綻びを封じる術を手直ししておくから、そこは中庭にして外から立ち入れないよう設計すること。工事をする際もあまり近寄りすぎないこと、などを注意する。

「ここまで小さくなっていれば放置しておいても問題ないと思うが、時々様子を見て、もし変化があればすぐ知らせろ。そうだな……学究派の奴を誰かこっちにやるか。監視と調査の体制を……ああくそ、また仕事が増える」

 呻いてこめかみを揉んだシェイダールを、リッダーシュが慰める。

「それは帰ってから考えよう。さあ、私も手伝うからここを片付けて、ひとまず一件落着の祝杯を挙げようではないか。ハディシュ殿推薦の珍味とやらも、ぜひ試してみなければ」

「ああ、そうだな」

 楽しみが控えていることを思い出し、シェイダールもつられて笑顔になったのだった。



 後刻、諸々の処理を迅速にすませた主従は、ヤハドゥの店を借り切って待望の食事にありついた。

 土地管理長官にして美食家のハディシュによれば、カザルにはチュガという珍味があるらしい。何なんだそれは、と問うた主君に、彼は珍しく含み笑いで「秘密です。現地での楽しみに」とごまかしたのだ。そして、ワシュアールでは乾燥チュガを水戻しして調理し、それはそれで旨味が濃縮されていて良いのだが、生の食感と淡泊な味わいはまた格別なのだ……と、うっとり話してくれた。

「いやまさか、遠く東の貴族様がカザルの名産をご存じとは。光栄の至りですな。しかし生で食べたことがおありとは、珍しい方ですね」

「そうなのか? この町でも普通は乾燥させるのか。というかそもそも正体は何なんだ」

 シェイダールは前菜をもぐもぐやりながら催促した。根菜と木の実の和え物だ。香ばしくて食欲を刺激される。

 厨房から出てきたヤハドゥは、秘密です、と言った時のハディシュと同じ表情をしていた。卓の中央、向かい合う主従の間に皿を置く。花弁のように盛りつけられているのは、半透明の白っぽく薄い切り身。魚だろうか、とシェイダールは訝った。

 ワシュアールでは一般に生魚は食べないが、大河の魚はよく食卓にのぼる。よって一部の食通は新鮮な生魚を酢で締めて食すなど工夫しており、何度もイェンナ家に招かれているシェイダールもそうした料理を知っていた。

 あれと同じなら薬味か何か……と考えたところで、前に小皿が置かれる。濃い褐色の液体が少しだけ入っていた。

「こちらを付けて召し上がってください。棗酒にも合いますよ。カザルでは家庭でもこの料理を作ることがありますが、贅沢品ですから日常的には食べませんね。あまり獲りすぎてもいけませんし、自分達で食べるより、乾燥させて売る方が儲けになりますから」

「なるほど。……やっぱり魚の類か?」

 獲りすぎてはいけない、ということは畑で栽培するものや家畜ではないのだろう。

 あれこれ推理しているシェイダールの前で、リッダーシュがまず一切れつまんで小皿につけ、口に入れた。じっと反応を待つあるじに、彼は何とも不可解な表情を見せる。

「この味は、発酵豆を潰して酒で溶いたものだな。チュガ自体にはこれといって……あ、いや、うん。これは面白い」

 途中で彼は笑みほころび、酒も一口飲んでから、数呼吸置いて安全のしるしにうなずいた。その時になってようやく、毒見されたと気付いたヤハドゥが顔をこわばらせる。

「ああいや、おまえを疑ってるわけじゃない」急いでシェイダールはなだめてやった。「ただの習慣だ。そもそも毒見したってこいつは平気で俺は蕁麻疹が出るとか、その逆もあるんだからな。馬鹿馬鹿しいから俺はやめさせたいんだが、こいつが言うことを聞かないんだよ」

「すべての危険は避けられないまでも、用心は怠るべきでない。それに、こうしておかなければ、おぬしは好奇心の赴くままに迂闊なものを口にしかねんからな」

「人を犬みたいに言うな! 今だってちゃんとおまえが食べるのを待ってただろうが」

 憤慨しながら、「待て」のできる利口な犬ことシェイダールは切り身に手を伸ばした。指先にひやりと冷たい。驚きが顔に出たのだろう、ヤハドゥが解説してくれた。

「チュガは岩山の奥にある地下水の湖に棲んでいましてね。ごく新鮮なうちでないと生で食べられませんから、獲ったら地下水を汲んだ桶に入れて運んでくるんです。水が温くなってしまったら駄目なんで……それもあって、あっちのほうに店を移そうと」

「ははぁ、なるほど。おっ、なんだこれ」

 柔らかそうな見た目に反して、コリコリした歯ざわりだ。それに弾力がある。最初に舌に感じるのは発酵豆の塩辛さだが、噛むとその塩気に引き出されるように、切り身からじんわりと旨味が滲み出る。淡泊でいて芳醇な奥深さを秘めた不思議な甘さだ。

「確かに面白いな。こんなのは今まで食べたことがないぞ。貝が近いか? ええい、答えを教えろよ!」

「召し上がった後にされたほうが良いと思いますが……是非にと仰せなら」

 仕方ありません、私を責めないでくださいよ、と声音で自己防衛しつつ、そのくせ面白そうに、ヤハドゥは厨房から深鉢を取ってきた。

「これがチュガです」

「…………」

 主従は揃って鉢を覗き込み、何とも言えない顔で絶句した。

 澄んだ清水の底に横たわるのは、大人の拳ほどの、ごろんとした不気味な代物だった。表面は黒茶と緑のまだら模様。所々に髭か触覚か不明の小枝めいたものが生えている。生き物とは思われないのに、よく見るともにょりもにょりと身動きしており、その様子ときたら控えめに言って、

「馬糞が泳いでる……」

 ぐらいのありさま。シェイダールは呆然とつぶやいてから、水面に鼻がつきそうなぐらい顔を寄せた。無意識に手を伸ばしかけたところで、慌ててヤハドゥが止める。

「お待ちを。チュガは繊細な生き物なんです、迂闊に素手で触れると死んでしまうので」

「この見た目で!?」

 思わずシェイダールは頓狂な声を上げ、ほとほと呆れた、とお手上げの仕草をした。

「カザル人はよくもまぁ、こんなものを食べようって気になったな!」

「よほど飢えていたか、おぬしのように好奇心溢れる挑戦者がいたのだろうよ。動きは鈍いようだから、水中にいるとは言っても獲るのにさほど苦労はすまい」

 リッダーシュは真面目に推論を述べ、何度も瞬きしながら深鉢の中身と皿の切り身を見比べる。改めてもう一切れ食べ、つくづくと言った。

「淡泊な味わいと言い、白く透けるきめ細やかな身と言い、何も知らなければ美女の指と評しても良いぐらいだが」

「さすがに雅でいらっしゃいますね。まさにその通りでして、カザルでは昔からチュガの刺身を『乙女の柔肌』と申します」

 乙女、と胡散臭げに繰り返し、シェイダールはため息をついた。

「少なくともその呼び名を知る前にこの姿を見せられて、まだ良かったな。くそ、ハディシュのやつめ。是非とも現地で食ってこいと勧めたのは、俺達をぎょっとさせて喜ぶのが目当てか。まぁ、実際珍しくて美味いのは確かだが」

 忌々しげにぼやいてから、よし、と気合いを入れて言ったことには。

「帰ったら盛大に美味かった美味かったと自慢してやる! ヤハドゥ、チュガの食べ方はこれだけじゃないんだろう。ほかにも作ってくれ!」

 名物をげてもの扱いされて沈んでいたヤハドゥの表情が、途端にぱっと明るくなった。


 ――そうこうして、煮物・焼き物・揚げ物に締めの菓子まで堪能し、すっかりご機嫌になったシェイダールはついに、

「よく見るとこいつもなかなか愛嬌があるじゃないか」

 などとチュガを眺めてのたまうに至った。さすがに同意しかねたリッダーシュが向かいで変な顔をしたが、構わず独り言を紡ぐ。

「世界にはまだまだ不思議があるんだな……こんな変な生き物がいるってこと自体まず驚きだし、それが食ったら美味いなんて奇蹟だ」

 大袈裟に感動している大王様に、ヤハドゥが笑って熱い茶のお代わりを注ぐ。

「奇蹟というのは、あの不思議のわざこそでしょう。ダガンどもを一網打尽にされた時も驚きましたが、その後の……あれは、本当に何と申しまして良いやら。今もまだ、胸の奥に風が吹いているような心地がいたしますよ」

 ほろ酔いのシェイダールは微笑むだけで、その神秘について語らない。いずれわかるさ、とも言わず茶をすする。一息ついて、ふと物思わしげに目を伏せた。あるじの微妙な変化に気付いたリッダーシュが居住まいを正すと同時に、

「なあ、あの爺が言っていた……」

 呟きがこぼれ、途切れる。仄かな湯気だけがたゆたう穏やかな沈黙ののち、彼は小さく首を振って茶を飲んだ。

 リッダーシュもまた微笑み、店主が卓を離れて厨房に引っ込むのを待ってから、そっとささやいた。

「……あの御仁は、理の力に神を見た。おぬしはおぬしの見たものを信じれば良い」

 いらえはない。

 ただ深く、温かな静穏がゆっくりと流れていった。



2018.1.29


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