誕生日
ワシュアール地方では特別な何者かでなくとも、それぞれの誕生日を祝う風習がある。とは言っても、統一された正確な暦が普及しているわけではないし、とりわけ田舎の村では適当なものだ。
よって現在の王シェイダールもまた、その誕生日は「双子星が鷲の峰から昇る日」といった程度の曖昧さであり、祝宴が十日に及んだのも単にその盛大なるが故ばかりではなかった。
「や……っと、終わったか……」
久方ぶりに誰にも邪魔されず、私宮殿の寝台に倒れ込んだシェイダールは、そう呻いたきりぴくりとも動かなくなった。
しばらくして心配になったリッダーシュがそっと覗き込むと同時に、もそもそ身じろぎして起き上がる。連日の宴と接客饗応、睡眠不足が祟って、見るからに疲労の影が濃い。リッダーシュは眉をひそめた。
「少なくとも明日は丸一日、ゆっくり休養するべきだ。欲を言えば十日ばかり遠くへ連れ出して、何もせずにごろごろさせたいところだがな」
「ああ……まあ、十日は無理だが、二、三日のんびりするさ」
仕事中毒の主君が思いがけず素直に応じたもので、リッダーシュは森緑の目を丸くした。シェイダールは決まり悪いのをごまかすように、わざとらしく伸びをする。
「さすがに疲れた、歳を痛感するよ。いつまでも昔と同じにはいかないな……信じられるか、もう三十三歳だぞ。三十三! 十年前の記憶で既に大人だなんて嘘みたいだ。しかもなんと今や孫までいると来る。なんだかんだ言っていたわりに早かったよなぁ?」
呆れ声に皮肉をまじえ、ちょっとばかり本気に感じられなくもない殺意を込めて娘婿を一睨み。親友を赤面恐縮させてから、彼は懐かしむ笑みを広げた。
「ともあれ、アルハーシュ様のお気持ちがわかる日が来ようとは、昔の俺が聞いたら目を剥くだろうな。いや、さすがにまだあの境地には至ってないぞ! そんな顔をするな!」
「驚かせないでくれ、まさか譲位を考えているのかと」
「いくらなんでも気が早い。だがあと十年したらそんなことも言い出すんだろうな、というのがわかるようになった、って話だ」
やれやれと顔をこすってから、シェイダールはしげしげと己の手を見つめた。
本当に、いつの間にかこんなにも歳月が過ぎてしまった。かつては細く華奢だった少年らしい手も身体も、わずかな名残を除いてすっかり男らしくなった。髭は伸ばしていないが――祭司らの権威主義に対する当てつけである――充分な威厳を示せる顔つきになってもいる、と思う。
(遠くへ来たもんだな。なのにまだ、成し遂げたいと思ったことは道半ばにも達していない。ぼやぼやしてる間に、次は白髪がどうの起きるのがつらいのと言い出す段階に進むわけか)
むろん挙げた成果も数多い。だがひとつ解決したと思えば新たな問題が出現し、確かに前へ進んでいるはずなのに、歩むほど目標が遠ざかる気がしてくるのだ。焦りと失望が胸を焼く。吐き出せば喉が爛れそうだ。彼は毒を冗談に変えて、笑いと共に解放した。
「ああ、もうこれ以上、歳を取りたくないもんだなぁ!」
傍らに控えるリッダーシュは、何かを感じ取ったらしい目つきをしたが、笑顔で調子を合わせてくれた。
「今度は不老不死の探求か。さすが、我が君は名だたる英雄に劣らず壮大な野心家であらせられる」
「そうとも。当然、おまえも付き合うんだぞ」
シェイダールは言い返してにやりとした。
語り伝えられる神代の英雄たち。その冒険の多くは怪物退治や宝物獲得を目的としているが、絢爛たる物語のどこかに必ずと言って良いほど不老不死という要素が影を落としている。
神々に気に入られ、不死身の体を与えられたにもかかわらず、最後は奸計に嵌められて命を落とす王。不老不死をもたらす天の果実を求めて幾多の試練を乗り越え、ようやく手に入れたのに谷底へ落としてしまい、悲嘆のうちに息絶える英雄。
求めて、求めて、もがき苦しみ手を伸ばし、血を吐くような狂おしい切望の末になお届かぬ夢。
人は死なねばならぬ。
いっさいの慈悲も情けもない、冷厳にして超越的な世界の掟。神々のさだめ。その遙か彼方を想い、シェイダールはしばし茫然とした。
「……ああ、確かに必要なんだろうな」
ぽつりとこぼれたつぶやきを、リッダーシュが聞き咎めて不審顔をする。
「何が?」
シェイダールは友を振り向き、微笑んだ。
「人には不老不死が必要なんだ。永遠なるもの、不滅、悠久の無限が」
いにしえの人々がその叡智を路に刻み、子々孫々受け継がれてゆくように計らったのも。それを忘れた人々がただ、己が血族の繁栄と存続を願っているのも。
「己が命の儚さを知っているからこそ、次に生まれてくるものに存在の証を託そうと……」
シェイダールは目を伏せ、聞かせるというよりは独りごちる。感傷的になったのが不意に気恥ずかしく感じられ、皆まで言わず、また寝床に引っくり返った。
「少し寝る。おまえも疲れたろう、適当に近衛と交代して休めよ」
「御意、我が君」
リッダーシュが微笑み、変わらぬ忠誠と友情でもって王の肩に毛布をかける。シェイダールは安心して瞼を閉ざした。
まどろみに降りてゆく意識に、ゆらゆらと柔らかな音色が添う。
――コォーン……伸びてゆく黄金の一枝、揺れる銀の葉……リ・リィン……
呼吸ひとつごとに、深淵へと沈む。
こうして己が眠りに落ちてゆく間にも、世界のどこかで新たな命が目覚め、声を上げているのだろう。人の業ゆえに産み落とされたのだとしても、願わくばそれが呪いの鎖ではなく、祝福の紐帯となるように。果てなく続く苦難を負わされたと怨むのでなく、喜びをもって人の営みに加われるように。
そんな世界を、いつか――
2017.11.25
(シェイダールがこの翌年の誕生日を迎えることはなかった)




