蜜の誘惑
即位4年後ぐらい。
小太りの陽気な土地管理長官ハディシュは、食道楽でも有名である。
その彼がにこにこ満面の笑みで、弾むような足取りでやって来たとなれば、おのずと用件の察しもつく。シェイダールは思わず、何を言われるまでもなく失笑した。
「おや、偉大なる王、我が君シェイダール様におかれましては珍しくも愉快なお心持ちでいらっしゃるようで、お慶びを申し上げます」
「おかげさまで」
ハディシュのおどけた挨拶にシェイダールは軽い皮肉を返し、読んでいた訴状を置いて、こわばった首や肩を回した。
「何かまた美味珍味を手に入れたようだな?」
「ふっふっふ……お察しならば話は早い」
シェイダールも、ハディシュと違って美食家というのではないが、生来の好奇心がゆえに変わったものを口にする機会は逃さない。
そんな二人なので、これまでにも時々、街にあるハディシュの屋敷で私的な食事会を催していた。他の貴族をも招いた豪華な宴席のこともあれば、二人で立ったまま葡萄酒の味見だけをすることもあった。
さて今回は。
「こちらでございます、さあ如何ですか!」
得意気にハディシュが両手を広げて示した長卓には、十数枚はあろうか、小皿が並べられていた。白無地の素っ気ない皿に入っているのは、淡い黄白色から濃い黄金、不透明な黄土色まで、様々な色合いのねっとりしたもの――すなわち。
「蜂蜜か! これ全部が?」
シェイダールが驚いていると、ハディシュは自身もまた嬉しくてたまらぬというように、うっふっふっ、と笑ってうなずいた。
「以前から少しずつ集めていたのですよ。採れる土地によって、蜂が蜜を集める花は異なります。一種類の花の蜜だけというようには採れませぬが、果樹園で飼われている場合などは特徴がはっきり出ます。野の花々の蜜を蜂まかせに集める場合も、やはり土地柄、違いはございますので……このように、色合いも香りも。ささ、お試しくだされ」
促されて、シェイダールは曰く言い難い顔で従者を振り返る。リッダーシュは澄まし顔で一礼し、端から順に小皿を取って、指先で蜜の端に触れては舐めていった。
いつものことだが、毒見の間、彼は表情を動かさず、むろん美味いとも不味いとも言わない。あるじを差し置いて賞味してはならないからだ。とりわけ今は、努力して反応を堪えているのが窺い知れた。
シェイダールはやれやれとリッダーシュの肩を小突く。
「無理するな、美味ければ喜べ」
「うん、いや」
最後まで一通り調べて皿を置き、リッダーシュは曖昧な返事をする。シェイダールは眉を寄せた。
「なんだ、おまえ本当は蜂蜜が嫌いなのか? それとも変な味のがまじっていたのか」
「そうではない、それぞれ美味だった。ご安心召されよ、我が君」
「変な奴だな」
釈然としないまま、シェイダールは促されて皿を取った。何度か王宮で食べた透明な金色のものとは異なる黄白色のそれは、砕いた真珠でもまぜたかのように光沢がある。
指で掬って口に入れ、予想外の味にシェイダールは目をみはった。濃厚そうな色に反してさらりとした舌触り、爽やかな花の香り。重すぎない甘さは軽やかでいてしっかりと強く、涼しい後味を残して喉を滑り落ちる。
「これは……すごいな。同じ蜂蜜という名で呼べないぐらいだ」
「そうだろう!」
シェイダールが感嘆すると、途端にリッダーシュも嬉しそうに笑みこぼれ、その声に黄金が弾けた。まばゆい光の波をまともにかぶり、シェイダールは久々によろけそうになって踏ん張る。
そんな二人の様子にハディシュが笑い、蜂蜜の産地を説明してくれた。
「その蜂蜜のためにこそ、今回お招きしたと申しましても過言ではございません。遙か西方の島で採れたものです。稀少かつ美味ゆえ、通の間で評判でしてな。我が君の蜂蜜を好まれることひとかたならぬと存じ上げておりましたゆえ、是非にと取り寄せたのです。これが届くまではと、他の蜂蜜も封を切らず待っておったのですよ。西の海まで出ますと気候も植物も大きく異なりますゆえ、我が国では同じような蜜は採れませぬ」
シェイダールはふむふむと真面目に聞き入り、次の皿、また別のとりわけ濃い色の蜜、と味わっていく。いつの間にやらその顔つきは、好物に夢中の青年から、飽くなき知の探求者にして為政者へと変わっていた。
「蜜にその植物の性質が移るのなら、薬として使えるような蜂蜜も作れるんじゃないか? 薬草そのものよりも蜂蜜になっていれば、子供や病人にも飲ませやすいし、保存がきく。大量に採れるものじゃないから高価にはなるが」
「シェイダール様、蜂は冬を除いて年中蜜を必要とするのですぞ。特定の花蜜だけでは生き延びられませぬ。開花期が終わった頃に蜜を採ってしまうという方法もあるでしょうが、それではあまりにも少量しか手に入りますまい。何種類もの蜜がまじるのが避けられない以上、特定の薬効を期待するのはいささか危ういかと」
「確かにそうだが、この最初の奴なんか際立って他とは風味が違っているぞ」
「ふむ、さようでございますな……島のような環境であれば、特殊な蜂蜜づくりには適しているかもしれませぬ」
「南の沿岸であまり漁業に向いていない小島や人の少ないところへ、導入してみるのもいいかもしれないな」
あれやこれやと熱を込めて、蜂蜜の性質や可能性について語り合う。
お伴のリッダーシュは二人の議論を黙って拝聴していたが、やがて部屋の外に気配を察し、頃合とみてやんわり中断させた。
「我が君、ハディシュ様、まことに興味深いお話なれど、舌に言葉ばかりを載せるのでなく、本日の要たる蜜を賞味されては如何です」
おっと、と我に返った様子でシェイダールが振り返る。既に蜜の味も忘れていそうなあるじに、リッダーシュは苦笑した。
「分析するのも考えるのも、ひとまず横に置いて味わえばどうだ。一番気に入ったものを教えてくれ」
「そうですとも」ハディシュが手を打ち、声を大きくする。「お気に召したものを差し上げましょう、どうぞお持ち帰りください!」
それを合図に、さっきから機を窺っていた人影が滑り込んできた。三人、四人。年頃の若い娘を先頭に、まだ十歳ほどであろう少女まで、手に手に盆や籠を捧げ持って。
「御口直しでございます」
水差しを持った娘が軽く膝を曲げてお辞儀し、やや年少の娘が客人と長官に杯を差し出す。受け取ったシェイダールは、年長の娘の美貌に目を奪われそうになりながらも、渋面でハディシュを睨んだ。
「謀ったな」
「さて、何のお話でございましょう」
とぼけるハディシュ。その横顔とそっくりな形の鼻をした少女が、籠に入ったパンを恭しく差し出した。
「蜜をつけてお召し上がりください」
丁寧な言葉遣いに、不慣れなたどたどしさが愛嬌を添える。一番幼い少女が、別種の薄焼きパンをちょっと背伸びして献上した。それから四人の娘は横一列に並び、王に向かって慎ましくお辞儀をする。優美な微笑、恥じらいや期待が見え隠れする可憐な笑み。
長女は父親譲りのつやつやした栗茶色の巻毛。佇まいにもまなざしにも、手強そうな芯の強さが窺える。二番目は柔らかな金髪と控えめな物腰。あとの二人は共に黒髪、あどけなさと抜け目なさを備えた愛らしさ。まさに多様な甘い蜜のよう。
やれやれ、とシェイダールは頭を振った。
「そうだな。イェンナ家から一人、妃を迎えてもいい。だが今日この場で決めるつもりはない、せっかくの蜜が苦くなる」
現在後宮にいる妃らの出身を考えると、ハディシュからの暗黙の提案も妥当なところだろう。土地関係の官僚を輩出してきたイェンナ家は新興貴族の部類だが、国内で着実に力を増しつつある。だから、それはいいのだが。
「かたじけのうございます。それでは、心ゆくまでご賞味ください」
満足げにハディシュが臣従の礼を取る。シェイダールはいささか白けながら四人の娘に目をやった。興醒めしたとて下がらせても良いが、年長の娘の表情からして、そう命じたら内心馬鹿にされそうで癪に障る。加えて幼い二人のまなざしはどうも別の期待をしているようで、刺さるように痛い。そうか、と悟って彼は命じた。
「……独り占めするには多すぎる。そなたらも相伴せよ」
途端に、きゃあ、と歓喜の声を上げて下の二人が卓に駆け寄る。こらっ、とハディシュが止めたが聞く耳を持たない。かろうじて、パンをちぎって食べる前に、
「ありがとうございます、王様」
「いただきます!」
大急ぎで形ばかり感謝を述べたのも一瞬のこと。もう頬を膨らませて「おいしいね~」と姉妹で笑み交わす。父のもくろみをぶち壊す天真爛漫な不作法に、シェイダールも毒気を抜かれてしまった。不機嫌な顔もしていられず、諦め気味の微苦笑になる。そこへ、耳に甘い声がかかった。
「妹たちがわきまえず、申し訳ございません」
見ると、すぐそばで長女が優雅に低頭し、どうぞ、と蜜の小皿を差し出している。翡翠の欠片をちりばめた茶色の瞳は、臣従者にあるまじき率直さで王を見据えていた。
シェイダールは蜜を受け取り、早くもパンを食べ散らかす二人をなんとか行儀良くさせようと苦闘中の父親を一瞥してから、ひそっ、と問いかけた。
「……謀ったのはもしや、そなたのほうか」
「畏れ入ります」
娘は小さく笑いをこぼし、ささやきながら目礼で肯定する。
「いつもなら、父は手に入れた美味珍味をまず、わたくしたち家族に味見と称して与えてくれるのです。妹らはすっかりそれに慣れてしまって……蜂蜜が届けられたとわかっているのに、ほんのちょっぴり舐めることも許されないものだから、すっかり拗ねてしまい、手を焼いていたのです。それで、そろそろこのような場を設けられては如何かと、父に進言いたしました」
「策士だな」
「女の浅知恵に、もったいないお言葉でございます」
娘はあくまでも悠然とした態度を崩さない。王だろうと誰だろうと、利用できるものは利用するし、悪びれもしない――そんな自信があるのだろう。生意気な、とシェイダールは反感を持ちつつ、一方で不思議とそれが好ましくて、挑戦したくなった。蜜を指で掬い、娘の唇に押しつけてやる。
「そなたも食べろ」
彼の強引さに娘は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにあてがわれた指を咥えた。日常の慣れた仕草かのように、舌で蜜を舐め取る。シェイダールは指を意地悪く動かしてやったが、娘は一度びくりと身を竦ませただけで、後は断固として反応を抑え込んでいた。挑むように、まっすぐに目を見つめてそらさないまま。
後日シェイダールは、土地管理長官の長女を妃に迎えたのだが、その際、王と新たな王妃の様子を観察したヤドゥカは渋い顔であるじに苦言を呈した。
「いつぞやの言ではないが、おぬし、悪趣味ではないか。ただでさえ日々激務であるというのに、なぜわざわざ気疲れしそうな女を選ぶのだ。共にいて心安らぐ女こそ、おぬしには必要であろうに」
――それに王がなんと答えたかはともかく、周囲の懸念に反して結局この妃とはそれなりに仲睦まじく過ごし、政策についてもよく語り合い、かつ子にも恵まれたと記録に残されている。
二人の出会いを取り持った西の島の蜂蜜は、以後長らく縁起物として珍重されることになった。
2016.3.23




