百花繚乱
蜜蜂の微かな羽音が、耳にくすぐったい。降り注ぐ暖かな陽射しのもと、喝采のごとく咲き乱れる花々を、小さな命がせわしなく行き交う。
王宮には常に豊かな緑があるよう庭園が造られているが、とりわけ『柘榴の宮』周辺は華やかだ。様々な濃淡の緋、清純な白、愉しげな黄。世界中の花を集めたかのよう。
甘い香りと陽気でのぼせそうな中、リッダーシュはゆっくりと散策を続けていた。あるじが妃の一人を訪ねているので、彼はこうして外で待っているのだ。王本人は知らず、従者にとっては貴重な休息の時である。
そんな彼の姿に、宮の女が熱いまなざしを注ぐ。室内から下位の妃や侍女らが、柱廊で立哨につく女兵士までが。しかし誰も敢えて声をかけることはしない。彼のほうから求められない限り、目につく所へ姿を晒すことさえ不調法だ。そもそも誰か一人が抜け駆けするのが許される世界ではない。
当のリッダーシュはそれをいいことに、誰にも邪魔されず羽を伸ばしていた。絡みつくような視線を感じないわけではないが、静かに花を眺め芳香を胸に満たし、蜜蜂の仕事ぶりを見物していると、煩わしい世事はすべて遠ざかってゆく。平和と幸福、この上ない喜びのひと時だ。
だがそこへ、例外が現れた。
「お入りになりませんの?」
笑みを含んだ上品な声で背後から話しかけられ、さきほどからその足音の主がこのまま去ってくれることを願っていたリッダーシュは、そっと瞑目した。不敬にならないよう上辺の笑みを取り繕い、しかし迷惑であると伝わるほどには落胆の影を残したまま、振り向いて一礼する。
「ああ、おいでに気付かず失礼いたしました。百花にまして麗しき王妃ミハンニ様」
お定まりの挨拶にも、王妃は本心から喜んでいるかのように優雅な笑みを返した。くすんだ黄土色の髪は緩く結っただけで、くるくると渦を巻きつつ腰まで流れ落ちている。今は王を迎える立場でない、他の男と話すのも自由だと示しているつもりだろう。
「我が君の忠実なる友、リッダーシュ様も、ご機嫌麗しゅう。いつも殿を待つばかりでは退屈でしょう。わたくしを訪ねてくだされば、喜んでおもてなしいたしますのに。今からでも一献差し上げましょうか」
「お戯れを。『柘榴の宮』は王のものにございますれば、私はこうして外で素朴な花を愛でて満足しております」
そつなく冗談にすり替え、リッダーシュは誘いを退けた。
ミハンニは先代アルハーシュ王の妃だった一人だ。ラファーリィ亡き後、最古参の妃として『柘榴の宮』のあるじを自任している。だが政治的な重要度は高くなく、妃としての知識教養や采配能力も、魅力と威厳も、明らかにラファーリィに劣る。もしシェイダールが新たにすぐれた妃を得たなら、即座にお役御免になるだろう。
リッダーシュはそれを憐れに思わなくもなかったが、どうしても引き比べてしまうのだ――先の女あるじ、真に百花の女神と称するに相応しい王妃と。
恐らくそれは彼だけではなかろうし、ミハンニ自身も評価を察しているのだろう。だからこそ、こうして自ら美と力を誇示せんと、陽射しの下に出てきて男に話しかけなどするのだ。もっと見よ、褒め称えよ、ここに大輪の薔薇が咲いているだろう、と。
「まこと、忠義でいらっしゃること」
ころころと笑った声に棘があるのは、そのせいかもしれない。ミハンニはじわりとリッダーシュににじり寄った。
「手折らず眺めるだけならば、宮の中でも外でも変わりますまいに。あちらにはもっと美しい花が咲いていましてよ」
「ミハンニ様。畏れながら、花を愛でるつもりで蜜に溺れ、蔓に搦め取られるわけには参りませぬ。王の影たる資格を失ってしまうでしょう」
何卒ご容赦を、とリッダーシュは頭を下げた。ミハンニは無言でそれを見下ろし、ややあって、ふっ、と微かに鼻息のような笑いのような音を漏らした。顔を上げたリッダーシュは、王妃の横顔に浮かぶ自嘲と皮肉を見て取り、今度は本心から申し訳なく思う。だがそれこそ彼女にとっては侮辱だろう。
ミハンニは唇を険しく引き結び、庭園の花々を睨んでいた。必死で咲き誇り、気まぐれに訪れる蜂を待ち、かなわねば実を結ぶこともなく散る。散ったことに気付かれる間もなく新たな花が咲く。そこに自らの境遇を重ねているのか、あるいは。
リッダーシュは声をかけられないまま目をそらし、ふと一輪の薔薇に手を伸ばした。ちょうど開きかけの一番美しい状態にあるそれを、優しく折って棘を取り、王妃の髪に挿す。驚いたように瞬きした妃に、彼は微笑んで言った。
「お持ちください。どのような花も、人の心を慰めてくれます。どうぞミハンニ様も、我が君の花であってください」
「まあ」
一声こぼしたきり、ミハンニは絶句した。次いで、ぷっとふきだして、無邪気な娘のようにくすくす笑いだす。
「なんてこと、まぁ……ふふ、いやだわ、ふふふっ。そうね。わたくしは花でなければならなかったのに。よりによって、殿方に……若くて美しい殿方に、こんな」
口元を隠して我が身を抱く。笑いを懸命に堪えるあまり、目尻から涙がこぼれ落ちた。何がそんなに可笑しかったかと、リッダーシュは困惑して立ち尽くす。ミハンニは指先で目元を拭い、慈しむように彼を見つめた。
「花はただ与えるもの。あなたのようにね」
「……?」
「次に殿がお渡りくださる時には、あなたも是非、部屋までおいでなさい。常々我が君をお傍で支える並々ならぬ労に報いて、心づくしのもてなしを差し上げとうございますわ」
身を締め付ける鎖が解けたように、ミハンニは柔らかく微笑んで誘う。リッダーシュはごく自然に、「ありがたき幸せにございます」と素直な返事をしていた。
では楽しみにしていますよ、と言い残して王妃が去り、しばし。入れ替わりに、宮からシェイダールが出て来た。
「悪い、待たせたな」
「いや……」
従者らしい受け答えを忘れ、リッダーシュはまだぽかんとしたまま応じた。目の前でシェイダールがひらひらと手を振る。
「おい? 何かあったのか、リッダーシュ」
「ああ、いや……ミハンニ様がいらしてな。少し話をしたんだが。よくわからないまま何やら納得されて宮に戻られた。御不興を買ったわけではなさそうだから、良かったが」
はて、と首を傾げてから、あるじに向き直る。
「それより、私のことは気にせず、少しゆっくり過ごせば良いのだぞ? 寛ぐ気になれぬというのは致し方ないが、それならせめてうたた寝でもして身体を休ませて」
この宮にはあまりに重い記憶が沈んでいるから、享楽に耽る気にはなれまいし、それはリッダーシュも理解できるのだが。さりとて、手っ取り早く妃への義務を果たしてすぐさま出て来るのでは、身も心も休まる暇がないではないか。
彼の配慮を察したシェイダールは、渋面で首を振った。
「勘弁してくれ。正直もう女に深入りしたくない」
ため息をついて、庭園の花々を眺めやる。
「……離れて見ているだけなら、いいんだがな」
ひび割れた白銀の欠片がぽろりと落ちて、微かながらも痛ましい音を散らした。
リッダーシュはつい、しみじみ「同感だ」とつぶやいた。途端にシェイダールはいつもの表情に戻って眉を上げたが、妃に何を言われたのだとからかいはせず、友人の肩に腕を回した。
「麗しの花園にも長居は無用、殺伐たる我らが戦場に戻るとしよう」
おどけた言い回しにリッダーシュも苦笑し、うなずいて共に歩きだす。
仄かに甘い風がふわりと頬に触れたが、引き留めることはかなわず、緩やかな渦を巻いて消える。髪に残された小さな花弁の数枚だけが、気付かれることなく二人のお伴をしていった。
2016.1.25
オマケ
「そういえばリッダーシュ、俺が知る限りおまえは一度も女に触れてないような気がするんだが、もしかして……」
「ん? いや、一応女を知ってはいる。第一候補の従者に任じられる以前、側女に誘われて何度か」
「……(誘われて、かよ)」
「ただ別に、特段良いものと思えなくてな。それよりもアルハーシュ様やラファーリィ様のお話を伺ったり、ヤドゥカ殿や仲間と鍛練に励むほうがよほど楽しく充実していた。だから今も、自ら求める気にはならぬのだ。ははっ、王でなくて良かったよ」
「今なんとなく無性におまえをぶん殴りたくなった」
「なぜ!?」
「知るか!!」(ゴスッ!)
2016.1.26




