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彩詠譚  作者: 風羽洸海
金枝番外
56/127

祈りの日


 広大な都を囲んで延々と続く城壁の外、大河沿いの街道を離れて小高い丘へ向かうと、次第に辺りは寂しい風景になる。草木に覆われぬ剥き出しの地面を、乾いた風になぶられた砂がサラサラと流れていく。

 坂道を登る足を止めて冬空の薄青色を見上げると、吐く息で白く煙る。その向こうに、丘上の塔が見えた。シェイダールは行く手を仰いでしばし佇み、無言で歩みを再開する。少し後に従うリッダーシュも沈黙を守っていた。

 二人のほかに人影はない。護衛兵らは麓で待機している。できるならシェイダールは一人で登りたかったのだが、王という立場上それは叶わぬ願いだったし、何よりもリッダーシュが譲らなかったのだ。臣としてではなく、友として傍らにいる――そう言われてはシェイダールも拒めない。

 過保護にするな、と苦笑して見せはしたものの、こうして塔の近くまでくると、やはり支えの必要を自覚せずにはいられなかった。胸が締めつけられ、息苦しくなる。

 やがて彼は、塔の前に着いた。

 煉瓦を積み上げたずんぐりした塔には、窓も入口もない。壁の外側に階段がついているだけだ。

 ひときわ強い風が吹き付け、シェイダールは顔をしかめた。荒ぶる奔馬のごとく駆け抜けた突風の行方を目で追うと、眼下に沃野が広がっていた。大河周辺の緑と、人の営みの活気にあふれた都。ほんの半日も歩いていないのに、遠く離れた別世界のようだ。

 その感慨はあながち間違いでもなかった。ここには、風が吹けども散らされぬ死の気配が満ちている。『風の塔』という名がつけられ、人々も口に出してはそう呼ぶが、実際にはこの塔は『死者の塔』だった。

 実りをもたらす大地と、清らかな炎とを死によって穢さぬよう、死者はこの塔に運ばれ屋上で風に晒されるのだ。乾き、鳥についばまれて骨だけになった遺体は、葬儀を執り行った親族が一部を骨壺に入れて持ち帰り、家に祀る。残った部分と、引き取り手のない遺体は、乾ききった後で屋上の穴から内部へ落とされる。塔の中には、何千何万もの数え切れない骨が堆積しているのだ。底の方は恐らく粉々になって、少しずつ土に還っているだろう。

 塔に勤める祭司と神官、下男らが、厳粛な面持ちで王を迎えた。

「王たる御方にこのような所までお運び頂くとは、まことに恐縮でございます。畏れながら、死の穢れが御身を損なわぬよう、清めの儀式を行うことをお許しください」

 神々嫌いですっかり有名な王に、祭司はややびくつきながら申し出る。シェイダールは怒りもせず、静かに首を振った。あまりにも濃い死を前にして癇癪など起こせない。

「必要ない」

「王よ、お言葉なれど」

「心配ない。既に風が清めてくれている。下手にあれこれしないほうがいいぐらいだ」

 シェイダールは塔を仰いでいたが、その瞳は現実の姿を透かして微かな色と音を捉えていた。

 当惑して立ち尽くす祭司に、彼は静謐なまなざしを向けた。

「香を焚くぐらいはしても構わないが、ここには生者を脅かすものは何もいないぞ。常日頃この塔でつとめをおこなっているおまえたち自身が、よく承知しているだろう」

「……登られますか。上は片付けてあります」

 祭司の問いかけにシェイダールは階段を見やって思案し、ややあって首を振った。

「やめておこう。ここでいい」

 死者たちを上から見下ろすのは気が進まない。

 そのまま彼が地面に膝をついたので、祭司らは大いに慌てた。だがリッダーシュが彼らをなだめ、促して去らせる。振り返り振り返りしつつ塔の番人たちが祭殿を兼ねた小さな館に引っ込むと、あとには王と従者だけが残った。

 シェイダールは臣従者がするように両膝をついたまま、手を組んで頭を垂れた。先だって『諸王の岩屋』で行われた祭礼と同じように。今は贅沢な香も、荘厳な楽の音もない。ただ祈りだけは同じ、否、さらに深く思いを込めて捧げる。

 王となって一年。神を信じぬ姿勢は変わらないが、死者の霊に対しては、彼も自然に祈るようになっていた。

(ヴィルメ)

 名の記録も残されず、この塔のどこかに埋もれてしまった妻に呼びかけると、胸が熱くなった。

 何をどう感じ、どのような考えの道筋を辿ってあの行動に出たのか、今となっては知りようもない。ジョルハイが己のもくろみのため誘導したのは間違いあるまいが、当の青年祭司に訊くことも、もうできない。

(だけどきっとおまえは、俺のためにやったんだよな)

 いつも、いつでも、あなたのためを思って。それがヴィルメだった。

 ――愛してる。死なないで。

 震えるささやきが耳によみがえる。きっと彼女は、夫と娘を守ろうとしたのだろう。死なせまいとして、自らが罪を負い殺されるだろうと承知で。

(ああ、確かに助けられたよ。結果としては)

 あくまでも、結果としては。

 敵対する神殿勢力を排除し、彼らに与した富裕層の力を削いだ。地位や命を奪われる前に、シェイダールは望みを叶え、王国を掌握する力を手に入れた。

 嵐の後の空が澄むように、暴力と混乱が王国の澱を吹き飛ばし光をもたらしたのだ。

(だがそれでも……生きていて欲しかった。おまえにも、アルハーシュ様にも)

 両方が成立する未来は、選び得なかったのかもしれない。家族がいて、偉大な王が長く存命し、なおかつ世界を変えられる。すべてを手に入れたいとの願いは傲慢であったのかもしれない。それでも。

(誰かを犠牲にしなければ望みが叶わないのなら、俺も結局、神々を責められない)

 これからシェイダールが世界を変えていくことで、大勢を救い得るのだとしても、その原点には罪が埋まっているのだ。

(……ヴィルメ)

 魂を振り絞る思いで呼びかける。届くことはない、もう彼女はどこにもいない。語りかけるつもりで己自身と対話しているに過ぎないのだと、理性では承知の上で。

(すまない。俺はおまえの望んだように、前へ進むよ)

 力ある王となって、王国と人々、そして忘れ形見の娘を守る。背後に影を引こうとも、明るく輝く未来へと向かって歩んで行こう。


 この犠牲を、決して忘れない。




2015.12.25


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