埋み火・うそつきのあなたに
【埋み火】
――我々の多くは、鬱屈を抱えたはみ出し者なのですよ……
少年の生まれた家は、よくある田舎の貧乏農家だった。小さな畑に子沢山、家族皆で野良仕事や手仕事に励み、よその畑を手伝って収穫の分け前にあずかって、それでも年中腹はぺこぺこ。
そこへもってまた子を授かってしまい、これ以上は無理だ、誰かを里子や奉公に出そうという話になった。
長男次男は駄目だ。跡継ぎだし、頼りの働き手だ。長女もそろそろ縁談が来る歳だ。次女は奉公に行けるんじゃないか。
そうして両親の目が五番目の子に向けられる。その男児はただ、五番目、とだけ呼ばれていた。貧しい家では珍しくないことだ。五つ六つまではよく死ぬので、七つ八つになるまで名付けない。親の方もたいして教養がないから、結局、数字がそのまま名前になる。
五番目は、あまり器量良しのいない一家にあって、ただひとり少しは見られる顔立ちをしていた。きょうだいの中では非力で、畑仕事の役には立たないが、下の子らしく要領は良く気働きが利く。幼いわりに口も達者だ。
「この子は神殿へ見習いに出そう」
すぐに決まった。
村はそれなりに豊かな土地で人も多く、祭司一人と平神官が一人、それに見習いが三人ほど住む神殿があった。
五番目にとって、見習いの生活はそれまでの暮らしよりずっと楽しかった。歓心を買うのが上手な彼は、すぐに祭司と平神官に気に入られ、可愛がられた。
朝から晩まで掃除に雑用に追いまくられたが、読み書きも教わることができたし、家では目にすることもなかった菓子やごちそうを食べる機会さえあった。
なんて素敵なところだろう! ここは楽園だ!
五番目は歓びに満ちた日々を送り、多くを学び、食事も足りてすくすく育ち、無事に十歳になった。
その年、見習いの一人が十五歳になり、神官位を授かることになった。今後はもっと大きな町の立派な神殿で、平神官として仕えるのだ。
頼もしい先輩がいなくなるので、五番目はさびしい気持ちで見送りに出た。祭司と神官に挨拶をすませた先輩は、五番目のところに来ると屈んで頭を撫で、小さな声でささやいた。
「おまえも、いつかは出て行ける。だから諦めるな、耐えるんだぞ」
どうしてそんなことを言われるのか、五番目にはわからなかった。
その夜、これまで先輩がおこなっていた大切なつとめを教える、と言われて、祭司の寝床に連れ込まれるまでは。
五番目は耐えた。痛みに叫び、屈辱と嫌悪に吐き、絶望に泣いて、なお耐えた。
逃げ出そうにも、幼い少年にはそれだけの力も知恵もなかったのだ。『つとめ』の時以外は決してつらく当たられることはなかったし、時に愛情らしきものを示されて、嫌だと思う自分が間違っているのだと罪悪感を抱きさえした。
どのみち、逃げても行く当てはない。
村の中では祭司の言葉が絶対で、下手をすれば五番目は邪悪な嘘つきか、悪霊憑きに仕立てられてしまうだろう。村の外に出れば追い剥ぎや獣がいるし、運良く隣村や町まで辿り着いたとしても、誰の後見も保証もない浮浪児がどうやって生きていけるというのか。
五番目は耐え続けた。
一年過ぎて心が鈍り、二年ですっかり笑顔も忘れた頃、転機が訪れた。
村を含む一帯の領主がやって来たのである。
貴族としては決して名家ではないのだが、それでも領主は、五番目ら庶民にとっては敬うべきあるじであり、王のような存在であった。
領主は己の有するわずかな村を順に巡り、各地でしばらく滞在して、問題なく人々が暮らせているかを視察していたのだ。
村長の屋敷に到着した領主は、護衛の兵士だけでなく若君をも伴っていた。まだ十三歳ほどで、将来のために領地のことを知るよりも、ただとにかく珍しく面白がっているような笑みを湛えた少年だった。
領主と若君は当然、神殿にも参拝に訪れた。接待を命じられた五番目は、溌剌とした若君を前にして眩暈を覚えた。既にこの世の暗がりに落ち込んでうずくまる己に比べ、彼はなんと明るく、燦々と輝く陽の下にいるのだろう!
「やあ、よろしく頼むよ。もしかして君、私と同い年ぐらいじゃないかい? もう神々に仕えるなんてすごいな、私だったら退屈で飛び出してしまいそうだよ」
無邪気で無頓着な言葉に、五番目は怒りと嫉妬を抱いたが、それも長続きしなかった。若君は裏表のない気持ちの良い少年で、五番目が失ってしまったきらきらするものを、その身の内から溢れさせていたから。
「見習いと言っても忙しいんですよ。退屈している暇なんてありません。若様、もしかして神殿では一日中お祈りばかりしていると思っているんですか?」
遠慮なく言い返した五番目にも、若君はまったく気を悪くせず、むしろ真面目に謝った。
「そうなのか。我々は君の仕事の邪魔をしているんだろうな」
すまない、と詫びてから、彼は歳相応の悪戯っぽい笑みを浮かべてささやいた。
「でも、私の相手をしていると言えば、堂々と遊べるだろう?」
引き込まれそうな目の輝きに抗えず、五番目は自覚せぬまま己も微笑をこぼした。作り笑いでない本物の笑みは、久しぶりのことだった。
それから二人は少年らしく、朝から晩まで、毎日飽きず共に遊んだ。的を置いて弓の練習をしてみたり、川辺へ魚やザリガニを獲りに行ったり、木に登って鳥の巣を探したり。
ほんの数日で、二人の間には、いっさいの疚しさもわだかまりもない友情が芽生え育った。確かに初めはそうだったのだ。
だが、五番目は気付いてしまった。祭司が若君に話しかける時、注意深く欲望を隠していることに。若君の髪の色が、自分のものとよく似ていることに。
満月のごとく眩しい友情に、一片の雲がかかったのはその時だった。
五番目はさらに若君と親交を深めた。とっておきの宝物を見せて若君が身に着けたささやかな品と交換し、若君の語る夢に耳を傾け励まし、日暮れに別れる際は身を切られるようにつらいと言動に示した。
新しい友達をすっかり気に入った若君は、とうとう父親を説き伏せ、滞在先を屋敷から神殿に替えさせてしまった。
領主親子が移ってきた当日、五番目は計略を巡らせた。
祭司の部屋の近くに領主親子の客室を用意し、祭司には『つとめ』をあなたの部屋でおこなっては気付かれてしまいます、と告げて代わりの提案をしておいた。
そうして、いよいよ賓客がおいでになった後はもてなしの宴を開き、若君の隣で酌をした。葡萄酒を割る水を、わざと減らしたのだ。
酔いつぶれた若君を介抱するふりで自分の部屋に運び、寝台に横たわらせて毛布を被らせた。一見して誰だかわからないように、顎の上までしっかりと。
「僕の部屋だから、お父上にみっともないところを見られずに済みますよ。安心してください。すぐに水を汲んできます」
言い置いて部屋を出た五番目は、水差しを持ったままひっそりと別の所へ隠れた。もくろみ通りに祭司が廊下を行くのを見届け、急いで領主の元へ向かう。若君の気分がすぐれないようだから、水を汲んでくる間、念のために気を付けていて欲しい――そう告げて自分の部屋の場所を教え、慌しく去る。
しばしの後、神殿は悲鳴と怒号が飛び交う修羅場と化した。
息子を男娼扱いされた領主は、その場で祭司を斬首しかねないほど激怒した。祭司は苦しい言い訳を並べ連ねたが、祭司の身の回りを検めた兵士が、若君の細々した持ち物をいくつも発見したせいで、罪が明らかになった。
おぞましさに震える若君に、五番目は泣いて謝罪した。
本当にすまない、僕のせいだ。祭司があなたに好色な目を向けているのに気付いて、守ろうとしたのに裏目に出てしまった。僕の部屋なら安全だと思ったのに、こんなことになるなんて……
嗚咽に身を震わせ、平伏する五番目に、若君は深く傷付いた顔で言った。
「君はずっと、この仕打ちに耐えていたのか」
伏したまま、五番目は小さくうなずく。
「……祭司の部屋から見付かったのは、私が君にあげた物だ」
「取り上げられてしまったのです。見習いが持つべきではないと叱責されて。でも、あなたの友情を失うのが怖くて、言えなかった。勇気を出して言っていれば良かったのに!」
「もういい、泣かないでくれ。君が父に教えてくれたおかげで、大事に至らなかった。私のことより、君が受けた傷のほうが深いだろう」
高潔な若君はそう言って、五番目を許した。
だがどこかで察してはいたのだろう。
その後も二人の友情は続いたが、じきにそれは儀礼的な表面上のものになり、やがて薄れ、消えた。その頃には五番目はもう、もっと有益なつながりをいくつも結んでいたので、田舎貴族の若君との誼にこだわりはしなかった。
*
目の前で、若い主従がいにしえの遺物を挟んで、ああでもないこうでもないと議論している。真剣に、しかし楽しそうに。
ジョルハイはかつて、ほんの短い間だけ手にしていたものを眩しそうに見やった。もう二度と手に入らない、決して落ちぬ穢れに侵された宝物。
(なにしろあの頃はまだ、嘘もそんなに上手じゃなかった)
もっと完璧に欺けていたら、今もあの若君とのつながりは残っていたかもしれない。己の側はそれが偽りと知っていても、少なくとも相手の中では無垢で無欠のまま輝いていただろう。
(……今さら何を)
ふっと自嘲を漏らし、胸の奥の埋み火にもう一度灰をかぶせる。深く、深く埋めるのだ。そこに熱があることは忘れられなくとも、赤い燠火を剥き出しにしてはならない。
ふと目を上げると、宇宙の双眸がこちらを見つめていた。すべてを呑むようなまなざしに、彼はおどけた声を返す。
「パンを呼び出す魔法の杖はありましたか、世嗣殿?」
ほら、いつも通りだ。大丈夫、火傷はしない。顔をしかめた世嗣にジョルハイは大仰な謝罪の礼をして見せた。
――ああ、いっそ灼かれてしまえば。
2015.12
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【うそつきのあなたに】
五番目、というのが少年の元の名前だった。数字通りの下の子だった彼は、要領が良く気働きが利き、人の機微を見分ける才をもっていたから、生まれ故郷を離れて自らジョルハイと名を変えた後も、持ち前の才覚で巧みに世渡りしていった。
小さな田舎の神殿を離れ、見習い神官として別の町の神殿に入った時には既に、保護者たる祭司から惜しみない同情を注がれ、信用され嘱望されていた。利発で愛想良くこまごまとよく働く少年は、先輩神官らのおぼえもめでたく、何かと便宜をはかられ優遇され、結果、十五になると同時に正神官の位を与えられ、なんと都の大神殿に入ったのである。
名もなき片田舎の神殿から始めて、ここまでの早さで駆け上がった神官はほとんどいない。神童と称えられる類の前例はあったが、彼は決して才走ったところは見せず、人から人へ、恩と厚意と融通、ちょっとした駆け引きによって渡り歩き、するりするりと障害をくぐり抜けてきたのだ。
むろんさりとて、愚かでも怠惰でもなかった。
学を修め伝承をそらんじ、天地の理について滔々と論じ、祭式の手順と意味を完璧に理解し。さすがにまだ十五歳では一人で仕事を任されることはないが、祭司に従って街の各家をまわり、祝福や祈祷、祓えの儀式に携わることを許された。それも、機嫌を損ねてはならない名家や裕福な商家を相手に。
織物商ヤシムの、十二歳になる娘シェケリヤと彼が出会ったのも、そんな経緯であった。
数度の訪問の後、定例の先祖供養を終えた祭司と平神官のところへ、少女がひょこりと顔を出した。
「おや、可愛らしい娘さんだ」
祭司が笑みを向けると、少女はぺこりとお辞儀をしたものの、視線は少年神官に釘付けである。連れてきた母親が苦笑して言った。
「神官のお兄さまとお話がしたい、って駄々をこねるんですの。歳の近い兄弟がいないものですから……良ければ何か、為になるお話を聞かせてやって頂けないかしら」
「大役ですね。若輩の身ではありますが、謹んでお受けいたします」
ジョルハイはややおどけつつも、誠実に一礼した。本来ならば未婚の少女が親族でない男と私的に接するのは、避けるべきとされている。だが何しろ彼は神官だし、この年頃の少年にしては随分しっかりしていて、安全で信頼が置けるとみなされたがゆえのことだった。
そうして、当主夫妻と祭司が“退屈な大人の話”をしている間、少女は待ちかねた様子でジョルハイを庭の四阿へ連れて行き、独り占めしたのだ。
シェケリヤは良家の娘としてはごく普通の育ち――すなわち屋敷からほとんど出たことがないので、外の話に目を輝かせて聞き入った。
少女向けの甘ったるい恋物語よりも、不思議や神秘、冒険に興味津々で、実際には存在しない国の伝承でも本当のことと捉えたし、英雄が神々の加護によって危難を切り抜ける話などは、握り拳をつくって瞬きも忘れて聞き入るありさま。
「それから? それからどうなったの、ねえ神官さま」
「まあひどい、どうしてアシャ様は天から助けてくださらないのかしら」
あれこれあれこれ。
一応きちんと“為になる”話も挟んだが、会話はもっぱらそうした物語や、あるいは雑談が主になった。幸いジョルハイは、少女特有のとりとめのない話について行ける才があったし、完璧な笑顔を持っていたので、お嬢様はすっかり彼が気に入ってしまった。
「神官さま、どうしたらあなたみたいに賢くなれるの? お父さまもお母さまも、神官さまみたいに、すぐにわかりやすい返事をしてくれたらいいのに」
「人には得手、不得手というものがあるのですよ。私はたまたま、お嬢様の話し相手がつとまるぐらいに舌が回りますが、言葉を素早く紡ぐよりも、じっくり考えてから織りあげる人もいる、ということです」
にこにこ答えたジョルハイを、お嬢様はじっと見つめ、言ったことには。
「本当ね。あなたはするするっと言葉の糸を紡いで、その場をきれいに縫い合わせるのが上手なんだわ。あんまり上手だから、お父さまもお母さまもみんな、あなたに縫われているのに気付かないのね」
「これは……お見それしました」
ジョルハイは内心の動揺を隠し、そつなく恐縮する。シェケリヤはどうだとばかり胸を反らせた。
「これがわたしの得手、というわけね!」
笑顔はまるで屈託なく、少年神官の弁舌が密かに為す技に気付いても難じようとはしない。むしろ大人たちをいいように操るのが楽しいと言わんばかりだ。
そんな秘密の共有もあって、一年も経つ頃には二人は本当の兄妹のように、あるいはそれよりも親密な友人のように、心を通わせる間柄になっていた。
シェケリヤは十三歳になった。そろそろ両親も、縁談について算段を始めている。
一方ジョルハイは十六歳。普通ならばもう、決して二人きりにはされない年齢である。
だが相変わらず二人は仲良く語らっていた。ひとつには一年前からの実績があったからだし、またジョルハイのシェケリヤに対する態度はあくまでも「子供」に対する「神官」のものであったから、両親も安心していたのだ。
初夏のある日、ジョルハイは例によってお嬢様のお望みに従い、庭へお供した。李がたくさん生っているから、一緒に採ろうと言うのである。
「そろそろ、お転婆も卒業なさらないと」
「嫌ぁよ。それこそ今のうちに、やりたいこと全部やっておかなきゃ」
シェケリヤは笑い、こっちこっち、と梯子を立てかけた木に駆け寄る。一段、二段と上ってから、彼女はふとジョルハイを見下ろした。
「それに、今日はなんだか少し様子が変だもの。おしゃべりしたい気分じゃないかもしれないと思って」
見抜かれたジョルハイは、梯子を押さえる動作で、たじろいだのを隠した。
「ばれましたか。いえ、お嬢様とお話しするのに何の不都合もありませんが……昔の知り合いを、街で見かけましたもので。つい物思いに」
何でもないことのように言い、彼は肩を竦めた。シェケリヤは早速ひとつもいで、くん、と香りを嗅ぐ。
「会いたくない相手だったの? あ、梯子は手を離しても大丈夫だから、そこの籠を持っててちょうだい」
「畏まりました。はい、どうぞ。……会いたくないわけではないんですが、会いたいというわけでもなく。向こうも私には気付きませんでしたしね」
ジョルハイは収穫籠を両手で捧げ持ち、お嬢様が落とす李を受け止めた。
六年前、まだ彼がいとけない子供であった頃、神殿を去った先輩神官だ。おまえもいつかは出ていけるから耐えろ、とのむごい忠告を残していった少年。街路ですれ違ったのは確かに成長した彼だと思ったが、他人の空似かもしれない。そうであってほしい。小さく哀れな“五番目”は、もう、あの地に葬ってきたのだ。
(思い出すな、埋めてしまえ)
ジョルハイは頭を振った。忌まわしい過去を掘り返してはならない。深く埋めて、その上を踏み越えてゆかねばならないのだから。
いつもは理路整然と歯切れ良く話す彼が曖昧な物言いをしたので、シェケリヤもなんとなく察したようだった。話題を変え、家中のたわいない出来事をしゃべりながら、ぽいぽいと李を落としていく。
ややあって彼女は、手に取ったひとつに目をみはった。
「わぁ、真っ赤でいい香り! まだ鳥につつかれていないなんて奇蹟だわ。すごく美味しそう。神官さま、どうぞ」
「と言われましても」
慌ててジョルハイは籠を置き、受け取ろうと手を差し出す。だがシェケリヤは悪戯っぽく笑って、梯子の上で身を屈めた。
「ほら、あーんして」
「悪ふざけは……っと!」
無理な体勢を取ったせいで梯子が傾く。とっさにジョルハイはシェケリヤを抱き止めた。危うく転落しかけたというのに、お嬢様は笑うばかり。
「よくぞ救った、褒美をつかわす。ねえほら、本当にこれ、特別に美味しそうだから食べて」
両手がふさがった状態でジョルハイは抵抗できず、仕方なしに口を開ける。小ぶりの実だから何とかなるだろうと思ったのだが、それが命取りだった。
「んぐ」
予想より大きく、落としそうになる。無理に口を開いてくわえようとした刹那、不吉な閃光が脳裏に瞬いた。まずい、と本能的にそれを抑え込もうとしたが、予期せぬ遭遇で既に緩んでいた記憶の縛めは、あえなく弾け飛ぶ。嵐が吹き荒れ、理性を引きちぎった。
「――っ!」
腕に抱えた少女を投げ出し、口に突っ込まれたものを吐き出してうずくまる。打ち捨て葬ったはずの子供が身の内で泣き叫び暴れ狂った。
いやだいやだいやだやめてやめて祭司さまやめて……
小さな子供の口を限界までこじ開け、無理やり押し込まれる異物。邪な欲望の塊。生温い感触がよみがえる。
「げ……っ、ぇ、うぐ」
堪えようと意識する余裕もなく吐いた。二度、三度。全身が激しく震え、どこか壊れたように涙が溢れ続けて止まらない。
「神官さま! いったい何が」
悲鳴と共に、柔らかな手が背に触れる。ジョルハイはびくりと竦んだが、おかげで“五番目”を押し退ける隙が生まれた。
「どうしよう、……誰か」
おろおろと背をさすってから、シェケリヤが人を呼ぼうとする。反射的にジョルハイは遮った。
「呼ぶな!」
「……っ!? で、でも」
うずくまったまま首を振り、なんとかして呼吸を整えようと、意志の力を振り絞る。
負けるな。ここで負けてたまるものか……!
「大丈夫、だから、呼ばないでください。こんなざまを、見られたくない」
かすれ声で言い、歯を食いしばって身を起こす。シェケリヤは逡巡したが、こくんとうなずくと、四阿へ走っていった。
ジョルハイがのろのろと己の不始末に土を被せていると、シェケリヤは水差しを持って戻ってきた。
「手を洗って。口と顔も」
「ありがとう」
ちょろちょろと注がれる水で汚れた手を洗い、口をすすぐ。目元を拭ってようやくすっきりすると、彼はほっと息をついた。地面に座り込んだまま、笑みをつくって救い主を見上げる。
「あなたが女神に見えますよ、お嬢様」
「無理しないで。……本当にもう大丈夫?」
「ええ、おかげさまで。ご迷惑をおかけしました」
よろけながら立ち上がり、李の木に手をついてゆっくり呼吸する。倒れた梯子を立て直して時間を稼ぎ、それから彼は恐縮そうに気遣った。
「お嬢様こそ、お怪我はありませんか。いきなりのことで……」
「平気よ。ちょっと服が汚れたけど、李を採るって言っておいたもの。私のことより、あなたのほうよ」
気丈な態度を装っているが、少女の顔は青ざめ、こわばっている。ジョルハイは頭を下げた。
「本当にすみませんでした。……実は、子供の頃、あれで死にかけたことがあるんです。どれだけ大きな実が口に入るか兄弟とふざけていて、喉を詰まらせて」
「まあ」
「馬鹿馬鹿しい話ですが、その時は本当に恐ろしかったんですよ。実際、危ういところでしたから、こっぴどく怒られました。だから今も、身体が勝手に死ぬと思い込んでああいう反応をしたんでしょうね。……お世話をかけました」
苦笑いで締めくくったジョルハイに、シェケリヤも曖昧な表情でうなずく。まだ心配そうながらも少し安堵し、笑い事ではないのだが笑って済ませるべきかと迷うように。
こうしてその場はどうにか切り抜けたジョルハイだったが、一度よみがえった悪夢は簡単に去ってくれなかった。
その日の夕食時、彼は己の身に起きた異変の深刻さを自覚した。匙を持つ手が震える。食べようとしても、思うように口が開かない。唇が接着されたように粘り、こじ開けるのにかなりの意志を要した。
ようやく唇に隙間ができても、そこに物を差し込もうとすると涙が溢れかけ、せめて汁物を飲もうとしても喉がつかえてしまう。
これは駄目だと判断し、周囲に適当な言い訳をして早々に自室へ逃げ戻ると、彼は寝台に突っ伏して泣いた。歯を食いしばり拳を枕に打ちつけ、声を殺して。
(くそ、くそ、くそっ!! こんな所で今さら囚われてなんかいられないのに!)
憎悪を力に換えはしても、屈辱と悲鳴はすべて打ち捨てたはずだったのに。恐怖も涙も、二度とそんなものに足をすくわれないよう、深く深く埋めたはずだったのに。
(見るな。見るな、聞くな、あれはおまえじゃない!)
哀れな“五番目”の姿、記憶と感覚を強いて遠ざける。他人の人生だ、自分ではないのだと言い聞かせて。
それでも、すすり泣きはいつまでも止まらなかった。
夜半、疲れきった心にふと、背に触れる手の温もり、こちらを見つめる青ざめた少女の面影が浮かぶ。それに呼ばれたように、とろりと暗い眠りが彼を包み込んだ。
恐慌をきたして生活が破綻するまでには至らなかったが、過去はしぶとくジョルハイを苛んだ。
ほんの少し前まで素晴らしいご馳走だった骨付きの炙り肉などは匂いだけで吐き気を催したし、パンを食べるのさえ一苦労。薄い粥を一口ずつすすり、干しぶどうを一粒ずつ食べるだけの毎日が続き、彼はあっと言う間に、傍目にわかるほど痩せてしまった。
「まあ」
一声発したきり絶句したシェケリヤに、ジョルハイは申し訳なさそうに首を竦めて微笑んだ。
「ご心配なく。少し暑さにやられてしまっただけですよ。それよりお嬢様、縁談が調ったと伺いました。おめでとうございます」
いつも通りの淀みない口調に、シェケリヤは顔をしかめて唸った。そっぽを向き、ぐるりと庭を眺め回して、最後に足下に目を落とす。
「……本当に、おめでたいと思う?」
「ええ。良いお話だと思います。先方の家柄も申し分ありませんし、お相手については悪い噂も聞きません。きっとお嬢様を大切にしてくださいますよ」
嘘や気休めではなかった。先ほど母屋で当主から聞かされた時も、彼は心からお祝いを申し述べたのだ。そのぐらい、安心できる縁組みだった。
だがシェケリヤの表情は晴れない。うつむいて、ため息をひとつ。ジョルハイはわざとおどけた。
「お嬢様を通じてご縁がつながれば、私が一人前になった折には受け持ちの祭司に指名して頂けるかもしれませんしね」
「わたしが言わなくても、お父さまが推薦するわよ。すっかりお気に入りだもの」
「それは光栄」
しゃちほこばって一礼した神官に、お嬢様は胡散臭げな目をくれて、やれやれと天を仰いだ。
一呼吸ののち、彼に向き直った時、少女の面にはただひたすらに一途な想いがくっきりとあらわれていた。強いまなざしに射られてジョルハイがたじろぐ。そこへ、少女は踏み込んだ。
「神官さま。わたしを寿いでくださるのなら、どうぞ祝福の口づけをください」
「……!」
さすがにとっさの切り返しができず、ジョルハイは身をこわばらせた。
二世代ほど前までは、一般の人々もよく口づけを交わしたという。別れや出会いの挨拶に、旅立ちの加護を願って、あるいはさまざまに。今、そうした慣習は廃れ、祭司の祝福に名残をとどめているだけだ。つまり、神官とはいえまだ祭司になっていない、しかも十代の若者が、少女に対しておこなうのは……いささか不自然と言わざるを得ない。むろん相手は承知の上で要求しているのだろうが。
やんわり拒んでうまく言いくるめるぐらい、わけもないはずだった。いかに彼女が観察力に優れようとも、まだ十三歳だ。
だが気付くとジョルハイは、笑みを取り繕うことも忘れ、唇を震わせていた。
「……私では、ふさわしくありません。幸福な花嫁になるべきあなたを祝福するには、私は穢れている」
背に触れた手の優しさ、彼の頼みを尊重し誰にも言わず、ただ水差しを持ってきてくれた思いやり。それらに応えるには、あまりにも卑しい。よりによって口づけなど、とても許されはしない。
するとシェケリヤは、いつもの強気を取り戻して肩をそびやかした。
「そうかしら? 確かにあなたはよく嘘をつくから、お口がきれいとは言えないかもしれないけど」
事情を知るはずもない少女の取り違えに、ジョルハイは自嘲の苦笑いを噛み殺す。だがそれは、続く言葉で打ち消された。
「でも、あなたの嘘はいつだって優しい嘘だわ」
「……え?」
意表を突かれてぽかんとした彼に、少女はまぶしいばかりの傲慢さで決めつけた。
「あなたの嘘を全部見抜けているとまでは、自惚れていないけれど、わたしが気付いた嘘はいつでもそうだもの。人を傷付けないよう、悲しませないよう、喧嘩させないように。李を詰まらせた話も、半分ぐらい嘘でしょう? わたしが自分のせいだと思わないように作り話をしたのよね。見られたくないから呼ぶな、って言ったのも、あなたが見られたくないからじゃない。わたしが怒られたり、お母さまがうろたえてお詫びしたり、そういうことにならないように。今日だって、そんなに痩せたんだもの、つらくないはずがないでしょうに、笑って見せた。安心させようとして。でしょう?」
わかってるのよ、とばかりに笑いかけてくる。ジョルハイはもう、自分がどんな顔をしているのかわからなくなって、ただうつむいた。
――ああ、君は何もわかっちゃいない。何も知っていやしない。私がどれほどの憎しみを抱えているか、どれほど穢らわしく人を欺いてきたか。世の中にどれほどの残酷と屈辱と醜悪があり、どれほど無惨に人を打ちのめすか。何ひとつ知らない、想像もできやしない。
「だからね、ジョルハイさま。わたしは、あなたにこそ、祝福して欲しいのよ。穢れてなんかいない。あなたはいっとう優しくて、人を幸せにする嘘つきなんだもの」
「……っ」
不覚にも涙がこぼれた。うつむいたまま、彼は唇を噛んで嗚咽を堪える。ぽとりぽとりと落ちた滴が、草の上で小さなきらめきとなって跳ねた。
――だから君の言葉は、薄っぺらで何の実もない。ひらひらした羽毛のように。ああ、だのに。光を透かすほどに薄く、天に舞うほど軽いその言葉に、縋りつき救われたいと願う私は、なんと弱く愚かなのだろう――
声もなく震える彼の前で、少女はただ微笑んで、じっと待ち続けていた。
しばらくかかってようやくジョルハイは感情を静め、涙を拭って顔を上げた。いつものように、笑みを浮かべて。
「本当は、祭司になってからでないといけないので、皆には内緒にしてくださいね」
人差し指を立てて断ってから、深くゆっくり息を吸う。恭しく両手を合わせ、彼は神々に祈った。
「万物の守り手にして偉大なるアシャよ、婚姻と豊穣を嘉したもう女神マヌハも共にご照覧あれ。これなる娘シェケリヤは近く婚姻の儀を結ぶものなり」
良き花嫁となり賢く家内を保てるよう、婚姻により豊かな実りがもたらされるよう、加護を願いながらシェケリヤの額と両肩に触れる。最後に少女のこめかみに手を添えると、彼はそっと軽く額に口づけを落とした。
儀式としてはそれで終わりだ。――が、彼はつかの間ためらった後、ちょっと屈んだ。途端、待っていたようにシャケリヤが顔を上げる。驚いた一瞬の隙に、唇と唇が触れ合った。
ほんのわずか、かする程度の口づけ。
にもかかわらず、はっきりと鮮やかに、清浄な甘さがジョルハイの唇を湿らせ、舌を潤して喉を滑り落ちていった。
彼が呆然としている間に、素早く身を離したシェケリヤが頬を染めて悪戯っぽく笑う。
「男のひとに口づけしたのは、初めてなの。お父さまにだって、したことないのよ。わたしが自分のものだって言えるのはなんにもないけど、これだけは世界にたったひとつ限りなんだから、大切にしてね」
「……、」
はい、と答えた声は涙に紛れてしまい、よく聞き取れなかった。
乙女の口づけにどんな奇蹟を起こす力があるのか、古今の伝説の真偽はともかく。
その日からまたジョルハイは普通に食事ができるようになった。少々抵抗を感じる料理に遭遇することがたまにあっても、悪夢がよみがえることは二度となく、そんな時はいつも、あの不思議な甘い記憶が助けてくれた。
嫁いだ後のシェケリヤとは、会っていない。
それがけじめであったし、もう会わなくても平気だと、寂しくないし何とも思わないというふりをするのが、彼女のためにつける最後の嘘だったから。
2017.5.6




