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彩詠譚  作者: 風羽洸海
夜明けの歌、日没の祈り
52/127

後日談2編

【それを何と呼ぶにせよ】



 西の海の玄関口、港町シュルトは活気に満ちている。

 田舎町カトナから出たことがなかったタスハはもちろん、ワシュアール王都の規模を知っているジェハナでさえも、その賑わいには驚かされた。

 二人が身を寄せたイェンナ家商館には、ほかにも各地からの滞在客が大勢いた。同様に難を逃れてきた神官や巫女、女学者。あるいは北や南、ハムリ領内各地からの商人。

 それぞれが職分と性別に応じた部屋をあてがわれ、似た境遇の者たちと日々語らい、学び合うことができた。シュルトで生計を立てる相談や、あるいは移住に適した町の情報を集めるのにも、イェンナ家一族は親身に世話を焼いてくれる。

 むろん彼らとて単に慈善でそうするのではない。そうやって広げた伝手を、いずれ活用するためである。


「どうも、ありがとうございました」

 船着き場の近くにある小さな神殿から出て来たタスハは、ふうっと一息ついて夏空を仰いだ。隣でジェハナも眩しそうに目陰を差す。二人は今、祭祀と学究の場を兼ねる新たな神殿をこの町に開けないか、各所と相談を進めているところだった。

「了承を頂けて良かったですね」ジェハナがにこやかに話しかける。「シュルトはどこの神官様も寛容で大らかで助かりますけど、本当に大丈夫なのかちょっと心配になるぐらいです」

「これだけ大きな港町ですから、他所から来た者のすることに、いちいち目くじらを立てない気風があるのかもしれませんね」

「ウルヴェーユのことも既にご存じの方が多くて驚きました。ワシュアールの怪しい魔術なんて、ハムリでは毛嫌いされているかと思っていましたけど」

 ジェハナはおどけて言い、改めて辺りを見回した。東西南北、様々な地方の人々が入り混じる港。交わされる言葉も、きつい訛りがあったり、まったく聞いたことのないものであったりする。タスハも感慨深げにうなずいた。

「ここは本当に、多くの人種文物が入り混じる町ですね。我々の取り組みもそれほど苦労せず受け入られるかもしれません」

 ウルヴェーユと祈りの融合。東方ではまず認められない取り組みを、ここシュルトで始め、根付かせることができたなら、いつか神秘の根源に手が届くかもしれない。

「そうなると良いですね。そうして多くの人と交流を広げてゆけたら、いつか……あの海の向こうへ渡るという夢も、実現するかも」

 ジェハナが微笑み、きらめく紺碧を見やって目を細める。同じ夢を抱くタスハも「ええ」と同意し、次いでぷっとふきだした。怪訝な顔になったジェハナに、彼は苦笑で言う。

「その時には、イェンナ家の皆さんが嬉々として帆を上げそうですよ。鍋と包丁と、あれこれの調味料を積みこんで」

「間違いないでしょうね!」

 聞いたジェハナも愉快げに笑った。かの食道楽一族は、大勢の客の面倒を見るのも、いずれ彼らを通じて世界中から美味珍味を集めるのが目的だから、と公言しているのだ。

 彼らの食にかける情熱を思い出しただけで食欲を刺激されてしまい、ジェハナはやや恥ずかしそうに首を竦めて提案した。

「お腹が空いてしまいました、そろそろ帰りませんか」

「同じことを言いかけていましたよ」

 タスハは笑い、ゆっくり歩きだす。ジェハナが混雑に揉まれないよう、さりげなく庇う位置に立って。その心遣いにジェハナも気付いたが、あえて礼を言うのも恥ずかしいので黙っていた。

 船荷が積み下ろしされる危険地帯を過ぎると、じきにそこらじゅうから美味そうな匂いが漂ってきた。労働者向けの居酒屋や食堂、宿屋が並ぶ界隈だ。一日中なにかしら香ばしい空気が満ちているが、とりわけ昼食時の威力はすさまじい。

 連れがいなかったら、館に帰りつく前にどこかの店に捕まるな――タスハがそう考えた矢先、威勢の良い呼び込みの声が飛んできた。

「はい、いらっしゃい、いらっしゃい! 最高に美味しい揚げ魚だよ! 秘伝のタレはここだけの絶品!」

 馴染みのない、甘いような酸いような、不思議な香りが鼻をくすぐる。張りのある声の主は、いかにも押しの強そうな中年女だ。その黒い目がこちらに向けられた直後、獲物を見付けたとばかりきらめいた。

「今日は特別……、そこの祭司様! どうぞ寄ってってくださいな、うちはご婦人連れのお客様も大歓迎ですよ!」

「おや」

 珍しい、と思わずタスハは足を止めた。これだけ開放的先進的なシュルトでも、女が外食するところは見たことがない。女は基本的に家庭や職場内で食事をするものだ。私邸での会食などはまた別だが、こうした一般に開放された食堂はほぼ男ばかりなのである。

 変わったお店ですね、とジェハナもささやいた。

 二人の興味を引くのに成功した女は、笑みを深くして大きく手招きした。

「さぁさ、どうぞどうぞ! 御二方は運がいい! 今日は特別、夫婦連れにはふるまい酒を用意してますよォ!」

「――っ!?」

 途端、二人は揃って真っ赤になった。タスハは慌てふためいて抗議する。

「ち、違っ……違う、そうじゃない! よしてくれ、そんな大声で」

 動転のあまり声が裏返ってしまい、耳まで熱くなる。そんな彼の反応に、店の女は大仰に驚いた身振りをした。

「あれまぁ。ですけど」

 何か言いかけた女に、今度はジェハナが否定する。

「違いますから! 私たち、そんな……、とにかく違います!」

 騒ぎを聞きつけた通行人が何人か、物見高く立ち止まる。タスハは片手を額に当ててうつむいた。誰かが口笛を鳴らして冷やかし、顔を上げられなくなる。すぐそばで羞恥に震えるジェハナの気配を感じ、彼は絞り出すようにうめいた。

「申し訳ない」

 こんな衆目のあるところで、こんなことで、彼女に恥をかかせてしまった。己の配慮が足りなかったばかりに。

「何を言ってるんですか! あなたが謝ることありません、私が慎みもなくついて回ったせいで……、いえ、そうじゃなくて!」

 ジェハナは狼狽したまま言いかけ、ぐっと拳を握り締めるや女に向き直った。

「新たな客層を取り込もうという試みは斬新だと思いますけれど、対象の選別は慎重にしてくださいませんか! 一緒に歩いているだけで、ふっ……、夫婦だなんて!」

 肩を怒らせて震えるジェハナに、見物人の間から忍び笑いが漏れる。呼び込みの女も口の端をぴくつかせながら、どうにか態度を取り繕った。

「あらまぁ、とんだ失礼をしてしまいましたかねぇ、学者先生?」

 物言いから職業を推測したらしく、問いかけの声音で確認する。ジェハナが曖昧にうなずくと、女は悪気のない苦笑になって、降参のしるしに両手を広げた。

「違うんならお詫びしますけど、でも、正直でいらっしゃいますねぇ。訂正しないで夫婦のふりして店に入ったら、ふるまい酒がただで飲めたのに。全然、興味ありません? 滅多に入らない南の果実酒なんですよ。いい香りで甘くて、お嬢さんの気に入ると思ったんですけど」

 宣伝と誠意が相半ばする嫌味のない口調でぽんぽん言い、残念です、と肩を竦める。さっぱりしたその態度につられ、ジェハナの頬から熱が引いていった。

「南の果実……」

 真顔で口元に手を当て、小さくつぶやく。博物誌の書物を記憶の中で繰っているのだ。タスハもどうにか平静を取り戻し、そっと質問した。

「気になりますか?」

「あっ、いえ、そんなには」

 返事は否定だったが、表情は明らかに好奇心が勝っている。タスハは口元をほころばせ、「私は非常に気になります」と真面目ぶって言うと、顔を上げて女に声をかけた。

「その珍しいお酒は、代金さえ払えば飲ませていただけますか」

 女は面白そうな顔をしたが、朗らかに気前よく応じた。

「お二人とも食事を召し上がってゆかれるんでしたら、特別にお出ししますよ! ええ、こちらが間違えたんですから、お代は頂きません。そのかわり、どうぞ今後ともご贔屓に!」

 さぁどうぞ、と大きな手振りで促され、タスハとジェハナは顔を見合わせて苦笑すると、店の戸口をくぐった。


 二人が中に入ると、成り行きを見ていた近所の男が、にやにや笑いで女に話しかけた。

「面白ぇなぁ。どっからどう見ても、熱々の仲だろうに」

「およしよ、本人たちが違うってってんだから」

 女はぴしゃりと男の腕を平手で打ち、ひょいと中の様子を覗いてから、独り言のようにささやいた。

「夫婦でも恋人でも、友達でも、呼び名はどうだっていいのさ。食事の間も離れたくない、っていうお二人さんがうちに来て、お客さんを増やしてくれたらね」

 視線の先では、ひとつの卓に向かい合って座る二人が、幸せそうに笑いながらしゃべっている。はた目にも明らかに、深い情の通う様子で。

 女は眉を上げると、ごちそうさま、と声に出さずつぶやいてから、客引きに戻ったのだった。



--------------



【旅は道連れ】



 街で夫婦連れと間違われた一件の後、タスハはかつてなく長い祈りに没頭した。イェンナ家商館の礼拝室には、各地から逃れてきた神々の像が並んでいたが、彼が絨毯に正座して拝むのは、むろんカトナのアータル像だ。

 故郷の神殿では、祈りは常に他者への思いで占められていた。町のため、人々のため、加護と恵みをこいねがい導きを求める祈り。己の身の上について、これほど切実に問いかけたことなどなかった。

(どうすれば良いのでしょう。私はそれを許されるのでしょうか)

 はっきりさせるべきだ。その思いは、ジェハナと共にカトナを離れてから、何度も彼の心を訪っていた。そして毎回、目の前の課題と臆病さに追われ、むなしく散ってばかりいたのだ。

 だが、いつまでも曖昧にしてはおけない。

 彼は合掌したまま深く息をつき、小さな火の神と見つめ合った。

(きっと我々はこの先も共に歩むだろう)

 密やかな確信。路を辿って得られる直観にも似た、不思議なほどに疑いのない予感。気を逸らすと赤面しそうになるが、急いで問題に集中し直す。そう、ひとまず恋慕だなんだといった観点を抜きにして、実際的に検討しなければならない。

(共に……路を辿り神々の力の源へ降り、いにしえの人々の足跡を追ってゆく。私たちは恐らく二人とも、途中で投げ出しはしないだろう)

 ゆっくり深く呼吸を静め、思案を巡らせる。

 探求の道行きを共にするだけならば、敢えて婚姻関係を結ぶ必要はない。まして家庭を持つとなったら、今の己はあまりにも無力だ。財も寄る辺もなく、先の見通しはまるで立たず、伴侶と子を養い支えるどころか害なす恐れさえある。

 これまでの人生、タスハは常に受け身だった。与えられるものを受け入れ、その中で自らを納得させ満足させ、求められることを為そうとつとめてきた。自ら決定し、切り拓き掴み取った経験のない彼にとって、今のこの「定まらなさ」はひどく恐ろしい。

(とても無理だ。……私ひとりならば)

 瞑目し、頭を垂れる。これまでならば諦めていただろう。しかしもう、己のみを思案の材料として、勝手に納得してしまうわけにはゆかないのだ。

(私が諦めても状況は変わらないままだ。それでは何にもならない)

 ジェハナと二人で新たな神殿を開く計画に、変更はない。ではどうするのか。互いに独身のまま、ただ共同運営者として神殿に住み暮らすのか? 世間にどう見られる。自分は男で祭司だからまだいいが、ジェハナは恐らくかなりの不利益を被るだろう。

(だからと言ってジェハナ殿に、相応しい家柄の相手と結婚なさい、などとは)

 失笑がこぼれた。それこそ窓から逆さに吊り下げられかねない。

 もし、もしも、万が一。彼女が申し分なく優れた男に心を寄せ、また相手からも望まれて嫁ぐのであれば、その時は自分が婚儀を執り行って祝福したい。本気でそう思う。彼女が幸福で、他人からとやかく言われることもなく、満ち足りてあるならば。

 ――だが。きっと彼女の望みは、そんな将来ではない。己のそれもまた。

(ああ、とうに答えは解っていたんだ)

 目を開き、改めてもう一度、深くアータル像を拝む。許しと加護を乞うて。

 姿勢を正して振り向くと、戸口のところでジェハナが身じろぎした。ずっと沈黙を守り、祈りが終わるのを待っていたのだ。気遣わしげな表情だが、すぐ用件を切り出そうというふうではない。

 タスハは立ち上がり、彼女の前まで行って一礼した。

「随分お待たせしてしまいましたね。……折り入って相談があるのですが、先にお話しさせて頂いても?」

「あっ、はい」

 ジェハナは自分の用が後回しになってむしろほっとしたように、どうぞ、と促した。タスハは小さく咳払いし、理性と自制心を総動員して威厳を取り繕いつつ、慎重に言葉をひとつひとつ発した。

「……あなたの、ご家族に。手紙を差し上げても、よろしいでしょうか」

 語尾がわずかに揺れたが、どうにかはっきり言い切れた。タスハは耳まで熱くなるのを自覚したが、ジェハナの瞳を見つめ続けた。ここで逃げてうやむやにしてはならない。

 ジェハナは一呼吸の間ぽかんとし、次いで数回続けて瞬きすると、見る見る頬を染めた。唇を震わせて何か言いかけたが、堪え切れず両手で口元を覆う。潤んだ瞳が肯定のしるしに細められた。

 タスハはひとまず安堵し、ほっと大きく息をつく。だが彼女は、なぜかはっきりとした返事をくれなかった。申し訳なさそうに眉を下げ、奇妙に曖昧な表情で、そわそわと言葉を探している。タスハが首を傾げると、ジェハナは一度ぎゅっと目を瞑ってから、

「ごめんなさい!」

 がばっ、と頭を下げた。まさかの展開にタスハが衝撃を受けるより早く、彼女は顔を上げて叫ぶ。

「先に書いてしまいました!」

「えっ?」

「ですから、つまり……シュルトに行くと決めた後、母に手紙を送って、いきさつを説明して……それで、ですね、あの」

 ジェハナは赤い顔で口ごもり、いかにも恐縮な様子で続けた。

「相談を、したんです。こ、こんな状況だし、きっと祭司様は、負い目を感じてらっしゃるだろうし、ならいっそ、あの、わたしからお願いしても、って」

「…………」

 言葉もない。予想外すぎてタスハはぽかんとしたきり絶句した。あまりのことに思考が追いつかない。呆然と立ち尽くす彼の前で、ジェハナは一段と深く頭を下げて、悲鳴のような声を絞り出した。

「その手紙を、父が見たらしく、ついさっき表に……!」

「まさか、あなたを連れ戻しに?」

 タスハがぎょっとなると、彼女は首を振り、痛苦を堪えるように低く唸ってからやっと顔を上げた。どうにか平静の欠片を取り戻し、情けなさそうに説明する。

「いいえ、さすがにそれは。今は向こうも不穏なので、むしろシュルトに逃げたのは賢明だったと……ただ、ですね。あの……本当にごめんなさい。ご覧いただくのが手っ取り早いでしょう、こちらへ」

 差し招かれ、タスハは困惑したまま後について行く。館の玄関ホールで二人を待っていたのは、積み上げられた行李や櫃、家具一式に絨毯、壁掛け、そして傍に控える召使が五、六人という目の眩む代物だった。行李の中身は恐らく衣装や反物、櫃には食器や宝飾品や金貨銀貨が詰まっているのだろう。

「これは……」

「持参金、ですって」

 ジェハナが頭痛を堪える風情で答える。タスハはその場で塩の柱になった。つまるところこの宝の山は、可愛い可愛い娘に不自由な暮らしをさせてなるものか、させたらただではおかんぞ、という強烈な脅しに違いない。

「…………」

「失礼な家族でごめんなさい……」

「いえ……私が不甲斐ないもので随分とお心遣いを」

「相手が誰でも、あの人たちはこのぐらいやります。近場だったら牛や羊の十頭やそこらもついてきたでしょう」

「なんと」

 タスハは呆れ、それから横に立つジェハナに目をやって苦笑した。

「あなたが家名を重荷に感じていらした理由が、少しわかりましたよ」

「ご理解いただき、まことにありがとうございます。まったくもう! いきなりこんなに送り付けられて、なんてご説明したら良いのか困り果てていたんですけれど」

 ジェハナは真面目くさって謝辞を述べてから憤慨し、次いで曖昧な表情になると、タスハに向かい合った。

「まあ、こんなざまですので……わざわざお手を煩わせる必要もないかと」

「そういうわけには参りませんよ。きちんとご家族のお許しを頂いて、その上で正しい段取りを」

 そこまで言って、はたとタスハは口をつぐんだ。正しい段取り。それはワシュアールでも同じなのだろうか? 神殿を尊重しつつも、いまだ神々を心から信じているわけではない彼女に、己の奉じる儀式を強いて良いものだろうか。

 彼がつまずいた疑念に、ジェハナもまた気付いたらしい。ちょっと困ったような、はにかんだ笑みを浮かべた。

「状況が状況ですから、タスハ様が必要と考えられるすべてを行うことにこだわらず、いくらか省略しても良いのではありませんか? それに、こんな事を言っても困らせてしまうでしょうけれど……正直なところ、あなたが執り行われる祭礼を拝見した後では、ほかの祭司様に、その、大事な儀式を任せたくないというか……ええわかってます、あなたが二人いるのでない限り無理だってことは」

 途中からどんどん早口になって、最後にはまた目元を朱に染めてうつむく。タスハの方は完全に真っ赤になってしまい、片手で顔を覆った。

 えも言われぬ羞恥に満ちた沈黙の末、ようやっとタスハがつぶやく。

「参りましたね。まさか……こんな賛辞を頂けるとは」

 まだ恥ずかしそうに、しかし彼は聖職者らしい面持ちになって苦笑した。

「本当なら、祭司としてはたしなめるべきなのですがね。儀式の意味や価値は、祭司によって左右されるものではありません。有名で立派な大神殿の祭司長が執り行う祭儀も、田舎町の小さな祠を守る神官の祈りも、神々に語りかけ恵みと加護を乞うという点においてなんら違いはないのですから」

 タスハの言葉を受け、ジェハナも学術的な興味関心を面に浮かべてうなずく。聖職者を格付けし、執り行う儀式のもたらす恵みに差が出る、などとするのは、人間同士のつまらぬ競争にすぎない。祭祀の本質から逸脱してしまう、というのだろう。

「それでもやっぱり、人によって差があるのが現実ではありませんか? 極端な例えですけれど、カトナで兄があなたの代わりに儀式をおこなったら、誰も納得しませんよ」

「それはさすがに例がひどい」

 思わずタスハは失笑し、おっと、と口を覆う。咳払いしてごまかし、彼は続けた。

「まあ、議論はさておき……私も喜んでしまいましたので、段取りについては何か良い方法を考えてみましょう。いずれにせよ、ショナグ家のご当主様には手紙をしたためます。その……申し込みになるのか事後報告になるのか、やややこしいところですが。なにしろこれほどの持参金を先に頂いてしまったのでは」

 そこで彼は途方に暮れた表情になった。これほどの財貨の扱い方など見当もつかない。もちろんこれらは彼のものではなく、ジェハナの財産なのだが、彼女に“不自由させない”ためには、いったいどうすれば良いのやら。

 タスハの困惑に対し、ジェハナはてきぱきと実際的な答えをくれた。

「重ね重ね失礼なのは承知で率直に言いますけれど、父は祭司様から婚資を受け取るつもりはないでしょう。どうぞ気になさらないでください。そもそもわたしが一方的にあなたについて行くことに決めたんですもの、これは父からの……そうですね、持参金にかこつけた投資だと考えるのが妥当でしょう」

「投資?」

「ええ。娘が遠方に旅立って新たな事業を始めるのを、援助してやろうという親心。嫁入り道具だとか生活の担保だとか言わず、遠慮なく使えば良いんです」

「つまり……ワシュアールでは、持参金とはそういうものなのですか?」

 感覚の違いに戸惑うタスハに、ジェハナは「まさか」と苦笑した。

「普通一般は違います。でもわたしはショナグ家の娘ですから。取り急ぎ、先日下見したあの古い神殿を買い取りましょうよ。櫃のひとつも開けたら充分足りると思います。契約が済んで家財を運び込めるまで二、三日は、どこかの部屋に置かせて頂かないといけませんけど」

 話しながら彼女は商館の召使に目配せする。気働きの利くその者は、早速あるじに報告に向かった。ジェハナはそれを確かめもせず、慣れた様子で行李と櫃の山に歩み寄り、無造作にひとつ開けた。

「ああやっぱり。ほらタスハ様、父もそのつもりです。この燭台やお皿は家庭の食卓ではなく祭壇で使うものじゃありません? それにこれも」

 ほら、と示されてタスハもおずおずとそばに寄り、櫃の中を覗き込む。

「なるほど。確かに」

 すると、財産と一緒にやって来た召使が、おもむろに「こちらを」と行李のひとつを開けて見せた。ジェハナとタスハは揃って歓声を上げる。中身は羊皮紙に草木紙、各種筆記具だったのだ。

「これは素晴らしい」

「ああ、お父様ったら!」

 歓喜のあまり、ジェハナは満面の笑みでタスハに抱き着いた。直後にはっとして顔を上げるや、息の触れる近さで目が合ってしまい、そそくさと離れる。

「ご、ごめんなさい、子供っぽい振る舞いを」

 もじもじする彼女に、タスハも頬を染めて「ああ、いえ」だか何だか曖昧に口ごもる。ジェハナは必要もないのに髪や裾を手で払って整え、強引に体面を取り繕った。

「とにかく! これがあるということは……あなたは書記ね?」

 行李を開けた召使に確認すると、案の定、誇らしげに肯定された。

「はい。お嬢様をお助けするよう仰せつかって参りました。祭司様、僭越ながら、我があるじへ届けるべき文言にお悩みでしたら、わたくしめがお手伝いできるかと存じます。どうぞお申しつけください」

「これはご丁寧に。ええ、いずれお力を借りるでしょう。宜しくお願いします」

 タスハは苦笑気味に一礼した。見栄を張っても仕方がない、貴族の暮らしも相応しい言葉も、田舎祭司が知るものではないのだから。そんな彼の素直な謙虚さに、書記は面白そうな顔をしたものの、余計な事は言わず礼を返した。

 商館の召使が上役を連れて戻ってくると、財の一時保管と随行者の滞在について使用人同士で打ち合わせが始まる。たまにジェハナは意向を確認されるが、タスハは蚊帳の外だ。手持ち無沙汰を紛らすため、彼は興味津々と贅沢な品々を鑑賞した。なるほど、言われて見ればどの家具も道具も、祭儀の関与を仄めかすつくりになっている。

 つい夢中で見入っていたタスハは、傍らでさらりと金茶の髪が揺れて我に返った。

「ああ、ジェハナ殿。お父上になんと御礼申し上げて良いか……むろん、すべてあなたのためであるとは承知しておりますが」

「お気持ちはお察ししますけれど、ショナグ家の基準で言えばこの程度、驚くほどのことではありませんから。わたし自身は関わっていませんが、大きな商取引の時や、家同士の催し事となったら、もっととんでもない規模の財が動きます。ですからあまり、父に恩義を感じないでください。ただの親馬鹿です」

 ジェハナは恐縮そうにそこまで言い、ひとつ息をついて正面からタスハに向き合った。決然とした笑みを湛えて。

「あなたがわたしを世界の神秘に導いてくださったんです。どうぞ誇りになさってください。投資を受けるに充分な実績が、既におありなんですよ」

「いや、しかし」

 さすがにそんなに簡単に開き直れるものではない。タスハが返答に詰まると、彼女は眉を上げて軽く揶揄した。

「与えられたものを受け入れるのは、お得意でしょう?」

 さすがにタスハも少々むっとする。が、すぐにこれは彼女なりの挑戦なのだと気付き、不穏なさざ波を静めて心の凪を保った。

「参りました。いささか難しそうですが、受け入れて、努力しましょう。ショナグ家の皆様が、いずれあなたを誉れとなせるように」

 かわされたジェハナは不満顔になって、やれやれと肩を竦めた。

「結局やっぱり、ご自身の望みを優先されないんですね。仕方ありません、私も努力しましょう。あなたのために。……神々があなたを誉れとし、嘉されたもうように」

 予想外の切り返しを受けて、タスハはしばし唖然となった。個人が神々の特別な祝福を求める事例がないわけではない。だがそれは伝承の時代、英雄たちが悪魔に立ち向かうに際してのことだ。呆れるのを通り越して、いっそ感心してしまう。

「それはまた、随分大それた野望ですね」

「ええ。でも、だから良いんです。昔から言うでしょう?」

 ジェハナはふふっと笑うと、訝しげな彼に向かって勿体ぶって告げた。

「望みが高く大きいほどに、そこへ至る道のりは遠く険しい。なればこそ、汝は共に歩む者があることの心強さを知るだろう」

 台詞の半ばで、タスハは頬を朱に染めた。ほかでもない、婚姻の儀式で用いられる言葉だ。古い叙事詩の一説からの引用で、普通はジェハナが述べた部分を省略し、その先を祭司が宣る。彼はぐっと羞恥を抑え、深く息を吸って祈りの声音で続けた。

「手を携え、互いの得難きを知り、共に歩め。汝らの道行きが末永からんことを」

 馴染んだ文句を口にすると心も落ち着く。彼は言葉をなぞるように、己の伴侶となる人の手を取って恭しく捧げ持った。そして、胸にこみ上げた暖かな想いのままに、そっと甲へ口づけを落とす。

 直後、ジェハナが膝から崩れ落ちた。

「あっ!? だ、大丈夫ですか」

 慌ててタスハが助け起こそうとしたが、彼女は床にへたりこんだまま立ち上がれない。真っ赤になってうつむき、か細い声で抗議する。

「ふ、不意打ちはひどいです……共に歩むどころか、動けないじゃないですか」

「それは……失礼を」

 今さらタスハも赤面し、そんな自分たちに失笑した。握ったままの手を軽くぽんぽんと叩いて、照れくさいのをごまかす。

「ゆっくり参りましょう。なにしろ先は長いのですから」

 返事のかわりに、金茶色の頭がひとつ、こくんとうなずいた。



(了)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 良かった!!2人の仲が割かれて終わらなくて良かったです!甘酸っぱい!幸せです!
[一言] 彩詠譚,又載っていて嬉しいです。 ちょっと、ゲーム仲間に宣伝して来ますね。
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