5-3(禁域調査令)
*
久しぶりに総督府へ出向いたタスハは、通りの随分手前で啞然として立ち止まった。意図せずぽかんと口が開く。
(これほどだったのか)
色彩の細糸が飴細工のようにきらめきながら、総督府をふんわりと包んでいるのが見える。否、視覚で捉えるのではなく、ただそうとわかるのだ。しかもその糸を星のような光が巡り、かすかな音を響かせている。
背後を振り返ると、何気なく通り過ぎてきた街のところどころにも、ちらちらと色が踊っていた。
彼は額を押さえて呻いた。これはもう本当に、路を閉ざさねばまともに生活できないかもしれない。ワシュアール人は毎日こんな中で暮らしていて、平気なのか。
ようやく自身の内に以前の静けさを取り戻したと思ったのに、またこんな風に色と音で満たされてしまうとは。早く神殿に帰って祈りたいが、
(わざわざ呼び出すほどだ、すぐに済む用件ではないだろうな。それに……総督の用が何であれ、ジェハナ殿に謝らなければ)
諦めのため息をついて、彼は再び歩を進めた。
執務室で待っていたのは、総督本人だけではなかった。ジェハナと、見知らぬ男が二人。タスハは怯み、警戒しながら挨拶した。
「祭司タスハ、お呼びにより参上しました」
新顔の二人は何者だろうか。身なりはそれなりに立派だし、恐らく雰囲気からしてワシュアール人だ。新年祭でのことが都に知らされ、懲罰のために遣わされた役人だろうか。
厳しい面持ちで畏まったタスハに、まずイムリダールが呼びかけた。声にも顔にも、ほとんど感情が表れていない。
「祭司殿。こちらは王の使者トゥルヴァ殿と、新たに着任した教師ナシュダール殿だ」
尊大に一礼した黒髪の使者は恐らく三十代半ば。より謙虚な態度の教師は、四十を越えているだろうか。同時に派遣されたわけではないらしく、教師の方が居心地悪そうに、ちらちらと使者を見ていた。
ぎこちない空気をものともせず使者トゥルヴァが進み出て、当然の態度で話をはじめた。
「さて祭司殿、貴殿にご足労いただいた理由を説明しよう。既に総督の了承は取り付けたが、小生が携えてきたのは、禁域調査の命令でしてな。ここカトナの北西に未確認の禁域があると情報が入ったゆえ、導師ジェハナに対し、調査と、必要があれば封印を強化するよう辞令が出された。貴殿にはその付き添いを願いたい」
「……禁域? なぜ私が」
突然のことに、タスハはついてゆけず当惑する。新年祭のことは関係がないのか。この使者は何も知らないのだろうか。
「禁域についてはご存じかな? 理の力が地表に噴き出さぬよう、いにしえの人々が封印を施した土地のことだ。そこに近付くと、ウルヴェーユの使い手は路を揺さぶられる。導師ジェハナ単身では、万一のことがあった時に連れ帰れる者がいないのでね。幸い貴殿は、稀に見る資質の持ち主だとか」
使者はすらすらと説明し、皮肉っぽく眉を上げて一言付け足した。
「ウルヴェーユの神髄に触れる良い機会だろう。祭司殿には、我々が邪教の徒ではないと理解してもらう必要があるようだから」
愛想の良い声音に反して冷たい刃が切りつける。タスハが竦み、ジェハナもうつむいて唇を噛んだ。二人の反応が見えないかのように、イムリダールは淡々と命じた。
「護衛の兵士を一人つける。路が浅く丈夫で、禁域の影響を受けにくい者を選ぼう。支度を整え、速やかに出発するように」
拒絶できる声音ではない。タスハはため息を堪え、畏まりました、と頭を下げた。
使者が説明した旅程によれば、往復にかかるのは四日ほど。リーニ河を少し下ってから徒歩で北に向かい、途中一泊する。支障なく運べば三日で戻れるが、船の都合もあるので四日から五日見ておくと良い、とのことだった。
そうしたやりとりの間、ジェハナは顔をこわばらせたまま、一度も口を開かなかった。タスハと目を合わせもしない。
(きっと彼女は、私の同行を拒もうとしたんだろうな。使者にごり押しされたんだ)
謝罪の機を窺ったものの、結局そんな隙はなく、タスハは失意を抱いて帰ることになった。
留守中の神殿を預かることになった弟子二人は、共に緊張した面持ちながら、任せてください、と頼もしく請け合った。臆病に尻込みすることなく、しかし浮ついた自信に楽観もせず。少年たちの成長ぶりに、タスハは目を細めた。河に落ちないでくださいね、などと逆に心配されてしまったのはいささか情けなかったが。
ともあれ、ハドゥンや旅慣れた住民の助言を受けて慌ただしく支度を済ませ、二日後、タスハはまだ朝靄の残る船着き場に立った。船は屋根も何もない簡素な造りで、船頭一人と客十人ほどが乗れるようになっている。普段は対岸まで往復するだけの渡し船だ。
いざ乗り込む段になって、タスハは急に不安に襲われた。
カトナを離れるのは初めてだ。無意識に高台の神殿を振り仰ぎ、神々の力添えを乞う。なぜか先代祭司との別れが思い出され、一瞬の悲痛が胸を刺した。
「祭司殿? お加減が悪いのですか」
護衛の中年兵士が気遣い、見送りの弟子らも心配そうに眉をひそめた。ウズルが師のまなざしを追い、気を回す。
「忘れ物だったら、取ってきましょうか」
「いや、そうじゃない。ただ……」
タスハは言葉を濁し、曖昧に苦笑してごまかした。
「この歳になって、ほんの三、四日の旅が怖いなどと、情けないことだな。やれやれ。留守中、礼拝のついでに私の無事も祈っておいてくれ。何しろ泳げないのでね」
さりげなく一言付け足した途端、弟子二人どころか護衛兵までが愕然と青ざめる。落ちなければいい話だというのに、兵士は大袈裟に警戒し、タスハを抱きかかえて船に乗せようとまでしてくれた。
ちょっとした騒動の末、無事に船が桟橋を離れる。見送りの者らはしばらく手を振っていたが、祭司様が水に落ちる心配はなさそうだと安心すると、ぞろぞろ帰っていった。
船は貸し切りで他に客はおらず、タスハは広く空いた真ん中に座らされていた。ちょっとでも端に寄ったら定位置に戻そうとばかり、向かいに座った兵士が目を光らせている。ジェハナはタスハと背中合わせに座っていたが、相変わらず一言も喋らない。
船頭が棹を操る音、水鳥の鳴き声。時折、魚を捕る小舟と行き交う。タスハは景色を眺めて不安と緊張をごまかしていたが、町が葦の茂みにすっかり隠れてしまうと、ついに耐えきれなくなって口を開いた。
「あの、」
「祭司様」
奇しくもジェハナが同時に呼びかけたので、二人は揃って声を飲み込んだ。もぞもぞ身じろぎし、互いに相手が続けるのを待つ。長い沈黙の末、またしても声が重なった。
「先日は大変申し訳」
「改めてお詫びを」
台詞がこんがらかる。護衛兵が失笑し、白々しく咳払いして明後日の方を向いた。
タスハは天を仰いで祈ってから、思い切って体の向きを変えた。同時にジェハナも決然と振り向いたもので、危うく頭がぶつかりそうになる。二人してのけぞり、しどろもどろに「失礼」「ごめんなさい」とまた二重唱。今度は船頭までがふきだした。
タスハは赤くなってうなだれたが、ここで挫けてはならじと意志の力を奮い立たせ、きちんと座り直して深く頭を下げた。
「先日は申し訳ありませんでした。心よりお詫び申し上げます」
「謝るのはわたしの方です。本当に、申し訳ありません」
ジェハナも深々と低頭する。一呼吸置いて、二人はそれぞれ用心しながら顔を上げた。目と目が合い、衝動的に笑いがこぼれる。恥ずかしさと安堵の相まった温かさが二人の間に通い、緊張を溶かしていった。
ジェハナがくすくす笑ってから、目尻の涙を拭って言った。
「ごめんなさい。ウズルさんから、あの日わたしが帰った後で、あなたがあの歌の意義と目的を理解し受け入れてくださったと聞きましたが、それでもまさか、こんな風に……笑って頂けるなんて、もうないと思っていました」
「それは私こそです。ああも酷い言葉をぶつけておいて、和解を願えるなどと……いえ、祭司と導師としてであれば、表向きの和解はできたかもしれませんが」
タスハは答え、笑みに苦さを加えた。あくまでも互いの立場だけを堅持し、個人として歩み寄ろうとしていなかったら、そもそもあんな大喧嘩にはならなかったろう。
「自分が情けなく、恥ずかしい限りです。あれほどの怒りに我を忘れるとは」
「それは当然です。わたしはあなたの祈りを奪ってしまいました。なんら予告もせず、それほど大それたことと気付きもしないで。後から考えたら、己の正気を疑うほどの愚行でしたのに」
ジェハナが真摯にとりなしてくれたが、タスハは唇に自嘲を、目には辛辣な皮肉を浮かべて頭を振った。今ならわかる。己がいかに思い上がっていたか。
「祈りを奪われたことが、理由でないとは言いません。しかしそれだけであれば、衝撃を受けはしても激怒することはなかった。私は無自覚に、あなたやウズルを見下していたのですよ。だから、侮られ、軽視され、奪われたと思い込んで怒ったのです」
彼は目を伏せ、訥々と語った。
何度も機会はあったのだ。初めてジェハナがマリシェに白石を使ったあの日、彼は己の思い違いを突きつけられた。ウルヴェーユは『折り合いをつけていける』ものではない、否応なく彼自身も変化させられるのだ、と悟ったはずだった。すなわち己が圧倒的に劣位なのだと観念すべきだった。だのに、そうしなかった。
ウズルとの幾度かの衝突も、彼のために憎まれ役をするしかないと毎回考え、そのくせ自分が負けることを想定しなかった。
そしてあの大雪の日。ウルヴェーユがなくても何とかできるとむきになった。無意味に張り合おうとしていると自覚したのに、そこで考えを止めてしまった。
「あなたが転んだのを見て、私は内心喜びました。……醜いことです。あの時はそこまで考え至りませんでしたが、振り返ってみれば……あなたの優位に立とうとしていたのですよ。実に愚かしい」
そこまで言い、彼は恐る恐るジェハナの表情を見た。蔑み、憐れみ、怒り――予想した感情は、しかし、読み取れなかった。彼女はなぜか、羞恥に赤面していたのだ。タスハは当惑し、目をしばたたきながら、それでも用意していた問いを投げかけた。
「さぞ失望されたでしょうね」
ふるふる、とジェハナは首を振った。一拍置いて小さくうなずき、次いでまた否定の仕草をする。どういうことかとタスハが眉を寄せると、彼女は両手で顔を覆って嘆息した。
「すみません、それは……わたしです。わたしもなんです。立派に仕事ができる、一人前の導師で、大人で、……もう『ちっちゃなお嬢様』なんかじゃない、そんな風に気負ってばかりいて。身の程を忘れて背伸びしすぎたんです。あなたもまた一人の人間であって、わたしが勝手に思い描いた『いつも穏やかで立派で素晴らしい祭司様』の姿がすべてではないのに、そんな理想のあなたに張り合おうと」
泣きそうな声音で懺悔し、彼女は顔を上げて、気弱な笑みを見せた。
「がっかりさせてすみません。本当にあなたの言った通り、わたしはまだまだ、信頼して頂くにはほど遠い未熟者です」
素直に認めて謝るその態度が、ジェハナの印象を新たにした。タスハは思わず、つくづくと彼女を見つめた。広場で出会ったワシュアールの導師、初仕事に気負った若者の外交用笑顔。いつも明晰な理性で議論に臨む知識人。それらが遠ざかり、ジェハナという女性の輪郭が浮かび上がる。彼は気付かぬ間に微笑んでいた。
「あなたはまだ若い。これからですよ」
「あら、タスハ様だってお若いじゃありませんか」
途端にジェハナは、自分だけ年寄りぶるな、とばかりの不満顔で反論した。タスハは慌てて弁解する。
「いや、今のは軽んじているわけではなく」
「十歳ぐらいの差がなんだって言うんですか。たった今、わたしたち二人とも同じような過ちをしたっていう話をしたばかりですよね?」
「ああ……はい。つまり私が歳のわりに分別がないと」
「そうじゃなくて!」
えいもう、とジェハナが身を乗り出し、タスハの手を取った。彼がぎょっとなったのに構わず、まっすぐに視線を合わせ、目をそらすことを許さぬ気迫で続ける。
「わたしは、あなたに認められたくて、褒められたくて、……あなたの前でいい格好をしたくて、頑張りすぎて失敗したんです。あなたはどうなんですか!」
語尾は問いかけというより挑戦の響きだった。タスハは完全に呑まれてしまい、絶句する。答えを要求するかわりに手を強く握られて、途端に真っ赤になった。
口をぱくぱくさせ、しかし声が出ず、なんとか視線を引きはがして天を見やる。
(すべてをみそなわすアシャよ、これで良いのですか?)
縋るように祈った直後、己が馬鹿者にしか思えなくなって、彼は失笑した。罵り合い、喚き、みっともない性根を赤裸々に告白して、今さらこれで良いかなどとは!
堪え切れず、青空に向かって朗らかに笑う。諸々の悩みが風に吹き飛ばされて、久方ぶりに清しい心地が胸に満ちた。
「ええ。ええ、同じです」
まだ笑いながら彼は言って、ジェハナの手をほどき、逆に自分の手で包み込んだ。得がたい宝物かのように、恭しく、そっと優しく。
今度はジェハナの方が耳まで赤くなる。うつむいて表情を隠し、今にも気絶しそうな、か細い声を絞り出す。
「あ、あの……手……」
「はい?」
「……いえ、なんでも」
タスハには、彼女が震えている理由がわからない。だから彼はただ、なだめ励ますように、手をさすってやった。
ジェハナが叫び出す寸前、幸いにも艫の方から咳払いが割り込んでくれた。護衛の兵士である。愉快げな顔をしつつも真面目な態度を保って、彼は重々しく言った。
「和解が成って何よりですが、ご両人、そこまでに」
慌ててジェハナが手をふりほどく。タスハも首を竦め、中年兵士の方に体を向けた。
「申し訳ない、お見苦しいところを」
「いや見苦しくはないが。我々兵士は祭司殿とあまり親交を深めないまま来てしまったので、ようやくお人柄を知れたというところですな。このまま帰るまでいっさい会話されぬつもりだろうかと、正直いたたまれなくなっておりました。総督がどんな顔をされるかはともかく、お供としては一安心です」
兵士はにやりとしてから、声を低めて言い添えた。
「それに、王の使者の前で反目しているよりは、ずっと良い」
ささやかれた一言に、タスハとジェハナも真顔になる。兵士は船頭に目配せし、周囲にも人影がないことを確かめてから静かに続けた。
「あの男はただの使者ではありません。導師の証を持っているのがちらりと見えました」
「導師の証?」
タスハは眉を寄せて聞き返す。ジェハナが首にかけた細い革紐を引き出し、先についている薄い金属板を見せた。
「これです。定められた学問とわざを修め、人を導くことを認められた者だけが授けられるのです」
蔦が絡み合った打ち出し模様に、六色の小さな宝石が象嵌されている。精緻な細工だ。ジェハナは模様に潜む自分の名前を指で辿った。
「証が使者本人のものであるなら、どうして隠しているのかしら。禁域調査をわたしに命じなくとも、自分で行けば業績にもなるのに」
「禁域に近付きたくないのかもしれません」兵士が推測した。「何にせよ、我々に隠し事をしているのは確かです。総督とも随分長く話し込んでおりましたし」
不穏な情報にタスハは胸騒ぎがして、川上へ目をやった。もう町はとっくに見えない。
「新年祭のことが知られて、調査か制裁のために遣わされたのでしょうか」
「さすがにそれはないでしょう。日数的にもぎりぎりのところですし、制裁を下すとしたら東の町、テルカのほうですな」
兵士が安心させるように苦笑して見せた。ジェハナも思案げに同意する。
「カトナはあの……新年祭までは、特段の問題は起きていませんが、テルカは明らかに住民が反抗的なのだそうです。だからあちらの総督の急病に際し、兄が呼ばれたのです。機に乗じて誰かがはめを外し、大きな騒ぎにならないように」
「なるほど。我々はいつでも見ているぞ、というわけですね」
タスハは皮肉まじりに安堵した。その口調に、ジェハナが不本意げな顔をする。
「わたしたちは確かに支配する側ですけれど、単に押さえつけているのでないことはタスハ様もご理解くださっているでしょう? もしカトナでギムランの類が仲間を集めて総督府を襲撃したら」
「困るのは我々の方です、ええ、もちろん」
タスハはやんわりと遮り、わかっています、とうなずいた。穏やかな諦観と寂しさをまじえ、彼は空を仰いだ。
「難しいものですね。たとえ町がワシュアールにもハムリにも支配されなかったとしても、大勢が暮らすとなれば、意見をまとめ方針を決める役割が求められる。元々はカウファ家がそうです。考えや利害の一致しない人をまとめていくには……単に友好的なだけではうまくいかない」
手を取り合いたくとも、共に歩みたくとも、それが叶わぬ局面は多々あるのだ。その度に失望し罵り合っていては、共同体はばらばらになってしまう。結局、どれほど好意や期待があろうとも、一線を引いて諦めるのが秘訣なのかもしれない。
彼が心情的に距離を空けたのがわかったのか、ジェハナも無言で川面に目を落とす。それきり、船は沈黙のうちに流れを下っていった。
太陽が高くなりすっかり川霧も消えた昼時、船は下流の村に着いた。ここもワシュアール領だが、小さな農村で役人が常駐しておらず、村人たちも東西どちらの王国に属するのかよくわかっていないような様子だった。
タスハは無事に再び大地を踏みしめ、ほっとして伸びをする。座りっぱなしだった身体が、古家のようにミシミシ鳴った。兵士が笑い、昼食の手配をしてくるのでここで待つよう言い置いて、家並みの間へ大股に歩み去った。
取り残されたタスハがふと見ると、ジェハナは河を眺めて茫然と佇んでいた。視線は遙か遠い彼方を向いている。彼は歩み寄り、そっと問いかけた。
「どうされましたか」
すぐには返事がなかった。ジェハナはじっと水の流れ下る先を見やり、夢見るようにつぶやいた。
「この河をずっと先まで行けば、いずれ海に出るのですよね。西の海と、島々と」
ええ、とタスハが肯定すると、彼女は振り向かないまま続けた。
「あなたは以前、いにしえの人々の足跡を辿ってみたいとおっしゃいましたね。……わたしもです。いつか、叶うなら行ってみたい。日没の彼方、世界の果てまで。路を辿って呼び起こされる標の記憶ではなくて、わたし自身の目で見て、手で触れたいと」
そこまで言い、ふっと我に返ったように瞬きし、おどけた笑みを見せた。
「ただの憧れですけれど。そんなに遠くまでどうやって旅すればいいのかも、わかりませんし」
「それは私も同じです。しかし、手の届かない遠くに憧れることもなく、狭い身の回りの世界だけ見て人生を費やすのは、味気ないというものでしょう」
タスハも微笑で応じ、川下を眺めやった。心地良い風が吹いてくる。湿った土と草、春の匂いだ。ジェハナはそんな彼の横顔を考え深げに見つめ、ややあって口を開いた。
「……船で、ずっと考えていました。失望したか、とあなたに尋ねられたことを。白状すると、ええ、その通りです」
責めも詰りもしない、柔らかな声音だったが、それでもタスハはたじろいだ。そこへジェハナが言葉を重ねる。
「甘やかしてくれると思い込んでいた大人に、初めて怒られた子供みたいに、失望しました。あなたのことを勝手に買いかぶって、勝手にがっかりしたんです。けれど……何回も何回も、あの日のことを頭の中で繰り返して、どうすれば良かったんだろう、何が悪かったんだろうと、ぐずぐず悩んでいるうちに気が付きました」
記憶に感情を刺激されたか、声が揺れて目が潤む。ひとつ深呼吸して、彼女はタスハとまっすぐに向き合い、笑みを見せた。
「もうおわかりでしょうけど、わたし、実は結構、感情的だし泣き虫なんです。あの日も本当にみっともなく騒いで、帰ってからしばらく立ち直れませんでした。もうおしまいだ、あなたに軽蔑されて嫌われて二度と顔も合わせられない、って。あなたと一緒に禁域へ行けと言われて、そんなことできるはずがないと……でも、そうじゃなかった」
そこまでしゃべって、ジェハナは指先で涙を拭った。ちらりと村の方に目をやって、兵士がまだ戻らないのを確かめてから続ける。
「あんなに怒鳴り合いになったのに、あなたは一度も、わたしが泣いたことを責めなかった。どうしていいかわからないから泣かないでくれ、と頼みはしても、わたしが悪いというふうにはおっしゃらなかった。泣くな鬱陶しい、泣いてどうにかなると思うな、とか。泣くなんて卑怯だ、話にならない、とか」
過去にさんざん罵られたのだろう。タスハは察して胸を痛めた。涙を拭いてやりたくなったが、さすがにそれはまずかろうと思い直し、ごまかすように身じろぎする。
「そもそも、泣かせたのは私ですから」
あの日の己を思い出していたたまれなくなり、彼はもぐもぐ歯切れ悪く言うと、爪先に目を落とした。薔薇色の小さな笑いが耳に触れ、恥ずかしくて顔を上げられない。
「ええ、あなたはそういう方です。だから、ある面でがっかりしたのは事実ですけれど、やっぱりあなたは、わたしの憧れた祭司様でもあるんですよ。タスハ様」
「……ご容赦を」
耐えきれず、タスハは両手に顔を埋める。ジェハナはとうとう遠慮なく笑いだした。雲間からこぼれた夕陽の光が黄金の河となるように、愛情と好意と親しみがこれでもかと降りかかる。
ほどなく戻ってきた兵士は、川縁でうずくまっている祭司と、それを悪気なくからかっている導師の仲睦まじい様子を遠目に発見し、近寄りづらくてしばらく待ちぼうけるはめになったのだった。




