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彩詠譚  作者: 風羽洸海
夜明けの歌、日没の祈り
48/127

5-2(激憤・とりなしを乞う)


   *


 カトナを含む一帯では、新年は春分に始まる。天空神アシャが邪悪な闇に打ち勝った慶びの日であり、神殿の聖火に年で一番多くの香木がくべられるのだ。

 供物はパンとリーニ河の魚、それに今を盛りと咲き誇る数々の花。豊穣祭の享楽とはまた趣が異なるが、華やかで明るい祝祭である。

 神殿に町の住民のほとんど全員が集まるので、礼拝室に入りきらない人も聖火を拝めるように、正面扉と窓のすべてが開け放たれている。

 礼拝室は通例、聖域に近い側から役人や郷士名士が埋めていくのだが、今そこに総督の姿はなかった。数日前、東隣の都市テルカを治める総督が急病だとの知らせが届き、代理であちらの新年祭に出ているのだ。馬を飛ばせば、朝カトナを出て祭に参列し、日暮れには戻って来られる。テルカはカトナに比して人口が多い上に、不穏な気配もあるがゆえの措置だった。

 そんなわけで総督の代理を兼ねているジェハナは、礼拝室の聖域に近い場所を確保し、神官たちを見守っていた。祈りながら薪や香木を一本一本くべてゆくタスハの動作は、いつものように厳かで丁寧ではあるものの、隠しようのない緊張が滲んでいた。

 ジェハナ自身もまた、緊張に身をこわばらせていた。帯に差した鉦に何度もそわそわと手を触れる。

 やがて、聖なる炎に祭司が向き合い、手を合わせて深く息を吸った。

 混じりけのない、透徹な白が響き渡る。終わりと始まりの白。会衆が頭を下げて黙祷するなか、祭司の朗詠が始まった。

「いと高き天に坐す神、輝ける翼と万の目を持つアシャの御恵みによりて、カトナの祭司タスハがここに新たなる春の始まりを告げる。カトナを守りたもう火の神アータル、清き流れのアウィルニー、日と星と風と雨を司り大地を豊かに実らせる、あまねく神々に謹みて願い奉る……」

 新たな年も実り豊かになるように、嵐が麦を倒さぬよう、家畜が多くの仔を産むよう、悪疫がはびこらぬように。ひとつひとつ、切々と神々に訴えかける。うつむいて共に祈る会衆の唇が、同じ願いをなぞって動く。そして、

「偉大なる王エサディル、ワシュアールの王、カトナの王、東方世界のあるじたる、かの大王の慈悲と賢明なる治世によりて、祭壇の供物がうずたかくなりますように。聖なる火の絶えず燃え盛り、カトナが栄え、王の威光のいや増さんことを」

 例年にない祈念の言葉で締め括られた。ジェハナはこっそり安堵の息を漏らし、無意識に入っていた肩の力を抜いた。これなら問題あるまい。この会衆のどこに王の犬が紛れ込んでいるにせよ、満足するはずだ。

 あとは神官たちの様子だが……祭司は完璧に内心を隠している。この一年で彼のことをよく知るようになったジェハナの目にも、まったく心情が見えない。

(それだけ堅固な仮面を被らなくてはならないほど、心中穏やかではないのでしょうけど……いつもはどんな態度で式をおこなっているか、王の犬が承知のはずはないものね)

 今までの祭儀とて、タスハの表情やふるまいに感情が表れていたわけではない。神々への祈りに没頭しているがために、瞑想あるいは神がかったような、神秘の静謐に満たされているのが常だ。こんな風に硬い表情ではないが、遠目には違って見えないし、そもそも神秘に懐疑的なワシュアール人ならそこまで観察すまい。

 ウズルは儀式の進行を補佐していたが、あからさまにぎこちなかった。彼にとっては、ここからが本番だ。ジェハナは隣に立つマリシェとヨツィ、周囲に集まっている生徒たちに、そっと視線を走らせた。

 皆、緊張と興奮で呼吸が浅い。人いきれでのぼせたようにも見えるが、ジェハナ自身も含めて、計画に加わっている者は理由を知っている。飛び立つために身構え、力を溜めているのだ。

(王の犬が何を嗅ぎ当てようとしているにせよ、手ぶらで帰ってもらうわ。カトナでは、神殿と私たちは既にしっかり手を結んでいるのだから)

 内なる路を意識すると、マリシェとヨツィのそれが共鳴した。もう一人、さらに一人。心地よい連帯意識が輪をつなぐ。

 聖域ではタスハが、背筋を伸ばして三柱の神々に向かい合っていた。

 柔らかな陽射しの声が長く一音伸びる。次いで、すっかり耳に馴染んだ無言歌が始まった。旋律が色の連なりとなって路に沁みわたる。夜明けの緋色、黄金、緑……

 ジェハナは色を辿りながら、ゆっくり鉦を抜いた。何度も練習した通り、間違いなく正しい音が響くように打ち鳴らす。

 歌に重なる澄んだ響きが、碧玉の輝きを増幅した。

「――っ!?」

 祭司の声が途切れる。愕然と振り返ったタスハの目の前で、信じられない光景が始まった。旋律の続きを弟子二人が引き継ぎ、ジェハナを中心とした生徒たちが高らかに唱和する。鮮やかな色を載せたそれは、自己の内と向き合う祈りとしての無言歌ではなく、聞かせるための、外に向けての歌だった。

「めでたき春の日 神々はカトナをよみしたもう」

 ウズルがうたう。無言歌の旋律に合わせ、伸びやかに柔らかな色を伴った詞を。ジェハナとマリシェ、それにあと何人がかかわっているのか、幾重にも声が響き、美しい色を広げてゆく。

 タスハと同じく、会衆の大勢は驚きに声を失っていた。しかし動揺のざわつきも、わずかな困惑さえも生じない。彼らは一様に聞き惚れていた。歌と鉦に導かれて、彩りの旋律が祭殿に満ちてゆく。

 タスハは呆然と立ち尽くしていた。内なる路に暖かな流れがゆったりと渦を巻き、優しく標に触れる。よきかな、よきかな……祝福と肯定の響きが繰り返し寄せては返す。

「川面わたる風はすがしく アータルの火は輝く」

 素朴な歌詞は誰が考えたのだろうか。《詞》にはなっていないが、いにしえより伝わる旋律に載せて詠うことで、ウルヴェーユに似た効果を路に及ぼしてくる。

「新しき年 我らがカトナに幸あれかし」

 喜びと誇りに輝くばかりの声が唱和した時には、会衆は皆、陶然と心を奪われていた。歌の余韻が薄れゆくのに合わせるかのように、窓外から爽やかな風が吹き込む。まだ肌寒い、だが確かに春の温もりと匂いを運ぶ風が。

 路を震わす流れがおさまるのを待って、ジェハナは鉦をそっと握って残響を消した。静まり返った祭殿に、聖火のはぜる音がパチパチとつぶやく。誰かがほうっと息を漏らし、夢から醒めたように会衆が身じろぎした。

 練習以上にうまく合奏できて、ジェハナは少女らと笑みを交わす。立案者のウズルともうなずき合い、歌い手たちは無邪気な誇らしさをもって祭司に目をやり――凍りついた。

 タスハは蒼白になり、わなないていた。激しい怒りの衝動を抑えきれず、香木の一本を掴むなり、力任せにへし折る。無残な音と共に世界がひび割れた。

「なんということを」

 かすれ声が、砕けた世界の表面を引っ掻きながら落ちる。寒気を催す幻聴にジェハナが身震いしたと同時に、紫のまじる灰色の瞳が、はったと彼女を見据えた。

「……出て行け」

 震え声で命じ、次いでタスハはウズルに憤激の目を転じる。裏切られた衝撃と悲痛がその身を取り巻き、声にならない悲鳴となって祭殿を揺るがした。恐怖に硬直する弟子に向かって、彼は容赦ない一撃を放った。

「聖なる火の前から去れ」

 そして、再びジェハナに向き直る。弾劾するように、折れた香木で彼女を指し、マリシェを、共に歌った者たちを次々に示した。

「神の家から去れ、異教徒ども! 出て行け!!」

 悲痛な叫びに圧され、会衆がいたたまれず逃げ出す。なんら関与していなかった者がほとんどであるにもかかわらず、魔法の歌に聞き惚れたことが罪であると感じて。最初はそろそろと、じきに潮が引くようにいっせいに。ハドゥンまでが幼馴染に呼びかけることさえできず、誰とも目を合わさずに帰ってゆく。

 ジェハナは最後まで動けなかった。泣き出したいのを堪え、どうして、と何度も口の中でつぶやく。

 カトナを讃える歌だったのに。ウズルもマリシェも、皆、カトナのため――祭司様のために、と一生懸命練習したのに。

 ウズルとシャダイもまた、それぞれの持ち場で凍りついたままだった。謝罪すべきであるとわかっているのに、あまりにも師の怒りが激しすぎて、息をするのもやっとだ。異教徒、との断罪は破門に等しい。まさか本気だとは信じたくなくて、ウズルは小さく首を振った。その動作を捉え、タスハが標的を弟子に移す。

 ウズルが恐怖に震え、唇を開きかける。だがタスハは先んじて手を振った。立ち去れ、と再度命じる代わりに。

 謝罪も弁解も受け付けられず、ウズルは傷つき、顔を歪めた。ジェハナはそっと進み出て、視線で退室を促す。

(わたしがとりなすから、あなたは一旦下がって、気持ちを落ち着かせていらっしゃい)

 声に出さず、わずかな身振りと表情で伝えると、明敏な少年は察してうなだれ、しおらしく奥の通用口に向かった。シャダイが慌ててそれを追いかける。

 そうして、祭殿には二人だけが残った。

 タスハはへし折った香木の半分を右手に握ったまま、左手を聖火台の端に置き、ジェハナに背を向けていた。神々に向かい合ってはいたが、儀式をぶち壊してしまったことの謝罪やとりなしの祈りは、心に浮かぶ余地もない。

 ――乗っ取られ、奪われた。

 それがすべてだった。腹の底から噴き出る瞋恚しんいと悲嘆と絶望で、頭の芯まで焼き尽くされる。たとえ朗詠の文言を徹底的に改変させられたとしても、これほどの衝撃ではなかったろう。むしろそれならば耐えられたろう。歌を――祈りを、ウルヴェーユに奪われるよりは。

「祭司様。事前にお話ししなかったこと、心からお詫びいたします」

 夕空のささやきが背に触れた。タスハの怒りは鎮まるどころか、再び掻き立てられる。彼は香木を握る手に力を込め、掌に走った痛みに顔をしかめた。堪えきれず舌打ちし、手を開く。カラン、と香木が落ちた。

 黙って背を向けたまま、血の滲んだ手から棘を抜く。その間にも、ジェハナは用心深く歩み寄ってきた。

「ウズルさんは、新年祭でワシュアール王を讃えなければならないと知って、あなたのために何かできないかと相談に見えられたのです。皆で話し合って……カトナのための祈願を王のために割かねばならないのなら、ワシュアールの歌をカトナのために捧げようと」

 罪悪感と怯えのゆえに、声が震えている。タスハは深いため息をついた。

「帰りなさい」

 低く険悪な一言に、ジェハナが竦む。だが彼女は諦めなかった。

「お願いです、お怒りを鎮めてください。本当に申し訳ありませんでした。でもどうか、ウズルさんの……いえ、彼だけでなくマリシェや参加した生徒たちを、異教徒と断じて切り捨てないでください。皆、神殿の将来を真剣に考えて」

「私とて真剣に考えた!」

 タスハは怒鳴り、拳を聖火台に打ちつけた。振り返り、そこに立っているのが悪魔の化身であるかのように、燃え盛る怒りを渾身の力で叩きつける。

「もうたくさんだ! 神殿に入り込み、人々の崇敬を掠め取り、遂には魂の祈りさえも奪い取って、この上まだ私に要求するのか!」

「……っ、違います! 逆です、わたしたちからあなたに差し上げたいんです。神殿に、新しい祈りを。奪うつもりなんかありません。ただ受け取って欲しいんです、未来を築くために!」

 激昂したタスハに引きずられ、ジェハナも強い論調で叫ぶ。こうなっては、お互い相手の主張を容れられようはずもなかった。

 タスハは苦々しくジェハナを睨み、辛辣に唸った。

「言い訳しながら攻撃するのが、君の謝罪か。私が狭量だから未来を潰したと?」

 あまりにも強い毒を込めた一撃。ジェハナが息を飲んで声を詰まらせた。鳶色の双眸が見る間に潤み、揺れる。たゆたう光に惑わされまいと、タスハは顔を背けた。

「もう結構。話すことは何もない」

 きっぱりと拒絶したにもかかわらず、しばらくなんの反応もなかった。ジェハナはその場を動かないまま、唇を噛み、嗚咽を堪えている。タスハは苛立ち、次いで己自身に嫌気が差した。急に老け込んだ気分になり、ゆっくり屈んで落とした香木を拾う。これはもう聖火にくべられない。血の染みを憂鬱に睨んでいると、か細い涙声が言った。

「わたしはあなたに、信頼されていると、思っていました」

 顔を上げて見やると、ジェハナは純然たる悲しみを湛えてこちらを見つめていた。その疑いのなさに、タスハは今さら彼女の若さを思い出した。多くを知り、不思議なわざを駆使し、一歩も引かず論を戦わせるからといって、人生の経験までが対等ではないのに。彼は年長者として諭す口調になった。

「君は勘違いしているのじゃないか。『信頼』とは何をしても許されることだ、一度『信頼』されたならもう安全だ、と? 人を信じることは神を信じるよりも難しい。何気ない言動、自分にとって都合の悪い状況になった時の対応……信頼とは、そういったことを通して少しずつ積み上げ、常に手入れしてゆかなければならないものだ。怠れば衰える、間違えたら崩れる」

「……わたしが間違えたから、崩れたとおっしゃるんですね」

 苦渋に満ちた声は、反省や自責よりも、悔しさと反感を帯びている。タスハはうんざりと頭を振った。

「君か、あるいは私が間違えたんだ。置くべきでない石を、ふさわしくない形で、信頼の石積みに加えたから」

「あなたは! ――あなたこそ、自分に非があると認めるふりをして、わたしを責めているじゃありませんか! わたしが、信頼すべきでない石だったからと」

「そうじゃない。君が悪いとは言っていない」

「馬鹿にしないで!」

 突如ジェハナが激しく頭を振り、大粒の涙が散った。上ずった叫びを反射して、丸い雫が朱金にきらめく。

「全部あなた一人の問題だって言うの? わたしがどんな人間だろうと関係ない、信頼を損なった行動の責任を問えやしない。最初から相手にすべきでなかったのに石積みに加えたあなたの自業自得で、そもそもわたしなんて、あなたにとって何の力も持たない愚かな小娘だった、って!」

 まくし立てる彼女に、タスハはたじろぎ、驚いた。こうまで感情的になったのを見るのは初めてだ。いつも若さに比して落ち着きがあり、誰に対しても理性的に接しようとしていた彼女の内に、これほどの激しさがあるとは夢にも思わなかった。

 彼は無意識に半歩後ずさっていた。

「落ち着きなさい。いったい何を言っているんだ」

 あなたこそわたしを責めているではないか、と詰っておきながら、そうではないと言えば今度はまるで、責めろと要求するような非難を浴びせてくる。わけがわからない。

 ジェハナは両手で顔を覆い、ぎゅっと身を縮こまらせて立ち竦む。激情を鎮めようと努力しているのだろうが、震える嗚咽は一向におさまらない。

 タスハは途方に暮れてしまった。煮え滾っていた怒りはいつの間にか冷え、こちらまで泣きたくなってくる。儀式を乗っ取られ、謝罪の形を借りてさらに攻撃され、意味不明の非難を浴びせられたというのに、うるさい帰れと怒鳴ることもできない。いっそ力ずくで追い払えたなら、この状況を終わらせられるだろうに――友情も好意も諸共に。

(ああ、そうか。この期に及んで私はまだ、彼女と決裂したくないのか)

 なんと女々しい。未練を自覚し、彼は苦い顔になった。もうとっくに手遅れだろうに。

「……泣かないでくれ。頼む。どうしていいかわからない」

 虚しさと無力感がどっとのしかかり、彼は疲れた声を出した。ジェハナがうつむいたまま、嗚咽の合間に「ごめんなさい」と謝る。一回、二回。三回まで聞いて、タスハは堪えきれず厳しい言葉を返した。

「君が謝る必要などない。そもそも私に君を罵る権利などなかった。君はワシュアールの導師で、いっさいの権利を握っているのはそちらだ。神殿を破壊されアータル像を東へ持ち去られ、祭司たる私は磔にされても文句は言えないのに、儀式を改変された程度で怒り狂うなど、愚かにもほどがある」

 そら、お望みなのはこういう言葉だろう――冷たい悪意が胸の隅でささやく。諦めと挑発のいりまじった気持ちで、タスハは反応を待ち受ける。彼女は既に顔を上げ、唇をわななかせて彼を見つめていた。

 息詰まる沈黙を破り、かすれた声が漏れる。

「やめてください」

 止まりかけていた涙がまた、いくつもいくつも、頬を伝って落ち始める。

「そんな……、そんなことを、言って、諦めないでください。権利とか、立場とか……そんな話で、片付けないで」

「私にどうしろと言うんだ? なぜそこまで食い下がるんだ、君は」

 君こそが私を片付けに来たんだろうに。違うのか。屈服させに来たのではないのか。ああ、もうわからない。疲れた。

 タスハが口に出さなくとも、心の声は届いたらしい。ジェハナは悔しそうに首を振り、何か言いかけてはやめて、最後にどうにか嗚咽を堪えながら答えた。

「あ……謝り、たいんです。あなたに、許して欲しくて。どうすれば……っい、一緒に、わたしたち、やっていけるか、話し……たかっ、た」

「だが、君は」

 私を責めるような発言をしたではないか、との反論が胸に浮かび、不意に得心する。

 恐らく彼女の中で、どうにかして共に先へ進みたい、との思いが先走ったのだ。だから謝罪が互いの了解になるのを待たず、新しい祈りを受け入れろと要求してしまった。

 理解と共に、衝撃的な直感が彼を貫いた。彼はその正しさを確かめることを恐れ、しかし口は勝手に問いを紡いでいた。

「私は君を罵倒したのに、なぜそこまで」

 半ば呆然としているタスハに、ジェハナはふっと失笑した。指で涙を拭い、自嘲のまじった微苦笑をつくる。

「認められたかったんです。ちゃんと話が通じる相手だと。あなたに何も言えないお弟子さんたちとは違う、大人で、……一緒に、障害を乗り越えていける、相手だと。それが、わたしの仕事ですし」

 そこまで言って彼女は目を伏せ、唇を噛んだ。

 タスハは己が何か言うべきだとわかっていた。仕事だとか立場だとか、そんな話じゃないんだろう、本当は――。しかし身体が鉛になったように、喉がこわばり舌は動かず、息さえもほとんどできない。

 彼が石になっている間に、ジェハナはひとつ小さな息を吐いて頭を下げた。

「ごめんなさい。取り乱して、不愉快な思いをさせて。とんだ未熟者でした。顔を洗って出直します」

 文字通りに、と作り笑いで付け足して、これ以上は醜態を晒すまいとばかりに素早く身を翻す。反射的にタスハは手を伸ばして捕まえようとしたが、二人の距離は遠く、指先がかすりもしなかった。


 どのぐらい放心していたか、物音で我に返った時には、すっかり日が傾いて薄暗くなっていた。振り返ると、ウズルとシャダイが恐れもあらわに、薪を持って立っていた。

「……ああ」

 タスハは嗄れた声でそれだけ言い、小さくなった聖火に向き直った。

(お許しください、アータルよ。愚かで矮小な怒りにとらわれ、祭司のつとめを疎かにしてしまいました。罰はどうぞ私一人の身に。カトナに慈悲を賜りますよう)

 深く頭を下げて祈り、なんとか気持ちを切り替えると、彼は弟子に場所を譲った。

「薪をくべて、とりなしの祈りを。……頼む」

 それだけ言い、聖域を出て礼拝室の水盤で手を清める。こびりついた血が落ちた後も、すぐには戻れなかった。視線の先では、平神官の丸帽子をかぶった少年が、見習いに指示を出しながら聖火を整えている。落ち着いた態度からは充分な経験に裏打ちされた自信が窺えた。そして、炎と三柱の神々に祈る横顔の敬虔さ。

 情けないことに、タスハはようやっと少年をただの弟子ではなく、一人の神官として認めた。神官位を授けた時に、そのように考えを改めたつもりであったのに、実際には今の今まで彼を一人前とみなしていなかったのだ。

 タスハは己を恥じ、うなだれた。

 あれほどの怒りに我を忘れたのも、理由は明らかだ。ウズルは自力で新しい神殿のあり方を模索するのだ、師を踏み越えねばならない――などと格好をつけたことを言っておいて、その実、踏まれる覚悟など微塵もなかった。それどころか、祭司として権威を保ち、この神殿を支配し続けるつもりでいたからこそ、いざ不意打ちを受けた途端に鍍金めっきが剥がれたのだ。

 つくづくと深い悔悟のため息をつく。弟子二人が不安げに振り返ったので、タスハは微苦笑を見せてゆっくり歩み寄った。

 聖域を区切る柵の手前で、初めてそこを越える時のように合掌して神々に許しを乞う。それから彼は、弟子それぞれに慈しむまなざしを注ぎ、心を込めて謝った。

「すまなかった。異教徒と罵ったことは取り消そう、私が間違っていた」

 その一言でシャダイがほっと笑みを広げ、一方ウズルは唇を引き結んで顎を引いた。

「おまえたちが神殿の将来を考えてくれたこと、王の命令に背くことなくカトナの矜持を保つための方策だったこと……ジェハナ殿から聞いたよ。おまえたちの優しさと誠実さを忘れるなど、師匠失格だな。本当にすまない」

 そんなこと、とシャダイは言いさしたものの、適切な言葉が出てこず詰まってしまう。何とか言ってくれと兄弟子を小突いたが、ウズルは硬い表情のままだった。

 これは許されそうにないな、とタスハが諦めかけた時、ウズルは不意にくしゃりと顔を歪めた。涙を隠すように、勢いよく頭を下げる。

「申し訳ありませんでした! 思い上がって、勝手な真似をして」

「思い上がりなものか。前へ進めと促したのは私だぞ」

「そうじゃなくて! 俺は自分が一人前になったつもりで、どうにかしてあなたにも認めさせたいと、腹を立ててました。それが甘えだってわかってなかった。神殿の将来を担うのは俺なんだ、どんな事ができるか知ったら見直すに違いない、って決めつけて、相談もしなかった。本当に一人前の神官なら、それこそ、行動を起こす前にちゃんと話し合うべきだったのに! 俺のせいで、こんな……、めちゃくちゃに」

 最後はもう嗚咽に飲まれて言葉にならない。タスハは少年の肩を軽く抱き、優しくあやすようにさすってやった。もう何年もしていない仕草だったが、ウズルは恥じもせず、師に縋って泣きじゃくる。

「大丈夫だ、そんなに泣くな。明日にも私が各所に謝りに行くから。参拝者はしばらく減るだろうが、何度でも頭を下げるし、今後はおまえに歌を任せてもいい。心配するな」

 惨めでみっともないざまを晒すことになるだろう。当分、町の皆にあれこれ憶測され、陰口をささやかれるだろう。それでも、つとめを続けるしかない。

 それに、一番の問題はタスハの体面や信用ではない。

(総督府へ行かねば)

 このことが知れたら、ワシュアール王はどう出るか。イムリダールに土下座してでも、とりなしてもらわねば。

(随分厳しいことになりそうだが)

 果たして謝罪を受け入れてもらえるだろうか。総督の大事な妹を泣かせたのだ、平伏した背を踏まれるぐらいは覚悟しておかねばなるまい。しかもあの直感が正しいなら……

(ああくそっ、総督はとうに気付いていたのか)

 そうだ、間違いない。ジェハナはなぜかタスハを好いてくれて、それをイムリダールも察したからこそ、田舎祭司が不埒な考えを抱くなと釘を刺したのだ。今日のいさかいの結果、彼女の好意が欠片も残さず消し飛んだとしても、手酷い痛撃を与えたことは動かしようのない事実。よくぞ妹の目を覚まさせてくれた、と感謝されるわけがない。

(なんてことだ。殺されるかもしれない)

 タスハは天を仰ぎ、神々の慈悲と加護を乞うた。他に縋れるものがなかったのだ。


     *


 祈りが届いたのか、それとも天罰てきめんということか。

 その夜のうちにタスハは高熱を出し、翌朝は身を起こすのもやっとのありさまになってしまった。謝罪に行かねばと言い張り、義務と危機感を支えに立とうとするが、頭はふらふらだし、足にも力が入らない。

 シャダイが身辺の世話をする一方、ウズルが礼拝を簡略化して済ませ、町へすっ飛んで行った。

 しばしの後、祭司の部屋を訪れたのは、医者と友人の取り合わせだった。オアルヴァシュは念のためにハドゥンを室外に待たせておいて、タスハを診察し、一言告げた。

「過労だな」

 感染しないから入ってよし、とハドゥンに許可を出し、自身は枕元に腰掛けを引き寄せて座る。タスハは頭も上げられないまま、情けない表情で医師を見上げた。

「それほど無理をした覚えはないのですが」

「俺の見立てが不満か? 疲れってのは自覚がないままに溜まっていくもんだ。あんたはここのところ新年祭の準備で忙しくしていたろう。加えて心労。俺たちがこの町に来てからずっと緊張を強いられていたんだ、いい加減ぶっ倒れない方がおかしい」

 ふん、と医師は鼻を鳴らして腕組みした。横からハドゥンが心配そうに覗き込み、いたわる。

「昨日は熱に浮かされてたんだな。おまえがあんなふうに怒鳴るなんて、おかしいと思ったんだ」

「ハドゥン……残念だが、あれは」

 タスハは弱々しく否定しかけたが、ハドゥンはその額に手を置いて黙らせた。

「そういうことにしとけ。ひどい熱だ」

 幼馴染みの思いやりに、タスハは抗弁する気力もなく瞑目する。ハドゥンは濡らした手拭いを汗ばんだ額に載せてやり、少々わざとらしく呆れた。

「違うってんなら、おまえが怒りすぎて身の内から焼かれたって話になっちまうぞ。実際、あの時のおまえは本当に火を噴くかと思ったさ。まさか俺が、よりによっておまえに対して、震え上がるなんてなぁ」

 ふざけた口調を装いつつも、声音にはまだ本物の恐れが潜んでいる。オアルヴァシュがさらりと肯定した。

「ああ、それも一因だろうな。度を超して強い感情を抱くと、意図せず標を辿って深淵に降りてしまうんだ。状況に対処しようとして本能的に術を探すせいだと考えられているが、とにかく、普段やらないような勢いで大量の標を開き、力をいっぺんに引き上げて、しかもそれを外へ出さずに溜めこんで無理やりまた沈めるんだから、すさまじい負担がかかる。本来あんたの路なら充分耐えられたろうが、今回は疲れが重なったのが悪かったんだろう」

「……なんとなく、理解できました」

 ぼんやりとタスハはつぶやいた。渦巻く白い炎の螺旋。路を自覚してから何度か意識したあれは、理の力だったのか。

 ハドゥンが目をしばたたき、不安げにタスハとオアルヴァシュを見比べた。

「物騒だな、おい。あの凄まじい迫力は、魔法が暴走する寸前だったってわけか? それじゃあ先生、こいつが堪えきれなかったらどうなっちまうんだ」

「路が損なわれて、ウルヴェーユを使えなくなる。ついでに身体もやられて、言葉が話せなくなったり手足が麻痺したり、最悪の場合は死ぬ。資質の程度によっては、周囲に居合わせた人間を巻き添えにすることもある。ああ、そんな顔をするな。よっぽど極端な条件が揃わない限り心配いらんよ」

 しれっと恐ろしいことを言い、オアルヴァシュはタスハの胸元にトンと指を突いた。チリン、と小さな音が路に響く。火傷した肌に清水が注がれたようで、タスハはほっと深い息をついた。オアルヴァシュは黙って患者の様子を診ると、問題ない、とうなずいて満足の表情になる。

 それでもまだハドゥンがしかめっ面なので、彼は辛抱強くさらに説明した。

「いいか、危ないことになるのは、度外れた資質の持ち主が、生きるか死ぬかの瀬戸際ぐらいに切迫した感情に襲われた時だけだ。普通の人間が普通に怒ったぐらいじゃ、どうにもならん。仮に路を全開にしたって、並の資質じゃ力の量も深さもたかが知れてる。祭司殿ぐらいだと相当の力が出てくるが、そのぶん路も丈夫だから、まず安全だ。あんたの友人が破壊の大悪魔に化けたみたいに怯えるな」

 揶揄されたハドゥンが酷い渋面をしたので、タスハは失笑し、面白がるまなざしを向けた。これまでタスハは常にハドゥンの子分、面倒をみてやるべき弱虫だったというのに。

 彼の内心が伝わったか、幼馴染みの親分は怒ったふりで手拭いを乱暴に取り替え、皮肉な目つきを覆い隠した。

「びびるもんか、こいつはなんにも変わっちゃいねえさ。世話の焼けるお人好しだ。今回ぶっ倒れちまったのも、その『路に負担をかける』だか、そういう危険があるって教えられてなかったせいだろう。あの導師様ときたら女子供の指導は熱心にやるのに、おっさんは放置か」

 苦々しく放たれた言葉にタスハが憮然とし、被せられた手拭いをずらす。オアルヴァシュがふきだした。

「そう言うな。祭司殿の資質を見れば、どんな導師もやる気をなくすさ。大概のことにはびくともしないだろうし、独り勝手に標を辿って相当な深みにまで降りている。教えることなんか何もない、ってな。正直、俺も妬ましいよ」

「皮肉なものですね。それほど恵まれている私が祭司であるとは」

 タスハはぽつりとつぶやいた。ハドゥンが同情的な顔をした横で、オアルヴァシュの方は、何を言っているんだ、と眉を上げる。

「皮肉? なぜ。資質があるのは『最初の人々』の血を引くしるしにすぎない。祭司だろうが山羊飼いだろうが貴族だろうが、恵まれてる奴は恵まれてるし、貧相な奴は貧相だ。ただそれだけのことさ」

 あっけらかんと割り切られ、タスハは返す言葉もなく絶句する。そもそも、熱のせいでまともにものを考えられない。ワシュアール人の価値観にはついて行けないな、とぼんやり思いつつ、彼は確かめておきたいことを尋ねた。

「医師殿。総督は……何と言っていますか。ジェハナ殿は」

 途端に、いわく言い難い気まずさが漂った。ハドゥンが頭を掻き、オアルヴァシュも腕組みして目をそらす。

「その件については、今は考えるな。気に病むとますます身体に良くないぞ」

 オアルヴァシュがごまかし、ハドゥンも調子を合わせる。

「少なくとも、地元祭司がワシュアールの役人を侮辱した、とかいう方向の話にはなっていないから、そこは安心しろ」

 そんな曖昧な言い方でなだめられても、かえって安心できない。タスハは胡乱げな目をしたが、二人ともそれ以上は教えてくれなかった。

「皆にはわしからちゃんと言っておく。祭司様は誰のことも断罪していない、元気になったらまたカトナのために神々へのとりなしをしてくださる、とな。とにかく、養生することだけ考えろ」

「大袈裟だな。じきに良くなるさ、明日には自分で謝りに行くよ」

「そういうのが駄目だと言ってるんだ」オアルヴァシュが厳しく却下した。「消耗した状態で自分に鞭打って何かをしても、ろくな結果にならん。熱が下がっても、しばらくおとなしく寝てろ。弟子どもに、祭司殿を絶対に外に出すな、と言っておくからな。……頭を冷やす時間を与えてやれ」

 痛ましげな最後の一言に、タスハは反射的に身を起こした。誰に、とは訊かずとも明らかだ。それほどまでに彼女を酷く傷つけたのか、謝らねば――後悔し焦り、今すぐ這ってでも彼女のもとへ行きたくなる。だが急に動いたせいで、すぐさま吐き気に襲われた。

 再び沈没したタスハを、シャダイが慌ててきちんと寝かせる。オアルヴァシュは見習いの少年にあれこれと看病の指示を出して、腰を上げた。

「ウズルが導師殿と話し込んでいた。あんたの謝罪はたぶん、しっかり届いている。急がずに、最低でも四、五日は置いてからにしろ」

 わかったな、と念を押して医師が出ていく。ハドゥンはそれを見送り、肩を竦めた。

「それじゃ、わしもおいとまするが……何か入り用の物があったら言ってくれ。看病の人手を寄越そうか?」

 いや結構、とタスハは弱々しく断り、諦めたように目を閉じる。ハドゥンは憔悴した友人を見下ろし、つくづくと嘆息した。

「まったくもって、厄介な相手に惚れちまったな」

「……うん」

 ほとんど唇を動かさない、嗚咽のような一言。

 ハドゥンは驚きと同情を顔に浮かべたが、言葉はかけないまま、枕元をぽんと叩いて部屋を後にした。


 熱は一日で下がったが、タスハは忠告に従い、しばらく静養した。実際のところ身体的にもつらかったし、それ以上に、路が落ち着かなくて何も手につかなかったのだ。

 色と音が今までよりも鮮明に意識され、ちょっとしたことで標が反応し、様々な知識や直観と結びつく。自分自身の考えを筋道立てておこなうことが難しい。食事や清掃のような、身体に染みついた日常の動作はこなせるものの、そこに祈りの入る余地はなく、長い会話も続けられなかった。

 祭司を案じた町の住民が、遠慮しながらも毎日誰かしら絶えず見舞いに来てくれたが、そんなわけで、彼は応対を弟子たちにほとんど任せきりにしていた。

 四日ほどすると、少しずつ祈ることが可能になり、そうなると路もゆっくり鎮まっていった。だが礼拝を執りおこなえるまでには至らず、彼は一人で食堂のアータル像に祈っていた。当然、教室はずっと休みのままだ。総督府での方は再開したとウズルが教えてくれたが、生徒たちも『異教徒』の断罪に動揺しているようで、集まりが悪いらしい。

(早く謝りに行かなければ)

 祭司と導師が和解したことを、皆の目にはっきりさせなければならない。タスハは焦っていたが、果たして己にその準備ができているか、相手はどうだろうかと案じると、足が萎えて行動に移せなかった。

 オアルヴァシュは時間を与えてやれと言ったが、いつまで待てば適切なのだろう。ぐずぐずして手遅れになりはすまいか。いやしかし。

 埒もなく考えあぐねていた彼を動かしたのは、結局、総督府からの召喚だった。



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