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彩詠譚  作者: 風羽洸海
夜明けの歌、日没の祈り
38/127

2-5(異国の兄妹・熱病)

   *


 カトナ総督イムリダールは、食事をほとんど仕事の片手間にとる。立って着替えながら済ませる朝もあるほどだ。しかし夕食だけは、なるべく総督府に暮らす同国人と共にすることにしていた。導師たる妹や、医師、また諸々の役人にいたるまで、皆が問題なく過ごせているかを確認するためである。

 絨毯に並べられた大小の皿や器から、豆の煮込みや串焼き肉、パンを手元の皿に取り、銘々好きに食べる。ワシュアールの都と同じ献立とはいかないが、連れてきた料理人は良い仕事をしてくれている。今のところ、故郷の味恋しさに脱走した者はいない。

 だがそれでも、常に全員の胃袋を掴んでおくわけにはいかないようだ。イムリダールは向かいの妹を見やり、眉を上げた。

「なんだ、ため息ばかりでちっとも食が進んでないな」

「あんまり食欲がなくて。……なんだか、ここにいるのが間違いのような気がするのよ」

「祭司殿の件か?」

 既に医師から顛末を聞いていたイムリダールは、呆れ顔をした。

「おまえが気に病むことはないだろう。彼が信仰を持ち続けられるかどうかは、彼の問題だ。我々はなすべきことをなしている。それをどう受け入れ、過去の考えや常識とどうやって折り合いをつけるか、それは彼ら自身が決めることだ。終始手を引いてやらねばならぬよちよち歩きの子供ではないんだぞ」

 そこまで面倒見られるか、とばかりに一線を引く彼に、ジェハナはきつい口調になって言い返した。

「立場が逆だったら、とは想像してみないの? わたしたちが何の疑いもなく善きものと信じているウルヴェーユについて、実は全部嘘でした、って言われたら。ある日突然『最初の人々』が戻ってきて、君たちの魂にいろいろ刻みつけたのはつまらない落書きで間違いだらけだし、世界の深淵に触れていると感じているそれは錯覚なんだよごめんね、だとか教えられたら、絶望せずにいられる? わたしたちはそういう仕打ちをしたのよ」

「わけのわからん想像をするやつだな」

「たとえばの話よ!」

 真面目に取り合ってくれない兄にジェハナは憤慨したが、彼の態度は変わらなかった。

「神殿にあまり入れ込むな。どうせいずれ廃れる。カウファ家の奥方でさえ、その内にはウルヴェーユの世話にならざるを得なくなって有用性を認めるだろう。祈りが気休めにしかならない時も、知識とわざは困難を乗り越える力となる。……そんなことより、マリシェの指導は上手くいっているのか?」

 イムリダールは問いかけ、ちらりと視線をオアルヴァシュの方へやった。医師の隣ではヨツィが楽しげにしゃべりながら、食事をぱくついている。例によって猫のごとく、恩人の身体にべったり寄りかかって、時々「あーん」と口を開けて食べさせてもらったり。

 イムリダールの視線に含まれる意図を察し、ジェハナは複雑な苦笑をこぼした。

 ヨツィの劇的な変化は、カトナの住民に対して強烈な印象を与えた。ワシュアール王国は見捨てられた獣のごとき小娘さえも救えるほどの、慈悲と力を備えているのだと見せつけた。しかし、それまでだ。

 彼女はジェハナの助手として教室の雑用をこなせるようにはなったが、それ以上に進む気配はない。読み書きを覚えようとしてはいるがあまり熱心ではないし、学びも遅い。素行もあまりよろしくない上に、有力な血縁もいない。すなわち、これ以上は総督府の宣伝看板にできないのだ。ゆえにイムリダールはその役割を、一番弟子たるマリシェに期待しているのだろう。

「あなたが考えることはいつも実際的よね、ダール。達すべき目標、片付けるべき問題、そのための手順と必要なもの、あれこれあれこれ」

 皮肉めかしたジェハナに、イムリダールは眉を上げた。それの何が悪い、と目つきが語る。ジェハナは新鮮な瓜を一切れつまんで口に運び、それ以上の棘が出ないように飲み込んだ。

「ご心配なく。マリシェは順調で何の問題もありません」

「それならいい。アハマト家は地主でないぶん何かと融通がきくし、新しいものにも柔軟だ。大いに助けになってくれるだろう。娘が資質に恵まれていて幸運だった。おまえもこの調子なら、一年で都に戻れそうだな」

 当然嬉しいだろうという声音で言われ、ジェハナは喉を詰まらせそうになった。水を飲んで動揺をごまかし、呆れ顔をする。

「ついこの間、着任したばかりじゃない。ろくに何もしていないのに気が早すぎるわよ。まだまだこれから」

 気合いを入れるように拳をつくっておどけ、話を終わらせようとしたが、イムリダールは流されてくれなかった。

「何をのんきに構えているんだ。特段やっかいな問題もないこんな町で、だらだらと時間をかけられないことぐらい、わかるだろう。任期満了までに成果を上げられなければ、都に戻ってもろくな地位に就けないまま干されるだけだ」

「わかってます」

 ジェハナは苛立ちを隠しもせず、説教の語尾にかぶせるように応じて遮ると、むっつり不機嫌になって料理をつついた。いつまでもこの町にいられるわけではない、期限つきの赴任であることは承知している。だがなにも、日が昇ったばかりなのにもう夜が来るぞと脅さなくても良いではないか。

 彼女が沈黙の黒雲に引きこもると、横でイムリダールがやれやれとため息をついた。

「おまえが初仕事で失敗したら、私が皆に責められるんだぞ。兄上たちにどんな目に遭わされることか。少しはこの憐れな『ちい兄さま』を思いやってくれよ」

 直後、ジェハナは乱暴に器を置いて立ち上がった。なんだなんだ、と陪食者らが振り返ったが、彼女はただ兄だけを睨み据え、ぎりっと歯を食いしばる。怒りが路の奥を波立たせるのを感じ、一言も発さないまま荒々しくその場を去った。

 大股にずかずか歩いて中庭に出ると、階段の端にどすんと腰を下ろす。軒に吊るされたランプが落とす柔らかな光の円からわざと外れ、暗がりに隠れるようにうずくまっていると、生温い夜風が甘い花の香を運んできた。

 怒りの渦がおさまった頃、軽い足音が近付いてきた。振り返るまでもなく、路の気配で誰だかわかる。すとんと横に腰を下ろしてもたれかかってきたのは、ヨツィだった。

「導師さま、いなくなっちゃうの?」

「……まだよ。まだ先」

 ジェハナは嘘をつけず、寂しげに答えてヨツィの髪を撫でた。

「なんで? ずっといればいいのに」

「そうしたいけれど、交代しなければいけない決まりなの。同じ総督や導師がずっとひとつの町に居続けたら、いろいろ良くないことになるから」

 支配地の郷士や商人と癒着し、不正や汚職の温床になる。あるいは王と故郷への忠誠を忘れ、その地に染まってしまう。だから、総督の任期は基本が一年、長くて二年。導師の方は、赴任先に飛び抜けた資質の持ち主がいたり、あるいは近くに古代の遺跡が発見されたりすれば、もう少し融通が利くが、それでも三年以上同じ土地にいるなら、導師としての職権を停止される。

 そうした話をしてもヨツィにはわかるまい。少女は不満げな顔をして、ジェハナに身体を擦りつけた。

「なんで良くないのか、わかんない。導師さまも、あたいを捨てちゃうんだ」

「……ごめんね。わたしもヨツィとお別れしたくないのだけど。せめてここにいられる間に、できる限りのことは教えるから。わたしの後に来る人にも、ヨツィのことはしっかりお願いするわ」

「せっかく仲良くなったのに、また知らない人と入れ替わるなんて、変なの」

「そうね」

 少女の素朴な不満に、ジェハナも改めてつくづくとうなずく。汚職を防ぐために、『王の耳目』と呼ばれる役人が各地を巡って密かに監視しているのだから、頻繁に総督府の人事異動をおこなう必要などないだろうに。引き継ぎだけで一苦労して、やっと慣れたと思ったらまた別の土地へ行くなど、非効率的ではないか。

 鬱々と考えていると、頭上から紺青の声が降ってきた。

「役人を辞めたら、ずっとこの町にいられるぞ。だがそうしたら、どうにかして食い扶持を稼がなければならない。読み書き教室を有料にしたら、生徒はいなくなってしまうだろうな」

 半ば冗談、半ば真面目な口調だった。イムリダールはヨツィを挟んで腰を下ろし、ジェハナに目礼した。

「さっきは保護者ぶって悪かった」

 率直な謝罪に、ジェハナは黙って首を振る。それから彼女は、軽いため息をついて夜空を仰いだ。

「……結局わたしたち、ショナグ家の桎梏から抜け出せないのかしら」

「だからなのか」

 イムリダールが問いかける。その意図がわからずジェハナが目をしばたたくと、彼はじっと彼女を見つめて繰り返した。

「だからおまえは、この町に肩入れするのか。ショナグ家の軛から自由になりたいからこそ、ことさら今までの暮らしと異なる場所や人に引き寄せられ、神殿に入れ込むのか」

 思ってもみなかった指摘を受けて、ジェハナは驚き、とっさに答えられなかった。初めて自問し、ああ、と納得する。

「考えたこともなかったけれど、そういう部分もあるのかもしれない。ええ、多分そうかもね」

 素直に認めた妹に、イムリダールは優しい苦笑をこぼした。うんと伸びをして仰向き、屋根越しの夜空に星を探すふりをする。

「だがやはり、どこまで行っても生まれ育ちからは逃げられないのだろうな。私もおまえも、こんなに西まで来て、ワシュアールの法もウルヴェーユの知識もろくに伝わっていない土地で、ショナグ家の名も知らない人々を相手にしているのに」

「ちい兄さまは相変わらず妹のお守りを押しつけられて、膨れっ面だものね」

「それはもう謝っただろう」

 勘弁しろ、と呻いた兄に、ジェハナは小さく笑った。久しぶりの家族らしい会話は妙にくすぐったい。眠そうにしているヨツィの邪魔をしないように、ささやき声でしゃべる。

「昔から時々、想像してみることがあるの。ずっとずっと遠くへ……『最初の人々』が去ったといわれる日没の向こうへ行ってみたいって。家も地位も国も、何ひとつ持たないただの『わたし』独りで。実際にそんな状況になったら生きていくのも難しいだろうけど、それでも……ね」

「ああ、わかるよ。私もたまに夢想する」

 イムリダールも穏やかに同意した。しんみりと沈んだ雰囲気になってしまったので、ジェハナは急いで表情を明るくし、言葉を続ける。

「でもねダール、わたしが神殿贔屓になっているとしたら、それは絶対に後ろ向きな逃避願望から出たわけじゃない。祭司様の礼拝を見て初めて、祈りの美しさを知ったからよ」

 途端にイムリダールが胡乱げな顔をした。ジェハナは必要以上に厳しい目つきを返す。

「嘘じゃないわ。あなたにはわからないでしょうけど。まったく、無理して来なくていいと言われたからって、本当に一度も神殿に詣でないなんて、失敬きわまりないわね」

「不信心者が退屈そうに突っ立っているほうが失敬だろう。初穂祭はちゃんと参加したじゃないか。都の祭礼のほうが見応えがあったぞ」

「つまらない人」

「つまらなくて結構」

 素っ気なく応じてイムリダールは立ち上がる。

「いつまでもここにいないで、部屋に戻って休めよ。おまえは総督府の外で過ごす時間も長い。気を付けないと体調を崩すぞ」

「はいはい」

 この暑さだし外は不衛生だから、と言うのだろう。心配性だな、とジェハナは苦笑したが、さっき食欲がないと言ったせいかもしれないと思い出す。

「ありがとう」

 礼を付け加えると、それでイムリダールは安心したらしく、ひとつうなずいて屋内に戻っていった。


 翌日、ジェハナは兄の忠告をもっと真面目に聞くべきだったと後悔した。じっとり汗まみれで悪寒に震えながら目が覚めた途端、頭痛と吐き気に襲われたのだ。唸りながら肌掛けを体に巻き付けて縮こまる。滅多に体調を崩すことなどないものだから、たまに不調に見舞われると、このまま死ぬのじゃないかと恐ろしくなる。

 オアルヴァシュが駆けつけて、すぐに薬湯と《毒消しの詞》で治療を施してくれたおかげで、じきに症状はおさまったが、起き抜けから随分消耗してしまった。

「性質の悪い風邪をうつされたな」

「皆は……」

「総督府の中では患者は出ていない。教室で町の子供からもらったんだろう」

「大変! それじゃあ今頃、他の生徒も」

 ジェハナは慌てて飛び起きると、大急ぎで身支度を整えた。

「ヴァシュ先生、午前の教室の生徒たちが総督府に来たら、同じ風邪にかかっていないか確かめてから今日は休講だと教えてあげてください。わたしは外の様子を見てきます」

「おいおいちょっと待て、行ってどうする」

「患者がいたら、毒消しと浄化の詞でひとまず感染の拡大を防ぎます。総督府に来させるか、先生に往診をお願いするかは状態を見てから……とにかく、ここはお任せします」

 せわしなく言い置き、ジェハナは身体のだるさも忘れて外へ走り出た。迷わず神殿へ向かう道を選び、高台へ続く坂を夢中で上る。

(昨日はそういえば、礼拝後の教室でのぼせたような顔をしている子がいたわ。暑いのだろうと祭司様がお水を運んでくださったけれど、きっとあれが)

 そこまで考えて、一番に誰を案じたのかに気付き、彼女はいきなり棒立ちになった。

(馬鹿! あの子の様子を見に行くべきなのに、どうしてこっちに来たのよ)

 頭を掻きむしりたくなる。タスハは大人だから、仮に風邪をうつされたとしても子供より体力があるし、自分の面倒は見られるだろう。弟子たちもいる。

(いいえ待って、わたしはあの子の家を知らないのだし、祭司様に今日は休講にすると連絡する必要があるんだから、こっちに来て正解。そうよね。ああ、頭がちゃんと働かないわ……祭司様は大丈夫かしら)

 考え直して歩みを再開する。心臓が早鐘を打っていた。

 あの日以来、タスハは表面上は平静を保ちながら、いつ見ても憂いの薄靄を纏い、痛みを堪えるように微笑んでいる。この上まだ自分のせいで――神殿で教室をなどと甘えたせいで、苦しませたとあっては、とても己を許せない。

 唇を噛み、どうか何事もありませんようにと祈りながら、神殿の裏手へ回った。今の時間なら居住棟の方で、朝食の片付けや生活の雑用をしているはずだ。

「祭司様、いらっしゃいますか」

 返事はない。だが物音がするので厨房へ行ってみると、タスハがなにやら鍋で煮ているところだった。匂いからして食べ物ではなく薬湯だろう。祭司の姿を見ただけて、ジェハナは安堵のあまり膝が抜けそうになった。

「ああ、良かった。ご無事でしたか」

 念のためにそばまで歩み寄った彼女に、タスハは怪訝な顔をする。

「ジェハナ殿? どうされました」

「昨日、教室に来ていた子が重い風邪をひいていたようなんです。祭司様にもうつったのではないかと、心配になって……お元気そうで安心しました」

「お気遣い、痛み入ります。私は今のところ無事ですが、ウズルとシャダイの具合が悪いので薬を煎じているところです。やはり街の子からもらいましたか……ジェハナ殿は、その子を訪ねられたのですか?」

 タスハは杓子で薬湯を混ぜ、様子を見ながら問う。これを届けに行かねばならないかと考えているのだろう。ジェハナは少し後ろめたい気分で答えた。

「いいえ、住まいを知らないものですから。実は今朝起きたらひどく気分が悪くて、すぐにオアルヴァシュ先生が診てくださったんですけれども」

 そこまで言った途端に、タスハがぎょっとなって遮った。

「人の心配をしている場合ですか! そんな時にこんな所まで」

「あっ、大丈夫です! 今はおさまっていますから平気です、浄化の詞もかけてありますから」

 慌ててジェハナは釈明したが、その時にはもう、タスハが薬湯を碗に注いでいた。飲みなさい、と厳しい顔で差し出され、ジェハナは恐る恐る手を出した。受け渡しの際に一瞬だけ指先が触れ合い、どきりとして思わず顔を伏せる。先日うっかり手を握りしめた時の羞恥がまだ尾を引いていた。

(嫌だ、わたしったら……変に思われなければいいのだけど。こんな些細な仕草まで、整っているんだもの)

 頬が熱くなる。むろん彼の手は祈りのかたちが一番美しいのだが、ただ碗を差し出すだけの仕草まで、なぜかいちいち目を惹かれる。

(何を煎じたのかわからないけれど、実際以上によく効きそうよね)

 誰からどのように処方されるかも大事、というわけだ。

 ジェハナがそんなことを考えていると、タスハが苦笑まじりに言った。

「田舎祭司が煎じた怪しい薬湯など飲めませんか。それとも、苦そうだから嫌ですか」

「いえ、そうじゃなく……わたしがいただいても、ウズルさんたちの分は足りますか?」

「充分ありますよ。熱と吐き気を抑える薬です。先代から教わったもので私も何度かお世話になっていますし、材料は街の皆もよく知っているものばかりですから」

 言いながらタスハは、ふたつの碗にそれぞれ薬湯を注いで盆に載せている。弟子たちのところへ運ぶのだろう。ジェハナは急いで自分の割り当てを飲み干した。およそ予想通りの味だったが、後に残る香りが清涼で、胸の奥まですっと軽くなるようだ。

「ありがとうございました。わたしもお手伝いします」

 ジェハナの申し出にタスハは気遣わしげな目をしたが、彼女がもう先に立って戸口の帳を押さえたので、そのまま受け入れた。弟子の部屋へ向かうタスハの後について歩きながら、ジェハナは先ほど途切れた話の続きをした。

「街の方は、オアルヴァシュ先生にお願いしてきました。生徒たちが総督府に来たら、体調を診てから休講だと伝えてもらうように」

「そうですか。……弟子の様子を見てここを離れられそうなら、私も街に下りて、昨日具合が悪そうだった子を訪ねてみましょう。薬湯が必要になるでしょうから。ウズル、気分はどうだね」

 扉を叩いて開けると、簡素な寝台でいかにも具合悪そうにしている少年が肘をついて身を起こした。いつもは元気にくるくる巻いている茶色の髪が、汗でべったり頭に張り付いていた。

「タスハ様、……導師様まで」

「性質の悪い風邪が流行っているようだと、我々を案じて見舞いに来てくださったのだよ。ほら、飲みなさい」

 タスハがウズルに寄り添って背を支え、薬湯を差し出す。ジェハナは好奇心からちらりと室内を見回した。狭いが個室で窓もあり、寝台と衣装櫃、物入れが壁際にきちんと並んでいる。生活感はあるが、この年齢の少年にしてはきっちり整頓された部屋だ。

 それだけ観察して、あとは礼儀正しい無関心を装い、師弟の様子に注意を戻す。ゆっくり少しずつ飲ませながら、タスハが静かに言い聞かせていた。

「後でシャダイの様子を見て、問題ないようであれば薬湯を持って街へ下ります。礼拝室以外は戸締まりしていきますから、安静にしていなさい」

「大丈夫です、このぐらい」

「強がらずに寝ていなさい」

 でも、いいから、と押し問答になる。ジェハナは小首を傾げて口を挟んだ。

「そういえば、カトナには薬師が何人かいますよね。街のことはそちらに任せては?」

 住民台帳の修復作業で目を通した折、確か見た覚えがある。だがタスハは振り向き、やんわり否定した。

「薬師を標榜していても、できることにかなり差があります。正直なところあまり信頼できない者もおりますからね。彼らに任せられるなら、私も本来のつとめである快癒の祈祷に専心できるのですが……確実に効き目のある薬湯を用意できるのに、使わない手はないでしょう」

 ジェハナは内心驚くと同時に、なるほど彼らしいと納得もした。祈祷よりも実効のある薬湯を優先するのは、祭司の行動としては意外だが、彼個人の穏健で思いやり深い態度からは当然でもある。それならば。

「……では、わたしがウズルさんに《詞》を使うのも、お許しいただけますか?」

 緊張しながら伺いを立てる。やはりタスハは、つかのま表情をこわばらせた。瞑目し、ゆっくりひとつ呼吸する。それから彼は硬い声で「どうぞ」と応じて立ち上がった。

「私は先にシャダイの部屋に参ります。隣ですから、ウズルが終わったら彼も診てやってください。そうすれば安心して出かけられます」

 立ち会いたくない、ということか。ジェハナの胸で見えない傷がじくりと疼いたが、彼女は強いて実務的な態度を装い、脇に避けてタスハを通した。薬湯を持って祭司が出て行くと、ジェハナは入れ替わりに枕元へ寄り、ウズルの額に手を当てた。

「あなたはどうですか、ウズルさん。ウルヴェーユを使っても、気にしませんか」

「治してもらえるのなら、何だって構いません。……祭司様と何かあったんですか? マリシェに白石を使われた日から、様子がおかしくて心配しているんですけど、俺には話してくださらなくて」

「祭司様が何もおっしゃらないのなら、わたしからもお話しできません。信仰の問題は……よそ者が、口出しできることではありませんから」

 ジェハナはそれだけ言い、帯から鉦を抜いて小さく鳴らした。美しい音色が優しい波紋を広げる。必要な音を拾い、標に響かせて《詞》を紡ぐ。隣室のタスハに感じ取られないよう、できるだけ小さな声で密やかに。

「《澄み渡る天の湖 淀みなく清き流れとなれ》」

 毒消しと浄化の詞をささやくと、小さな星がウズルの体に吸い込まれていった。少年は目を丸くして光の溶け消えた辺りを見つめたが、じきにあれっという顔をして己の顔に手をやった。火照りが引いているのを確かめ、驚嘆のまなざしをジェハナに向ける。彼が寝台から飛び出さないうちに、急いでジェハナは釘を刺した。

「ごく簡単な手当てです。もう治ったと早合点しないでくださいね。わたしは医師ではありませんから……祭司様が飲ませてくださった薬の効き目を助けるぐらいのものです。病で損なわれた体力まですっかり戻ったわけではありませんから、言いつけ通り安静にしていてください。横になってじっとしていろとは言いませんけど、せっせと働いてはいけませんよ」

「はい。でも、本当にすうっと楽になりました。すごいですね……ウルヴェーユって、その鉦を使わないといけないんですか?」

 ウズルは素直にうなずき、興味津々とジェハナの仕事道具を見つめた。

「絶対に必要なわけではありませんよ。ただ、鉦を使う方が正確な音を拾えますし、術の効果を増幅しやすいという利点があります。鉦なしでも声だけで術を使いこなす人はいますが、よほど才に恵まれていないと」

 ジェハナはそこまで言って鉦を握りしめ、目を伏せた。

「祭司様のように」

 声に出すつもりでなかった一言をこぼしてしまった、と気付いてはっとした時には、ウズルが身を乗り出していた。

「やっぱりそうなんですね。タスハ様はウルヴェーユを使ってらっしゃるんだ、そうでしょう? 近頃は礼拝の無言歌に色が載っているんです、それもすごく……」

 声高になりかけた少年を、ジェハナは「しっ」と制した。隣室の気配に耳を澄ませ、聞かれなかったろうかと案じながら小声で肯定する。

「ええ、とても鮮やかで澄んだ色がね。でも祭司様は決して、ウルヴェーユを使うつもりでそうされているのではないの。……ウズルさん、聞かなかったことにしてくださいね。祭司様は神々への祈りを通じて、標を辿っていらっしゃったの。マリシェに白石を使ったあの日、そのことを知って、とても……衝撃を受けられて」

 心が砕けるのが見えたかと思った。それほど明らかに痛撃を受けたのに、タスハは微笑んで礼を言った。痛ましくて申し訳なくて、思い出しただけで涙が浮かぶ。

 そんな彼女に、ウズルは少年らしい感想を漏らした。

「どうしてですか? この『路』は元から皆が持っているものなんでしょう。邪悪ではなく、神々の恵みを損なうものじゃない。ウルヴェーユと神々が対立するわけではないんでしょう」

「わたしにはこれ以上は言えません。祭司様のお心がわかるわけではありませんもの。ただ、あなたがそうして平気でいられるのは、あくまであなただけのこと。祭司様や、たぶん他にも大勢が、ウルヴェーユと神々とを同じに考えることはできないのだと、心に留めておいてください」

 ジェハナは今度こそきっぱりと話を終わらせ、ウズルにもう一度安静を言い渡してから部屋を出た。


 ほどなく、ジェハナはタスハと連れ立って街へ下りた。道すがら、なるべくたわいない話題を持ち出す。

「お弟子さんたちも個室なんですね。昔は大勢の神官が暮らしていたんでしょうか」

「そのようですね。部屋数が充分あるので、最初から二人とも個室を割り当てました。自分の身の回りは自分で、という躾も理由のひとつですが」

 なるほど、とジェハナは相槌を打つ。身の回りのこと、という点では、あの少年らよりも彼女の方が下手かもしれない。召使がいなくては、掃除も洗濯も、食事の用意もままならないだろう。

(一人の人間として遠くに行きたい、だとか、よくも夢想できるものだわ)

 己に苦笑しつつ、そんな駄目っぷりを知られたくなくて、相手のことを話題にする。

「祭司様のお部屋も同じような感じですか?」

 途端にタスハがつんのめり、薬湯を入れた壺を危うく落としかけた。何につまずいたのかとジェハナは驚いたが、彼の頬がうっすら赤いのを見て取り、あっ、と遅まきながら察する。若い娘が、殿方の部屋をどんな様子かと詮索するなどとは。人と状況次第では、あなたの部屋に入れてくれ、という誘いにもなりかねない。

「ご、ごめんなさい、はしたない質問でした! あの、わたし、家では兄が大勢いたもので、そういうことに気を遣わなくて」

「いえ、こちらこそ失礼を。……広さは違いますが、似たようなものですよ。殺風景で」

 タスハはもごもご答え、うろたえた己を恥じるようにうつむくと、急いで別方向の質問を投げ返してきた。

「兄君はイムリダール殿だけではないのですか」

「ええ、そうなんです。父には妻が三人おりますから、小さい頃は家に大勢の兄弟がいて……とりわけ男児が多い家系なので、賑やかを通り越して毎日嵐のようでした」

 気まずさをごまかすために、ジェハナは陽気に家族のことを話した。兄たちのたわいない悪戯、冒険ごっこで親に怒られたこと。次第にタスハの表情が和らぎ、向けられる微笑が温もりを増すのが嬉しかった。

 浮かれている場合でないと思い出したのは、総督府前の人だかりが目に入ってからだった。

「まさかあれ全部、具合が悪い人なのかしら」

 眉をひそめてつぶやいた彼女に、タスハが困惑顔で応じる。

「半分ほどは付き添いでしょうね。それに野次馬もまじっているようですから、悪い病が大流行しているわけではないでしょう」

「ヴァシュ先生ったら、いったい何をどう知らせたのかしら。こんな騒ぎになるなんて……とにかく一度、医務室に行きましょう。誰と誰が既に来たのか確認しないと」

 二人は混雑を掻き分け、総督府の中へ入っていった。長蛇の列を追い越してゆくと、何人かが祭司の姿を認めて頭を下げる。タスハが足を止めて話を聞く間に、ジェハナのところへは噂の兄がやってきた。

「ちょうど良かったわ、これは何事?」

「参ったよ。ヴァシュ先生が、具合の悪い奴はどんどん来い、だとか安請け合いするものだからこのざまだ。実際、流行り病の兆しがあったのは確かだから、早くに手を打つほうが良いのだろうが……ああ、祭司殿。あなたまで駆り出して、申し訳ない。それは?」

 壺に目を留めてイムリダールが問う。ジェハナが薬湯だと説明すると、彼は残念そうな顔をした。

「せっかく来ていただいたのに恐縮ですが、ここではあなたの出番はないと思います」

「ダール!」

 なんたる無礼、とジェハナは厳しく咎める声を上げる。イムリダールは取り合わず、タスハに対して頭を下げた。

「野次馬の方が多いのですよ。ウルヴェーユによる治療を見物したい、というね。そんな好奇心でつめかけられても、本当の病人の負担になるばかりか、健康だった人まで病をうつされかねないというのに……あなたもここに長居しない方がいい。敷地内は浄化の詞をかけてありますが、万全ではありませんから」

「ごもっともです」

 タスハは複雑な表情だったが、なされた説明には異を唱えなかった。

「でしたら、せめてこれを医師殿に。何かの役には立つでしょう」

 彼は壺を差し出したが、イムリダールはまたしても退けた。

「いや、あなたはそれを持ってカウファ家を訪ねてもらえませんか。奥方があれですからね……あの家からは誰もこちらに来ていません。しかし子供が教室に通っていますし、礼拝にも夫婦で参加されているので」

「ああ、なるほど。わかりました。では私は外を一回りして報告に戻りましょう」

「こちらの都合で振り回して、申し訳ない。宜しくお願いします」

 きびきびと指図し、形式的に一礼した青年総督に、タスハもまた低頭して踵を返した。ジェハナは慌てて袖を捕らえる。

「祭司様、あの」

「私のことはお構いなく。それよりあなたも病み上がりでしょう。病人と野次馬の混雑に揉まれては、良くありませんよ。……気にかけてくださって、ありがとうございました」

 タスハは微笑で礼を述べる。やんわりとした拒絶。ジェハナはもどかしさと口惜しさを抱えたまま、彼の背を見送ることしかできなかった。



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