十二章(神殿の反攻・迫る恐怖)
十二章
寒く厳しい冬の訪れと共に、世情も暗く沈んでゆく。
秋の遅れで麦をはじめ作物の播種もずれこみ、そこへもって水不足と急激な気温低下に見舞われたのだ。芽が出ない、出てもなかなか育たない。畑ばかりでなく、夏の間にすっかり枯れた草原にも新たな草が伸びず、家畜の餌が不足していた。
良い兆しもなくはない。
アルハーシュ王は人前に出られるほどに快復し、政務も春と同程度にこなせるようになった。この調子なら火祭りの頃には儀式をこなせるだろう。シェイダールが温石に着想を得て、陶器を彩色し《詞》を込めた暖房器具を作り、ザヴァイの奥方が六色の紐で隙間風を塞いでいたのを真似て、今冬、王の私宮殿はすこぶる快適になったのだ。
隣国ドゥスガルからも、不作を補えるだけの豆が無事に届き、来年の麦も同様に安く譲るとの約束を確かめられた。
シェイダールと神殿の学究派神官らが術を施した種籾も、順調に育っている。既に芽生えた普通の麦にも効果を及ぼせないかと、手分けして近郊の畑へ実験に出向いており、いくらかは上手く行きそうだ。
しかし彼らの努力は踏みにじられた。残酷な自然の気象によってではなく、同じ人間によって。
「どういうことだ」
シェイダールは白い息を吐き、愕然と立ち尽くした。
都の郊外、何度も訪れて様子を見ながら術をかけてきた麦畑が、無惨に掘り返されている。それだけでなく、何かを焼いたらしく、燃えかすや灰が一面に黒く飛び散っていた。
随伴の警護兵らが不穏な予感に槍を握り直す。遠くに見える村人が、誰かに知らせるためか走り去った。リッダーシュがしゃがんで土に触れ、絶望的につぶやく。
「我々が術を施したものだけを標的にしたのだな。穢れを清めたつもりなのだろう」
その証拠に、何もしていない畑は無事だ。生育が遅れて頼りなく、冬を無事に越えられるか心配な苗ばかりだが。シェイダールは歯を食いしばり、拳を握り締めた。
「不作になるって時に、馬鹿げたことを……! くそっ、村長の所へ行くぞ。誰に唆されたか、締め上げて吐かせてやる」
「その必要はなさそうだ。おでましになったぞ」
リッダーシュが唸り、視線で示す。シェイダールも振り向き、追及の穂先を磨きながら待ち受けた。煤けた畝の間をやってきたのは、村長と祭司、加えて数人の男。腕っ節の強そうな顔ぶれだ。揉める覚悟があるらしい。中年の祭司がいかにも厭わしげに告げた。
「お引き取りを、世嗣殿。この村に貴殿の手は必要ない」
「寝ぼけるな馬鹿野郎! おまえはこの村の子供や老人を殺すつもりか! 貴重な麦をめちゃくちゃにして、これで他の畑が全滅したらおまえはどう責任を取るつもりだ。一年の収穫を補償できるほどの蓄えがあるとでも言うのか!?」
怒鳴られて怯んだ祭司の横から、村長が苦々しく口を挟んだ。
「そっくりそのまま、あんた様にお返ししますよ」
「なんだと?」
「夏の旱も、この秋冬の様子がおかしいのも、全部あんた様が神々を冒涜したからじゃないですか。儀式でいんちきをやったって聞きましたよ。ちょくちょく畑に来て怪しいことをしてるのも、わしらを騙すつもりだったんでしょう」
「違う! 神殿の連中は、儀式がうまくいかなかった責任を、俺になすりつけようとしているだけだ。ウルヴェーユを施したから、この畑の麦はちゃんと育っていた。他の畑で収穫がなかろうと、少なくともここの分だけはおまえたちの口に入るはずだったんだ!」
飢えを打ち倒したい、一人でも救いたいという切実な願いは、しかし、通じなかった。
「それがごまかしだってんですよ。あんた様が細工した畑だけぐんぐん育つなんて、おかしいでしょうが」
むっつりと村長が唸り、従う男らも険しい目で世嗣一行をねめつける。
何を言われたのか理解できず、シェイダールは啞然となった。いったいこの男の頭はどうなっているのだ。当惑し声を失った彼に、村長が敵意に満ちた猜疑を吐きかけた。
「わしらが毎日せっせと手をかけてる畑がみすぼらしいざまなのに、あんた様がまじないをかけた麦だけ、やたら元気だ。まわりの生気を吸い取ってるみたいにね」
「そんなわけあるかっ! 俺が何のために必死で……」
ようやく理解したシェイダールが反射的に怒鳴る。だが村長はうるさそうに遮った。
「とにかく、あんた様の手出しは要らない。ちゃんと祭司様に祝福してもらったし、マヌハ女神にとりなしの犠牲も捧げた。余計なことして、神々の機嫌を損ねないでください」
「……っ」
言葉もない。シェイダールはあまりの無力感に打ちのめされ、一縷の望みを探して村人らを見た。どの顔も敵意と疑いに満ちて、頑なに防御を固めている。既に判決を下し、罪人の言い分に耳を貸す気は微塵もないという顔。しばし、緊迫した沈黙が続く。
「帰るぞ」
低く唸り、シェイダールは踵を返すと、大股で村を後にした。追いついて並んだリッダーシュを一瞥もせず、彼は前を睨んだまま言った。
「祭司長に抗議に行く。こんな調子であっちでもこっちでも妨害されたら、収穫を得るどころか、貴重な種籾が無駄になってしまう。自分たちはでかい神殿に暮らして不自由なく食べ物が手に入るからって、ふざけた真似をしやがって」
「怒りは私も同じだが、一度王宮に戻ろう。このまま我々だけで乗り込むのは危険だ」
「神殿兵士が俺たちに背くって言うのか?」
「ナムトゥルの件を思い出せ。常に神殿の警護についていれば忠誠心の置き所をいつの間にか変えてしまうだろうし、買収もたやすくなる。それに、こうして大っぴらにウルヴェーユそのものを攻撃してきたのは、それだけの準備が整ったからだろう。我々が外に出ている間に変事が起きているかもしれない」
都まで戻り、城門をくぐって街を歩く間、一行は警戒に神経を尖らせていた。見る限り騒動は起きていないようだが、大神殿に近付き、周囲にいる人々の表情を判別できるほどになると、異変の兆候が感じられた。
「中で何かあったんだな」
シェイダールはささやいた。出入りする一般人の様子はいつもと変わりないが、神殿兵士は明らかにこちらを意識している。リッダーシュもそれとなく観察しながら答えた。
「入ろうとしたら、口実をつけて断られそうだな。槍を突きつけられはすまいが」
「最悪の事態にはなっていないか……やれやれ。とにかく、急いで帰ろう」
ひとまずは安心したものの、シェイダールは王宮へと足を速めた。
大階段の上ではヤドゥカがそわそわと行きつ戻りつしながら一行の帰りを待っていた。姿を見るなり急ぎ足にやって来た彼に、シェイダールは厳しい面持ちで問いかける。
「何があった? 外ではウルヴェーユを施した畑が根こそぎ荒らされ焼き払われた。俺たちが余計な手出しをしたから他の畑が不作になるんだ、と祭司が煽動したらしい。こっちの学究派の連中やザヴァイは無事か?」
「大神殿から抜け出した見習いが、状況を伝えに来た。ジョルハイ殿の密命を受けたらしい。学究派の神官全員がまとめて監禁された。儀式はもとより、神殿の営み一切に関わることを禁じられたが、今のところ死人は出ていないそうだ。アルハーシュ様がお待ちだ、歩きながら話そう」
「ジョルハイ本人はどうしたんだ。あいつは俺の腰巾着だと思われているだろう」
「ウルヴェーユに手を染めていない事実を利用して、うまく立ち回っているようだぞ。なんとか事態を収拾したいと考えているらしい。あとは直接聞いてくれ」
ヤドゥカは言って、王の私宮殿の衛兵に取り次ぎを頼んだ。
ほとんど待たされることなく、シェイダールは中に通された。玉座でアルハーシュ王が難しそうに思案しており、駆けつけた長官たちも額を寄せて唸っている。彼らの手前で、跪いたまま途方に暮れている少年の姿があった。
「アルハーシュ様、ただいま戻りました」
「おお、シェイダール。無事であったか」
王は呼びかけられて我に返り、ほっと表情を緩める。シェイダールはついでに少年の存在も思い出させた。
「およその話は聞きました。そこの彼が、神殿の内情を知らせてくれたのですか」
「うむ。とうとうイシュイが強硬手段に出たらしい」
「ということは、祭司長が動いたわけではないと?」
シェイダールは眉をひそめて見習い神官に歩み寄り、ぽんと肩を叩いた。
「悪いが、もう一度俺にも説明してくれ。立つなり座るなり、楽にしていい」
「はいっ、畏れ入ります」
少年はびっくりして声を裏返らせ、よろけ気味に立ち上がった。そうして彼が告げた概要は、およそヤドゥカから聞いた通りだったが、さらに詳細があった。
「イシュイ様はウルヴェーユを邪法だと言い、先日のナムトゥルのように魂を奪われ狂わされるのだと断罪しました。ジョルハイ様は路を開いていないから、イシュイ様も無理やり閉じ込めるのはできなかったんです。祭司長と、あと何人か高位の祭司様はイシュイ様の行動を非難していますが、神殿兵士はほとんどイシュイ様の仲間になったので、言うことを聞かせられないみたいで……ジョルハイ様からは、なんとか折り合いをつけられるように交渉を続けているから早まらないで欲しい、との言伝です」
シェイダールがいくつか質問し、長官らが把握した情報を繋ぎ合わせると、全体像が見えてきた。ナムトゥルの件が思わぬ遺恨を残したのだ。
彼の実家は長男を追い出した後も、気にかけてはいたらしい。だからこそ無心にも応じていたのだが、それが結果として世嗣の暗殺未遂を引き起こした時、親はなぜか逆恨みしたのだ。息子は世嗣のせいで道を誤ったのだ、と。
富裕な商家である彼らは、他の大商人や名家との付き合いが深かった。そうした有力者は、世嗣が庶民の職人らに対してウルヴェーユを手ほどきしたくせに、自分たちには声をかけもしないことに不満と恐れを抱いていた。
ゆえに以前から彼らは、祭司を呼ぶ時は学究派を避け、イシュイに従う一派と誼を結んでおり、ウルヴェーユへの不信を募らせ――天候不順というとどめの一撃が加わった結果、ここに来て一大勢力として団結したのである。
「ディルエンに従う者らは、ウルヴェーユそのものには否定的ではない」アルハーシュが補足した。「そなたの言動に立腹してはいるがな。いにしえのわざが邪法ではなく、真に守り伝えるべきものであることは、あれも理解しておる。……先代の継承を目にした者として、その点はごまかせまい」
ふと過去に思いを馳せ、王が目を伏せる。シェイダールはこめかみを揉んで唸った。
「第一、まともな頭があるなら、ウルヴェーユを邪法だと言える筈がないでしょう。そもそも代々の王は資質に恵まれた者が力を受け継いできたんだから、ここで否定するなら次の王には誰を据えるんだって話になるのに」
その疑問に対し、財務長官リヒトがなぜか失笑した。
「その点に関して、彼らは独自の考え方をしているようでな」
何がおかしいのか、とシェイダールは眉を寄せ、思い当たってまさかという顔をする。リヒトは複雑な苦笑で、彼の推測を肯定した。
「つい一昨日、祭司長の息がかかった神官から探りを入れられたのだよ。その時はこのような事態になるとは予想せなんだが、まさか私のような老いぼれにお鉢が回ってくるとは驚きだ。察するに、貴殿のところにも使いが行ったのではないかな、元第二候補殿」
話を振られてヤドゥカは困り顔になった。シェイダールが「いいから正直に言え」と促すと、彼は渋面でため息をつき、その通りだと認めた。
しばらく前に領地の屋敷に戻り、父の代わりに旱魃対策を含め諸々の仕事を片付けていた折、土地の祭司から王位に即くべきだと言われた。天候不順なのも王の力が衰えているからではないのか、元第二候補なのだから資格は充分あるだろうに、と。
「半ば愚痴のような調子だったので、農民らの不安をなだめるのに苦心しているのだろうと、本気に取りませなんだ。そもそも私はシェイダール殿に剣の誓いを立てており、決して背くことはできないと説いたら、おとなしく引き下がったのですが」
ヤドゥカが言葉を切り、シェイダールはげんなりと頭を振った。
「そうして片っ端から声をかけて全部に振られたから、ついに強引な行動に出たってわけか。……祭司長に縁のあるジャヌム家にも当然、話があったんでしょうね」
言って、水利長官を冷ややかに見る。ラウタシュは動じず、整った顎髭を撫でながらむっつりとうなずいた。
「愚息に取り入ろうとした祭司がおったようだ。しかしそれはそれとして、ディルエン殿から貴殿が王たるに相応しからぬ根拠を聞かされたぞ。水乞いの儀式でウルヴェーユを用い、雨を降らせて神々と民の信仰をも虚仮にした、とな。事実ならば私も、貴殿に対する考えを改めねばならぬ」
はっ、とリッダーシュが息を飲む。その反応に、王と長官らが注目した。リッダーシュは唇を噛み、沈黙を守るべくうつむいて視線を避ける。シェイダールは一呼吸の間ほど思案したが、従者の窮状を見て諦めた。
「……半分は事実で、半分は嘘だ。事態がこうなった以上、どう転んでも神殿は俺を王位に即けないだろうから言っても構わないだろう」
彼は平坦な口調で、簡潔に説明した。儀式の雨はウルヴェーユによるものであったが意図したわけではない、祭司長らに誤解させておいたのは、そうしなければ神意と解釈されアルハーシュの身が危険になるからだ……
王がほろ苦い表情になったのを見て取り、彼は声に力を込めた。
「自分のためでもあったんです。あの時点でもし俺が、神殿に担ぎ上げられて王にされていたら、期待が桁外れなだけに後の失望が奈落よりも深くなる。もっと悪い状況になっていたでしょう」
顔を上げ、一同を見回して確信ありげに続ける。
「今はまだましです。むしろ好機だ。神殿がウルヴェーユを否定しているのなら、継承の儀式も資質の判定も廃止できる。そうすれば、王一人に旱の責任を負わせることもなくなる! 人の力でどうにもならないことを王のせいにして、殺して入れ替えて、その度に国が混乱するような、くだらない慣習を終わりにできるじゃありませんか!」
沈鬱な空気を勢いよく吹き払った若さに、長官らは驚き呆れ、王は微笑んだ。
「大したものだ、そなたには敵わぬな。だがそうするには、次の王に適当な、元候補者以外の人物をどうにかして引っ張り出さねばならぬぞ」
「アルハーシュ様の親戚を探せば一人ぐらい、ぶらぶらしてるのがいるんじゃありませんか。それなりに皆が納得するような血筋で、まつりごとのことが多少なりともわかっていればいいんです。どうせ実務は有能な長官の皆さんがやるんだし」
シェイダールはとぼけて応じたが、そこへ思わぬ横槍が入った。見習い神官の少年だ。
「あの……世嗣様」
「どうした?」
「ジョルハイ様は、シェイダール様をなんとしても王にして見せるとおっしゃっていました。ですから、早まって神殿に兵を差し向けないで、今しばし待って欲しいと」
おずおずと告げられた伝言に、誰もが不審顔になる。シェイダールは舌打ちした。
「あいつ、いったい何を考えているんだ? この状況で、あくまでも俺の地位にこだわれば、イシュイをなだめるどころじゃないだろうに」
「ふむ」アルハーシュも眉を寄せる。「本人に質すよりほかあるまい。出てこられるかどうかが問題だが」
「その点は『柘榴の宮』から使者をやれば大丈夫でしょう。あいつはずっとヴィルメの専属として世話をしていたから神殿側も許可するだろうし、禁じられたとしてもあいつなら言いくるめて出てこられるはずです」
面白くなさそうに答えつつ、シェイダールはふと別のことを考えていた。
(そうだ、ヴィルメの身を守らないと)
いざとなったら妻と娘を逃がす手段を用意しておかなければ。王宮は最後まで安全だろうとは思うが、このまま緊張が高まっていけば、どんな事態になるかわからない。
(約束したんだ。俺が守るって)
シェイダールはぐっと拳を握って瞑目した。
*
学究派の監禁が始まって五日目、シェイダールは一人の男を伴って『柘榴の宮』を訪れた。出迎えたヴィルメは、前回の毅然とした態度からすると不自然なほどに緊張していたが、シェイダールは気付かなかった。近頃は誰も彼も神経を尖らせているからだ。
「ようこそお渡りくださいました、我が君。……そちらの方は?」
見覚えはあるのだが、とヴィルメは首を傾げる。男は一礼し、深緑の声で答えた。
「ヴァルカと申します。以前に一度、世嗣様の故郷まで使いを仰せつかりました」
「ああ、あの時の! 今日はどうして?」
記憶に合致したらしたで、やはり疑問が浮かぶ。ヴィルメの不審顔を受け、シェイダールは極力感情を抑えて言った。
「最近、神殿で騒ぎが起こったのは聞いているか? 以前ジョルハイの奴が、危なくなったら逃げて来いと言ったらしいが、とてもそんな状況じゃなくなった。だから、俺がいざという時の手配をしておこうと思ったんだ」
「待って、そんなに悪いことになっているの?」
「何も今すぐ逃げろと言うんじゃない。もしもの用心だ、怖がらなくていい。実際今は、下手に動くより王宮にじっとしているほうが絶対に安全だしな。ただ、その……」
そこまで来て言い淀み、シェイダールは怒ったように顔を背ける。当惑したヴィルメの前で、彼はぼそりと唸った。
「悔しいだろ。俺が何も備えてないうちに、ジョルハイに先を越されたとか」
ぽかん、とヴィルメは夫の横顔を見つめた。あまりにも久しぶりに、まともな情の通った態度を取られて、すぐには理解できず呆気にとられる。次いで彼女は失笑し、慌てて袖で口元を隠した。シェイダールがふてくされた目つきをくれ、言い訳がましく一言。
「約束しただろ」
「ええ、……ええ、そうね。そうだけど」
堪え切れず、ヴィルメはくすくす笑いだした。頬を染め、嬉しそうに。小さく何度かうなずき、彼女は目を潤ませた。
「ありがとう」
万感の思いがこもったささやきに、シェイダールは答える言葉を持たず、うん、とごまかすようにうなずいて咳払いした。
「ヴァルカは『王の耳目』として各地を旅しているんだが、これから当分は王宮に留まって、都の中や近場に限って情報収集することになった。もしも情勢が急激に悪くなって王宮にいても危ないほどになったら、その時はおまえとシャニカを連れて、村まで逃がしてくれるように頼んでおいた」
深刻な話に戻り、ヴィルメはまた顔をこわばらせて件の使者を見た。ヴァルカは胸に手を当てて頭を下げ、謹厳に保証する。
「誓いを立て、必要な金子もお預かりしております。危急の折には私がお迎えに参りますゆえ、お含み置きください」
「信用して大丈夫だ。村へ帰るのがつらければ、適当な町に身を隠してもいい」
シェイダールは実務的な態度を装ったが、そんな程度ではごまかせなかった。ヴィルメは見る見る青ざめ、唇を震わせる。
「ま、待って、待って! そんな……ことに、なったら、あなたは」
「俺のことは構わなくていい。とにかくおまえは自分とシャニカの安全を考えろ。どうにか切り抜けられたら迎えに行くさ。待っていられなかったら、今度はもっといい男を捕まえて結婚しろよ」
「やめて!」
悲痛な声を上げてヴィルメは耳を塞ぐ。ぎゅっと瞑った瞼の下から、光る雫が一粒、二粒。シェイダールが立ち尽くす傍ら、使者はそっと目礼して密かに出て行った。
二人きりになり、シェイダールは苦笑をこぼしてヴィルメの髪に触れた。
「泣くなよ。王宮を逃げ出すはめになると決まったわけじゃない。どっちかと言えば、王宮の兵士が神殿に討ち入ってやり合うことになるだろう。ここまで害は及ばないさ」
返事はない。ヴィルメは両手で顔を覆ってすすり泣き、肩を震わせている。シェイダールは何度も優しく髪を撫で、それからやっと、ぎこちなく妻を抱き寄せた。
「俺はおまえを泣かせてばかりだな。……悪い。だが今は正直ちょっと驚いてるよ。まだ俺の身を心配してくれるとは思ってなかった」
「やっと……やっと、また、わたしを見てくれた、のに」
涙声で言い、ヴィルメは夫の背に手を回してぎゅっとしがみつく。
「わたし、いっぱい、あなたを傷つけたわ。でも、だけど」
それ以上は続けられなかった。夫の肩に顔を埋め、ヴィルメはほとんど聞き取れない声でつぶやいた。愛してる。死なないで。
彼女がこうも過剰な反応をするのが、衣装櫃の底に隠された物のせいだと知る由もないシェイダールは、照れくさそうに苦笑して妻の額に唇をつけた。
「大丈夫だ。おまえに見せたことはないが、俺だって随分鍛錬したんだぞ。自分の身ぐらい守れる。武器の扱いはまぁ、ずっと訓練してきたリッダーシュみたいな奴らには勝てないが、俺にはウルヴェーユがあるからな。自惚れているわけじゃないが、《詞》の扱いで俺より優れている奴はいない。だからもう泣くな。あくまでも万一の備えだよ」
安心させようとしたのに、ヴィルメはぎくりと竦み、より強く抱きついてきた。
だから怖がらせたくなかったのにな――シェイダールは震える背に手を添えて思った。だがさすがに、何も知らせずにおいて本当に王宮が混乱に陥った時、一度会っただけの使者がいきなり彼女を連れ出そうとしたら、とても信用されないだろう。
(穏便に伝えたつもりだったんだが)
やはり自分はこういうことが下手らしい。彼は気を落とし、ただじっと妻の嗚咽がおさまるのを待っていた。
その翌日、ジョルハイが王宮にやって来た。謁見殿に連れてこられた『鍵の祭司』を、王と世嗣が厳しい面持ちで迎える。近衛兵が周囲を固めた。
玉座の前に恭しくひざまずいて頭を垂れたジョルハイに対し、アルハーシュはひとまず穏当に問いかけた。
「神殿の内部はどうなっておる」
「いまだ混乱が続いております。祭司長の陣営につく者、『燈明の祭司』につく者、決めかねている者もおりますが……神殿兵士は全員、イシュイ殿に従っているようです。まことにお恥ずかしい限り」
「そなたが詫びる筋ではあるまい。和解は難しいか」
「道を模索しているところでございます、王よ。イシュイ殿さえ排除できたなら、一派の残りに彼ほど強硬な者はおりませぬし、彼らを結びつけているのは何よりも……浅ましいことでございますが、金、なのです。世嗣殿を快く思わぬ町の富裕家から流れ込む資金。そちらの方面からも切り崩してゆけないか、楔を打ち込む場所を探っております」
ジョルハイは理性的に答えて顔を上げ、真摯に誠実に続けた。
「万の目を持つアシャに誓って、必ずや事態を収拾して見せます。具体的な詳細についてはどうかご容赦ください、神殿の恥部を明かすことは神官の一人として良心が許しませぬ。しかしながら手段の見通しは立っておりますゆえ、今しばしの猶予を賜りませ。機が熟した暁には、お知らせいたします。必要ならば王宮の全兵士を神殿に差し向け、存分に力をふるって頂いて結構。……それまでは何卒、短気を起こされませぬよう」
最後の一言は世嗣に向けたものだ。半ば揶揄、だが半ばは真剣な警告。シェイダールが渋面でうなずくと、ジョルハイはいつもの澄まし顔になって王に目を戻した。
「畏れながら、お尋ねになりたいことが他になければ、これにて御前失礼いたしたく存じます。名目上とは言え『柘榴の宮』にも参らねばなりませぬ」
「うむ……よかろう。だがこちらも、ただ手をつかねてそなたの報を待ってはおらぬぞ。あまり時間をかけるな」
アルハーシュが許可すると、ジョルハイは再度深く臣従の礼をとった。そのまま立ち上がって退出しようとした彼に、シェイダールが鋭く呼びかける。
「ジョルハイ」
「はい、何か」
足を止めて向き直った青年祭司に、シェイダールは厳しい目を据えて警告した。
「余計なことは言うなよ。不穏な状況が続いているせいで、ヴィルメも怯えている。不安を煽るようなことは絶対に言うな」
おや、とジョルハイは目をみはり、なぜか薄笑いを浮かべた。怪しんだシェイダールは険しい顔で一歩踏み出す。だがすぐにジョルハイはおどけた笑みになって言った。
「これはこれは。世嗣殿は奥方様とよりを戻されたようで、まことに喜ばしい」
瞬く間にシェイダールは耳まで赤くなる。ジョルハイがさらにからかった。
「ではこの後、さぞかし惚気を聞かされるでありましょうな。楽しみでございます」
「うるさいっ! さっさと行け!」
「御命とあらば」
大仰に一礼し、わざとらしく小走りで出ていく。最後までふざけた態度を取られ、シェイダールは舌打ちした。いたたまれなくて王のほうを振り向けない。だが同時に、脳裏にはつかのまの薄笑いがこびりついて苛立ちを煽るのだった。
ジョルハイの約束とは裏腹に、事態は収束の兆しが見えなかった。神殿では学究派を除いた神官らで日常のつとめを回し、一般人の参拝も変わりなく受け入れているが、剣呑な空気を察した市民の足は遠のいている。何より、このままでは火祭りも行えないだろう。
ただでさえ日増しに寒さが厳しくなっているのに、こんなことで冬を乗り切れるのか。
様々な不安の声は、王宮の奥、『柘榴の宮』にも断片的に届いた。神殿内の対立はまだ続いているらしい。燈明の一派は世嗣のみならず、その用いるわざに一度でも手を染めた者は冒涜者だと弾劾している。王は別の世継ぎを検討なさっているそうだ……
あれこれの噂は不確かで尾ひれが付き、ヴィルメの焦燥を募らせるばかりだった。だが本当のところを確かめたくても、シェイダールはあれ以来顔を見せてくれない。頭の中でジョルハイから聞いた話が、不機嫌な狼のように低く唸りながらぐるぐると歩き回って、心の休まる時がなかった。
――悪いが、君には言うなと口止めされていてね。……そうか。目隠しされたまま歩かされるほうが怖いか。……祭司長は別の世嗣を立てるように求めているし、燈明殿はウルヴェーユそのものを否定している。王もシェイダール本人も、新たな世嗣を立てたらひとまず和解できると考えているようだ……だがその先は? ウルヴェーユを使えない者が次の王になれば、その王は自分にない力を持つ者をどう扱うか、想像がつくだろうに……つまりシャニカ姫もだ。だから早く王になってもらいたかったのに……――
実際の言葉は違ったかもしれない。他にも色々話したかもしれない。だが、「愛する者が脅かされる」との考えに憑かれたヴィルメにとって、目にする光景、耳にする話、すべてが不吉な警告であり、それ以外は記憶に残らなかった。
こめかみを揉み、せめて少しは気分を変えようと、シャニカを遊ばせるついでに庭園へ出る。真冬のこととて花も緑もろくにないが、幼い姫はお構いなく走り回ってご機嫌だ。ヴィルメの唇にも笑みが浮かんだ。
「かーしゃま!」
こっちこっち、と呼んだかと思えば、自分から駆け寄って来たり、また遠くへ走ったりと忙しい。土をいじり、小枝を拾い、水路に手を突っ込んで。遊びまわっている本人は良いが、見守っているヴィルメはだんだん寒くて耐えられなくなってきた。
「シャニカ、もう中に入りましょう。風邪をひいちゃうわ」
「えぇー?」
「か・え・る・わ・よ」
一音一音区切ってゆっくり言い、手招きする。シャニカは不満そうに口を尖らせたが、冷たい風に吹かれてくしゃみをすると、おとなしく母のもとへ駆け戻ってきた。
「ほぉら、こんなにおててが冷たい」
両手で小さな手をぎゅっと握り、笑って額をくっつけてから一緒に歩きだす。幸せな気分で宮に入ったヴィルメは、廊下で思わぬ人物と出くわして立ち竦んだ。
「ラファーリィ様」
急いで廊下の端に避け、低頭する。相手は驚いた様子もなく優雅に会釈を返した。
「お久しゅう。シャニカ姫を遊ばせていたのですか。赤い頬をして、元気だこと」
鷹揚に微笑む王妃の手には、小さな瓶があった。何だろうとヴィルメが疑問を抱くまでもなく、視線を追った王妃が先回りして答える。
「我が君への差し上げ物です。先頃ドゥスガルからわたくしに、若さを保つ妙薬だとかで届けられたのですけれど、摂っていると身体の調子が良いようだから」
叔父の甘やかしぶりを思ったのか、女のための美容薬を王に渡すことの珍妙さゆえか、ラファーリィはおかしそうにくすくす笑った。ヴィルメも曖昧な笑みで調子を合わせる。
「アルハーシュ様のお加減は、まだ……?」
「夏の頃に比べたら、すっかりお元気になられましたよ。ですがやはり以前よりも疲れやすくおなりですから、この寒さに負けないよう、できる限りのことはしなければね」
二人がそんな会話をしている間、シャニカは菫色の瞳でじっと王妃を見つめていた。その顔ではなく、腹の辺りを。凝視に気付いた王妃が屈んでシャニカと目を合わせた。
「どうしました、姫? 何が気になるのですか」
問いかけにも反応せず、シャニカは小首を傾げて王妃の身体に手を伸ばした。
「りん、りーぁ、らー」
たどたどしいが、明らかにそれは普段の話し言葉ではなかった。音を紡いでいるのだ。
ヴィルメは視界に微かな光が踊るのを感じ、どきりとした。娘の声に色の星が瞬いている。ラファーリィも驚いたが、こちらはじきに納得と感嘆の表情になった。「まあ」と声を漏らし、幸福に弾けんばかりの笑みを広げてシャニカの頭を撫でる。
「そう、わかるのですか。この小さな音が聞こえるのですね」
その声音、表情。直感的に理解したヴィルメは、衝撃を受けて無意識につぶやいた。
「赤ちゃん……?」
自分の声で我に返ると同時に、ラファーリィが振り向いて誇らしげにうなずいた。
「ええ。今度は無事に産まれる予感がするのです。そうしたら、シャニカ姫の良い遊び相手になりましょうね。ふふっ。姫、仲良くしてあげてちょうだいね」
「あー、う? はぁい」
シャニカは音の名残を歌ってから、何を言われたかわかっていない顔で、とりあえずうなずく。それでも王妃は嬉しそうに、柔らかな藤色の声で笑った。
ヴィルメは悪夢に取り込まれた心地で、ほとんど無意識に祝福の言葉を吐き出した。
おめでとうございます。アルハーシュ様にお伝えされたのですか? これから? さぞ喜ばれるでしょう、さ、シャニカ、お引き留めしてはいけませんよ。ごきげんよう……
娘を連れて部屋に戻る道すがら、ヴィルメは恐怖の塊が喉までせり上がるのを懸命に飲み下していた。
(王の子が産まれる)
動悸が速まり、冷たい汗がじっとりと背を湿らせる。
(シェイダールが殺されてしまう)
仮定と条件、いくつもの段階をすべてなぎ倒し、ひとつの結論が巨大な隕石となって墜落した。飛躍を指摘する者も、杞憂だと笑う者もいないまま、結論は地に埋まり確定される。巣穴に逃げ込むように部屋へ入ると、ヴィルメは娘を侍女に預けて別室へ行かせた。
一人になり、誰もいないことを何度も何度も確かめて、衣装櫃を開ける。ジョルハイの声が、ひそひそと噂する召使らの声が、頭の中で嵐となって吹き荒れた。
王は弱っている。このままではひどいことになる。
王の力は誰でも奪い取れる。力を手にした者はシェイダールを殺す。
その次はシャニカ……
(守らないと。わたしが守らないと)
ヴィルメは震える手で服を掻き分け、厳重に布でくるんで隠した宝刀を取り出した。ごくりと唾を飲み、布を剥ぐ。恐ろしい考えが浮かび、ぞくりと寒気に身震いした。
(できない。そんなこと、できない……でも、やらなければ。だけど)
緊張と恐怖で歯がカチカチ鳴る。
(どうすれば……ああ、神様)
ぎゅっと目を瞑って、思いつく神に片端から祈ってゆく。やがてゆっくりと動揺が静まっていった。そうだ、決断は神々に委ねよう。
(どうかお守りください。わたしはどうなってもいい、シェイダールとシャニカを)
細く長く息を吐く。瞼を上げた時、灰色の瞳にもはや迷いはなかった。




