八章(籠職人・どこまでも暗く)
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次なる王が、候補者ではなく唯一の世嗣として指名されたことは、王宮のみならず都全体に衝撃を与えた。
王が交代するのはいつか、次の王は誰か。今までならそれは市井の民に知らされることはなかった。継承の儀式は秘中の秘、布告がなされるのは終わった後。人々はただ折々の祭儀で、裁きや陳情の場で、時の王を神の現身として崇め敬い、王が王として在るだけで満足していた。するしかなかった。
今代の、そして次代の王は、何をするつもりなのか。王たるべき者は神々が定められるのではなかったのか。
時代が変わろうとしている予感。興奮と不安と動揺が、姿のない波となって都を隅々まで浸してゆく。表面上は変わらぬ日常を営みながら、誰もがそわそわと落ち着きをなくしていた。そんな人々の様子は、元候補者ザヴァイの店では特に顕著だった。
「あっ、いた! 帰ってた! ザヴァイ、あんた王宮から追い出されたのかい? 次の王様がもう決まったって噂、本当かい」
「お、なんだ、戻ってるじゃねえか。お役御免でまた籠作りか?」
近隣住民や得意客が工房を覗き、久しぶりに店主の姿を見付けて押し入ってきた。作業場の奥で何やらバタバタしていたザヴァイは、うわっ、と露骨に困った顔をする。慌てて表へ出てくると、通せんぼするように手を広げた。
「あああ、すまん皆、ちょっと今、取り込み中なんだ。話は後で」
おたおたしている間に、物見高い女が彼の肩越しに奥を覗き込んで頓狂な声を上げた。
「おやまぁ、随分きれいな若様を連れ込んで! 王宮の人かい……って、ちょっとザヴァイ! あんた奥さんを売ろうってんじゃないだろうね!」
件の若様がザヴァイの妻と手を握り合っているのを見て、女が金切り声を上げる。
「ちちち違うよ違う! 大事な話をしてるんだ!」
あらぬ疑いをかけられてザヴァイが目を剥き、両手を振り回して鎮めようとしたが、かえって疑惑を招いてしまった。野次馬が詰め寄り、てんでに騒ぎだす。収拾がつかなくなったところへ、落ち着いた一声が白い風を運んだ。
「《静まれ》」
ザアッ、と音ならぬ音が響く。誰もがつかのま息を詰め、突如として心に広がった雪原に目をみはる。粉雪を運ぶ風のささやきが消えると、奥から若者の声が続けた。
「これからザヴァイの奥方の『路』を開く。興味があるなら近くで見るといい。ただし、静かにしろよ」
威厳とまでは言わないが、妙な押しの強さがある。何者なんだ、と野次馬らは顔を見合わせ、ぞろぞろと奥へ進んだ。言われた通り従順に、口をつぐんで。
正体不明の偉そうな若様ことシェイダールは、見物人が近寄るまで待ってから、手に載せた白石と眼前の女に注意を戻した。
候補の役目を解かれ、ザヴァイには自宅に戻って生業を再開する許しが下りたのだ。己の路を探り標を養うことは怠らないよう命じられたが、今後ザヴァイは、籠職人として一家のあるじに戻る。妻の夫、二児の父に。ならばいずれ次の子の問題にも突き当たるだろうと、シェイダールはこの機会に便乗したのである。
「《開かれよ》」
星がきらめき、糸が紡がれる。ザヴァイが固唾を飲んで見守る前で、妻の路が無事に開かれ、術が終わった。シェイダールは白石を袖にしまい、振り返ってにやりとする。
「奥方のほうが路が広いぞ。うかうかしていたら、追い抜かれて尻に敷かれるかもな」
「それは前からです。ああ良かった」
ザヴァイは目を潤ませて妻の前に膝をつく。相変わらずの気弱ぶりに見物人がどっと笑った。まだ夢見心地の妻を、ザヴァイは軽く抱擁する。シェイダールは微笑んで言った。
「これからは、あんたが奥方を導くんだ。やり方はもう学んだろう? 焦らず少しずつ路を辿れ。何か気がかりができたら、勝手にあれこれせずに奥方も連れて白の宮まで来い。俺が正解を知っているとは限らないが、皆で相談すればより安全だからな」
「はい、はい。ありがとうございます」
何度も頭を下げるザヴァイに、野次馬の一人が我慢できなくなって問いかけた。
「おいザヴァイ、その若様ってもしかして……」
「ああそうだ、皆、こちらがお世継ぎのシェイダール様だよ!」
途端にザヴァイは誇らしげになり、どうだとばかりシェイダールを示す。
「素晴らしい方だぞ! 長年『王の資質』とされてきたものが何だったのか、神殿や王宮にある大昔の宝物をどうやって使うのか、ほとんど一人で何もかも解き明かしてしまわれたんだ! しかもその力を独り占めせず、皆にも分け与えようとなさっ、ぐぇ」
熱が入りすぎたところで後ろから髪を引っ張られ、ザヴァイは変な呻きを上げる。シェイダールは手を離すと、呆れ顔で水を差した。
「大袈裟にするな。ウルヴェーユを解き明かしたのは確かに俺だが、一人でやったわけじゃない。何よりもまずアルハーシュ様のおかげだし、偶然やあんたら候補者の助けもあった。それに、独り占めも何も、そもそも『王の資質』は誰もが持つ力だろうが」
そこまで言い、彼は興奮と困惑にざわつく見物人に向き直った。そして、言葉を選びながらゆっくりと、王の力のこと、ウルヴェーユとは何であるかを説いていった。
いずれ誰もが使えるようになること。だが慎重に探り養っていかなければ危険であるため、一度に大勢には教えられないこと。無遠慮な質問にも、ひとつひとつ丁寧に答えた。ここで手を抜いたり放り出したりすれば、ウルヴェーユが「お偉いさんだけの摩訶不思議な力」と誤解されてしまう。それは絶対に避けねばならない。目的があれば忍耐強くもなれる。
そうして今、人々に語りかけるシェイダールの姿は、貧しい田舎村の粗野な少年からは想像もつかない成長を遂げていた。
身なりを整え、よく食べよく鍛錬し、まだ細身ではあるものの背丈も伸びて、みすぼらしさとは無縁の身体になった。しかも貪欲に吸収した知識と、自ら掴み取ったウルヴェーユというわざ、さらには理解者や友人を得たことによって自信と余裕がそなわり、生来持っていた気品も加わって、もはや誰の目にも間違いなく高貴の身であると映った。
「……これから少しずつ、ウルヴェーユは皆の間にも浸透していくと思う。新王候補探しの時は選定に漏れた者でも、ザヴァイや奥方のように路を開いた者のそばにいると、影響されて自覚が生じることもある。だから、もしやと思ったらザヴァイに相談するといい。そのうち、神殿でも何か言い始めるかもしれないな」
神殿、と聞いて数人がはたと顔を見合わせ、おずおずと遠慮がちに問いかける。
「あの……だいたいおっしゃることはわかった、と思いますけど、それでそのウル……でしたっけ、そのわざを使うのには、祭司様のお許しや祝福は」
「必要ない」
シェイダールは切って捨てるように言い、思い直して口調を和らげた。
「ウルヴェーユは世界の神秘にかかわるわざだが、神殿の儀式や教えとは関係ない。何しろ『最初の人々』が用いていたものだからな。神殿内でも今、一部の祭司や神官が、自分たちが守り伝えてきた物事を根本から見直そうとしている」
脳裏をジョルハイの姿がよぎり、シェイダールはわずかに唇を噛んだ。
「儀式の真似事を止められなかったのはあんたの力不足だとしても、俺に警告しようともしなかったのはなぜだ。結局あんたも祭司長に尻尾を振ることに決めたのか、それとも俺が失敗するのを期待していたのか」
白の宮を訪れた元御付祭司に、シェイダールは冷ややかな怒りとあからさまな敵意をぶつけた。これまで何度も、信じたい、信じてもいいのかと心許しかけた矢先に、やはり信じられないと思わされてきた。何が味方だ、もううんざりだ。
青年祭司は一段と華美な祭服を纏っていたが、それにふさわしからぬ皮肉な薄笑いを浮かべた。
「私としては、あのまま君が王になってくれても良かったんだがね。君が王を殺せないことは知っていたし、聡い君のことだからすぐに儀式が試験だと気付くだろうと思っていたよ。実際、気付いたろう? だから君が王にとどめを刺さずに刃を止めたところで、終了の声を上げるつもりでいたんだよ。君だって正気だったら、王を殺さないと宣言したりせず、どうだ俺はちゃんとやれるぞ満足したか、といつもの偉そうな態度で祭司長を見返して、それで終わりだったろうさ」
相変わらず一分の隙もない。シェイダールが非難を封じられてむっつり押し黙ると、ジョルハイは肩を竦めた。
「結果は予想外だったが、私にとっては思いがけず良い方に転がったよ。むろん君にとっても、ということだがね」
薄笑いを消し、敬虔な祭司らしい表情になると、彼は優雅に臣従の礼を取った。
「シェイダール様。世嗣となられたこと、心よりお祝い申し上げます。鄙辺の村にて見出し御付祭司を務めたこの身にとっても大変な栄誉にございます。おかげをもちましてわたくしめもこの度、『鍵の祭司』の大任を引き継ぐこととなりました。改めてご挨拶いたしますと共に、今後とも何卒ご厚誼を賜りますようお願い申し上げます」
本性を知らなければ、実に秀麗な見目物腰だった。この若さで『鍵の祭司』とは神々の寵児に違いない、と信じてしまうほど。シェイダールは胡散臭げな半眼になった。
「あんた、哀れな前任者を神殿から追い出したのか」
「まさか! 先の鍵殿は自ら平神官に戻ってやり直すとおっしゃったのだよ。己は何も見ていなかった、こんな未熟な身で貴重な祭具に触れることはもはや耐えられぬ、とね。とは言っても、いきなりつとめのすべてを誰かに引き継がせるなんて無茶だから、鍵殿にはひとまずお望み通り位階を返上して頂き、神殿に留まって他の若い資質持ちの平神官らと共に、一から世界の神秘について学ばれては如何かとご提案したのさ。そうすれば、私ごとき未熟者でも鍵を預かるだけはできる、手に余る時はいつでも鍵殿のお知恵を借りにゆけるから、というわけさ」
ジョルハイは澄まして愛想よく述べ、何かを差し出すように手を広げた。
「これで君も、古道具については以前より融通が利くようになる。おおっぴらにいつでもどうぞとは言えないが、玩具いじりがしたくなったら言ってくれたまえ……おっと失礼、お申し付け下さい、世嗣殿」
微かな空色がこびりついているようで、シェイダールは不快げに耳をこすった。ザヴァイと妻が、何か失礼があったかと緊張する。彼は難しい顔のまま返事をごまかした。
「なんでもない、ちょっと面倒なことを思い出しただけだ」
ちょうどそこへ、ザヴァイの息子が奥から水を運んできた。どうぞ、と粗末な盆に来客用らしき水碗を載せて差し出す。まだ四、五歳だろう。居間の隅に控えていたリッダーシュが、ひょいと碗を取り上げた。
「気を悪くしないで頂きたい」
奥方とザヴァイに一言詫びてから毒見をし、シェイダールに渡す。いつもの図だが、奥方が「まぁ」と動転した声を上げ、縮こまって頭を下げた。
「そうですよね、お世継ぎ様にお出しするのに、いつどこから汲んだともわからない水なんて……せめて果物でもあればまだしも。お恥ずかしい限りでございます」
「いや、水一杯の価値はよく知っている。俺も家では毎日水汲みをしていたからな。いきなり来た客に水を減らされるのは、正直むかつく。この寒い中、あかぎれだらけの手で汲んだとなったらなおさらだ」
真顔で応じ、シェイダールは恭しく水碗を掲げてから飲み干した。奥方が啞然とするのを尻目に、彼は男児の盆に空の碗を返して、ありがとう、ごちそうになった、と丁寧に礼を言った。男児は誇らしげに胸を張り、そっくり返って奥へ引っ込む。
シェイダールはぽかんとしているザヴァイを振り向き、腰を上げた。
「なんだ、俺が田舎村の貧乏育ちだって知ってるだろ? 候補に選ばれなかったら、おまえの作る籠のひとつも買えないぐらいだぞ。帰る前に工房をちょっと見せてくれ。来た時から気になってたんだ」
言いながらもう絨毯を降りて靴を履く。ざわつく見物人にも無頓着に声をかけた。
「もう質問はないか? なら、今日はこれまでにしてくれ。ザヴァイの仕事場を見学したいんだ。村にこういう籠を作る職人はいなかったから」
ほら解散、とシェイダールは手を振る。田舎の貧乏人というわりには指図命令が板につきすぎだろう。見物人たちは困惑し、何度も確かめるように振り返っては、首を捻りつつ出て行く。ザヴァイは笑ってシェイダールのそばに寄った。
「世嗣様が、籠の作り方なんて知ってどうなさるんです」
「どうもしないさ。面白そうだから知りたいだけだ」
屈託なく言って、シェイダールは好奇心の赴くまま、これは何だあれはどうすると質問し、しばらくザヴァイを教師役にして楽しんだ。
職人の仕事場を堪能した後、ヴィルメへの土産に小物入れを買い、シェイダールと従者は帰路についた。実用的で洒落っ気はないが、細々した綺麗なものに囲まれているヴィルメには役立つだろう。それに、何でも開けたり引っ張り出したりするのが大好きなシャニカの、いい玩具になるかもしれない。幸せな予想にそっと微笑み、彼は両手に白い息を吐きかけた。
猥雑な活気のある通りを歩いていると、数人連れの神官とすれ違った。平神官の一人がはっとして祭司の袖を引く。シェイダールは小さく舌打ちして足を止めた。
面倒になるかと身構えたが、幸い神官らは無視することにしたらしく、そのまま通り過ぎて行った。リッダーシュが警戒を解き、ほっと息をつく。
「二人だけで来たのは正解だったな」
「ヤドゥカは渋ってたがな。あいつ、自分は平気でふらっと街の食堂へ行ったりするくせに、俺が外に出たいと言ったら兵士の行列を組みたがるのは何なんだ」
シェイダールがぼやく。リッダーシュは失笑し、咳払いでごまかした。
「アルハーシュ様直々に、世嗣殿の警護隊長を仰せつかったのだ。疎かにはできまいよ」
悪戯っぽくちらりと目をやった路地に、兵士の影がある。シェイダールは同じ所を見ないようにして、歩みを再開した。
「ゆくゆくは、ヤドゥカに近衛隊長を継がせたいとお考えなんだろうな。今から規模の小さな部隊で練習させておこうってわけか。おまえがいれば充分なんだがなぁ」
最後の一言に、リッダーシュが驚いて地面につまずいた。照れた苦笑を浮かべつつ「そうもゆかぬよ」となだめる声が嬉しそうだ。木漏れ陽のような黄金が瞬く。
「もったいなきお言葉、身に余る光栄でございます。なれど万が一にも御身の損なわれることがあれば、我が命をもってしても償えるものではございませぬ。……実際問題として身の安全もさながら、近衛兵というのは地位と権威を守るものだからな。高位の神官がお供をぞろぞろ従えているのと同じだ」
「馬鹿馬鹿しい。そうやってお高く止まって人垣で視界を遮っているから、見るべきものが見えず、聞くべき声が耳に届かないんだ」
シェイダールは傲然と言い放ったが、じきに小さく首を振った。
「まぁでも、今は護衛が必要だって点は認める。まさかいきなり神官が杖を振りかぶって襲いかかってきたりはしないだろうが、妙な考えを吹き込まれた奴が先走らないとも限らないからな」
祠で第一候補を亡き者にせんとした、ショナグ家の男のように。ねじくれた骸をまざまざと思い出してしまい、彼は眉間を揉んだ。
シェイダールの宣言とアルハーシュ王の決断は、神殿と王宮の間に明白な亀裂を生じさせた。世嗣の承認と祝福を神々に、即ち神殿に乞うていたならば、話は違ったろう。だが供物を捧げよと要求にきた祭司長を、シェイダールは敢えて強硬に拒んだのだ。
人に供物を求める前に、何代もの王を誤った儀式で無残に殺してきた事実をまず認め、赦しを乞うべきではないか。己が罪から目を背ける者に神々への仲介など頼まぬ――と。
激怒した祭司長からは痛烈な呪いを吐きかけられたが、後日、アルハーシュ王が個人的な祈祷の形で天空神に捧げものをすることで、表面的には決裂が回避された。しかしそれ以来、神殿はあからさまに世嗣を敵視するようになったのだ。
先鋭的な世嗣と、頑なな守旧派の祭司長。両者の対立に、穏健な現王と、神殿内に生まれたウルヴェーユを学ぶ柔軟な一派とが、板挟みになっている。ある程度は計算して作り上げた構図だが、芝居ではなく現実である以上、日々の緊張に心がささくれ立つのは避けられない。シェイダールが無意識に胃の辺りを押さえながら王宮への大階段を登っていると、少し先にいた男が踊り場で振り返り、あっと声を上げた。
「シェイダール様!」
呼ばれて顔を上げ、はて誰だったかと訝りつつ足を急がせる。追いついたところで、男の人相と深緑の声が記憶に一致した。村への便りを託した使いだ。
「帰ってきたのか! どうだった、無事に伝えられたか? 村の様子は」
シェイダールは性急に詰め寄ってから、相手が砂まみれであるのに気付いて下がる。土産をねだる子供のような振る舞いを恥じて、今さらながら体面を取り繕った。
「っと……悪い、長旅ご苦労だった。先に疲れを落としてから、話は後だな」
「もったいないお心遣い、かたじけのうございます。ですがそれほど心待ちにされていたものを、なおも引き延ばされずとも」
使者は温かな笑みをこぼしたが、では、と甘えられるほどシェイダールは素直でない。強引に、いいからゆっくり休め、と押し切ってしまった。
しばしの後、『柘榴の宮』の一室に使者と世嗣夫妻が顔を揃えた。シャニカの守りは侍女に任せ、二人は使者に向かい合って報告に身を乗り出した。
「お二人からの使いだと言うと、村じゅう大騒ぎでしたよ」
使者は笑って、まず土産の包みを解いた。素朴な櫛、鮮やかな色糸。干し棗。小さなお守りの石像は幼子の成長を願うものだ。
「ヴィルメ様のご家族からです。シェイダール様のご母堂も何か持たせようとしてくださったのですが、冬の貴重な食料を頂くわけには参りませんので、固辞いたしました」
「ああ、それで良かった。母さんは元気だったか? ちゃんとまともな暮らしをしている様子だったか」
「はい、……実は再婚しておいででした」
思わぬ報せを受け、夫婦は揃って驚きの声を上げる。まさか、と剣呑な顔つきになったシェイダールに、使者は急いで続けた。
「シェイダール様の伯父君に当たる方が、二人目の妻として迎えられたそうです。ご本人も納得の上でのことだから心配せぬように、と言付けられました。シェイダール様のおかげで租税が減免されたので、暮らし向きは楽だとも仰せでしたよ」
「……そうか。そうだな、ずっと独りでいるよりは、それがいいだろうな」
少なくとも、これでもう村の祭司は手が出せまい。安堵と寂しさの相まった複雑な吐息を漏らしたシェイダールに、使者は居住まいを正して告げた。
「ご母堂からのお言葉です。『第一候補に選ばれたと聞き、驚きながらも、あなたならば不思議はないと納得しています。母のことはもう振り返らず、前を向いて進みなさい。身体を厭い、頑なにならず人の言葉に耳を傾け、良き王となられますように。あなたを称える声がこの村に届く日を心待ちにしております』」
使者の語る声に母の面影が重なる。優しく厳しく、常に毅然としていた強い母。シェイダールはつかのま目を瞑って追憶に耽った。傍らでヴィルメが懐かしそうにささやく。
「ナラヤおばさん、相変わらずね」
「ああ。母さんらしいよ」
視線を交わして微笑んだ夫婦に、使者も満足げな笑みを広げた。
「さすがはシェイダール様のご母堂であらせられると、私めも敬服いたしました。実に立派なご婦人ですな。母親ぶることもなく、孫の顔が見たいともおっしゃらず、ここが引き際とけじめをつけられた。しかし、これが娘の親となれば話が違いましょう」
ごほんと咳払いして、今度はヴィルメに向き直る。
「ご両親はいささかわだかまりがある様子でいらっしゃいましたが……強引に村を出られたようですね? 祖母殿が代わりに遠慮なく根掘り葉掘りお尋ねになって、いやはや、しゃべりすぎて喉が嗄れるかと思いました」
「ごめんなさい」
ヴィルメは真っ赤になって縮こまった。田舎者の野次馬根性丸出しなところを見られてしまった、立派な母と感心されるナラヤと違って己の家族ときたら! 苦労して宮の女らしい立ち居振る舞いを身に着けたというのに、懸命に装った上辺を、故郷の親族に剥ぎ取られてしまうとは。羞恥を通り越して腹立たしくなる。だが彼女のそんな虚栄心を、使者はまったく気にかけなかった。
「良いご家族ですね。深い愛情を注がれていらっしゃるのがよくわかりました。土産も、本当はもっとあれもこれもと仰せられたのですが、運びきれぬし、大荷物になって道中で追剥に目を付けられては元も子もないと、厳選して頂きました」
「ありがとうございます」
ヴィルメは礼を言ったが、まだ気持ちがおさまらず、土産を手に取ろうとしない。どれが誰からのものか、どんな言葉を添えて渡されたか、使者が伝える間も、上品ぶったよそよそしさで聞いていた。
使者は村の様子を語り終えると、シェイダールの許しを得て、では、と立ち上がった。
「また御用の折にはいつでも仰せください。私共は王の目となり耳となるべく、王国のどこへでも参りますゆえ」
一礼し、使者はきびきびと己の持ち物を片付けて部屋を辞する。途端に、大人たちの話が終わったと見て、軽い足音がとてとてやって来た。シェイダールが向き直ると同時に、シャニカが腕の中に倒れ込む。
「とーしゃ!」
「ああ、父さんだよ、シャニカ。退屈したか? よしよし」
ひょいと抱き上げて掲げ、鼻で腹をくすぐってやる。きゃあ、とシャニカが歓声を上げた。父子のじゃれあいに、ヴィルメも楽しそうに笑う。明るい若葉の緑色が弾み、シェイダールとシャニカは揃って振り返った。
「あー、あ」
シャニカが嬉しそうに小さな口をいっぱいに開き、色を合わせるように声を発する。シェイダールは胡坐をかいた膝に娘を下ろし、路を意識して己の声に色を載せた。
穏やかな一音を伸ばし、娘に投げかける。シャニカは菫の瞳をぱちぱちさせて、たどたどしく「あぁー」と別の音を返してきた。さすがにまだ、声本来の色と異なる色は載せられない。代わりにシェイダールが相応の色を載せて歌い返す。そんなたわいない遊びに、シャニカはすっかり夢中になった。長く短く、高く低く、様々に歌い音色を求める。次第にヴィルメの笑みがこわばり翳ってゆくのに、父子は気付かなかった。
いつまでもシャニカが飽きないので、ヴィルメは痺れを切らせて横から割り込んだ。
「シェイダール、見て。きれいな色糸。村では染色なんてほとんどしていなかったのに、大事な買い置きを出してきたのかしら」
「そうかもな。ほらシャニカ、おまえのお守りもあるぞ」
小さな石像を取って、シェイダールは娘の手に持たせる。シャニカは不思議そうにじっと像を眺めていたが、案の定、じきにそれを口へ持っていった。
「こら、それは舐めちゃ駄目だ」
シェイダールは苦笑しながらやんわりと取り上げる。その様子に、ヴィルメは安堵していいのかどうか窺うような微笑を浮かべた。
「怒らないのね」
「赤ん坊のすることだぞ、怒ってたらきりがない」
「そうじゃなくて。お守りなんか無意味だ、って投げ捨てるんじゃないかと思ったわ」
少なくとも、村にいる頃の彼なら確実にそうしていただろう。本人も自覚があるので、曖昧な表情で手の中の神像に目を落とした。
「……まぁ、いいんじゃないのか。こんなもの、何の効果もありはしないが、なんて言うか……シャニカの無事を願ってくれた真心は、ありがたいと思うよ」
もごもごと歯切れ悪くごまかす。ヴィルメは灰色の目をみはり、ぱっと輝く笑顔になると、夫の肩をつついてからかった。昔の幼馴染に戻ったように、粗野だが開けっ広げで快活な声が飛び出す。
「その言葉、皆に聞かせてやりたいわ! あのシェイダールがこんな殊勝なことを言うなんて、ナラヤおばさんが目を回しちゃう。子を持つと人は変わる、って本当ね!」
「やめろよ」
シェイダールは苦笑いでいなした。心境の変化は、子の存在だけではない。あの儀式の夜、自然に芽生えた思い――亡き父が止めてくれたのか、というそれは、彼の中にすんなりとおさまっていた。この世ならざるものが助けてくれたという証拠などない。確信もない。それでも、自然にそう考えられたことが、緩やかな変化をもたらしていたのだ。
シャニカが父の胡坐から這い出して、今度は母の膝に甘えた。ヴィルメはすっかり慣れた手つきで娘を抱き、ゆっくり揺すってあやしながら、さりげない口調で切り出した。
「ねえ、シェイダール……本当なの? あなたが祝福を拒んで神殿と対立しているって。色んな人から聞いたわ。ただ一人のお世継ぎなのに、神々に捧げものをしようとしないから、祭司長のディルエン様がものすごくお怒りだ、って」
話題が剣呑なほうに向かおうとしていると察し、シェイダールは眉をひそめた。彼が牽制するより早く、ヴィルメは娘を抱いたまま身を乗り出した。
「ふりだけでも我慢できない? あなたにとっては祭儀なんてどうでもいいんでしょう。このままじゃ、シャニカも困るのよ。何かあっても祈祷を受けられないし、節目の祝福も授けてもらえないわ」
今なら言うことを聞いてくれるかもしれない。お守りの像を受け入れた今なら、娘のために己の信条を枉げてくれるかもしれない。ヴィルメのそんな期待が露骨に感じられて、シェイダールは不快になり、むしろ逆に昔の頑なさを引っ張り出してしまった。
「必要ないだろ、そんなもの。何も変わりやしないのに、祭司をつけ上がらせるだけだ。節目の祝いは、祭司も神官も抜きでするさ」
「そんなことで、もしシャニカに災いが降りかかったらどうするのよ!」
耐えきれずヴィルメが声を大きくする。シャニカがぎくりと身をこわばらせ、母の腕の中でぎゅっと縮こまった。シェイダールが身構えると、彼女は矢継ぎ早に畳みかけた。
「ここで生きていくのに、神々の祝福を受けられないことがどれだけわたしとこの子の立場を悪くするか、少しは考えてくれてもいいんじゃないの? 約束したじゃない、わたしとシャニカを家族として大切にする、って!」
「約束は守る。いい機会だ、おまえとシャニカを俺の部屋の近くに移せないか……」
「違うのよ! まだわからないの!?」
とうとう、ヴィルメが爆発した。溜め込んできた不満、不安と怒り、孤独。それらすべてが、たったひとつの元凶を串刺しにして突き上げる。
「ちゃんとあたしを見て! あんたはいいわよ、きれいな色と音を毎日追いかけていられるもの。だけど現実を見て、あたしたちを取り巻く状況をちゃんと知って、必要な妥協をして! あたしとシャニカを本当に大切にする気があるなら!」
宮の女としての取り繕った口調ではない、悲痛で切実な、限界まで引っ張られた布が裂けていくような叫び。シェイダールは愕然と竦んだ。
またやってしまったのか。
胸をよぎったのは後悔だった。二人目が流産したあの時、ちゃんと守ると決めたのに。気付けばまた彼女を置き去りにして、ずっと堪え忍ばせてしまったのか。
衝撃と悔悟の合間にちらりと、もっと早く言ってくれたら俺だって、という恨み言が浮かびかけたが、口にするだけの猶予はなかった。夫の沈黙を不服か無理解と取ったヴィルメは、ついに最後の一撃、放ってはならない必殺の槍を全力で投げつけたのだ。
「神様がいるとかいないとか、どうでもいいのよ!!」
無形の槍は、過たず急所を貫いた。
世界が暗くなる。シェイダールは焦点を失った目を妻に向けた。ヴィルメが怯み、唇をわななかせる。致命傷を負わせた自覚から逃げるように、彼女は涙声になって訴えた。
「お願いよシェイダール。ねえ、あたしたちは毎日の暮らしを生きていかなきゃならないのよ。遠い天上の世界を知ろうとするのも、大切なんだろうけど……」
皆まで聞かず、シェイダールはふらりと立ち上がり、一言も発さぬまま部屋を出た。追い縋るような泣き声も、呼び戻そうと妻が叫ぶのも、まったく意味をなさない。
「シェイダール? 何があった、しっかりしろ!」
誰かが呼んで、肩を掴んで揺さぶった。この声をよく知っているはずなのに、いつも黄金に輝いて見えたはずなのに、今はただ、何もかもが暗い。
――シェイダール、あんた賢いのね。誰もそんなこと考えつかないのに、すごいわ!
賞賛と感嘆。純粋な感動を湛えたまなざし。すべてが黒く塗りつぶされ、焼け焦げて灰になり崩れ落ちる。
(嘘だった)
全部。本当は、どうでも良かったのだ。彼女にとっては。
(ああ、暗い)
神はいないと証することの意味を、意義を、目的を、理解し励ましてくれた、あれは何だったのだろう。村でただ一人、彼の考えを肯定し、支えてくれたのは。
両手で顔を覆い、底なしの闇に呑まれるようにくずおれる。涙が次々こぼれ落ちたが、悲嘆さえも暗がりに隠されて見付からない。
ただどこまでも、どこまでも暗く、微かな星の明かりすらない闇。




