月に手心を求む
『夜明けの歌、日没の祈り』本編後、港町シュルトに亡命したお二人さん。
空と海を黄金に燃え立たせていた太陽が沈み、ゆっくりと熱が冷めてゆく。明るさを残しながらも世界が柔らかな薄紫に包まれ、家並みの壁が最後の黄金を溶かし終えると、屋根の向こうに大きく膨れた月が丸い姿を現した。長い夜の始まりだ。
街路や港にはぽつぽつと明かりが置かれ、居酒屋や食堂は店の前に卓と椅子を並べて、夜を楽しむ支度をしている。人々は談笑しながら散策し、あるいは適当にそこいらの柵や縁石に腰掛けて、手にした飲み物を傾けながら時折空を仰ぎ見る。
そんな中に、東からこの街に来て間もない二人の姿もあった。
「月が大きいですね。陽はすっかり沈んだのに、まだこんなに明るくて」
ジェハナがそう言うと、並んで歩くタスハも「本当に」と相槌を打つ。二人は周囲の雑踏と同じく、のんびり港を目指していた。
満月の前後数日、漁師たちは海へ出ずに船や網の手入れをして過ごすものだが、この季節は月がとりわけ美しく見えるうえに気温もほどよく過ごしやすいため、港でちょっとした宴が催されるのだ。
「お恥ずかしいんですけど、わたし、満月の夜は魚が獲れないなんて初めて知りました」
ジェハナは首を竦めてから、町並みを振り返って月を仰ぎ見る。タスハもそちらを見やってから、しかつめらしくうなずいた。
「誰しも、自分の暮らしに直接関わりがないことは、よく知らないものですよ。ワシュアールの都は海から遠いですし」
「ええ、でも河で漁をする人は、もちろんいるんですけれど。カトナもそうですよね。わたしは、そうした人の話を聞く機会がなくて……魚と月が関係あるだなんて、考えたこともありませんでした」
なんと言っても彼女は名門ショナグ家の令嬢である。魚に限らず肉も果物も穀物も、ただ食べるものであって、どうやって手に入れるのかなど考える必要もない育ちなのだ。だからタスハは相手の無知をどうこう言わず、穏やかに微笑んで応じた。
「異なる暮らしの話を聞くのは、いつも勉強になりますね」
「はい」とジェハナも笑顔になる。「家を出る時は不安もありましたけど、カトナでもここでも、毎日たくさんの事を学べて刺激的で……本当に、思い切って良かったです」
にこにこと笑み交わしたところで、港に着いた。普段は魚を水揚げする場所に屋台が並び、開けた場所では何人かが楽器を持ち寄って明るい曲を演奏している。
「わあ……! 賑やかですね。皆さん楽しそう」
「ええ、結構なことです。月を見るのが名目だからか、馬鹿騒ぎする人がいないのも良い」
同意してから小声で補足したタスハに、ジェハナもふふっと笑いをこぼす。タスハはとぼけて咳払いしてから、真面目なまなざしで港を見渡した。
「勉強と言えば、私にとってはこの催しもそうですね。カトナではこんな風に、何の神も関係なく、住民がただ集まって宴を開くというのは、ありませんでしたから」
「そういえば、そうですね。お祭りといったら必ず、祭司様の祈祷と皆さんの歌があって、神々にお供え物をする……という形でした。家庭のお祝い事などはそうとも限らなかったでしょうけど」
「それでも多分、宴を始める前に何らかの神に感謝を述べるぐらいはしただろうと思いますよ。私も住民のすべてを知っているわけではありませんが。この宴は本当にただ……神々抜きで人間だけで楽しむもので、それが私には新鮮で……自由だな、と感じます」
「不遜だとか不敬だとか、思われないんですか? 美しい月を愛でるのに月神を称えないなんて厚かましい、とか」
「不思議とそうは思いませんね。この町の空気のせいかもしれません」
元より多様な土地の人々が集いまじわる港町、今はなおさらにワシュアールから逃げてくる人々が増えて、ひとつの規範が全体を縛ることはできなくなっている。混沌とした状況のなかで、異なる背景をもつ人々が互いに害することのないよう、融和を模索する手段としての宴なのかもしれない。
「こんな中で、どのようにしてアータルの火を守ってゆくか、どういう形がふさわしいのか……本当に、学ばなければなりませんね」
半ば独り言のようにそう言ってから、タスハは我に返って「失礼、せっかくの楽しい場を」と詫びた。むろんジェハナはまったく気を悪くしてなどいない。
「一緒に考えさせてください」
さらりと当然のように答えて、彼女は空を仰いだ。
「ああ、だいぶ月が高くなってきましたね。きれい……ちょうどこのぐらいの月が好きなんです」
「このぐらい、ですか?」
タスハも揃って月を見上げる。昇って間もない時のように膨張してはおらず、やや大きくはっきりと見えている。目に優しいといえばそうかもしれない。
「はい。もう少ししたら、暗い空に真っ白に輝くようになるでしょう? そうなる前の、今ぐらいの柔らかい金色の月が、一番……」
そこまで言って、ジェハナは自分で堪えきれずにくすっと笑い、悪戯を見付かったような苦笑で首を竦めた。
「美味しそうだな、って。子供の頃から、思っているんです」
「……ははぁ。なるほど、確かに」
タスハは目をしばたたき、真顔を保ってふむふむとうなずいた。内心の動揺――なんて可愛らしい――を隠すためである。ひとまずそれは成功したが、続く言葉には持ち堪えられなかった。
「タスハ様のお声も同じですね」
「――は、い?」
聞き返した声が裏返りそうになる。ジェハナは月を見上げていて気付かない。
「白っぽい黄色なんですけど、うっすら光を感じるんです。眩しい黄金ではなくて、柔らかくて暖かい、そっと照らしてくれる月のような」
「そう……なん、ですか」
タスハは頬が熱くなるのを自覚しながら、しどろもどろの相槌を打つ。自分の声に、色は見えない。路を通して載せた色ならばわかるが、普段どんな声で話しているのかは、なぜか自覚できないのだ。
「最初はチーズか卵かしらって思ったりもしたんですよ。なんだか滋養があって美味しそうっていうか」
無邪気に笑って言いながらジェハナは振り返り、その当人が月明かりにもあらわに赤い顔をしているのを目にすると、はっとなって自分の口を覆った。
「ご、ごめんなさい! わたしったら、不躾に人様のお声を……あ、ああ、失礼しました!」
美しい声だと褒めるだけならまだしも、美味しそう、などとは。見る見るジェハナも真っ赤になってしまう。
タスハも顔を隠すようにうつむいて、もごもご答えた。
「いえ、あの、お褒めに与り光栄、です……その、いささか身に余りますが、とにかく……不快な声でないのなら、良かった」
どうにかそれだけ言ったものの、顔を上げられない。なにしろ、視界に入る地面にくっきり影が落ちるほど、月が明るいのだ。
(ああ、せめて月がもうすこし暗かったなら!)
夜闇に表情を紛らすこともできるだろうに、これでは隠しようがない。
窮地に陥ったのはジェハナも同じだったらしく、彼女のほうはいち早く脱出方法を見つけ出した。
「飲み物を! 買って来ますね!」
強引に話題を打ち切って、小走りに屋台のほうへ逃げていく。タスハはそれを見送り、ほっと深く息をついた。
よもやまさか、自分の声が月の光にたとえられようとは。
顔を上げ、熱くなった頬を夜風で冷ましながら、丸い月を振り仰ぐ。月見日和の、まわりに雲の一片もない晴れ空が、今は少しばかり恨めしかった。
2025.10.11




