寂しい壁(マルグリット)5
一夜明け、早朝マルグリットはこっそり女子寮を出た。やがて授業の時間が近づき教室に入る。いつも通り変わらぬように、内心ビクビクと震えながらも。
まだ公にはなっていないものの授業前に女子寮の生徒達はこそこそと昨晩の事件について囁きあっていた。
様子が異なることに気づいたのだろうか、心配そうに声を掛けてくれたのはルーナだった。彼女にはマルグリットがやったことがわかってしまったかもしれない。でもルーナは何も聞かなかった。ただマルグリットを労ってくれた。それに彼女は王妃教育で昨夜は寮にいなかったのだ。何も知らないのは当然だ。
ルーナを絶対に巻き込むわけにはいかない、とマルグリットは普段と変わらないよう振る舞った。それでも考えてしまうのは昨夜のことばかりだ。
フィーリアを人形で追いかけ回した時、彼女が他の寮生に助けを求めるのは想定外だった。よく考えれば当たり前なことなのに。順調に進む準備に盲目になりそんなことすら気づかなかったのだ。
それでも天はマルグリットに味方した。誰も、寮生の誰一人として部屋から出てこなかった。皆も自分と同じように平民のフィーリアが嫌いなのだろう、だから彼女を助けなかったのだと思い至った。
フィーリアの味方は誰もいないのだ。これは皆のためにも必要なことなのだと歪んだ正義感をマルグリットは募らせる。
追いかけたフィーリアがまさか部屋に入らず走り続けるとは思わなかったがさらに追い詰めればようやくは自室に逃げ込んだ。マルグリットは獲物の最期を見届け、自身は借りた部屋に身を潜めた。
すぐにフィーリアは驚き部屋を飛び出してくるだろう。そして二度と戻らないだろう。
暗闇の中マルグリットは歪んだ笑いを噛み殺す。
ほら、逃げ出しなさい、大人しく平民の居場所に帰りなさい、二度とここに来るな。高揚する思いを小さく深呼吸し無理やり鎮めそして耳を澄ます。部屋の外は静かだ。
いや、静か過ぎる。
まるで何事もなかったかのように何も聞こえない。
あの女、鈍感すぎる。部屋が血だらけだったら逃げ出さすだろう、これだから平民は……とマルグリットはやきもきする。しかしここから出るわけにはいかないのだ。マルグリットは耐えた。
それからどのくらい経っただろうか、体感では長く感じたが実際には数分経っただけだろう。耳を劈くほどの大きな下品な悲鳴が聞こえたのだ。
それから今までの静けさが嘘のように次々と扉が開く音がして寮生達の声が響いた。
それは眠りを妨げた平民を詰る声ではない。皆がフィーリアを心配し、気遣っている。
あんな平民の女を皆が気にかけている。あの中には貴族の子女もいるのに。そのことにマルグリットは衝撃を受けた。そして外から聞こえてくる声からさらに予想外の事実を知った。
フィーリアは誰かに閉じ込められて部屋から出られなかったのだ。
マルグリットの額が汗で滲んだ。
自分は閉じ込めてなんかいない、少し脅かそうとしただけだ。呼吸が浅くなり、心臓の音が速くなる。
それでも怖がらせたのは、追いかけたのはマルグリットだ。ならば閉じ込めた犯人もマルグリットだと皆がそう思うのは自然なことだ。
いや大丈夫、誰にもわからない。部屋を借りる時も別な生徒の名前を拝借した。それに作業時はルーナの部屋を借りたのだ、とマルグリットは思い直す。そして絶望した。
決定的な証拠がある。フィーリアはマルグリットのクッキーを食べたのだ。それが原因でこうなったのだ。犯人が誰かだなんて彼女はわかっているだろう。
その筈なのにフィーリアは何も言ってこなかった。アレス達に知らせそれから判断するのだろうかとマルグリットは唇を噛み締めた。
男爵とはいえ元は平民の娘だ。多少害した位では酷い罰にはならないだろうと楽天的な考えが浮かぶ。だがアレス様にジェローム様、ルルディ様と皆に好かれているようだ。もしかしたら学院を去らなければならないかもしれない、と考え直す。退学になったらオバー様になんて言われるか。いや問答無用で高齢の狒々爺に嫁がされるだけか。
せめてルーナにだけは迷惑をかけないようにしようとマルグリットは拳を握り締めた。




