貴族の責務(ローランド)3
翌朝、目をこすりながら食堂に現れたローランドの姿を目にし、兄は満足そうに笑みを浮かべた。いつもよりだいぶ早くに起きてきたからだ。大方弟がやる気を出したとでも思ったのだろう。
実際にはいつもより早くに目が覚めただけだ。いや、正確には寝付けないうちに朝になってしまったのだ。そんなローランドの目の下には隈ができていた。
食欲もわかず、彼は従者にすぐ出発すると告げた。
教室に入るとあの女、ミラの姿はなかった。まだ早い時間だからに違いない。それでも既に数人の生徒が登校していてお喋りに興じていた。
暫くすると友人ルノーもやって来た。
「うわっ、酷い顔」
「挨拶もなしに、なんだよ」
「隈、隈がすごいよ」
全く心配をしていない口調で笑われる。
ローランドは昨日のその後の出来事を話そうか迷ったが、口に出せずにいた。
それに話すのは女の無事を確かめてからでもいいはずだ。
(あの女、まだ来ないな)
大丈夫、きっと大丈夫だ。ローランドは自分に言い聞かせる。
やがて教室にほとんどの生徒が登校してきた。ミラと仲が良い女生徒が空いている席を不思議そうにみつめている。その姿をちらりと見やりローランドは唇を軽く噛む。
(あの女はまだ来ない)
日が暮れてから街にいたのはあの女が勝手にしたことだ。それなのにどうしてか気になってしまう。
ローランドは女にも、自分自身へも苛々が募っていった。
もうすぐ授業開始の鐘が鳴る。
それなのに彼女の席は空いたままだ。
ローランドは唇を噛み締めた。
もう生徒は彼女以外皆揃って教師が来るのを待っている。
そんな中、誰かが小走りで飛び込むように教室に入ってきた。
それは紛れもなくあの女だった。女は何事もなかったように席に座ると机から教科書を取り出した。
ほどなく鐘が鳴り、教師も来て授業が始まった。
ローランドは小さく息を吐き出した。
結局女とは話せずじまいだが、昼休みになったら自分から声をかけよう。それが貴族である自分の責務だから、とローランドは思ったのだ。
授業中、ちらりとローランドは彼女を盗み見る。昨日は長い髪を結ばず、そのままにしていた。今は引っ詰めたように一つ纏めにしている。表情はどことなく険しい。教科書を開き、教師の方を食い入るようにみつめていた。
生真面目な女だとローランドは思った。そして自身は悪友ルノーと基礎魔法の練習を始めるのだった。
とはいえ昨夜眠れなかったのだ。ぼんやりしていたせいでルノーの髪をちょっと焦がしてしまったのはご愛嬌だ。しこたま教師に怒られたし、ルノーにお返しとばかりに魔法で顔に水をかけられたが。
ようやく昼休みがやって来た。
早速彼女に声をかけようとローランドは近づいていく。しかし彼女は気がつかず、足早に教室を出て行った。慌てて後を追い廊下に出たが彼女の姿はもうなかった。
仕方なく先にルノーと昼食を済ませ、そのまま中庭に向かう。すると遠目に彼女がいることがわかった。今度こそチャンスだ、とローランドは早足になる。
しかしその瞬間彼女は思い立ったようにどこかへ行ってしまった。
「あ、待て」
思わず声が出たが、もう彼女の姿は見えなかった。そんなローランドを見てルノーが苦笑いを浮かべる。
「またあの子を追ってるの?」
「追ってない。用があるだけだ」
ローランドは仕方なく昨夜の顛末をルノーに話すことにした。すると彼は困ったような表情をしつつも、協力すると申し出た。
その後、午後の授業でとんでもないことが起こる。そんなこともあり、彼女とは話せず仕舞いだった。
放課後も諦めず、学院の敷地内をそこかしこと散々歩き回る。ようやく彼女の後ろ姿をみつけたが、彼女はロザリーと一緒に女子寮の中に入ってしまった。こうなると手も足も出ない。
ローランドは未練がましく女子寮の扉をみつめていたが、踵を返した。まだ明日がある、と苛立つ気持ちを抑え、彼は帰路についた。
あれから一ヶ月経つか経たないか。
ローランドは未だ彼女と話ができずにいた。
勿論何度も話しかけようと試みた。しかし、その度に邪魔が入ったり、気づいたらいなかったり、確かにそこにいた筈なのに彼が話しかけようとすると忽然と消えてしまうのだ。
「間違いなく、避けられてるね」
ため息をつく親友の様子にルノーは苦笑いを浮かべながらも率直な感想を伝えた。
「俺はただあの日のことを話したくて」
「あの子はそう思ってないのじゃない?」
「でも……」
「もう諦めたら?」
そう言われたが、あの日の夕方馬車から見えた彼女の姿が忘れられないのだ。それに貴族としての責務もある。
本当に貴族の責務として彼女に話をしたいのか。それともただ彼女とお喋りをしたいのか。ローランド自身もまだ気がついていないが、彼の目は無意識のうちに彼女の姿を追っていた。
授業中、食い入るように教壇をみつめる姿、授業後に教師に質問する姿、授業の本筋と違う話にもメモを取る姿、男装女や平民女といる時だけは笑顔になる姿、どんな相手に対しても時にはハッキリと物を言う姿……。
「うっわ、気持ち悪っ」
熱弁をふるう男へルノーは正直な感想を送る。
「ちがう、そうじゃない」
顔を真っ赤にしながら否定をするが、この男、いつの間にか彼女のことが気になって気になって仕方がないようだ。
「ミラ嬢はとても努力家で、真面目に勉学に励んでいる。それでいて剣術に挑戦するアグレッシブな一面もあって……」
まだまだ続けそうな男をルノーは遮ろうとするがその口は止まらない。
「ルノー、俺はミラ嬢の目に止まるような男になるぞ」
「はへ?君、そんな性格だっけ?」
不真面目な態度はどこへ消えたのか。ローランドは授業を真面目に受け、家庭教師までつけて貰い、勉学に励むようになった。
元々要領がよかったこともあり、みるみるうちに彼は成長していった。
もうすぐ一年が終わろうとしているが、未だに彼女とは一言も話せないが。
そんな彼が期末試験で好成績を収めるとはさすがのルノーも、そしてローランド自身も予想していなかった。
「これでミラ嬢に少しは気にかけて貰えるかな」
「それはどうだろう。でもやるじゃん、ローランド」
嬉しそうな友人に称賛の言葉を送るルノーの成績は反対に酷いものだった。教師に肩をトントンされたことは親友と言えども秘密にしている。
そしてトントンされた生徒が他にもいること。その中にミラ嬢と仲の良いロザリーがいたことも絶対に秘密にしておこう、とルノーは心の中で思うのだった。
入学初日以来、ずっと話すことができなかったミラとローランドが会話できたのは学院が長期休みに入る前日、一年目最後の日のことだった。
ローランドはミラの激渋紅茶を堪能しただけで、あの日のことは特に謝罪できていません。




