16
夕美が志穂の腕を頻りに揺らしていた。志穂はようやっと決意したのか、すっと顔を上げた。
「――――何言ってるの夕美。私、ちゃんと見えるよ」
「嘘つき」
「何で嘘って」
「もうやめてよ!」
金切り声を出して、夕美は志穂の胸元を掴み、首へ押しつける。「言い訳しないで! ちゃんと答えてよ!」夕美の力は予想以上に強く、このまま絞め殺されるのではないかと、志穂はぞっとした。
「くる、し・・・・・・うっ」
志穂は息が出来なくなり、夕美を離そうと彼女の腕を掴んだところでバランスを崩し、二人もろとも地面に投げ出された。神社の砂利は、冬の冷気でひんやりしていて、頭を冷やすには丁度良かった。
二人は暫く立ち上がらなかった。いや、できなかったというのが正しい。志穂も、夕美も。それぞれが混乱し、どうすれば良いのか、分からなかったのだ。
やがて、志穂の耳元で、すん、すんという囁きが聞こえてきた。志穂はちらりと見やると、夕美が手で口許を抑えて、痙攣して泣いていた。涙が夜露のように、きらりと輝いて見える。
「私、嘘ついた・・・・・・かも」
夕美は押し黙って、これ以上泣かないよう、必死に体を縮ませた。志穂は続けた。
「夕美の言う通り。私、見えてないんだ・・・・・・夕美しか。もう随分前から。いちいち説明すると凄く長くなるから省くけど、小学校の時からもう見えてなかった。で、悪化したのがまだ高校に通ってた時だから、二年前くらいかな」
全てが繋がった気がした。様々な感情が入り乱れてぐちゃぐちゃになって原形も留めていない中、夕美は少し安心したような気分になった。
「そう、だったんだ・・・・・・」
「そっ」
互いに背中合わせのまま、どちらもじっと横たわっていた。
「じゃあ、なんで眼帯付けてたの」
夕美が声を上ずらせながら、尋ねた。
「この眼帯がなかったら、私、何も見えないの。でも、これがあるから、左目が隠れてるから、夕美だけ見えるんだよ。まぁ・・・・・・こんな話、信じないだろうけどね」
「信じるよ」
上半身を起こした夕美と、志穂は目が合った。混じりっ気のない、純粋な色をした黒目。「私、お姉ちゃんの言う事なら何でも信じる。ずっとそうやってきたもん」
「それはどうだろう」
志穂はやや謙遜して、下を向いた。その時、ひたっと、夕美が手を重ねてきてた。冷たくて柔らかい感触。久方ぶりの気がした。いや、夕美とは何度も手を握ったり、触れたりしてきたけど、こう、芯のある暖かさというか、安らぎをもたらせてくれるのは、最近なかったものだった。
「昔みたいに元気で、明るくて、私を導いてくれる。お姉ちゃんに戻って」
「無理だよ、絶対」
志穂は首を振った。「何も見えない怖さを夕美は知らないんだ。凄く孤独で、ずっと一人ぼっちで、もう誰も私を見てくれてないんだって思う。怖くて、めちゃくちゃ怖くて。死にたいなって思うんだよ。もう耐えられない。夕美だけには知られたくなかったのに・・・・・・」
今にも立ち上がり、走ってどこかへ行っちゃいそうな体勢だった。次はどこへ、私の手の届かない、本当にどこかへ消えちゃうの・・・・・・。ダメだ、そんなのダメだ。夕美は志穂の背後から、押さえ込むように、ぎゅっと腕を回した。
「私が味方でいるから」
志穂は体が硬直して動けなかった。力が一気に抜け、へたり込みそうだった。その体を、夕美が支えていた。心の奥にあった膿が摘出されたみたいで、いやに清々しい。同時に、悦ばしい。
「こっち向いて、お姉ちゃん」
志穂は夕美のエスコートに従い、くるりと反転させた。目と鼻の先に、夕美の顔がある。人形のように可愛らしく、それでいて綺麗だ。愛くるしい瞳の中に収まる自分の姿が、醜くない。
夕美の手がすっと志穂の後頭部に添えられた。
「眼帯、外すよ」
「だ、ダメ!」
夕美は動きを止めた。「それだけはやめて。夕美が見えなくなったら、もう私」
「じゃあ、ずっとこのまま?」
沈黙が流れた後、夕美は続けた。
「見えるとか、見えないとか。そんなこと、私関係ないと思う。全然気にしてないもん。だって、目が見えなくなって、引きこもりだって、煙草吸ってたって・・・・・・どんなにろくでなしでも。私のお姉ちゃんであることに変わりはないんだから。ずっと、ね」
そう微笑む夕美を見て、はっと志穂は気がついた。見るのを恐れていたんだ、ずっと。小学生だった頃から、夕美が夕美でなくなるのを、一番恐れてた。
夕美が眼帯をずらそうとしたから、志穂は慌てて「私がとるよ」と言った。黒紐に手を掛けるが、なかなか勇気が湧かなかった。黒いトンネルがずっと続いていたら。いや、きっと夕美は私の側に居る。だって私たちは――――。
顔を強ばらせる夕美に、志穂はそっと口づけてみた。ありがと、そう小さく呟いて、躊躇いなく眼帯を外した。
暗闇の神社。いや、ここは神社なのだろうか。真っ暗でやはり、何も見えない。でも、志穂は急きも騒ぎもしなかった。すぐに、手に誰かの感触がした。志穂は握ってみた。あちらもぎゅっと握りかえしてくるのが分かる。細く、丸く、冷たい。指と指の間に互いの指を絡めると、少し寒さをしのげるような気がした。
「帰ろっか」
「うん!」
志穂は立ち上がり、ぎこちなく歩き始めた。でも、志穂は知っている。自分は一人で歩いていないことを。すぐ隣に、もう一人、手を繋いで寄り添ってくれていることを。
志穂の二つの瞳はきっと、夕美と同じ方を見て、あの日の帰り道を共に歩いていることを。




