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杜若  作者: 椋原紺
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 暫くは平穏な日々が続いた。ただ、微細ではあるが、時計の針が一秒一秒遅れていくように、影では既に異変が生じ始めていた。いつか古びた時計の針は動くことを止める。志穂の場合も、例外ではなかった。

 高校二年の頃だ。志穂は何気なく登校していた。無論、眼帯を付けてはいない。家を出てすぐに、ひょいと外して鞄の中にしまい込んだのだ。だから、通勤ラッシュに追われるサラリーマンも、制服姿の学生も、駅員さんも、皆見えた。

 志穂の高校は県内でも一二を争う進学校で、家からは距離があった。満員電車に揺られることは当初敵わなかったが、最近では人と人の間に上手く体を入れ、手提げ鞄を利用して余裕を作り、常に楽に立てる体勢を取れるようになっていた。おまけに本を開いて読書に勤しむ余裕があるくらいである。

 この日も、志穂は体重を上手い具合に誰かの背中に乗せながら、押しつぶされないよう注意を払いつつ、読書に耽っていた。本のタイトルはもう忘れたが、片目を移植された女の子が不思議な体験をするような体であったように、志穂は記憶している。今思えば、もうその時点から不吉な感じはあったのだが。






 電車が止まった。気の抜ける音と共に、人の波が緩やかに、時に激しく動き出す。右に揺られ、左に揺られながら、ざわざわしたホームからの雑音が耳障りで、付けていたイヤフォンをさらに耳の奥へと押しやった。残響のような車内アナウンスの声を聴く限りでは、まだ目的の駅には着いていない。志穂は小説から目を離すことなく、ページを捲り、眉間にまた一つ皺を寄せた。そうすれば、再び電車はがくっと発進し、反動で乗客はバランスを崩すが、何事もなかったかのように時は進む。

 志穂は毎朝の事で慣れてしまっていた。だから、些細な事でさえも、気付くことは出来なかったのだ。

 次は○○駅、○○駅――――そんな声が耳に入り、開いたページに栞を挟んで閉じ、伸びをするように軽く体を反らした。その時、視界に映った光景を、志穂は瞬時に理解することができなかった。

 重箱に所狭しと詰められたおせち料理みたく、そこには溢れんばかりの人々がいるはずだった。が、しかしどうだ。目の前には人っ子一人もいない。車両には自分一人だけ。誰の手も掛けられていないつり革、誰も座っていない座席、誰ももたれていない扉、その他諸々のモノが見えるだけだ。

 見開いた目を、口を、閉じることさえも忘れ、ただただ呆然と立ち尽くすしかできなかった。「あ、ああ、ああ・・・・・・」と、だらしない驚嘆の声が漏れていたかもしれないが、志穂は恐らく気付くことはなかったであろう。

 そうだ。左目だ。ぱっと思いつき、志穂は左目を手で隠した。が、やはり変わらない。もう一度見開く。本来なら、それで人は見えるはずだった。祈るように左手をどかす。しかし、志穂の思いも虚しく、目の前には空っぽになった車両の内部がありありと映っているだけだった。

 電車は間もなく停止した。扉が開き、志穂はあっという間にもみくちゃにされた。だが、何も見えないのだ。体が押されている感触はあるのだが、やはり何度瞬きしてみても透明な世界のままだ。苛立ちが乗り移ったかのような、激しい足音だけが車内をこだましている。幼い頃、浮き輪を付けて流水プールに身を委ねたことを志穂は思い出した。空を眺めるだけで、体は不思議と前へ進んでいる。見えない誰かに押してもらっているみたいに気持ちが良かった、あの時。しかし今は、取り留めのない不安と絶望に染まり、目の前が真っ暗になりそうだった。

 夕美は見えるのだろうか――――。そんなことを考え出したら、途端にぐにゃりと眼前の景色が捻れ、叩き割れそうなくらい頭痛がした。

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