第31話 私と、結婚してください!
先生は一瞬驚いたような目をこちらへ向けて、すぐに訝しげな顔をした。
「……何者だ?」
「あ……私は、ファウスティナと申します」
「ああ、異例の早さで次期聖女に選ばれたというご令嬢か。私に何か用でも?」
あからさまな警戒が込められた声に、一瞬で涙があふれた。
今の彼に、私との記憶はひとつも残っていない。それをよく知っていたから、これまであえて会いに行かなかった。全てがなかったことになっている彼に会うのが、怖かったのだ。
あたたかな感触がまだ残っているような気がして、私はそっと自分の唇に触れた。――あのときの彼は、もういない。
でも、初対面である私の涙を気遣い「どうした、何かあったのか?」と狼狽える姿は、前周と全く変わらない。黙っていると気難しそうに見えるけど、やはり優しい人なのだ。
差し出されたハンカチには、前周で涙を拭ってくれたものと同じ灯花の刺繍があった。それを見た瞬間――。
「あの……私と、結婚してください!」
私はハンカチをにぎりしめたまま、無意識に声を上げていた。
「な……!?」
「聖女と王の子の婚姻は、王太子とは特定していません。ならば、先生……あの、フィデンツィオ閣下でも、全く問題ないはずです!」
「だからといって、わざわざ私などを選ぶ理由にはならんだろう。もしやそなたは、それほどまでにデメトリオに酷い仕打ちをされたのか……?」
しかめ面に見えるけど、瞳に気遣う色が満ちている。私は彼をまっすぐに見つめたまま、話を続けた。
「閣下もご存知でしょう、デメトリオ殿下に恋人がいらっしゃることを」
「だからといって、私の悪名を知らぬのではあるまい……。すまない、弟が、よほど辛い思いをさせてしまったのだな」
「閣下には婚姻のご予定や、そうでなくても想うお方はいらっしゃいますか?」
「いや……」
「ならばどうか、私と……!」
思い余った私が一歩踏み出すと、彼は困ったような顔をしたまま、それでも僅かにうなずいた。
「なるほど、私は便宜結婚に最適な相手というわけか。理解した。弟の罪は、兄である私が贖おう」
「違う、そうじゃないんです! 私はただ、あなたのことが……」
再会したことで、私は彼のことをどれほど大切に思っていたのか、思い知らされた。
いっそ再演の話を、前周の彼である「先生」の話を、全て伝えてしまおうかとも思った。でも、本当の想いを知られてしまったら……今の彼を困惑させて、無理に気を遣わせてしまうかもしれない。
私が言葉につまっていると、彼は優しく目を細めて言った。
「安心するといい。そなたが本当に想う相手に出会うまで、王家の身勝手な悪習からそなたを守ろう。私は聖女という制度の在り方に、ずっと疑問を抱いていた。聖女だからと、一人で全てを背負って犠牲になる必要はない。だから……あまり思い詰めるな」
「ありがとう、ございます……」
泣きそうになるのをぐっとこらえて、私は微笑んだ。
「やはり閣下は、誰よりもお優しい方です」
「いや、私は別に優しいわけではない。ただ、君を見ていると、なぜか……」
私の頬へ、ゆっくりと手が伸ばされる。だけど触れるか触れないかのところで、それは引き戻された。
「いや……すまない」
(まさか、先生も前回のことを覚えて……いや、そんな都合の良いことはないか)
期待したら、傷つくだけだ。今は、また好きになってもらうことだけを考えればいい。
私が密かに決意を新たにしていると、先生が……ううん、違う。閣下が言った。
「……それより、デメトリオを納得させる方策を考えねばならんだろう。あれは自尊心が高い。自分から捨てるのはよいが、相手から拒否されたとなれば意地となって逃さぬようにするはずだ」
「それは……私に、策があります」
* * *
「ふん、選定すら経ずに女神より認定された、それはもうご偉大な聖女様が、今さらわたくしたちに何の用!?」
私が呼んだ部屋に入って来るなり、フランチェスカ嬢が声を荒らげた。彼女ら残る聖女候補たち三名も、誓約の儀を無事終えるまでは代替品として大神殿に留め置かれているのだ。
「貴女たち三人にお願いがあるの。どうか誓約の儀が終わっても、ずっと神殿にとどまって私を助けてほしい。私は魔の森に隣接するイルネーロ領をはじめとした辺境をめぐり、細かな結界の綻びを修復し、人々を助ける。だからどうか貴女たちは聖女補佐官となって、ここで大聖樹を守ってほしいの」
かつて選定の儀で、聖女ルチア猊下は言った。
『たとえ聖女に選ばれずとも、その素質が消えることはありません。聖女に万に一つのことがあったとき、代わりを務めるのはあなたたち聖痕の乙女のお役目です』
それは言葉の通りの意味で、聖女に選ばれずとも聖痕は消えず、また聖女の代わりに大聖樹に力を注ぐこともできるらしい。でもそれを聞いたフランチェスカ嬢は、眉をひそめた。
「何を言っているの、王太子妃が辺境に行くなんて、許されるはずがないでしょう!」
「私は、王太子妃にはなりません。ルチア様にはすでに相談し、ご許可をいただきました」
「妃にならないですって? では聖女は王の子と婚姻を結び力を合わせて大聖樹を守るという、女神と交わした古の約定はどうなるの!?」
「王の子は、一人ではありません」
「まさか……」
フランチェスカ嬢たちは信じられないというように、大きく目を見開いた。
「はい。イルネーロ公爵閣下の元に嫁ぎます」
「あの屍体蒐集家だとかいう恐ろしい噂のある方に、なぜ……」
「それは、辺境の苦しい状況を知ってしまったからで……」
「そんなことで王太子妃の地位を棄て、屍公爵に嫁ぐというの? あなたは、一体何を企んでいるの!?」
「それは……好き、だからです。あの方が……」
ずっと胸に秘めていたことを言葉にしたとたん。
私は笑みを浮かべつつ、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「なっ……!」
絶句したアレッサンドラ嬢とマリネッタ嬢の声を代弁するように、フランチェスカ嬢が再び口を開いた。
「なぜ、そこで泣くの!?」
「それは私の……片思い、だから……」
「わ……分かったわよ! なんだかよく分からないけれど、仕方ないから聖樹は守っておいてあげる。で、いいわよね?」
フランチェスカ嬢が友人たちの方へ顔を向けると、アレッサンドラ嬢は苦笑しながらうなずいた。その横ではマリネッタ嬢も、目をキラキラさせてぶんぶんとうなずいている。
フランチェスカ嬢は再びこちらを向くと、煽るように手を振り上げた。
「ほら、分かったなら、安心して好きな人を追いかけなさい!」




