第83回~昭和45年8月23日「恋のほのお」(3)
四
フジパンロボット館に入る余裕はなかった。
僕はただ、ロボットの模型を前にして母親や祖父に写真をせがむ子供たちの中で言葉を喪っていた。そして低く静かに言葉を発しなくてもすむ世界へと沈んでいく。
恵子が婚約をしていないという意味をどう、捉えたらいいのだろう?
「おケイ……」
やっとの思いで名前だけが出る。僕は彼女の言葉を表情からなんとか確認しようとする。しかし、彼女は朗らかな顔を崩さないまま言葉を継ぎ足してくれようとはしなかった。
「そのままのとおりよ波多野君……」
柔らかな口元がこちらに開いたが、それはすぐにテレビマンガのヒーローの親戚のようなロボット達を前にはしゃいでいる子供達を「可愛らしいわね」と評しただけで閉ざされた。
さり気ない仕草を繰り返しつつ、彼女はゆっくりと言葉を待っていた。
「さよか……」
僕はあごに手をあてながら、何一つ心は定まっていないのに得心する格好だけをとる。
言うまでもないことだったが、恵子の言葉には蠱惑的なものがあった。今、この言葉に乗ってしまえば遥か昔から、僕はこの女の子との恋路をやり直せるかもしれないと思わせる程に。
いや、そうなのだ。彼女に「イエス」と同意した瞬間、僕らは宝塚のレコード屋で初めて口をきいたあの頃に戻っていけるのだ。それが何を意味するのか?
「そうよ」
彼女は頷いた。
「君が結婚をするものばかりやと僕は……」
「そうでもしないと、ねえ、あんな手紙でも出してみないと煮え切らない波多野君は振り向いてくれへんもの」
香水の香りとともに、恵子は頷いた。透き通るような顔だな、と思いながら僕は目を細めて彼女を見た。美しさがいささかも色あせていなかった。
ほんの少しパーマネントしてウェーブを保った髪、スラリとした鼻、そしてスカートから覗く細い足。どれもが僕が憧れ、手中に収めたかったものだった。
僕は、その全てをじわじわとした憧憬の中で眺めた。そうした瞬間にはいよいよ、多英の姿が影も残さず消え失せていこうとする。だがもう、その姿を引き止めるべきなのかも分からなくなっていた。今、思考をとめたら口は本能と直感だけで動いていけるだろう。
「ああ……煮え切らない男さ、僕は……」
そこまでは声に出た。しかしその先が続かなかい。多分、「今までずっとそうだったさ」とまでは言えるかもしれないが、その先、「それでも君が好きだったんやで」とは言えない。「今からでもやり直せるか?」とも。
多英の姿がうすらいでも、中田が消えてくれなかったのだ。彼の「ペンキの上塗りをしてこい」という一言が耳垢のようには落ちていってはくれなかった。咥えタバコの彼を記憶から遠のかせることがどうしても出来ない。
僕は天を仰いだ。
「ゆっくりでいいから考えてみてよ」
恵子の言葉がする。その一方で”ペンキの上塗りをしてこい”と、咥えタバコの中田がまたしつこく脳裏で囁く。そして、彼の言葉が痛いほどに眼前の誘惑以上に僕を縛りつけていく。
彼にいわせりゃこちらは大工ではなくペンキ屋でしかないのだ。おケイと、いや、恵子と付き合っていくということを家を建てることに例えるならそれが出来なかった男だし、そんな技量も才覚もない人間だった。度胸もなかった。今はただ、彼女がどこかで建ててしまった粗い塗装の新居にせめて丁寧なペンキを施す技術だけが辛うじて残っているだけに過ぎない。
中田の言葉はそういうことだったのだな、綺麗な部分を取り出すとはそういうことだったのだな、とようやく思いが至った。やり直せるかなどという興奮は錯覚でしかない。この子と何かが始まることは最早、ないのだ。大体、僕は過去にだっていい部分があったことを確認するためだけにここに呼ばれたと判断したから応じたのだ。良い季節は確かにあった以上、そこを強調することだけが今、最後に出来ることだった。
恵子だってそうでしかないだろうに。
”ペンキの上塗りだぞ、波多野”
秋田人がまた、千里丘陵のどこかから見え隠れする。恵子に返事を待たせながら、僕は彼の姿を空のどこかから探そうとする。
脳裏の中の彼は、千里の緑とよく似た色合いの神宮球場の外野の芝生に寝転びつつ、ヤクルト大洋戦を眺めている。中田の贔屓チームは昨日で十四試合連続で負けていたが、彼は弱いチームを飄々と応援しつつ僕が帰ってくることを待ってくれているだろうかと思った。
そういった姿に思いがいった瞬間、僕がしなければいけないことは一つでしかなかった。
かつて僕と石堂は二人してじゃれあうように冗談を言いながらでしか彼女の近くにいられなかった。冗談が言えなくなった嘔吐した男を梅田の駅で見送ってから、僕は彼と何の連絡もとっていない。石堂がいない状態で、僕は彼女の前で華麗に立ち回れる自信がなかった。彼の豪胆さとこちらの慎重さが上手く絡まりあってこそ、かつて僕らはおケイの前に立つことができた。我が幼さは薄らいだかもしれないが、仮に薄らいだとしてもそれは別の場所、遥か東京でのことにすぎない。
かつて二人の友人を喪った人間は、また新たに出来た二人を喪うことなど出来やしない。その二人が、僕の幼さを時にシニカルに時にダイナミックに和らげてくれたのだ。
「おケイ、すまんがタバコを吸うよ」
「ふうん……」
チビっ子が群がるフジパンロボット館の前で、僕は当初の禁を破って口元に火を灯す。恵子は何も咎めなかった。その眼はしばらくこちらに向けられたが、やがてどこか別のところへとうつろっていく。
「スマンな」
肺にニコチンを取り込むことで、煙の彼方にしばらくぶりに多英の姿が浮かんでくる。彼女もやはり、神宮球場に居た。二人とも本当に、昨日は神宮の森にいたのじゃないだろうか? いや、きっと多英は僕の逡巡を見抜きながら中田相手にスワローズの弱さをからかっているに違いない。ロバーツとチャンスのブラック・パワーの不発も、そして石戸投手の不振もあの子にとったら格好の材料だ。
たまらなく多英の顔が見たくなった。帰って、ちゃんと間近で見なければいけない。そうしないと僕は一生沈んでいくだけになってしまう。
「ああ、ああ、もう無理だよ、おケイ」
近くの灰皿で火種をすり潰すと僕は答えを出した。
「どういうこと?」
怪訝な表情がこちらを射さす。
「君が好きだったさ。けど、僕にはもうその続きをにときめく資格がのうなってもた。振出しに戻って君の傍にはおられへん」
「そんなことないて波多野君」
「いや……」
僕はゆっくりと首を横に振った。何かとても大事だったものを否定しなければいけない時が来た。
「付き合っている人がいる。その子が誰よりも好きなんよ。だからそこに戻らなきゃアカンのや」
「そう……」
恵子の返答は落ち着いていた。そしてかつて多英が言ったように、石堂だけでなく僕もダスティン・ホフマンにはなれないことが遅まきながら決定された。
「その子がいないと、いつまでも僕は昨日のままなんや」
拒絶を送った相手は答えず、ロボット館の前からゆっくりと離れて万博会場に併設された遊園地へと歩みだす。慌ててその後を追ってみるものの、彼女の足取りはすぐに止まった。
「つまんないなぁ」
ジェット・コースターの網のような線路を背にしながらそう言った恵子の振り返った顔は、呟いた言葉と寸分もたがわなかった。笑顔は薄らぎ、失望が隠しきれてはいなかった。
「スマンかっ……」
「いや波多野君、ウチが『つまんない』と考えていることはそんなアナタが思てるような甘いのんとは違うのよ」
彼女は僕の言を遮ってそう言うと、手首をヒラヒラと舞わす。
「波多野君を騙せへんかったワ」
「な?」
「せやから、騙せへんかったんよ」
恵子は屈託のない笑顔を再度つくり、軽く舌を出すと少し強めの口調で繰り返した。
「ウチが婚約したのは本当。で、それを嘘と言ったらあなたがどんな行動に出るかを見てみたかったんよ。せやからここまで来てもらったんやけどねぇ」
唖然とするしかなかった。
だが、彼女がこちらを欺こうとしたことを非難する気にもならない。恵子にそのような企みを考えさせるほど、この数年の自分の罪が重かっただけの話だった。
「もしも『せや、も一度やり直そう』なんて波多野君が言ったら心底軽蔑して嘲笑うつもりやった……」
忍び笑いが低く始まったが、それは背後を滑り落ちていくジェット・コースターの轟音と乗客の悲鳴にすぐにかき消されていく。
「なのに、悔しいなあ。波多野君、ウチの知らんところで立ち直っちゃってた」
轟音が収まったのを確認した恵子は、空を仰いでタメ息をついた。そして遊園地から静かに離れ、大勢の人の中をまた、万博のメーン会場へと戻ろうとしていく。フジパンロボット館には最早、用がなかった。過去を総括することに会場屈指の近未来の紹介だけの施設は必要ないのだ。
「おケイ……」
「波多野君、今のウチはね、悔しさと嬉しさと寂しさがゴチャゴチャになった気分よ」
フェスティバルゲートを通り過ぎる最中、ほんの少しだけ吹いた風に抗うように髪の毛をかきあげた少女が唸るように言った。
「立ち直れない波多野君のあがきを見届けてもみたかったし、逆に、何か引き上げるキッカケをあげられるのは私だけやと思うてたのになあ……別の女の子に救けられちゃったか」
「僕は、君にとってずっと悪党やったね……」
「せやねえ」
彼女は空ろな返事をした。気まずい会話の中、太陽の塔だけが再び今日何度目かで視界の中に拡がってくる。
「でもねえ、波多野君」
その時、恵子がまた語りかけた。情けないが思わず、身体に痙攣がはしった。だがそれは、緊張を強いる必要のないものだった。このしばらくの口調とは違う明るい声だったから。
「でもねえ、波多野君」
同じセリフが繰り返される。そして華奢な手が僕の手首をしっかりと掴んだ。
「人を傷つけたと自認出来て、それをちゃんと悔いることが出来る人が世の中にどれだけいる? でも、波多野君は悔いることが出来た人やと思うよ」
「そ、そうなのかねえ」
「そうよ。そしたら今よりももっと、実体と行動が一致する優しい人になれるわ」
そう彼女は言いきり、掴んだままの僕の右手を離さずにグイっと引っ張った。不意のことに思わずよろけそうになる。
「おいおい」
「おいおい、やないわよ」
恵子は気がつけば昔に戻ったような屈託のない明るい声を出した。
「もう二時よ。ウチらお昼まだやない? 今なら空いているかもしれへんしスカンジナビア館のレストランに行こうよ」
「せやったな。行こや行こや!」
僕は、久しぶりに彼女に笑い返した。霧は少しずつ晴れてきたが、まだ一層はされていなかった。話をし、話を聞かねばならないことはまだ山のようにある。
『ほのお』は静かに消えようとしている。それでも、僕は過去と今を繰り返し繰り返し行き来しながら、この瞬間だけは昔のような陽気さを取り戻してみたいと願わずにいられなかった。たとえほんの少し前まで、こちらの返答次第では恵子が僕を奈落に突き落とす気だったとしても。




