おいでませ神の郷
神仙の住まう土地。
それは光かがやく雲上の極楽や、花の舞う桃源郷のような、理想の幽玄として語られる事が多い。
空に五色の蝶が舞い遊び、枝に宝玉の球が実をむすび、時には美しい楽のしらべが途切れる事なく続く、悠久を約束された土地。
そんな中にはひとつふたつ、人と神が隣人のように暮らす場所もあると言う。
俗に秘境と呼ばれるそこは、神の恩恵に預かった特殊な世界に他ならないのだ。
――以上が、伝承として私が記憶している限りのイメージだったのですが。
まさか、まさか神様として、本当にその「聖地」に住む事になるとは――
「…うん、フッツーの田舎や」
予想外過ぎて、逆にびっくりです。
んもーぅ、と間延びする牛の声。縁側にさんさんと降り注ぐ日差し。
遠方にはぐるりと郷を囲む山が見え、そこに見事な緑をしげらせています。
川は清く、空の青は深く、切れ切れの白い雲が見下ろす中を、すいすいと鳥達が横切る田舎。
私が住む本堂を中心に、豊かな田畑が広がるそこは、たっぷりの自然に囲まれた郷でした。
「おはよーごぜえますだ! フク様!」
縁側に腰掛けている私に、そう声をかけて行ったのは百姓の親父。
あのすばらしく美味しい大根の作付け主です。
日焼けした肌は労働に引き締まり、きちっと額に結んだ手ぬぐいが、これまた男らしさを五割増し。
そんな彼が通り過ぎた後を、わら葺き屋根に使うわらを担いだ少年が、はだしで駆けて行きました。
「フクの神、か…」
何がどうなったのか、いまだにサッパリわからないんですが。
ただ、私の身の回りの世話をしてくれる子が「シキ」と言う名である事や、彼女が何となく近い血筋の者だと言う事は、一晩の間で理解できました。
もしかしたら、先輩や祖父との日々の方が、私が見ていた夢なんじゃないかと思うぐらいにはナチュラルに、それを思い出せたのです。
それにしては、この土地に対する理解と言うものが、私からすっぽり抜け落ちているのが困りものなのですけど。
「シキ?」
「はい」
私の声を聞きつけて、シキが顔を出します。
大振りな袖を持つまっしろな和服に、腰まで伸ばした黒い髪。
首に玉を連ねた首飾りをかけているのは、神に仕える立場である証拠です。
彼女は今年で十二歳、まだまだ幼い感じもするのですが、とても良く働くのです。
私が呼んだ時も、ちょうど、本堂の床を米ぬかと木灰でぴかぴかに磨き上げているところでした。
「何かごようですか?」
「うん。そろそろお天道様が真上に来るから、休んでもええやろと思ってん」
「ありがとうございます、じゃあ、残りを急いで終えて来ますねっ」
ぱっと明るい笑顔を見せて、シキがくるりと背を向けます。
それから、とたたた、と長い廊下を雑巾がけする彼女の足音が、軽やかに遠ざかって行きました。
空気に、古い木の甘い匂いと、少しくすんだ米ぬかと灰の香ばしさが混ざっています。
かさりと音がした方を見上げると、屋根のすきまからじっと私を見つめていたヤモリが、ひょろりと長い尾をひるがえして再び天井裏に引っ込む所でした。
遠くに見える、五穀を炊く湯気が、昼餉が近い事を知らせています。
別の方を見れば、火皿に注ぐ油を絞る老婆が、飯を包む竹の葉を束ねているところでした。
…いつもの光景です。
いや、馴染んでる場合じゃないです。
なにしろ、自分が神様だと自覚はできたものの、何をどうするべきかが思い出せません。
なんかこう、七福神でも豊穣の神様はふっくらしておりましたので、多分その辺りから選ばれたと思うのですが、そんないい加減な人選でいいんでしょうか神様。
それに何より、落ち着きません。
巫女として御勤めするのに慣れ切ったこの性根には、この「何もしなくて大丈夫!」的な感覚が、どうにもこうにも慣れないのです。
「畑でも手伝うかなあ……」
神様であるせいか、疲れとはどうにも無縁なようですし、空腹も満腹もありません。
まあ、食べたいと言う欲求は生まれるのですが、空腹とはまた違うのです。
転んでもケガはすぐ治りますし、便利と言えば便利なんですが、こう、充実感に欠けると言うか――
美味しいものって、やっぱり自分で努力してこそだと思うのですよ! 切実に!
「シキ」
「はい」
雑巾がけから戻って来たシキを、ふたたび呼び止めます。
ちょこん、とひざをそろえてかしこまったシキに、私は神妙なおももちで言いました。
「えっとな、敬語いらへんよ。あとなあ、今日から仕事いっしょにやるわ」
「……え?」
スズメがさえずっています。
しいんとした本堂の中を、愛らしい鳴き声が通り抜けて行きます――
硬直していたシキが、ハッと我にかえったのは、それから数十秒後の事でした。
「えええええええええええ?」
仰天したシキの大声。
それを聞いた屋根のスズメ達が、ぱっと青空に飛び立って行きました。




