第17話 鳴り響く重低音
書き溜めが尽きるまでは毎朝更新します
965D Left
イルカのお遊技場見学会の後、少しの間は待機期間があった。
その間も、僕はいつものように深海21000メートルまでダイブして、数時間の間、真っ暗で冷たい海をクタクタになるまでセンサー箱を抱えて泳ぎ回るという生産的な仕事に従事して、終業後に2時間の浮上をこなしてから人工の青い光に照らされつつカスタネット飯を食べて狭い蛸壺で眠りにつく奴隷労働の日々を送っていた。
ウィリーのやつ、僕との約束を忘れてそうだよなあ…。あんまり物覚えも良さそうじゃないし…などと悶々としながらね。
ある夜、蛸壺で寝ていたら妙な音を感じた。
労働の疲労で夢うつつだったのかもしれない。地下鉄に乗っていた頃に聞いたキキキィという、鉄とレールが擦れるブレーキ音を聞いた気がしたのだから。
起きてみると、ゴウンゴウンという重低音が部屋中に響いていた。
おまけに狭い室内を照らす青い電灯がチカチカと点滅している。
なんだろう…配線か電源が不安定なのだろうか。ポンプや機械の故障でないと良いけれど。僕のタコ部屋はイルカ部屋と比べると、あまりメンテナンス予算はかかっていなさそうだからなあ。
寝ている間に機械の故障で窒息しました、なんてのはゾッとしない結末だ。
その後も機械腕でタコ・シェルを着せられて水密隔壁を通り深々度カプセルに貼り付くまで、ずうっと重低音が続いてる。さすがにおかしい。
『ねえリナ。この低いゴウンゴウンという音って、なんだろう?僕の耳がおかしくなったとか、気の所為でないといいんだけど』
珍しく勤務前にリナが返答してくれたのだけれど。
『首都星から監察官が来ているのよ。それで人工重力区画を作動させているの。この重低音は動力の作動音よ。区画はかなり大きいから初動は特に大きめの動力が必要なの』
待った。待った。情報が多いよ!
本当に頭の良い人は相手にわかるように話せる、って教わらなかった?
『人工重力区画?あと首都星ってなに?どこにあるの?』
とにかく常識となる知識が足りない。
人工重力ってなに?まさか人類は既に重力を支配してるの?
首都星から来たってどういうこと?星と星の間を気軽に行き来できるってこと?
首都星ってことは、やはりエンケラドスは田舎なのかな?
わからないことだらけで混乱する。
『首都星も知らないのね。タイタンに決まってるじゃないですか。まだまだ矯正学習が必要かしら。人工重力区画は上層3層目ブロックにある回転体ブロックのことよ。遠心力で首都星と同程度の重力環境を構築するためね。監察官は人間だから適正重力が必要なの』
ええと、疑問は一つ一つ解決していこう。
『さすがにタイタンは知っていますよね?』
『知ってるさ!タイタンぐらい』
タイタンは知ってる。土星の大きな衛星だ。
たしか月よりも少し大きくて大気がある。生命がいるかもと言われてた。
エンケラドスの開発が進められているぐらいだから、タイタンにも人がいるんだね。それも大勢いるっぽい。
土星は連邦国家だったよね?首都星タイタンと呼称するぐらいだから凄く発展しているんだろう。
タイタンからエンケラドスへの移動なら、地球から土星へ移動のように何年とか何ヶ月のスパンでなくて、同じ星系内であるから数日とかぐらいのスケールでやや気軽に移動できるのかもしれない。
『それで、人工重力区画フロアを動力でぶんぶん振り回しているから、動力の音が響いている、と』
『その理解で合っています。今は稼働し始めなので音がしていますが回転数が安定すれば音は小さくなります』
人工重力については、重力発生装置とかいうSF装置ではなくて、僕の知っている回転体で遠心力を発生させる装置みたいだ。ただ階層ごと動かすとなると、その規模と費やされるエネルギーは想像もできない。そんな浪費に回すエネルギーがあったら、僕の蛸壺部屋の太陽灯を明るくして水温を暖かくして欲しいね。
『それで、人間が来ているんですよね。機械化をしていない人間』
『そうです』
機械化をしていない純粋な人間か…。
矯正学習教材では、人間には3種類いる、と言っていた記憶がある。
人間と、半機械化人と、機械化人の3種類。
僕が知っている唯一の人間であるリナは2番目の半機械化人。
エンケラドスで勤務しているぐらいだから、リナはたぶん水中活動や低重力での適応に耐性があるように機械化されているんだろう。青い髪はその表現かもしれない。
一方で首都星から来る監察官は無改造の人間らしい。監察というぐらいだから、大きな官僚制組織があってエンケラドスを管理する立場にあるんだろう。
専用の施設を維持させて、来訪に合わせてわざわざ莫大なエネルギーを使用して稼働させるあたり、たぶん半機械化人よりもずっとエリートなんだろうね。エリート様には相応の環境を用意するのが社会的慣習なのかな。辺境では重力だってエネルギーを浪費する贅沢品だっていうのに。
監察官の訪問はエンケラドスがちゃんと仕事しているか、リモートでも監視できるだろうに、わざわざ人間様がチェックに来るのは興味深い。あまり信頼関係がないのかね。書類の不備や設備不良なんかをネチネチと重箱の隅を突かれて疲弊しそう。
やれやれ。人間の世界もなかなか苦労が多そうだね。
ここからは僕の単なる勘なのだけれど、監察官様はイルカに会っていくと思う。
わざわざ遠くの首都星から僻地まで来て、仕事だけして帰るとは思えない。
心情的にお偉方の接待イベントとしてイルカは駆り出されるはずだ。
僕の計画はこうだ。
イルカ接待に芸人枠として同行し、人間様の関心を生来の賢さと可愛さで惹いて、せめてイルカと同じくらいの権利を勝ち取ること。具体的には働けば賃金が貰えるようにしたい。奴隷身分からの脱出の第一歩だね。
名づけて「愛嬌でペット枠に昇格作戦」だ。
ネーミングセンスには高度な柔軟性をもたせつつ臨機応変に変化する余地をもたせたつもり。実際に現場で何が起きるかはわからないからね
ペット枠を目指すなんて、お前に元人間としてのプライドはないのかって?
うーん…僕はもともとが誇り高い性質でもないんだよね。
細かいかとは奴隷身分から脱出できてから考えるよ。
なにせ1000日後に死ぬタコになってから1ヶ月近く経つ。
それで、だんだんと残り寿命も減ってきているからね。
今の目標は、まず生き残ること。全てはそれから後のことだよ。




