76-7
精霊剣を抜いたそのとき――目の前の大樹がざわめきだした。
風吹いていないにもかかわらず、枝が揺れて静かな音を立てる。
枝で羽を休めていた鳥たちが一斉に飛び立つ。
――精霊剣承をなした者よ。
大樹のしわから二つの目が現れ、うろ穴が動いて声を出した。
大樹が……意思を持っている……!。
――よくぞ精霊剣承をなした。私の根から剣が抜かれたのは200年ぶりか。
「大樹さま。お久しぶりでございます」
精霊竜がうやうやしく言う。
――精霊竜よ。この人間がお前の選んだ者であるな。
「そうでございます。彼を精霊界の管理者に任命いたします」
――よかろう。
大樹のぎょろぎょろとした不気味な目が俺に向けられる。
――あらたな管理者よ。その大任の報いとして望む願いを叶えよう。願いを言え。
「……」
願いを要求されても俺は黙っていた。
大樹が、
精霊竜が、
スセリが、
俺の言葉をじっと待っている。
俺は心の中でもう一度考えていた。
本当にこの願いでいいのか。
とんでもない災厄を引き起こしてしまわないだろうか。
俺が今から下す決断は、一人の人間が背負うにはあまりにも重すぎる責任を伴っていた。
だが、決断しなくてはならない。
俺がそうしなければきっと、ずっと精霊剣承が繰り返されるだろうから。
だから俺はこう言った。
「精霊剣承をなかったことにしてください」
――……なんだと?
「どういうことです!?」
「アッシュ!?」
三者とも困惑していた。
予想どおりの反応だった。
「精霊剣承を今後二度と行わないでください」
俺はもう一度そう言った。
三者とも、俺が真意を語るのをじっと待っている。
「実際、人間の管理者が不在でも精霊界は守られているのでしょう?」
俺はふしぎに思っていた。
精霊界には人間はおらず、精霊竜が世界を管理しているようだった。
精霊剣承をしたはずの人間はどこにもいない。
「精霊竜さま。先代の精霊剣承者はどこにいるんです?」
「……100年以上前に寿命で死にました」
「では、それ以降、精霊界は精霊竜さま一人で管理されていたのですよね」
「……そのとおりです」
つまり、精霊竜にとって必要なのは人間の管理者ではない。
精霊剣承したときの願いそのものなのだ。
「他の種族を利用して生きながらえるのは間違っていると思います。人間に竜の繁栄を願わせるのはおかしいです」
「……道理ですね」
「だからもう、精霊剣承は終わらせるべきです」
静寂が訪れた。
みんな、俺のとんでもない決断に言葉を失っていた。
――お前は、願いは必要ないのか?
大樹が再び問う。
精霊剣承を成した者には願いを叶える資格がある。
その資格を放棄するにも等しい願いを口にしたのは俺が初めてだろう。
「精霊剣承の終わりが俺の願いです」
――その意思は固いのだな?
「はい」
――お前がそれを願うのなら、叶えてやろう。
大樹が枝がざわめく。
すると俺の持っていた精霊剣に異変が起きた。
切っ先から徐々に剣が錆びていく。
あっというまに剣は錆びつき、朽ちてしまった。
不可逆的な結末が今、訪れたのだ。
これでもう、精霊剣承は行われない。
――精霊竜よ。お前はこれでよかったのか。
「アッシュ・ランフォードの言うとおりです。我々竜は人間を利用して種の存続を保ってきました。いけにえを捧げるかのごとく。それは間違っていたのでしょう。傲慢といえるほどに」
――ならばよい。
精霊竜は意外にも穏やかな口調だった。
「アッシュ・ランフォード。あなたには礼を言わねばなりません。私の過ちを正してくれて」
「いえ……」
「精霊界は私一人でこれからも管理していきましょう。竜の存続は、時の流れにゆだねるしかありません。ですが、それはどの種族にとっても同じ。平等なことなのでしょう。逃れられぬ宿命です」
――人間よ。お前の選択は驚嘆に値する。個人的な願いはあったのではないか?
「これでよかったんです」
今はこの選択が自分にとって一番正しいと思えた。
本当はもっと正しい選択はあるのかもしれないけれど。
少なくとも俺は最良の選択をしたはずだ。
後悔はなかった。
スセリの野望に加担するわけでも、精霊界の存続を請け負うわけでもなく、俺自身の判断を信じて行動したのだから。
――私は永い眠りにつこう。さらばだ、人間よ。
大樹は目を閉じて再び眠りについた。
これですべてが終わった。
終わったのだ。
「スセリ」
俺は立ち尽くす銀髪の少女のもとへ近づく。
「帰ろう」
手を差し伸べる。
少女はその手を取ってくれた。
そしてにこりと笑った。
こうして精霊剣承をめぐる騒動は終わった。
空の裂け目は閉じ、精霊界と人間の住む世界は再び離れた。
あれから7日経って、俺とスセリとプリシラ、マリア、それにユリエルを加えた五人は他愛のない日常を送っている。
あっけないほどの結末。
あっけにとられるほどの日常への回帰。
なにもかもが元通りとなったのだ。
そして……。
「スセリ。ごめん」
ある夜のことだった。
庭にスセリの姿を見つけた俺は彼女のところへ行ってそう謝った。
スセリは苦笑して肩をすくめる。
「なにを謝っておるのじゃ」
「お前の願いを叶えてやれなかったこと」
「ああ、まだ気にしておったか。律儀じゃのう」
スセリが笑う。
俺は自分の選択を間違ったとは思っていなかったが、それでもさすがに気まずかったのは事実。
きちんと彼女と向き合って話し合わないと真の信頼関係は取り戻せない。
スセリは自嘲気味に肩をすくめる。
「あれはワシが悪いのじゃ。人類すべてを不老不死にするなど、どう考えても狂っておった。おぬしが止めてくれたおかげでワシは暴走せずにすんだのじゃ。あのときのワシはどうして己が正気だと信じて疑っておらなかったのやら」
「スセリは――」
その先を言おうかどうか、半ばまで口にしたところで悩んだ。
悩んでから、言おうと決めた。
「さみしかったんだよな」
「ワシがさみしいじゃと?」
ぽかんとするスセリ。
また笑い飛ばすかと思いきや、彼女は真剣な面持ちをして黙りこくった。
しばらくの沈黙のあと、静かにうなずいた。
「……うむ」
「誰かを失う悲しみを知っていた。だから誰も死なない世界にしようとした」
「……そうじゃ」
スセリが夜空にかかった三日月を見上げる。
さみしがるような、懐かしがるような横顔。
「ワシはもう、耐えられそうになかったのじゃ。大切な者たちが年老いて死んでいくのを見送るのが、見届けるのが」
永遠の命を持つ『稀代の魔術師』の野望なんて大したものではなかった。
それは、ちいさな少女の切なる願いだったのだ。
ずっといっしょにいられますように。
そんな、誰もが願ったとことのある、ありふれた願いだった。
「アッシュよ。ワシのそばにこれからもいてくれ」
スセリが微笑む。
純粋な少女の、とても美しい無垢な笑みだった。
その約束は半分しか守れない。
俺には寿命がある。
彼女と離別する運命が待っている。
永遠の命を持つ彼女からすれば、俺といる時間なんてほんのわずかでしかないのだろう。
無限に続く日々の、短い年月の関係。
その年月は刹那ともいえるほど。彼女にとっては。
そんな短い時間であっても、彼女のさみしさを取り除いてあげたい。
やがて俺が見送られる側になるという矛盾をはらんでいたとしても、それでも……。
そっと彼女を抱き寄せる。
彼女もか細い腕で俺を抱きしめてくれた。
『精霊剣承』第一部・完
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