3-45『仇敵』
水星とフェオの間に割って入るまでに、少しばかり時間を食った。
なにせこの周囲は、いわば水星の体内にも等しいのだ。奴がいる付近の領域は、もうそれだけでひとつの異界と呼べる。結界魔術さえ使わずして、だ。
「ケガ……してるみたいだな。痛むか?」
問いに、けれどフェオは焦って言う。
「そ、そんなことより前っ! 話してる場合じゃ――」
「それは大丈夫だ」
あっさりと言った。フェオが水星を警戒するのはわかる。
だが、邪魔ができるならすでにしているだろう。今のアイツにそれはできない。
「――動けなくしたからな」
言葉に、フェオが視線をやる。
その先で水星は、一切微動だにせず立ち尽くしていた。まるで精巧な彫刻のように動かない。呼吸や脈拍さえ止まっているかのようだ。
実際、その通りではあるのだが。
「アイツは動けないよ。少なくともしばらくの間は」
「な、なんで……」
「いや、単に束縛の魔術を使っただけだけど」
「そ、それだけじゃアイツには意味ないじゃん! いくらだって、別の身体があるんだから!」
「まあそうだな」
だから。
「だから――周囲の空間ごと止めた」
周囲の空間を水星の肉体だと捉えるのなら、場に広がる魔力はいわば血だ。血液が巡っていなければ、水星とて《変身》を使うことはできない。それが魔術である限りは。
なら逆を言えば、それさえ止めてしまえばいい。
当然、周囲の空間を丸ごと固定するような魔術は、今の俺には使えない。技術ではなく、単純に魔力の出力が足りないからだ。
だから俺は、空間に張り巡らされた水星の魔力そのものを使った。
本来、彼女が所有権を持つ魔力を。強引に上書きして、支配を奪い、そのまま自分のエネルギーとして再利用したのだ。
出力が下がったところで、持ち得る魔術の技量まで低下したわけじゃない。
仮にも俺は――セブンスターズの印刻使い。
情報の上書きならば、最も得意とするところである。
「…………」
なんだかあり得ないものを見る目をして、フェオが俺を見上げていた。
自分で言うのもなんだが、確かにこれができる魔術師は多くないだろう。魔力を使えるのは所有権を持つ者だけだ、というのは大原則であり、ひとたび他人が所有した魔力を本人の承諾なく奪い取るのは非常に難度が高い。
ルーン魔術の利点は、そういった《質》に対抗するのが非常に容易だという部分だろう。
まあ普通に血は吐いたのだが。別に好きでやってるわけじゃない。
それに。それでもほかの七星旅団よりは、遥かにマシだと思う。
「さて――悪いが、ちょっと触るぞ」
言いながら、フェオを軽く抱き上げる。
「え、わ、ひゃっ!?」
驚きに目を見開くフェオ。まあ、それはそうだという話だが。
形としては、いわゆる《お姫様だっこ》というヤツだ。背負うとか担ぐとか、小脇に抱えるなんてできるないわけだし。
仕方ないのだ。今回ばかりは我慢してもらうほかにない。これから戦うというのに、巻き込んでしまって元も子もないだろう。
とはいえ、この程度で顔を真っ赤にされてしまうと、なんだか普通に気恥ずかしい。別段、嫌がられている風でもないことを、さて救いと思うべきなのか。
「な、な、何しゅるのよ……っ!?」
「しゅるって」
腕の中で、狼狽えるあまり言葉を噛んでいるフェオに苦笑。
これで案外、蝶よ花よと育てられてきたのだろう。ちょっとしたことで赤くなる奴だ。
「悪いな、しばらく我慢してくれ」
「でも、いや、というか!」
「大丈夫」断言する。「この場所が、いちばん安全だ」
フェオが腕の中で顔を伏せた。「だっ、もっ……うぅ」とか、何ごとか意味不明な言葉を呻いている。
まあ、暴れたりしないのなら充分だ。
「……とはいえ、どうしたもんかな……」
格好つけて、自信満々に出てきたはいいものの。
実際、水星を殺す方法なんて物理的に思いつかなかった。ていうか殺せるわけねえだろ、こんな奴。どうしろっていうんだ。
別に無策で来たわけじゃない。殺すのは無理でも、勝つのが無理とは思わないからだ。
水星を抑えておけるのは、せいぜいあと十秒が限度だろう。
魔力の支配権は、より強い本体へすぐに戻る。魔術である以上は永続しないし、そもそもこんな上書きが通じたのは不意打ちで、離れたところの魔力を侵食したからだ。いくら水星でも、自分が持つ魔力ならばともかく、周囲の空間に流したものにまで意識を向けていられない。
そういった隙を突いただけだった。もちろん、それで水星を殺せるのならば問題はない。
だが今ここで目の前の肉体を滅ぼしたところで、水星の精神はあっさりと魔力に分解され、概念の中に格納されてしまうだけだ。要するに振り出しであり、なんの意味もない。
「……どうするの?」
腕の中に収まるフェオが、か細い声でそう訊いた。咥えたままの煙草から、ゆらゆら白が立ち昇る。紙巻の口許に、赤い色がわずか滲んでいた。
そういえばフェオは、意外と煙草の匂いが嫌いではないらしい。まあ禁煙イコール死、みたいな部分が俺にはあるので、嫌と言われたら終わるのだが。
「その煙草……」そのとき、ふとフェオが言う。「ちょっと貸して」
言うなり俺の口許に手を伸ばすと、そのまま煙草を奪われてしまった。
普通に焦る。まさか、この状況で吸うなと言われるのだろうか。煙草が嫌いなら申し訳ないと思うが、そういうこと言っていられる状況じゃない。
結論から言えば、俺の想像は杞憂だった。
彼女は、俺から奪った煙草を――そのまま自分で咥えたのだから。
「――――――――」
硬直する俺。煙草を奪われたこと以上に驚いていた。文字通りの絶句である。
ていうか何してんのフェオさん。
目の前では、水星がじわじわと拘束から逃れつつあった。何を考えているのかわからない水星が今、明らかに恨みの籠もった視線で俺のことを睨みつけている。
「……けほっ! けほ、うわ、けむぅ……!」
煙草の煙を吸い込んだフェオが、そのまま盛大に噎せていた。本気で何がしたい。
「当たり前だろ、何してんだ……ほら、返せ」
「……うるさいばか」
「む――」
口許に煙草を押し返された。火種や灰が落ちないように、気を配りつつ咥え直すした――その瞬間。
自分の魔力が、わずかだけフェオへ流れ込んだことに俺は気づいた。
「……お前。まさか――」
「回路、繋いだから」
フェオは俺から顔を背けて言った。
その言葉の通り、俺とフェオの間には今、魔力の通り道が作られている。
「そうすれば、あのときのアレ、できるでしょ?」
あのときのアレ。それは少し前、フェオの手伝いで完成を見た、呪いを誤魔化すための方法。
学院の書庫で編み出した、元の力を取り戻すための技術だ。
「……いいのか? お前にも負担がかかるぞ」
「いいからやったんじゃん。助けられるばっかりなんて嫌だし。それに血を吸えば、わたしでも回路くらい繋げる」
元より、魔術師の体液には様々な概念が籠もっている。俺とフェオの血が媒介となって間を繋いだのだろう。
そういえば、フェオは吸血種を祖先に持っていた。血を使う魔術はお手のものということか。
「でも、だからってお前、いきなりやるか普通?」
「し……仕方ないでしょっ!」
フェオは必死に顔を背けようとしている。
もちろん、抱いている状態では限度があるのだが。
「だって……直接、とか……そんな、無理っ、だし……っ!」
「…………」
聞かなかったことにした。いくらなんでも恥ずかしがりすぎだ。
これじゃあ俺まで顔が赤くなってくる。
「――目の前で目の前で目の前で! ふざけやがってふざけやがってふざけやがってえ……!」
水星が言う。ついに、口を動かせるレベルにはなったらしい。
だが、これで手札は整った。これなら戦うすべはある。
水星を滅ぼすのは無理だろう。強い弱いの問題ではない。ここではない場所に精神を保持している以上、手を出すことはできないのだから。
けれど――それでも、まずはひとつ。
貰っていくことにする。
ふっ、と俺は息を吐く。たゆたう紫煙が空に昇った。
それと同時に、自分の魔力を開放する。本来なら呪いに阻まれて、出すことができなかった全ての魔力を。フェオを通じて表に出す。
そう。この手法は、呪いを誤魔化すとか、限定的に解呪するといった手法ではない。呪いは呪いのままであり、俺の出力は低いままだ。
――逆転の発想である。
自分を出口にできないのなら、他人を出口にすればいい。ラインを通じてフェオに魔力を渡すことで、フェオというひとりの魔術師を俺の魔術の発射台と見做す。
自分ひとりではできない。誰でもいいわけですらない。
俺を信じて、肉体全てを委ねてくれる相手がいなければ、こんな方法は成立しない。
「ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな――!」
水星が叫ぶ。血走った目の彼女には、もはや最初の余裕が見えない。
「そんなことができるわけがない! 他人に全てを任せられるものか! 自分の身体じゃないんだぞ! そんなモノを通じて、術式なんて構築できるものかっ!!」
「言ってろ、水星」
俺は思わず笑う。厳密に言えば、全盛期の力を取り戻したわけじゃない。
他人を通じて魔力を使う、という技術にまず魔力を使う。そんな経験は皆無に等しいし、そもそも俺とフェオでは出力の上限が違う。
――それでも。
「お前だろ? クロノスに――《土星》を俺に差し向けたのは」
「何を……」
「あのとき、あいつが俺をあっさり通したのは、俺を止めるために来たからじゃない。俺以外の誰かがここに訪れるのを恐れたからだ」
水星は、ここで俺を殺すつもりなのだろう。絶対に邪魔が入らない瞬間。魔競祭最終日のこのときを狙っていた。
だが、
「ならなぜこんな遠回しな手を使う? 当ててやるよ――お前、俺が恐かったんだろ?」
「…………っ!」
「俺が力を取り戻すのを。お前は、びびったんだ」
断言する。あっているかどうかなんて、この際もう問題じゃない。重要なのは、精神的に優位に立つことだ。
あるいはウェリウス戦のとき以上に、言いようのない全能感がある。
面倒だし、無駄は多いけれど。
きっと、自分ひとりで戦っているわけではないのだとわかるから。
――《紫煙の記述師》は、きっと負けない。
※
「――《産財》」
刻んだルーンは《財産》。その逆式。
元々は家畜を、転じて貯蓄などの意味を持ったこの言葉は、逆に返せば浪費や無駄の意味を持つ。
ちなみにこのルーン、読みを変えれば《フェオ》とも読めるのだ。
術式が、空間に巡らされた全ての魔力を霧散させる。先ほどの術式が魔力の所有権を奪い取るものならば、これはいわば全ての所有権を放棄させる魔術だ。
魔力は全て空間に還る。それは言い換えれば、所有権を世界そのものに返還するということ。
「ふざっ、けるなよ紫煙紫煙紫煙紫煙紫煙紫煙――ッ!」
「お前こそ」叫ぶ水星に、俺は笑う。「同じ術が、何度も通じると思うなよ」
まあ。格好つけてみたところで、フェオを抱えている状態ではシュールなだけだったが。
「ああああああああああああああああああああああああああっ!!」
水星の前方。その地面が隆起する。
空間の魔力を消した以上、奴は残っている自らの魔力を使う以外にない。肉体の活動限界は、確実に近づいているはずだった。
もちろん、たとえ肉体が滅びても、人格のストックが残っている限り水星は終わらない。
奴にも俺にも、互いにそれがわかっていた。
やがて水星の前方に、巨大な土くれの人形ができ上がる。いつか見たゴーレムに似ていたが、そのサイズはかつて迷宮で見たそれを遥かに凌駕している。その手の中には、風の渦で作られた剣を握っていた。
「――――――――――――――――!!」
巨大なゴーレムが雄叫びを上げる。言葉としては聞き取れなかったが、その声はどこか水星に似ていた。
大地を、大気を、自らの肉体と見做す水星の変身。
その応用範囲は《変身》などという表現をするのが馬鹿馬鹿しいレベルのものだ。
「これのどこが変身だよ……もうなんでもアリじゃねえか」
呆れが、言葉になって喉から零れた。
「アス、タ……」
腕の中のフェオが、不安そうな表情で小さく呟く。
巨大さは、最もわかりやすい脅威のひとつだ。彼女が怯えるのも無理はない。
だからこそ俺はこう答える。
「大丈夫。あの程度、メロやセルエに比べりゃ怖くもなんともない」
「……うん。信じ、てるから」
「そりゃまた」
あのフェオが、またずいぶんと素直になったものだ。
――その信頼には応えたい。
口から吐いた煙が、ゆっくりと空に昇っていく。それを見ながら呟いた。
同時――巨人の腕が振り下ろされる。
「――《防御》」
瞬間、透明な防壁が目の前に現れた。
それは巨人が持つ透明な剣とぶつかり合い、盛大に魔力と火花を散らす。
心臓の辺りがずきりと痛んだ。迷宮の呪いが叫んでいる。
動くな。戦うな。働くな願うな祈るな止まれ止まれ止まれ貴様にそんな資格はない――。
喉の奥から鉄の味。心臓と脳が同時に痛む。まるで灼かれているかのようだ。
――結局、この術式には無理があった。
迷宮の呪いは概念に及ぶ。単に魔力の出口を小さくしているだけではなく、俺という存在が魔術を使うことそのものに拒絶反応を示しているのだ。
その原則を無理に捻じ曲げている以上、肉体に、精神に、反動があるのは仕方がない。あるいは水星以上に、俺の活動限界のほうが早いのかもしれなかった。
けれど。
それと同時に、もうひとつの声が聞こえるのだ。
戦え。歩け。望み続けろ。立ち止まらずに進んで行け。
止まることこそ許されていない。
甘えをもたらす悪魔の囁きとは違った。それは、どこまでも厳しい叱咤の声だ。
誰の声かもわからない。それでも、俺の内側から届いてくる。
わかることなんてひとつだけ。
――今までも、これからも。
ずっと一緒にいてくれた誰かだった――。
「《太陽》」
巨大さには巨大さを。それは人間では近づけないほどに強大な力を意味するルーンの一文字。
生命力の象徴。勝利の暗示。状況を逆転させるラッキー・ルーン。
顕現したのは太陽だ。地球にも異世界にも存在する、世界そのものを照らす巨大な恒星。
その劣化再現である熱球が、土人形の全身を一瞬で蒸発させる。防壁による保護がなければ、自分自身さえ消し去ってしまいかねないほどの熱量。
「ぎ、が――あ、ご……ぁ」
それでも。それでも水星は生きている。
ゴーレム体が崩れると、その足元には黒焦げになった水星がいた。それも一瞬、奴はひとりでに再生する。
正確には死んだのだろう。だが、死体から生体へと変身する怪物を相手に、攻撃力なんて意味を持たない。
奴を殺すには、肉体ではなく精神への攻撃が必要だった。
「う、ぃ――あああああああああああああああァッ!!」
水星が無防備に、無策にこちらへ突っ込んでくる。こうなってはもう終わりだろう。
纏う幻想を破壊された時点で、魔術師なんざただの人間だ。
あれほど異常に見えていた水星でさえ、こうしてしまえば変わらない。
当然、ここで手を休めるつもりはなかった。
「《火》」
火柱が上がる。水星の全身が焼き払われた。
全身が燃え上がる。肉の焼ける嫌な臭いが鼻を刺した。
それでも水星は止まらない。再生してまたこちらへと進む。
俺は攻撃をやめなかった。
「《巨人》」
杭が地面から突き立った。巨人のルーンには棘の意味がある。
真下から貫かれ、水星の身体が両断された。
それでも水星は止まらない。俺は攻撃をやめなかった。
「《氷》」
水星の全身が凍りついた。人間ならば即死だろう。
氷が砕け、水星の肉体がばらばらに吹き飛ぶ。
それでも水星は止まらない。俺は攻撃をやめなかった。
「《野牛》」
水星が、目に見えないエネルギーに貫かれる。
原始的な破壊の概念。ただ強いだけの力の奔流に、巻き込まれて肉体が爆散した。
それでも水星は止まらない。俺は攻撃をやめなかった。
「――《雹》」
予測不可能な、どうしようもない不運の象徴。いわば天災。
莫大なエネルギーを持った火炎の渦が、棘と氷を撒き散らしながら水星を襲う。
今までのルーンは、全て残っていた。俺はそれを全て合わせたのだ。
なぜなら水星は単に再生しただけであり、こちらの魔術を打ち消したわけじゃない。それは悪手だろう。その程度では――ただ一度死んだくらいでは、俺の攻撃は止まらない。
破壊が。破壊が。破壊が。破壊が。破壊が。
完膚なきまでに水星を襲う。奴にはもはや為すすべなどない。
水星は、もう、止まっていた。
俺は攻撃をやめなかった。
「《一日》、《太陽》、《水》、《保護》――」
ルーンを重ねる。終わりのない循環を断ち、生命力という概念そのものに干渉するため、不定である霊的な概念を浄化して、肉体的な関係を一切なかったことにする。
水星の人格を完全に滅ぼすためには、死んでも続くという循環を停止させ、完全には結びついていない肉体と精神をあえて強固に結びつける。本来なら干渉できない精神というモノに、肉体の影響を及ぼすための前段階。
そして。
「――《運命》」
存在しない空白のルーン。それは白紙の運命であり、概念的な干渉さえ可能とする。ただ空白を意味するだけのルーンならば、俺は切り札とは呼ばなかっただろう。
この術式が、運命への抵抗を許さない。
肉体が死んだ。本来、そうすれば精神も死ぬ。その不可逆の原則を、水星は肉体と精神を分断することで回避していた。彼女の《変心》の本質は、《体が死んでも精神は保護される》という部分だ。
それを強引に繋ぎとめ、両方一緒くたに殺しきる――。
変心がある以上、ここにない精神はどこかに残っているだろう。そちらには手を出せない。
それでも――今ここにあった精神ひとつ終わりだ。そうするための布石だった。
奴はもう二度と、復活することがない。
複数いる水星がひとり分、完全に死亡したということだった。
「――……」と、俺は息をつく。
いつか地獄で再会するとき、水星の魂と、いったいいくつ見えるのだろう。
そんなことを、意味もなく考えてしまっていた。
※
とはいえ事態そのものが終息したわけじゃない。
間違いなく、あれは水星の本体だった。だが水星は本体が死んでも生き残る。
このまま向かってくるのなら、同じようにまた殺すだけだ。だが、水星もそんな方法は選ばないだろう。
「――お見事。ひとり減らされたのは、初めてだ」
ふと、背後から声がした。
俺はゆっくりと振り返る。
果たして、その場所には無傷の水星が立っていた。
「案外、悲しいものだね。自分がひとり減るというのは」
そんな経験、普通はしない。俺は答えなかった。
「別に思い入れがあったとは思わないが……あの人格がいちばん、表に出ることが多かったものだから。身を――いや、心を切られる思いだよ」
「出てくるとは思わなかったが」
肩を竦めて俺は呟く。水星は苦笑して答えた。
「逃げようとしても、君なら気づくだろう? いつの間に周囲に結界を張ったんだ? いや、まるで気づかなかったよ」
「……今は気づいてるんじゃねえか」
「そう。だから逃げるのも難しいと思ってね。こうして顔を出したわけさ」
水星はどう見ても余裕の構えだ。先ほどまでの追い詰められた人格と同一人物には思えない。
いや、実際まったく違う精神なのだが。同じでありながら、異なっている。それは肉体にも影響するようで、まったく同じ見た目の水星が、ぜんぜん別人のように俺には見えた。
「……つまり、お前が主人格か」
俺はそう訊ねた。いや、訊ねたというよりは確認だ。
精神が複数ある場合、主人格とそれ以外の裏人格という分類ができる。例外は、両方が主人格というセルエだが、そのセルエにしたって主人格があることは同じだ。
水星は笑った。嫌味のない、むしろ美しいとさえいえる表情で。
「いや、どうなんだろうね。私はあとから生まれたんだ。ただ――ほら、表がアレだから」
「……後から生まれて、乗っ取ったのか」
「人聞きが悪い。ただ全ての人格の中で唯一、私だけが理性を司っていた。そうでもなければ、水星はとっくに発狂していたさ」
「もう狂ってるようなもんだろ、お前ら」
「違いないね」
くつくつと笑う水星。正直、歓迎したい流れではない。
俺はいわば、この《理性ある人格》のくびきを外してしまったようなものだ。これからあの狂った人格ではなく、こちらが表立って動くというのなら――今よりずっと厄介になる。
選べなかったし、アレを殺さない選択肢もなかった。いわば水星は命のストックを複数持っているようなものなのだから、減らせるときに減らさないなんてあり得ない。
こいつも、ここで殺しておきたい。
俺はそう思った。だが、どこかでそれが無理だと理解してもいた。
こいつが――理性を持つこの人格が出てきたのだ。それはそのまま確実に逃げるか、ないしこの場で俺を仕留める算段をつけているということの証明にほかならない。
諦めて出てきた、なんて絶対にあり得ないだろう。
「さて、どうする? 続けるかい、仕切りなおしの第二戦を」
「……当たり前だ」そう答えるしかなかった。「ここで、お前を逃がす理由がない」
「君をここで仕留めたかった水星は死んだ。今の水星は、別にそんなことを考えていないんだけれどね」
「ふざけるな。俺がお前を殺したいんだよ」
「――それは困りますね」
声がした。どこから聞こえたのか、まったくわからない声が。
今の俺が見逃す魔術師など、そういるはずがない。何より声音に聞き覚えがある。
だからだろう。姿を見る前から、それが誰なのかはわかっていた。
「お久し振りです、とでも言えばいいんですかね」
枯れ草色のローブ。枯れ枝のような体躯。
俺が初めて出会った、七曜教団の幹部のひとり。
「木星……」
「ええ。アルベル=ボルドゥックです」
奴はそう、酷くつまらなそうな表情で名乗っていた。
逃げることと、隠れることが得意な魔術師。その自信は伊達ではない。
あのメロからさえ逃げ切れるのだ。奴が本気で姿を隠せば、見つけられる魔術師はいないかもしれない。
「やあ。仕事は終わったのかい?」
水星が言う。木星はなぜか不愉快そうな声音で、
「……今は貴女ですか」
「ああ。ひとり殺されてしまってね。私くらいしか、出て来られるのがいなかったのさ」
「そうですか。……ええ、仕込みは終わりました。一度撤収です」
「なるほど。楽しい祭りも、終わりには寂しくなるものだ」
勝手なことをふたりで言い合う。だが、止めることなどできなかった。
最悪だ。いくらなんでも、教団の幹部をふたり揃って止めるなんて俺にはできない。
ただでさえ、この術式はフェオにも負担をかけだ。今の傷ついた彼女を、本当はすぐにだって医者に診せたい。だが――。
「というわけで、僕たちは帰ります。また会いましょう、紫煙」
「俺はもう、お前たちになんて会いたくないんだがな……」
「ええ。できれば僕も、貴方になど会いたくはないのですが。そうもいかないでしょう」
木星は心底から嫌そうに言う。
「……なぜそう言える?」
「貴方が、きっと僕を殺したいはずだからです」
「お前の言ってることが、俺には何ひとつわからねえよ」
水星を敵と見做した以上は、所属が同じ木星も敵と見るべきだ、という意味なのだろうか。
そうは思えない。木星の言葉には、それだけではない含みが見えていた。まるで、俺に教団を恨むだけの理由があるかというような――。
「――キュオネ=アルシオンが死んだのは偶然じゃない」
その言葉に、呼吸が止まる。キュオの名前が、木星の口から出た意味が理解できない。
脳そのものが、理解を拒絶したみたいに硬直する。何も考えられなかった。
「君には僕たちを恨む理由がある。僕たちは敵だ。仇だ」
「……黙れ。あいつが死んだのは俺のせいだ」
「そうでしょうね。でも決して、それだけじゃない」
「何が――何が言いたい」
「何も。こんなものは単なる気紛れです。ただ、卑怯じゃないですか」
木星は言った。煮え滾る感情を、無理に押し殺したみたいな声で。
「――僕は貴様が許せない。だから貴様も、僕を恨め」
きっとこのとき、俺たちはようやく敵同士になった。自ら率先し相手を殺し、また殺されることを許容する関係に。
よりにもよってキュオの名を出されるとは思っていなかった。それが奴らに関わるのなら、俺は――七星旅団は、もう教団を無視できない。
かつての仲間。セブンスターズの第四番。かつての七星が解散した切欠のひとり。
俺を助けて、俺を庇って、そして命を落とした少女。
認めるしかない。――七曜教団は、俺の敵だ。
「ようやくだ。ようやく僕らは敵になれる」
「……ああ。その通りだな」
「じゃあ、また。次は殺し合うことにしよう」
その言葉を最後に、木星は水星を伴って姿を消した。この場から逃げ出したのだろう。
あとには傷だらけのフェオと、魔術の反動に軋む肉体で立つ自分だけが残された。木星の魔術は、逃げに徹すればほぼ無敵だ。理屈はわからないが、わからないということは超えられないというのが魔術の原則である。
どうやって消えたのか、見当さえつけることができなかった。
いつの間にか、煙草の火は消えている。
携帯用の灰皿に吸殻を投げ捨て、小さく息を吐いた。
「……大丈夫、アスタ……?」
フェオに問われた。腕の中に抱えた少女から、こうも心配されていては立つ瀬がない。
軽く首を振り、それから俺は努めて明るく答えを返す。
「ああ。反動はあるけど、別に大した怪我はない。フェオのほうが重傷だろ」
「うん……いや、そういうことじゃなくて。今の話は――」
「なんでもねえよ。そろそろ戻ろう」
聞く気はなかった。
今の自分が、何を言うかなんてわからない。
「祭りも終わる。もうすぐ決勝戦だな。つっても、向こうもどうなってるやら」
一方的に言い切ってから、俺はそのまま踵を返す。
なんでもないような顔をして後ろのフェオに向き直り、
「歩けるか? なんなら、また抱きかかえていってやるけど」
「……いらないよ、ばか」
「そっか」
肩を竦めて、それから学院に向かって歩く。
後ろから、小さな声が聞こえてきた。
「……ばか」
ああ。まったくその通りだよ。
次回――第三章最終話。
7日零時更新予定。




