3-35『七秒間』
「――七つ数える間。それ以上は絶対に持たない」
セルエはそう断言した。先日、呪い対策の術式を相談しに行ったときのことだ。
考えていた方法は、彼女の手助けなくしては絶対に成立しない。
そのセルエの見立てなのだ。疑う余地なく正しいことは、彼女以上に俺が信じている。
「肉体より先に、魂魄のほうが壊れちゃう。だから限界はそのラインにするよ。これは覚えておいて」
「無理に越えたらどうなる?」
「どうにもならない」セルエは静かに首を振った。「何もできないし、ただ死ぬだけ。だから、そもそもそうさせないような設定にするから」
「なるほど。……よくわかった」
頷く俺を見て、セルエは苦みの滲む表情で俯いた。
「本当は、こんな方法、選んでほしくない。はっきり言うけど、こんなもの自殺と何も変わりないよ。もうひとつの方法を選んだほうが絶対にいい」
「でも、そっちは魔競祭じゃ使えない」
「なら使わなければいいじゃんか」
セルエが俺を心配してくれているのはわかる。
その気持ちを踏み躙ってまで、危険な術式に加担させているということも。
「俺も、使わないで済むならそのほうがいいんだけどな」
それでも。リスクを負わなければ、得られないものがあるのなら。
踏み出すことを躊躇するなんて、俺には許されていないのだ。
――だって。
そうでなければ、俺が生きている意味がない。
「大丈夫。死ぬつもりなんてない。それがアイツとの約束だし、何よりアイリスを遺して俺だけ死ねるわけないからな」
「だから先輩は、アイリスちゃんをアスタのところに送ったのかもね」
「どうかな」セルエの言葉に苦笑する。「あの馬鹿姉貴が、そこまで考えてるかなんて疑わしいと思うけど」
「……勝てるの?」
と、セルエに問われる。誰にとも、何にとも彼女は言わなかった。
ウェリウスや水星に限定した問いではないのだろう。もっと広い範囲の問いだ。
それでも、俺は頷いて答える。
「勝つよ。たまには俺だって、格好いいところ見せないとな」
「馬鹿だね、アスタも」
小声で零すセルエに対し、俺は笑みを作ってこう返す。
「誰の義弟だと思ってるんだよ。馬鹿に決まってるじゃん、その時点で」
「……確かにね」
そう言って、セルエは静かに微笑んだ。
※
「――しかし、どうすんだよこれ」
魔競祭のステージの上で、俺は静かに呟いた。
周囲は完全に炎の檻に包まれており、空さえ見渡すことができない。
というか、審判さえ炎の向こう側なのだ。規則的に、果たしてこれはアリなのだろうか。ちょっと疑わしいと思う。
「ん、そうだね。内緒話も終わったことだし、炎はもう解いておこうか」
軽く宣うウェリウス。その言葉の通り、ステージ全域を覆っていた炎が一瞬にして元の状態へと戻る。
この規模の火炎を操るだけでも、普通の元素魔術師なら全霊を傾ける必要がある。
しかしウェリウスは、それ以外にもさらに七つの元素を支配しているのだ。しかもその全てが概念付加されているというのだから、その異常性たるや埒外だ。
――八重属性元素魔術師。
それが、ウェリウス=ギルヴァージルの全力。
「正直もう、お前のことはなんて言ったらいいのかわからん」
天才だの化物だの、そんな表現はもはやウェリウスに対してだと上滑りするだけだ。
その上、魔法使いの弟子だというのだから。
お前はいったいどこの主人公だよ、と突っ込みを入れたいくらいの気分になる。
「まあ、いろいろとこっちの台詞ではあると思うけどね」
ウェリウスは肩を竦めて嘯く。
別段、冗談を言っているという風ではない。
「本気を出すのは久し振りだ。それでも及ばないかもしれない相手がいるっていうのは、なんだろうね、嬉しいんだか悔しいんだか……よくわからない気分になるよ」
「言ってろ。このままじゃお前に勝てる気がしねえ」
「このままじゃ、ね。つまりこれから作る結界で、僕を倒すというわけだ」
「――は」
その言葉に、俺は思わず笑っていた。
今さら何を言っているのかと、少し愉快になってしまったからだ。
「当たり前だろ」
「――――」
「これからそっちに行く。お前の後ろの角にルーンを刻む。止めてみろ。止めればお前の勝ちだろうが――止められなければ俺の勝ちだ」
「……言い切るね」
「これは試合だ。そのほうが盛り上がるだろ?」
軽く首を傾けて言った。実際、実況のシュエットがここぞとばかりに叫んでいる。
果たして観客たちは、この試合をどんな思いで見ているのだろうか。
自分で言うのも間抜けな話だが、確実に学生の祭で観られるようなレベルの試合ではない。というか本職でも最上位層クラスのやり取りになっている。
実際、俺はそういった世界で生きてきたのだし、それはおそらくウェリウスもだろう。
ならば驚くことではなく、むしろ当然の展開なのかもしれない。
「――来なよ」
と、ウェリウスが言う。奴もまた、試合を盛り上げようとしているのだろう。
「僕を越えて、こちらの端に辿り着けると言うなら見せてほしい。僕は、それを全力で止める」
「上等だ。――行くぜ、ウェリウス」
「かかって来い、アスタ」
そして、互いに行動を開始した。
目の前の強敵を倒すために。
※
出し惜しみはしない。魔力を費やしてでも、結界を成立させない限り勝ち目はない。
こういうとき、やはり煙草があると非常に楽なのだが、いくらなんでも火をつけるのを待ってくれるほどウェリウスも馬鹿ではない。加えて走りながら煙草を吸うのは、少しばかり面倒だ。
単に火がついていればいい、というわけではない。
なぜなら本来、煙草は魔具でもなんでもないのだから。言ってしまえば、単に紙で巻いただけの草だ。
これを魔術の媒介とするためには、最低でも《吸う》という仮定を踏まえる必要があった。
加えて痛いのは、せっかくエイラに造ってもらったルーン筆記用の魔具を、今回は持ち込めなかったことである。
魔競祭のルール上、持ち込める魔具はひとつだけだ。
今回、俺は別の魔具を持ってくる必要があった。そのせいでエイラの魔具は持ち込めなかったというわけである。
もちろん、ないものねだりをしていても仕方がない。
今あるもので戦うのが、冒険者という人種だ。
というわけで――初っ端から全力だ。
ルーンを刻むにせよ、まずはウェリウスの動きを止めなければ不可能だ――。
「――《雹》!」
マザールーンとも呼ばれる強力な一文字。
不可避の災害、人間の力ではどうしようもない自然の脅威、予測不可能な不運――そういった意味を持つルーン文字だ。
大自然の力に対抗するためには、こちらも同様の札を切っていく必要がある。
血に魔力を通し、空間にルーンを刻む。
直後、ウェリウスの立つ空間を中心にして、膨大なエネルギーを持つ暴風と雹が発生する。風の加速を受け、天から降り注ぐ回避不可能な地吹雪。畑を、作物を荒らすその力は、人間にとって最も根源的な《天災》だ。
今の俺に使える最大火力。
当然、持ち得る魔力を一気に振り絞る必要がある。呪われた魔力口が軋みを上げ、その反動が肉体を襲う。全身の筋肉が一斉に悲鳴を上げ、内臓から滲み出た血が鉄分の味を教えてくる。
その反動を一切無視して、俺はウェリウスに向かって駆けた。
自ら作り出した災害の中心に、あえて身を投じるように。
対するウェリウスは、八種の属性全てを《雹》の対処に当てた。
本能的に、この魔術の強力さを理解しているのだろう。
降り注ぐ雹を炎の熱が溶かす。分厚い水の盾が受け止める。ステージそのものが強度を増し、ウェリウスの立つ地面そのものの強度を上げていた。
「そう簡単に防がれちゃ……堪ったもんじゃねえな!」
続けて刻んだのは《水》と《野牛》。野生的な力を得た水流が、大砲となってウェリウスへ向かう。
――だが。
「甘いよ、アスタ」
突如、ウェリウスの正面に大樹が生えた。
魔競祭のステージそのものを割り裂いて大地に立脚する生命の象徴。それがまるで盾のように水流を防ぎ、むしろ大きく成長していく。
木は水で育つ。
その概念通りの結果が、今の目の前の光景だ。威力や硬度といった要素を一切無視して、ただ如雨露で水をかけるかのように植物は生き生きと生命力を増していく。
「――木属性が持つ《生命》の概念に、水の力は通用しない」
「野郎……っ!」
その情報は、もうひとつの悪報を俺に伝えていた。
木は水に強い。だが雹には弱い。それでも育っているということは、つまり――《雹》はすでに突破されたということだ。
最悪は続く。
育ちきった大樹の根が、俺の方向を目がけていきなり伸びてきたのだ。まるで意志を持った触手のようにうねる大樹の根――躱し切れず、俺はその直撃を鳩尾に受ける。
「ご――あ……っ!」
思わず膝を突く。口から、堪えきれない血が零れた。
それは何も、単に物理的な攻撃を受けたからだけではない。大樹の根が俺に触れた瞬間、それを通じて魔力を奪われたのだ。
――生命力の奪取。それも《木》が持つ概念のひとつということだろう。
呪われた俺の出力限界を無視して、強引に奪われた魔力。それは減った量以上に、呪いで縮小した出力口にダメージを与えていた。大魔術をひとつ使ったときと同じ反動を、俺は自らの肉体に受けてしまったということ。
その隙を逃すウェリウスではない。
蔦が絡むように、大樹が俺の肉体を縛る。まるで罪人のように捕らえられ、俺はそのまま宙へ身体を浮かべられてしまった。
当然、魔力を奪う能力は健在だ。腕ごと身体を縛る蔦に、じわじわと魔力を奪われていく。
その速度自体は大したものじゃない。問題は俺が呪われていることであって、そのせいで魔力を奪われると同時に、俺は肉体にもダメージを受けてしまうのだ。
「――っ」
口に溜まった血を吐き出す。濃い茶色をした、生命力に溢れた幹が赤で濡れる。
そして――、
「――《火》」
吐き出した血がルーンを刻み、大樹の拘束を焼き払った。
木は火に弱い。こちらへ伸びた根を通じて、大樹の本体にまで火が至る。行動の自由を取り戻した俺は、着地と同時に焼け焦げた木の灰を掴む。
そして、それを宙にばら撒きながらさらに駆けた。
「《豊穣》、《成長》」
「ばら撒いた灰でルーンを……!?」
「煙でできて、灰でできないってこともないだろう」
苦笑しながら俺は駆ける。
その間も地面から石柱が飛び出したり、氷の塊が頭上から襲ってきたりするが、その全てを俺は《防御》で受ける。
いかんせん威力が高すぎるため、防いでなお反動を受けるのだが、そんなことにかかずらっている余裕があるわけもない。足を止めることだけはしなかった。
彼我の距離が縮まる。あと十歩――それだけあればウェリウスに届くだろう。
だが、その十歩が果てしなく遠い。
そして奴の手には、いつの間にか金属でできた剣が握られていた。
――金属性の魔術で創り出したのだろう。
それを、ウェリウスはこちらに向かって投げてきた。当然、俺はそれを《防御》で防ごうとする。
だが鉄の剣は、容易く俺の防御壁を斬り裂いた。
「ぐ――っ!?」
左の肩口を、深々と剣が抉っていく。
「――《切断》」
「これも、概念魔術か……っ!」
しかも金属というよりは、むしろ剣の概念に近いだろう。そこまで広い範囲を掬えるというのだから、この期に及んでまだ驚かされる。
肩口を裂いた鉄の剣。突き刺さることはなかったが、その途端、俺の左腕ががくりと力をなくして垂れ下がった。筋肉がまったく言うことを聞かない。
そこまでの負傷ではないはずだ。ならば――これは。
「《腐食》」
「――っ! 《保護》!!」
咄嗟に術的な保護をかけ、それ以上の侵食を回避する。
だが、これで左腕を殺された。少なくとも、この試合中に復活することはあるまい。
ひとつの属性にふたつの概念とかもう意味がわからない。なんなんだこいつはマジでおかしいだろ。そう叫びたい気分だった。
もちろん無理だ。
そもそもウェリウスにとっては、それで充分な隙だった。
「君は躱すのが上手いね。その程度の防御力では本来、僕の魔術を受け止められないはずだ」
「……やられ役が多かったからな。受身だけは上達したのさ」
「だから君を倒すには――結局、こういった力押しがいちばんだ」
ウェリウスが右手を空に突き出す。
その上空には、渦を巻くように存在する自然の脅威。
火炎が。水流が。氷塊が。暴風が。
計四属性の強大なエネルギーを秘めた攻撃魔術が、そこには待ち構えていた。
そのひとつでもまともに直撃すれば、俺はもう立ち上がることさえできないだろう。むしろ、命を落としたって何もおかしくはない。
「片腕で、これを受け止められるかな」
「……いやいや。冗談言うなよ」
「そうか――なら、試してみることにするよ」
直後、ウェリウスが腕を振り落とした。
それと同時、空から四重の災厄が降り注いでくる。
――土煙と轟音が、会場中を包み込んだ。
※
間違いなく最高の攻撃だった。ウェリウスにはその自覚がある。
それでも、その上でなお、彼はこれで試合が決まったなどとは考えていない。その程度には、ウェリウスもまたアスタ=プレイアスを評価していた。
あるいはそれを、信頼と言い換えてもいいだろう。
自分と同じ《魔法使いの弟子》ならば、きっとこの程度は凌ぐはずだ、と。
そうでなければ、面白くない。
徐々に晴れていく土煙の向こう側を、ウェリウスは油断なく見据えている。
どう出る。どう来る。いったいどうやって攻撃を防いだ?
まるで初めて見る手品に狂喜する子どものように、ウェリウスはアスタが現れるのを待つ。
やがて――視界が完全に晴れた。
すでにステージは半壊している。彼から見て、真ん中から向こう側のステージはもはや足場が存在していない。どころかその下の地面さえ抉って、学院の敷地に大穴を開けていた。
そして、その場所に。
アスタ=プレイアスの姿はなかった。
「な――」
一瞬、本当にアスタを消滅させてしまったのかと思う。
だがそんなわけがない。現に――、
「……《車輪》」
自分の背後から、そんな声が聞こえてきたのだから。
――ウェリウスは気づかない。
そのとき、自分の表情が目も当てられないほど緩んでいたことに。
いったいどうやって逃れたというのだろう。ウェリウスには何ひとつわからなかった。
そのことが――たとえようもなく嬉しい。
刹那、ウェリウスは振り向いた。
その速度は、もはや人類の限界を超えている。生粋の近接戦闘者と比較してなお勝るほどの速度で身体を反転させ、背後の強敵に向けて殴りかかる。
アスタは、それでも反応した。
さすがに速度では敵わなかったのだろう。ほとんど転ぶように身を捩ると、ウェリウスの腕に自らの左腕をぶつけてくる。すでに死んでいる左腕を、動きの勢いだけで盾に使ったということだ。
吹き飛ばされるアスタ。彼はそのまま、綺麗に三つ目の角へと滑っていく。
それさえ狙ってやったというのなら、彼はどこまで先を読んでいるというのだろうか。魔術の異質さや、すんでのところで致命傷を避ける生存性――あるいはそれら以上に、アスタの戦術構築力は異常だった。
こちらの行いなんて、本当は全て読まれているのではないか。そんな不安さえ抱かされてしまうほどに。
角に辿り着いたアスタは、そのまま地面に喀血する。
観客への見世物としてはすでにアウト。正直、止められてもおかしくないレベルだろう。それがないのは、単に審判さえこの戦いに割って入ることができないからに過ぎない。
とはいえ、彼は吐いた血を魔力で操ってルーン文字として成立させることができる。
おそらくは今ので、三つ目のルーンも刻まれてしまったということだろう。
別に構わない、とウェリウスは思った。
この状況から四つ目を刻めるほどの余力が、アスタに残っているとは思えなかったからだ。それができるなら、たぶんそれこそ勝てはしない。
「……なんだよ、今の速度は」
ふと、アスタが言った。ウェリウスの身体能力が、異常に高かったことを踏まえてだろう。
ウェリウスは特に迷うこともなく、当たり前のように答えた。
「雷の属性の《加速》概念。人体の限界を超えた反応を、肉体に促せる技術だよ」
「近接でも戦えんのかよお前……もうちょっと遠慮しろよ。あれもこれも取りすぎだろ。知らないのか、《強欲》は大罪らしいぜ?」
アスタは、とても面白い冗談を言った、という風に自分で笑う。
その意味はわからなかったし、ウェリウスもまた全てを語ったわけじゃない。
加えて言えば、ウェリウスの雷に貫かれたものは《麻痺》の概念を受けて動きを止める。直接受けたのがすでに使えない左腕で、かつ《保護》のルーンで防がれたために意味がなかっただけの話だ。だから言わなかった。
代わりに、ウェリウスは別のことを言う。
「それにしても。これで三つ目まで刻まれてしまったわけだけれど」
「そうだな。どうする、あとひとつだぜ?」
「ところで訊きたいんだけどさ」
「……なんだ?」
ウェリウスは笑った。
「――角に向かうとわかってて、そこに罠を張っていないとでも思ったのかな?」
アスタの立つ地面が、その瞬間、地響きとともに崩れ去った。
地属性の魔術が、すでにその場所へ隠されていたからだ。
崩れ去る地面はそのまま形を変え、硬質な鞭となってアスタに襲い掛かる。これに打ち抜かれても、あるいはそのまま舞台の外に落ちても、その時点でアスタの負けだ。
しかし、印刻使いは驚かない。
読みきっていたとばかりに前へ跳躍し、人の悪い笑みを浮かべて呟いた。
「もちろん、張ってると思ってたに決まってるだろ」
直後、ウェリウスの頭上で爆発が起きた。まるで火炎の花が開くように、頭上から炎が降り注いでくる。
瞬時に反応したウェリウスは、その影響を水の防御で防ぐ。同時に攻撃の源を風で吹き飛ばすことで完全に消しきった。
だが、その心中は驚きで満ちている。
いったいいつの間に魔術を――。
驚きも束の間、ウェリウスはすぐさま答えに思い至る。
先ほどアスタが刻んでいた、《豊穣》と《成長》のルーン。
あれらは、まだ魔術の効果を発揮していなかった。アスタがルーンで何をしてくるのか、その予測がつかないせいで意識から外れていたのだ。
おそらく、その前に発した《火》に合わせる形で、彼は火炎の花を咲かせたのだ。媒介に植物の灰を使っていたことを、ウェリウスは今になって思い出す。
――だが。
それでもウェリウスには通じない。多少驚きはしたものの、この程度は傷さえ負わない。
見ればアスタは地属性の攻撃を躱すために、前方へと身体を躍らせていた。だが、ひとつの魔術を躱すためだけに、そこまでの隙を晒していること自体が、彼の疲労を知らしめている。
アスタが横方向へと駆ける。最後の角を目指しているのだろう。
しかし、易々と辿り着かせるほどウェリウスは温くない。
火炎が渦を巻き、アスタ目がけて突き進む。それを防がれれば次は雷が、次は氷が――手札はいくらでも持っていた。
「――終わり、かな」
一抹の寂しささえ感じながら、ウェリウスは小さくそう呟いた。
元より距離がある。きっとアスタには聞こえたいなかっただろう。
だが。彼は、まるでウェリウスに答えるかのように、小さく唇を動かした。
「ああ。――終わりだ」
瞬間――アスタがルーンを宙に刻む。描き出したルーンは《保護》……だが、今さらそのひとつのルーンでウェリウスの攻撃を防げるはずもない。
実際、その通りではあった。
なぜならアスタには、初めからウェリウスの攻撃を防ぐつもりなどなかったのだから。
ルーンの魔力が宙を進む。
それはウェリウスの炎にぶつかると、その内部を通り抜けて先へと進んでいった。
「何――!?」
帯状に伸びる火炎。魔術が、魔力そのものが道となって、文字が逆側へと通り抜ける。そして逆側から地面に落ちると、今度はステージに隠されたウェリウスの地の魔力を第二の道として、最後の角にまで一気に至る。
そして――四つ目のルーンを、四つ目の角へと刻み込んだ。
「僕の魔術を、ルーンの通り道にしたのか!」
叫ぶウェリウス。それだけ、彼にとっても驚きが大きかった。
なぜなら、たとえ魔術を通り道にしたところで、それが逆側の角に至るとは限らないからだ。少しでも炎の軌跡が違えば、ルーンはまったく別のところに落ちたことだろう。
「――魔術の講義をしてやろう」
アスタが言う。今の彼は、ほとんど死に体の状態だった。
左腕は使えない。内臓もぼろぼろだ。通り道に使った炎は外套で防いだのだろうが、当たり前に出力が足りていない。防げなかった火炎が服を、肌を焼いて、見るも無残な外見だ。
そして、それでも立っている。
「《車輪》のルーンは《駿馬》と同じ移動を意味するルーンだが、その違いとして移動の過程ではなくその《目的》を重視したルーンになっている。それを使えば、文字を目的の場所まで運ぶことは不可能じゃない」
「それはわかる。だが、僕が使う魔術を完全に把握していなければ、あの道を通ることはできなかったはずだ……」
ウェリウスは動けない。あと一撃でも加えれば、アスタは確実に意識を手放すだろう。
だが――すでに結界は起動している。
アスタが発動すれば必勝だとまで断言した結界なのだ。その効果もわからないうちから、安易に動くことなどできるわけもなかった。
「その答えは単純だ。――お前、わかりやすいもん」
「な、なに……?」
「意外に純粋っていうか。そりゃ、俺が角を目指していれば、そこに罠を張っておくことくらいは考えつくだろう。ではどんな罠を張る? お前の魔術は目立つ。だが罠が目立っては意味がない。ならいちばん目立たない魔術として――お前は絶対に地属性を選ぶと思っていた」
「……確かに、その通りだね。返す言葉もない」
「しかし、俺がどちらの角を先に目指すかはわからない。その時点でお前は左右両方の角に罠を張っておくしかないわけだ。だがそれは言い換えれば、ふたつの地点がお前の魔力で繋げられたという意味でもある」
「…………」
何も言い返すことができない。
全てが図星だ。アスタは構わずに続ける。
「そしてお前が使う魔術だが――せっかく八つも属性があるのに、お前はその全ては普段から使っていない。隠しているからだ。そのせいだろうな――咄嗟のとき、お前は自信のある火や水といった、メジャーな属性を使う可能性のほうが大きいんだ。次点で風と地。雷や氷、金や木の属性を、お前は咄嗟の事態では使わない」
「――だから、僕に火の魔術を使ったのか……」
火を防ぐためには水か風だ。地はすでに罠として使っている。
だからこそ、あの状況でアスタに使う攻撃は火属性である可能性がいちばん高かった。
――絶対ではないだろう。
それでもアスタはその可能性に賭け、そうなるように立ち回り、そして――その通りに達成した。
「余裕のあるうちは、むしろ対処にしにくいマイナーな属性で攻撃してきたからな。お前にあえて近づいたのは、それで炎の魔術の始点をなるべく逆側の角に近づけるためだった」
そこまで言うと、アスタはおもむろに懐から煙草を取り出した。
左手が使えないからだろう。魔術で火を灯すと、煙を宙に向かって吐き出す。
「――それで?」
ウェリウスは訊ねた。それで終わりではないだろう。
「この結界には、いったいどんな意味があるんだい?」
「お前なら見ればわかるだろう? こんなものは――ただの防御結界に過ぎない」
「……ああ。そして、それだけじゃないこともわかってる」
そう。一見して、アスタの張り出した結界は、単なる防御用の結界でしかなかった。
確かに強度は高い。だが、防御結界をフィールドに張り巡らせる意味がウェリウスにはわからなかった。加えてアスタが刻んでいた《栄光》のルーンは、どう解釈しても防御のために使うものじゃないだろう。
ウェリウスは待った。
もちろん勝ちを諦めたわけじゃない。ただ、結界に睨まれている現状、動くこともできないというだけで。
――強引に動くのはまだ早い。
それこそ、最悪の展開を前にしなければ。
「さて」
呟き、アスタが懐から魔晶を取り出す。純度の高い魔晶だ。高価なものだろう――だが、それだけではなんの意味もない。
身構えるウェリウスの目の前で、アスタは口に煙草を咥えると、右手を自らの胸に――心臓の上にへと当てた。
「離れてろ。これから俺が使うのは――呪術だ」
「ば、馬鹿を言うな。自分を呪うつもりだとでも言うのか」
「――ああ。その通りだよ」
言うなりアスタは、自らの胸をなぞるように指を動かす。何かのルーンを描いていた。
そう――これから彼が使うのは呪術だ。
結界の内部で、栄光のルーンの加護を逆手にとって、彼は自らを呪う。
――ずっと考えていたことだ。
出力を下げる呪いに対抗するためには、逆に出力を上げる呪いをかければいいのではないだろうか。
もちろん、そんなモノは単体ではなんの効力も持たない。出口が開ききってしまっては、魔力が垂れ流しになってしまうのだから。すぐに枯渇して、最悪の場合は死に至る。
だが――その両方の呪いを受けた状態ならば?
ふたつの呪詛が拮抗して、元の力を取り戻すことができるのではないだろうか。
机上の空論だ。呪詛をふたつも身に受けては、そもそも肉体のほうが持たないだろう。
だから時間制限をつけた。
セルエに依頼し、魔晶に《解呪》の効果を付加してもらったのだ。呪われた状態で自ら解呪を使う余裕はない。魔具に頼る以外に道はなかった。
――その制限時間は、約七秒。
それ以上は肉体が耐え切れず、アスタ自身が呪詛に蝕まれて死ぬだろう。
だからセルエの魔晶が、強制的に呪いを解呪する。迷宮の呪いは解けずとも、人間個人がかけた術式ならば解くことは可能だ。
もちろんセルエは、最後までこの方法に反対していた。
というよりも、そもそも呪いを二重に受けようという発想自体が狂っている。どう転んだって肉体にいい影響は及ぼさない。比喩ではなく単なる自殺行為だ。
それでも。命を懸けて、たった七秒を稼ぎ出せるのなら。
その覚悟には、きっと計り知れない価値がある。
だから――アスタ=プレイアスは、胸に手を当てて口を開いた。
「――逆式呪詛」
瞬間、彼の身に眠っていた膨大な魔力が湧き上がる。
それが結界に押さえ込まれ、周囲への被害を和らげていた。
だが内部にいるウェリウスは、その余波を完全に肉体で受けていた。
かつて伝説と呼ばれた男。
紫煙の記述師の本領を、ウェリウスは全て目の当たりにした。
――そして。
※
これから先の七秒間。
セブンスターズの印刻使いが復活する。
※
最初の一秒で、ウェリウスが叫んだ。
「――天網弐式! 根源の精よ、三界の理を示せ――!」
アスタはステージの端で、ただ立ち尽くしているだけだ。
そう。紫煙の記述師は動かない。
ただその場に在るだけで、戦場の全てを把握する。
彼は口許の煙草を手に取った。それを無造作に軽く振るう。火の軌跡が、文字を刻むように揺らめいた。
「《異界包括統御》――ッ!」
対するウェリウスもまた、二番目の切り札を切る。
彼の叫びと同時、それまで統括していた八重の属性が、火のひとつを遺して消えた。
それと代わるように、火炎が、その規模を小さく縮小していく。侮るなかれ。それは質の向上を意味せよ、決して術の弱体化を意味していない。
やがて、火炎は小さな球体の形を取った。
そこに込められた熱量は、もはや炎という概念さえ超越している。
ウェリウスが、今の今まで秘めていた必殺の技法。概念召喚の元素魔術。
難易度にして実に第一団相当。
――そう。それは炎の精霊そのもの。
元素魔術師が、その術理の果てに契約する真精。
あるいは、神と呼ばれる概念だ。
続く二秒目。球体から矢が放たれる。
其は原初の焔火。決して消えることのない、永劫の表れたる神祖の炎だ。
もはや単なる《試合》で使っていい技術ではない。
それは、相手をただ殺すためだけにしか使ってはならないはずの魔術だった。
回避も防御もできるわけがない。それは、世界の法則そのものであり、その表れである精霊――幻想の具現たる概念の炎なのだから。
そんなこと、使い手のウェリウスがいちばんわかっている。
にもかかわらず使わされたのは、今のアスタは、本人のためにも止めなければ危ういと理解してたからだ。言葉通りの意味で、いきなり目の前で自殺されたのだ。必死で止める。
だが同時に、ウェリウスはきっと別の事実にも気づいていたのだろう。
目の前に立っている男が――真精にさえ匹敵する怪物であるということに。
放たれた矢が、アスタに命中する直前で止まった。周囲の空間ごと凍りつき、停止の概念を強引に上書きされたのだ。
火球はそのまま地に落ち、地面に当たると同時に砕けた。
三秒――アスタが攻撃を選ぶ。
軽く振るった煙草の先から火球が放たれた。その密度は、先ほどの真精に勝るとも劣らない存在規模だ。
ウェリウスが応対する。彼の背後に、今度は透き通るように純粋な水の塊が現れていた。
それらが――互いにぶつかった。
――四秒。
火が水で消える、という法則の通りにアスタの火球が掻き消される。続けて今度は水と火、あわせた攻撃を行おうとするウェリウスの目の前で――水の真精が地に落ちた。
その身体が。水という概念そのものが焼けている。
真精が、質で負けるなどあり得ない。
その硬直した思考がウェリウスに隙を作ったのだ。彼はわかっていたはずなのに。
アスタの使うルーン文字もまた、真精と同じく《世界》の側にある概念だということを。
五秒。気づけば、結界空間がいつの間にか濃い煙に包まれていた。
アスタの吐き出す煙草の煙だろう。いくらなんでも、この広いステージを覆うほどの煙が煙草から出るわけがない。
つまるところ、それも魔術の為せる業だ。
ウェリウスは続き、風の真精を喚ぶ。この煙を払わせるためだ。
だが六秒。アスタの煙は、すでにひとつの巨大な文字として成立していた。
ウェリウスの目の前で、アスタの唇が静かに言葉を形取る。
――《雹》と。
それをさせては確実に負ける。そのことは、きっと誰よりウェリウスが理解していた。
咄嗟に口を開く。
「天網参式――」
「――遅い」
そして――七秒。
破壊をもたらす暴虐が、ステージの全域を完全に破壊した。
※
「――っ」
ウェリウスが薄く目を見開く。どうやらほんの一瞬だけ、意識を飛ばされていたらしい。
慌てて立ち上がるウェリウスだったが、その瞬間に気がついた。
自分が、すでにステージの上にはいないという事実にだ。
魔競祭の特設ステージは、すでに全域が完全に破壊されていたのだ。舞台から落ちたら負け。ただ一箇所、アスタが立っている場所を除いては。
あれだけの攻撃があって、被害がこれだけだということのほうがむしろ怖ろしい。
そして足元のステージが破壊されているにもかかわらず、ウェリウス自身にはほとんど傷がないという事実も。
おそらくは、そのための結界でもあったのだろう。
本気を出したアスタが、被害を極力抑えるための結界――それが本来の意図だったのだ。
起き上がったウェリウスは視線の先にアスタを捉える。
そして、小さく呟いた。
「……そっか。負けたのか、僕は」
アスタが答えた。
「ああ。――俺の勝ちだ、ウェリウス」
悔しいという気持ちはある。だが、それ以上にどこか晴れがましくさえあった。
ここまで圧倒的な力を見せつけられては、納得しないわけにはいくまい。
そのことが、むしろ心を軽くするかのようだった。
「うーん。いやはや、生まれて初めてだよ。敗北の味を感じるのは」
「うっせえな嫌味か」
「でもまあ、いいところまでは行けたかな」
「……そうだな。最初から互いに本気だったら、それはそれで試合もわからなかった」
「慰め?」
「お前なんか慰めるわけねえだろ」
「うわー酷い」
くつくつと笑うウェリウス。だから、アスタは言った。
「……お前の敗因、教えてやろうか」
「聞くよ」
「単純な話――俺のほうが性格が悪かっただけだ」
聞いた瞬間、ウェリウスは盛大な笑い声を響かせた。
実況席で、シュエットが大きく声を響かせる。
二回戦第一試合、決着。
勝者――アスタ=セイエル。
※
なお余談として。
決着が告げられたその瞬間、アスタは血を吐いて地面に倒れ込み、負けたウェリウスに担がれて会場を去った。
実況のシュエットは、ほとんど涙目で必死のフォローを続けたのだが……あくまで余談である。




