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セブンスターズの印刻使い  作者: 白河黒船/涼暮皐
第三章 魔競祭事件
84/308

3-32『質と量』

 火炎が渦巻き、天を焦がす。

 規模自体は大したものじゃない。元より今の俺が、魔力の量で勝負を決めようとすることのほうが間違いだ。多くの魔力を所持していたところで、出力の限界が低くては意味がない。

 だが、それでもこの炎は、そう簡単には消せないだろう。

 呪われたなら、呪われたなりの戦い方がある。

 規模りょうではなく密度しつで。対処すればいいだけの話だ。


「ぎ――がああああああああああああああっ!!」


 悲鳴が上がる。甲高く耳障りな声が、つんざくように空気を揺らす。目の前には焼け爛れ、悪臭を放ちながら炭化していく人体があった。

 それとなく、俺はアイリスの視界を自らの身体で庇う。

 凄惨な光景だ。わざわざ見せる必要はない。アイリスがそれに慣れているかどうかなんて問題ではないのだ。

 焼け崩れていく水星を見据えたまま、俺は振り向かず、声だけで背後のアイリスに言う。


「先に戻ってて。そうだな、メロのところなら安全だろう。もう試合は終わったけど、まだあの辺りにいるはずだ。アイリスなら捜せるだろ?」

「……でも」

「大丈夫。言ったろ、頼れって。俺なら平気だから」


 アイリスは迷っている様子だった。それでも、俺は無理にでも彼女を戦場から遠ざける選択肢を選ぶ。

 もしかすると、それは間違った選択なのかもしれない。

 アイリスは戦える。少なくともそれだけの能力を持っている。どういう理屈なのかはわからないが、ピトスの話では、彼女の攻撃は水星に通用するらしい。

 一方、俺の攻撃が水星に通じるという確証はない。

 考えようによっては、だから俺の行為は、ただ戦力を減らすだけの愚行なのかもしれなかった。

 ――構うものか。

 戦える能力があるからといって、戦わなければいけない、なんて決まりはない。

 たとえそれが俺のエゴなのだとしても。俺は、アイリスがこの場にいるべきだとは思わなかった。


 アイリスは、それでもまだ俺を置いていくことに躊躇いを見せていたが、やがて覚悟を決めたようだ。

 意を決して振り返ると、彼女はこの場から去っていく気配を見せた。

 さすがに速い。持ち前の身体能力を遺憾なく発揮して、彼女は戦場から姿を消す。数分もあれば、きっとメロと合流できるだろう。


 改めて目の前に意識を向ければ、そこには黒焦げになって倒れ伏す水星。

 だが油断はしていない。どういった理屈からか、水星が負傷から回復するということを俺はピトスから聞いている。それも、彼女曰く治癒魔術によらない復元だとか。

 うつ伏せになって倒れる水星。

 素直に捉えれば、誰が見たって死んでいる。肉体を炭化するほどに燃やし尽くされ、それでもなお生きている存在など人間ではないだろう。

 だが七曜教団の連中が、そう簡単に死ぬとは思えない。なにせあの魔法使い(クソジジイ)が絡んでいる組織だ。所属している魔術師が、真っ当な人間だと考えるほうが馬鹿げている。

 生きていたって不思議はない。

 というか、この程度で死ぬと考えるほうが甘いだろう。


 案の定――水星は、動いた。

 炭化していた表皮が朽ちた木の皮みたいに剥がれ落ちていく。ぱらぱらと剥けた炭の下からは、傷ひとつない肌が覗けていた。

 表皮を覆っていた黒の全てが、やがて剥がれ落ちてなくなった。炭化した皮膚は、地面に落ちると同時に魔力へと還元され消えていく。

 無傷の水星が、そしてゆったりと立ち上がった。


「…………」

 彼女は何も言わない。ただ無言でこちらを見据えていた。

 その瞳には、どこか理性の色が垣間見える。先ほどまでの自己完結した狂気ではなく、明確に他者おれを認識していることがわかる色合いだ。

 俺は片足で、地面の砂をなぞるように蹴る。水星が笑った。

「……容赦がないんだな」

 それまでと同じ声で、けれど決定的に違う声音で。

 まるで人格そのものが変わったかのように。

「いや……それもそうか。七星の身内に手を出した人間が、どうなるのかは有名な話だ」

「それがわかっていて、それでもアイリスに手を出したんだ。殺されたからって文句言うなよ」

 そう告げると、なぜか水星は笑みを見せた。

 ひどく愉快そうに、彼女は噛み殺すような笑いを零している。その様がまた酷く不愉快だ。

「殺されたら文句は言えないだろう。だって死んでるんだから」

「下らない。そんな冗談に付き合うつもりはねえぞ」

「いや。別に私としては、あんな失敗作こどもはどうだっていいんだ。目的はあくまで君だよ――紫煙」

「……俺を殺すために、わざわざアイリスを餌に使ったと?」

「言いたいことはわかるさ。ずいぶん遠回しだ、ということだろう? まあ、その辺りは私個人の趣味もあるが、あとは組織のお達しもあってね。そうせざるを得なかった、というのが本当のところなのさ。アル――木星の奴がうるさくてね。そもそも君から崩せ、という案自体、アルが言ったことなんだ。彼はどうにも、君を強く意識しているらしい」

「迷惑な話だ」

「君にとってはそうだろう。だが、それは私も同じなんだよ。板挟みのつらさ、って言うのかな。教団だって一枚岩じゃない、七星において真っ先に君を殺すべきだと主張しているのはアルくらいのものでね。ほかの連中は、呪われた君なんて戦力外だから放っておけばいいと考えている。実際、私もそう思っていた」


 俺は答えなかった。答える意味を感じないからだ。

 水星はべらべらと教団の内部事情を話す。だがそれが事実かどうかなんて判断できないし、仮に本当だったとしても、それで教団に迫れるというわけじゃない。

 考えるべきは水星を殺す方法だけ。

 生け捕りなんて、もはや考慮に入れていない。アイリスに手を出した時点でもう、あとのことなんて考えるに値しなかった。

 問題は、だから――水星が殺しても死なないことだ。


「だが今になって私も考えが変わってきた。なるほど、確かに君は脅威だ。出力の低下なんて、君の場合は大した問題じゃないということらしいね。弱くなったからといって、イコールで勝てなくなったというわけではない……いい教訓になった」

「そういうお前も、ずいぶん化物じみてるな。今、明らかに死んでただろう。何あっさり生き返ってんだよ」

「《蘇生》は喪失魔術ロストロジックだよ。できるわけがないだろう」

「それを言うなら《変身》だってそうだ。今さらだな」

「違いない」

 噛み殺すように失笑する女性――ドラルウァ=マークリウス。その表情に、そして口調に、先ほどまでのような安い狂気の色は見られない。

 どこまでも冷静で、理性的で。だからこそより狂っている。

 言葉が通じるからといって。

 価値観まで通ずるわけじゃなかった。


「……治癒魔術とは違うな」

 煙草を取り出し、火をつけながら俺は言う。

 いくら攻撃したところで、一瞬あとには無傷になっているのだから。無闇に魔力を浪費するわけにはいかない。

 一方、水星から攻撃してこない理由はなんだというのか。余裕か、それとも別の何かか。

「復元か、回帰か。いや……どうもしっくりこないな。いったいどういう原理だ?」

「訊かれたからって、教えるわけがないだろう」

 呟いた俺に、水星は愉快そうな苦笑を見せた。まあそれもそうなのだが。

 からくりがわからないことには倒せない。だがこのままでからくりが見えるとも思えない。

 結局、攻撃するしかなかった。


「――《巨人(Thurisaz)》」


 印刻。ルーンを刻むのに、最短なら一秒もかからない。

 白い魔力の棘が、水星の肉体を貫いた。地面から生えた棘に股を裂かれ、肉体を正中線から真っ二つに切り裂かれる水星――直視に堪えない光景ではあるだろう。飛び散る血が地面を汚していく。

 ダメ押しとばかりに、下から上へと飛び出た棘に代わり、今度は上から下へと雷撃が叩きつけられる。半身をそれぞれ雷に焦がされた水星は、そのまま果物が断たれるみたいに左右へと倒れていった。

「…………」そして。

 そのそれぞれが、一瞬あとには別々の身体へと戻って――いや変わっている。

 真っ二つに裂かれた肉体が、それぞれに復元したのだ。


 すなわち、水星がふたりに増えたということである。


「……酷い酷い酷い酷い酷い。いきなり攻撃するなんて――」

「はははははははッ! 平和ボケした顔して容赦ねえなあテメエ、オイ!!」

 左右の水星が、同じ声で、まったく別人のような言葉を吐く。

 見ているだけで異常が知れた。頭がどうにかなりそうだ。

「不死身の人間を正中線で切ったらどう再生するのか、なんてよく聞く仮定だけど――実際に分裂されると、なんだ。気持ち悪いな」

「そりゃねえだろ、テメエでやっといてよォ!」

 左の水星が嗜虐的な笑みで言う。だが俺は答えなかった。

 あの一見して理性的だった人格とでさえ価値観が通じなかったのだ。まして始まりから狂っているほかの人格となど、もはや会話さえ成立するまい。

「にしても、全身丸ごと焼いても駄目、真っ二つに欠損させても駄目、か。あれだけ出血して貧血を起こすような様子もない……滅茶苦茶だな」

 煙草の煙が、ゆらめくように空へと昇っていく。だが途中で目に見えない膜のようなものに阻まれて、空気の中へと溶けていった。

 結界が敷かれているのだろう。単純に、内部の事情を外へと漏らさないための秘密保護――最も単純な結界だ。

 それが未だに残っている。

 ということはすなわち、術者――水星が生きているということを指す。魔術とは、呪術などの一部例外を除いて、基本的に術者が死ねば効果が切れるのだ。それが起こっていない以上、水星が生きていることに疑いは持てない。

 あるいは一度も死んでいない、と言い換えてもいいだろう。


 治癒ではない。蘇生でも復活でもない。そもそも水星は死ななかった。

 ならば何か。

 その答えを俺は考える。答えに近づいている感覚はあった。


 ――変身魔術。

 肉体を持っている人間には不可能とされた技術。

 そもそも、なぜ水星は変身魔術を可能としているのか。

 彼女は、負傷を治すときの戻り方が常に一定ではない(丶丶丶丶)。焦げが剥げるように復元したり、かと思えば一瞬で元の状態に戻ってみたり、どころかふたりに増えてみたり。治り方がてんでバラバラだ。

 ということは、彼女の魔術は術式というよりもむしろ感覚、イメージに則ったものである可能性が高い。

 そもそもふたりに増えている以上、彼女の魔術は質量の保存を無視している。だが、どんな魔術だって対価なくしては発現し得ない。この場合、魔術の対価とは――魔力だろう。

 魔力ならば、ヒトの想像イメージの反映を色濃く受けていておかしくない。


「――つまり。なるほど――変身。そういうことか……!」

「なんだよ、なんかわかったのか? あ?」「知った風な知った風な知った風な」「いいじゃねえか! ほら言ってみろ、採点してやっからよ!」


 左の水星が、口角を歪めて嗤笑する。右の水星は髪を掻き乱して叫びを上げた。

 バラバラの人格。

 それに答えようと思ったわけではない。そもそも水星の言うことなど何も信じていない。

 だが、せめて反応から何か引き出せればいいと。

 考えを口にしたのは、それが理由だった。


「変身魔術、っていうのはつまり――肉体そのものを魔力に変える魔術だったわけだな……!」


 俺の言葉に、左右の水星がニィと口の端を上げる。

 それが答えだった。

 理屈としては、迷宮の魔物と同じだ。肉体そのものが魔力で構成されているからこそ、魔物は死体を残すことがないし、また傷ついても魔力さえあれば回復する。

 水星の身体は――いわばその亜種だ。

 魔力で肉体を補填できる。だから彼女は回復しているのではなく、より正確な表現を選ぶならば、傷ついた状態から傷ついていない状態へと変身している(丶丶丶丶丶丶)わけだ。

 彼女にとって、あらゆる肉体の状態は全て変身の結果という認識になっている。

 全身を火炎に焼かれようが、真っ二つに裂かれようが、あるいは肉体がふたつに増えようが――それはそういう《変身》をしているに過ぎず、身体を変えているに過ぎず、だから戻ることだってできる。


 ――そして、おそらくそれだけではない。


 いくら変身できようと、その際に肉体自体が死んでいることは事実なのだ。肉体そとがわだけ復元したところで、そこに宿る精神なかみが死んでは意味がない。

 当然、彼女はそこにも対応策を持っているはずだ。

 その答えも、俺には想像がついていた。ついてしまっていた。

「……お前、いったいいくつ人格を持っている……?」

 だから訊ねた。まともな返答を期待したわけじゃない。

 ただその狂い切った思考に、口を動かさないでいられなかっただけで。


「さァな。知るかよ、そんなこと」水星が怒る。「多すぎて多すぎて多すぎて覚えてないよ」水星が泣く。「……どれも、自分……だから」水星が哂う。「だってだって、せっかく生きてるんだよぉ?」水星が嗤う。「どうせなら、より多くの生を歩まなければ勿体ないと思わないか――?」


 水星が――笑う。


「だから私は人格を分裂させ、魔力的な情報に変換して持ち運ぶことを決めたのさ」

「……《変心(丶丶)魔術》、か」

「その通り。心も体も、私はいくらだって変え(丶丶)が利く」

 肉体だけではなく、精神にさえ彼女はストックを持っている。

 それがなくならない限り彼女は死なない。肉体と精神、両方が滅んで初めて死と呼ぶのなら、だ。

 劣化した肉体は復元し、磨耗した精神は交換する。

 彼女は――そのもの不死と表していい。

「だがそんなもの、もう自分という個人モノがないのと同じだろう。それでよく生きているだなんて言えるものだな」

「逆だね。私からすれば、唯一であることのほうが怖ろしい。どうして固有オリジナルである必要がある? 代えれば返れば換えれば替えれば飼えれば買えれば帰れば還れば――変えれば人間わたしは終わらない。いつまでだって続いていく。そのほうが、ずっと素晴らしいに決まっている」

 彼女は個人という概念を捨てていた。そうまでして生きていける、その事実が怖ろしい。

 心も体も、彼女という存在の定義にはなり得ないのだから。自分というものがないのだから。

 普通ならとうに狂死している。

「では、改めて名乗ろうか」

 個を識別させない彼女。その名乗りに、いったいどれほどの意味があるのだろう。

 それでも彼女は、こう言った。


「――七曜教団幹部。純潔の使徒にして《無貌の不心》――水星のドラルウァ=マークリウス」


 肉体と精神を使い捨てにして生きる多重心身者。その能力の範囲は、俺の想像以上に広いのかもしれない。

 俺は、結界の周囲に人影が集まりつつあることに気づいていた。運悪く迷い込んでしまった来場客、ではない。それをさせないために結界があるのだから。

 集まった人影は、結界をすり抜けて中に入る。アイリスが結界を通り抜けるのとは違う理屈だ。彼らは単に許可されているから通れるだけに過ぎない。

 年齢も性別もばらばらの人々。共通点はといえば、死んだように空虚な表情くらいのものだった。

 水星に、俺は思わず問う。


「――なんだ、こいつらは……」

「決まっているだろう。教団の信者さ。私はこれでも、教団でいちばん布教に熱心だと自負していてね」

「……その割には、どいつもこいつも虚ろな顔してるみたいだが」

「彼らは信仰に基づいて、私に肉体うつわを差し出した。そのために精神なかみがなくなっているけど。今や彼らは私の一部だ。あれは信者かれらでありながら、同時に水星わたしでもあるのさ」

「なるほど。……悪趣味極まりない」

 望まない者たちを。

 無理やり、自分の身体いのち予備ストックにした。

「理解されないか。まあそれも仕方ない。異教の罪を糺すのも、宗教者の重要な役目ではある」

「言ってろ――犯罪者」


 そして、命の奪い合いが再開される。



     ※



 分裂した水星の片方が、こちらへ向かって跳ね飛んだ。こちらから見て右にいた水星だ。

 同時、周囲に集まってきていた信者たちも、俺に向かって腕を伸ばしてくる。

 まるで死体ゾンビにでも襲われているかのような気分だが、そうたとえるには連中の動きが機敏すぎた。

 水星の腕が伸びてくる。それこそゴムでできているかのように迫り来る腕を、俺は半身を捻ることで回避した。と――、

「――……っ!」

 回避した腕の横から、別の腕が生えてくる。水星の変身は向きも形も、質量さえ一切問わない、文字通りの変幻自在だ。回避しようだなんて発想自体が間違っていた。

「――《主神(zusnA)》」

 咄嗟に煙草でルーンを刻む。灯されていた炎の軌跡が、空間に逆式の印刻を描く。

 知性、そしてその発露である口を意味する主神アンサズのルーン。その逆転はすなわち情報の錯誤であり、偏見であり、コミュニケーションの不足を表す。

 撃ち出された水星の腕――といっていいのかどうか――が、俺に当たる直前で向きを変えた。ルーンに惑わされて、水星が俺の位置を誤認したからだ。

 稼ぎ出したわずかな隙に、俺は体勢を立て直し、指に挟んだ煙草を続けざまに振るう。


「――《(Isa)》、《秘密(Perth)》、《保護(Algiz)》――」


 最後の《保護アルジズ》を刻んだと同時に、俺は煙草を空に向かって放り投げた。火が、灰が、煙がゆらゆらと揺らめきながら上がっていく。

 そして頂点に辿り着いた瞬間――紫煙が霧のように広がって、結界の内部を覆い尽くした。

 内部にいた信者たちが、煙に触れると同時に身体の動きを止める。それは俺を襲っていたほうの水星も同じだった。

 唯一、先ほどまでずっと喋っていた水星――分裂した左側の奴――の周囲だけ、煙が避けるように流れを塞き止められている。当然、そいつの動きは封じられていない。

 おそらくは、こいつが本体なのだろう。


「……お優しいことだ」

 水星が言う。皮肉げに、俺を罵倒するかのような台詞だった。

「攻撃的なルーンは使わず、ただ動きだけを止めにかかるとはね。まさかとは思うが、彼らを助けようだなんて考えているわけじゃないだろうね? 可哀想に操られているだけだ、なんて見当違いの優しさを発揮しているだなんて――あまり失望させないでほしい」

「……馬鹿を言うな」

 俺はかぶりを振った。

 水星の戯言に、耳を貸すつもりなんてない。

「攻撃したって再生する奴に、攻撃する意味なんてねえだろうが。それくらいなら動きを止めて、餓死するかどうか試してみるほうがまだ有意義だ」

「なるほど、そうきたか。私も人間だ、確かに飢えれば死ぬからね。面白い発想だよ。――しかし、ならばどうする?」

 水星は諸手を広げて誘う。

 まるで、そうしてみろと言わんばかりに。

「殺さなくていいのかい? 彼も、彼女も――ここにある肉体は全て私のものだ。全てが私の身体だ。たとえこの私が朽ちても、残る肉体ものがあれば私は死なない。別の身体が主体わたしになるだけだ」

「……信者に身体を差し出させて、自分のものにして。そんなものを、お前は自分と呼べるのか」

「呼べるさ。元は個人だれかでもね。今は私に変身したんだよ。生まれ変わって、ひとつになったのさ。素晴らしいことだと思わないかい? これはひとつの永遠だ。変化とはかくも素晴らしいものなのさ」

「理解できねえよ、狂人」

「私には、君のほうが理解できないよ。話が終わりなら私はもう帰りたいんだが」

「……帰すと思ってるのか」俺はかぶりを振って言う。「お前の手札はだいたい理解した。なるほど、確かに異質な魔術ではあるが……それだけだ。それだけで俺を殺せると?」

「舐めてもらっちゃ困る――と言いたいところだが、確かに君を殺すのは手間だろうね。別に不可能だとは思わないが、そろそろ《天災》辺りに察知されてもおかしくはない。さっさと逃げを打たせてもらおう」

「勝手なことを」

「もともと、今日は顔見せのつもりでね。木星アルには止められていたんだが……実に有意義だったよ。ありがとう」

 ぱちり、と水星が指を弾く。それと同時に、今し方まで俺の魔術で押さえられていた信者たちが、身体の自由を取り戻していた。水星に魔術を破戒されたのだろう。

 単に変身魔術の一芸ではなく、魔術全般に高いレベルで精通していることがわかる。


「というわけで、私も少しだけ手札を切る」

 水星が言う。もう一度指を鳴らすと、それと同時に周囲の信者が変身した。

 ――いや、その変わり様を果たして変身などという言葉で済ませていいものだろうか。

 まだ十代も半ばだろう少女が、腕を真っ黒に変質させていく。壮年の男性は徐々に肉体が鈍色へと変わっていった。有機物から無機物へ――生命が変貌を遂げていく。

 肉体が、金属に変わったのだ。鋭さと硬さを得た彼らの肉体は、ただ群がるだけだった頃と違い、明確な殺傷性を持つに至っている。

 だが感じるのは、脅威よりもむしろ悲惨さだった。


「――もういい。もう、何も言うな」


 言い放つ。それと同時――上空から、熱線が水星の身体を貫いた。

 先ほど放り投げた煙草。それを使って、俺は《太陽ソウェイル》と《軍神テイワズ》を刻んでいたのだ。煙草を始点に、下へ向けて輪を描くように幾筋もの熱線が走る。信者も、水星も纏めて射抜くように。

 強大なエネルギーの表れである太陽のルーン。そして知性と勇気を象徴する戦の神のルーン。

 これらは揃って、勝利を意味する文字でもある。上昇を意味する軍神テイワズで底上げされた、鉤十字ハーケンクロイツの元となった文字である強大な熱量の象徴――太陽ソウェイル

 これらの相乗で放たれる熱線は、質量ともに俺のルーン攻撃の中でもトップクラスの威力を誇っている。小さな煙草から放たれた巨大な熱線が、水星の全身を完全に包んでいた。

 だが、そこで終わらせてはなんの意味もない。

 操られている者たちはともかく、水星は何度だって負傷からは復活するのだから。

 全身を一気に破壊しても意味はなかった。

 欠損を作っても構うことなく回復する。

 なら次は――回復したところで意味のない状況に陥れてみよう。


「――《(Isa)》」


 続いて刻んだルーンは《イサ》。本来、それを溶かす《太陽ソウェイル》のルーンとは相性が悪いのだが、もちろんルーンには様々な解釈がある。

 凍りつき、硬化する。

 凍結は同時に現状の維持を意味する固定であり、停滞であるのだ。


 熱線に包まれた水星の体が、氷のルーンで凍結される。

 動けなくなった彼女は、それでも半ば自動的に再生するが、再生するたびに熱線で再び灼かれる。ルーンは同時に熱線そのものも固定しており、彼女が死ぬまで魔力を奪い続け、攻撃を維持する。

 中身を焼き尽くすためだけの無限回路。

 そして魔力がなくなれば、彼女はそのまま死ぬだけだ。


「……なるほど、見事だ。この身体での敗北は認めなければならないな」

 気づけば、熱線に捕らえられたほうとは違う水星の身体から、先ほどと同じ声がする。

 精神なかみのほうは結局、捕らえられるが早いか別の肉体いれものへと避難したのだろう。

 全ての肉体と、全ての精神を同時に殺し尽くさない限り、彼女が滅ぶことはない。

「先ほど砂を蹴っていたのは、あれはルーンを刻んでいたわけだね。見落とすとは私も間が抜けている。……そうか、この魔術は、私の魔力で発動されているわけか」

 水星は俺の術式を見破っていた。元より出力に欠ける俺が、高火力の魔術を維持できるはずもない。

 看破されて当然ではあったのだろう。

「安易に結界なんて張るからだ。乗っ取ってくれと言わんばかりだったからな、利用させてもらった」

「煙を空間に充満させ、地に紋を描く……なるほど。空間支配としては理に適っている。だが、それだけで結界の支配権を奪われては堪らないな」

 熱線は、水星の肉体に込められた魔力が続く限り、奴の身体を焼き続ける。いくら再生しようとだ。

 もちろん魔力が完全になくなれば、術も終わりを迎えるだろう。

 それは同時に、水星の終わりをも意味している。彼女とて、魔力がなければ変身できない。

 だが――それでも水星は殺せない。

「質と量、か。出力の不利を、術式の精密性で覆すとはね。基本ではあるが……それが普通はできないからこそ怖ろしいというのに。木星アルが言っていたのはこういうことか」

「……どうやら今はまだ、お前を殺せないらしいな」

「そう急くなよ。私は(丶丶)しばらく表に出てこられないだろうが、別の人格わたしがきっと君と決着の舞台を用意していることだろう。そのときを楽しみにしていてくれ」

「最後にひとつだけ訊く。アイリスはお前らのなんだ。興味はないんだろう――なら答えろ」

「……そうだね。この肉体わたしを倒したことだし、教えてあげても構わない」


 水星はくつくつと笑みを零しながら言った。

 果たして、彼女が語る言葉が本当かどうかなど俺にはわからない。

 それでも訊いてしまったのは、さて、いったいなぜだろう。

 疑問する俺の目の前で、ドラルウァ=マークリウスが静かに答える。


「アレは、いわば私たちの姉だ――生存例をきょうだいだと見做すのなら、だけどね」

「姉……だと? どういう意味だ」

「言葉通りだよ。教団で、主に私や《月輪》が主導で行っていた実験――《人造魔人計画》の生存例。もっとも失敗作ではあるけれどね」

「な――」

 思わず言葉を失った。それくらい、彼女の語った言葉は常軌を逸していた。

 ――人造魔人計画。

 果たして、それはいったいどういう内容の計画なのだろうか。

 その答えを聞く時間は、しかし残されていなかった。

「では、次は舞台の上で会おう」

 それだけ言って、ドラルウァ=マークリウスは姿を消した。正確にはその人格を消した。

 残されたのは肉体だけで、わらわらと、中身のない死体のような抜け殻だけが、その場に打ち捨てられていた。

 水星はどこかに人格を避難させることができるのだろう。その連鎖を止めない限り、彼女を殺すことはできない。

 もはやどうすることもできない。たとえ気絶させても意味がなかった。連中は初めから空っぽなのだから。肉体の損傷では止まらない。

 かといって彼らを放置することはできないだろう。今は俺を狙っているが、ほかの人間を狙わない保証なんてどこにもないのだから。

 彼らはすでに個を失っていた。ひとたび水星に乗っ取られた人間を、元に戻すなんて不可能である。


 ――殺す以外に、止める方法など残されていなかった。

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