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セブンスターズの印刻使い  作者: 白河黒船/涼暮皐
第三章 魔競祭事件
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3-23『水星』

 アイリスには、どこか一定の目的地があるのではないらしい。追いかけるピトスはそのことに気づいている。

 十字路をまっすぐ進み、屋台の裏側の小道を抜ける。右へ折れたかと思えば、次の角でさらに右に曲がって来た方向に戻ってみたり――進む方向に規則性というものがない。

 まるで誰かから逃げ回っているかのようだ。

 最初こそピトスは、少女が自分を撒こうとしているのだと考えた。

 しかし、それはどうにも違うという気がする。前を走るアイリスの動きに、後ろを意識している様子がないからだ。足を止める様子もないことから、迷っているわけでもないと知れる。

 彼女は前だけを見て走っていた。

 ――この動きは、きっと追っている動きだ。

 ピトスは思う。アイリスは今、逃げ回る誰かを追いかけて走っている。


 やがてアイリスは、祭の期間中でも立ち入り禁止の研究棟のほうへと向かっていった。

 いくら関係者アスタの身内とはいえ、許可もなく進んでいいわけではない。


「アイリスちゃん、そっちは……ああもう聞こえてないっ!」


 仕方ありませんね、とピトスは自らに言い訳して足に込める力を増やした。

 確かにアイリスの足は速い。持久力もある。外見から考えれば明らかに異常なレベルだ。

 とはいえ、さすがに本気のピトスを振り切れるほどではない。人が減って気にするものがなくなったピトスは、全力でアイリスに追い縋った。

 と思えば、そこでアイリスは唐突に足を止める。


「わっ……あ、アイリスちゃん、いったいどうしたんですか……?」

「……ピトス?」きょとん、とアイリスは小首を傾げる。「来てた……の?」

「本当に気づいてなかったんですね……」

 さすがに呆れるピトスだが、それだけ少女も必死だったのだと考えれば、呆れてばかりもいられない。

 もちろん再び走り出されても堪らないため、ピトスはそれとなくアイリスの肩を押さえてから声をかける。

「それで、いったいどうしたんですか?」

「……あれ」

 と、アイリスはすっと前方を指差した。

 ピトスがその方向に目を向けると、


「――ね、ねこ……?」


 一匹の黒猫が、金色の双眸でこちらを見据えていた。

 まさか、ただ猫を追ってきただけなのだろうか。少し不安になってピトスは隣の少女を見る。

 そして――知らず息を呑んでいた。

 アイリスの表情は凍っていた。透徹した、なんの感情も浮かんでいない瞳が、一直線にその黒猫を見据えている。

 普段から無表情のアイリスだが、しかし決して無感動というわけじゃない。嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと……そういった感情を表現するのが苦手なだけで、決して何も思わない少女ではないとピトスは知っている。


 だが、今のアイリスは違う。

 彼女の表情にはなんの色も浮かんでいない。無垢すら通り越した完全な無色だ。

 こうまでして追いかけてきたモノを前に、なぜこんな表情が浮かべられるのだろう。ピトスには理解が及ばない。

 まるで、神が下界を見下ろしているかのように。

 地べたを這い回る小虫が視界に飛び込んだかのように。

 アイリス=プレイアスは――透明だった。


「――ああもう。なんで。なんでなんでなんでなんでこうなるの――?」


 ふと、なんの前触れもなく聞こえた声に、ピトスは思わず跳び上がる。

 声のした方向を咄嗟に見るが、そこにいるのは一匹の黒猫だけ。

 まさか猫が口を利くわけがない。そんなことはわかっている。

 だが、ピトスには今の声が、その猫から発せられたものだということが理解できていた。別に勘や感覚でそう決めつけたわけじゃない。


 ――黒猫が、嗤っていたからだ。


 にたりと口角を醜悪にゆがめ、黒猫は怖気のする真っ赤な口を開いている。血に濡れた三日月を思わせる形だった。

 気づけば、目の前の空気がひずんでいる。

 黒猫の小さな身体から、莫大な量の魔力が溢れていた。ただそこにあるだけで空間を歪曲させる、もはや瘴気とも言うべきおぞましい魔力。

 ピトスは反射的にアイリスの身体を引き、その背に彼女を庇っていた。


「せっかく変わってたのにせっかく換わってたのにせっかく代わってたのにせっかく替わってたのに。がんばったのにがんばったのにどうしてどうしてどうして私の邪魔をするのねえなんでなんでなんでなんでなんで――」


 嘆くような、喚くような、そんな声音が酷く耳障りだった。

 黒猫の口は、三日月の形から動いてない。

 にもかかわらず届く声は、思わず耳を塞ぎたくなるほどに気持ちが悪い。


「……ただの猫、ではないみたいですね」

「なんで話しかけてくるの? 友達じゃないのに知り合いじゃないのに恋人じゃないのになんでなんでなんで?」

 答えられない。その声を聞いているだけで、精神のどこかを黒い淀みに汚染されているかのような気分にされる。

 わがまま放題に育てられた子どもが、そのまま大人になってしまったかのような。そんな、アンバランスで酷く不快さを掻き立てる声だった。

「邪魔したくせに」

「じゃ、邪魔って……」

「邪魔したくせに邪魔したくせに邪魔したくせに」

「……さっきから、いったい何を――」

「そうやって私をいじめるんだそうやって私をいたぶるんだそうやって私をいらだたせるんだ。そんな奴そんな奴そんな奴そんな奴そんな奴そんな奴そんな奴」

 話にならない。

 言葉を何度も病的に繰り返す猫は、こちらの話をまるで聞いていなかった。

 尋常な存在でないことだけは、この短時間で理解させられた。とりあえず学院側に報告するべきなのだろうが、その場合、ここで無力化しておくべきなのだろうか。

 別段、何かをされたというわけじゃない。

 その事実が、このときピトスの判断を遅らせてしまった。


 ――文字通り、致命的なまでに。


「そんな奴――――死んじゃえばいいんだ」


 瞬間、猫の前肢から右腕が生えた(丶丶丶丶丶丶)



     ※



 まるで招き猫の真似をしたみたいに。

 可愛らしい仕草で、黒猫が右の前肢を上げた。

 だが異常なのはそのあとだった。猫の前肢からなぜか人間の右腕が生えてきて、それがまるで蛇のようにしなりながらピトスめがけて伸びてきたのだ。

 反射的に回避しようとして、しかしピトスは背後にいるアイリスのことを思い出す。

 ――躱せない。

 自分が避けるだけならばともかく、後ろにいるアイリスを危険に曝すことなどできない。

 だからピトスは、即座に拳で応戦した。

「ふ――っ」

 下から上に向けて、アッパーの要領で拳を突き上げる。渾身の打撃が伸びてきた腕に直撃し、べきごきと嫌な音を立てて骨を砕いた――だが。

 への字に殴り折られた腕の先。そこに生えている五本の指が、さらに伸びることでピトスの顔を狙ってきたのだ。

 凄まじいまでの反射神経で、ピトスは指を躱そうと顔を逸らす。

 その行為の過程で、間に合わないだろうことは悟った。

 ただの指だろうと、この勢いで刺されば人間の肌程度は貫くだろう。眼球を刺されるか、あるいは額を穿たれるか――刹那の先に待つ負傷を覚悟したピトスの目の前で。


 突然、伸びてきた腕が左に吹き飛んだ。


 いつの間にか、背後にいたアイリスが前に回っていたのだ。

 彼女は身を捻って回転するように跳び上がると、勢いをつけた回し蹴りで、身長より高い位置にあった腕を右脚で蹴り抜いた。

 空中で放たれたものとは思えない威力で、猫から伸びた腕が明後日の方向に弾き飛ばされる。


「ぎいいいいぃぃぃぎぎいぃぃいいぃっ!?」


 甲高い、耳障りな悲鳴が、口を動かさない猫から漏れる。

 いずれにせよ好機だ。

 アイリスの行為には驚いたが、それで動きを止めるほどピトスも場慣れしていないわけではない。アイリスの作った隙を生かして、ピトスは瞬間に黒猫との距離を詰める。

 猫もまたそれに気づき、なんと伸ばしていた腕を切り離して、そのまま後ろへと跳躍した。

 まるで蜥蜴トカゲの尻尾切りだ。

 しかし、いくら猫が躱そうと、その程度でピトスからは逃れられない。

 ひと息で猫に追いついたピトスは、ふた息目で右の拳を抜き放っていた。跳躍した猫は、そのままピトスに殴り飛ばされて軽く吹き飛んでいく。


 骨を砕く、不愉快な感覚が拳に返っていた。

 ただでさえ、見た目としては単なる動物虐待だというのに。まして今の感覚で、ピトスは思わずタラス迷宮でのことを思い出してしまっていた。

 その不快さに顔を顰めながらも、ピトスは冷静に地面へ落下した猫を見る。

 少しくらい過剰な攻撃をしたとしても、彼女ならば治癒が可能だ。その前提があるからこそ、ピトスは思い切りよく攻撃を行えた。

 ――だが。


「……ひ……」


 思わず、短い悲鳴が口から漏れた。目の前の光景の異常さに、本能が拒否反応を示したのだ。

 ぎちりぎちりぎちり。

 体中の骨を砕かれた猫が、ゆったりとした動作で起き上がる。

 べきべきと耳障りな音を発しながら、黒猫の身体が徐々に色を変えて、同時に肥大化していった。

 胴が伸び、それが人間のものに変わっていく。変貌した顔が徐々に猫から女性のそれへと見た目を移していた。斬り落としたはずの右腕は、気持ち悪い音を立てながら再び生え変わっていく。


 ――治癒ではない。断じてそんなものではない。

 言うなれば再生か――いや、それも違う。

 その光景は、言うなれば猫の死体が、そのまま人間の姿へと変身(丶丶)するようなものだった。


「痛い痛い痛い痛い痛いどうしてどうしてどうして私は私は仕事をしていただけなのにどうして邪魔するのいじめるの痛いのに痛いのに酷い酷い酷い悪くないのに何も悪いことなんてしてないのに邪魔されたから殺そうとしただけなのになんでなんでなんでそんな酷いことができるの――」


 彼女の――と表現するべきなのかさえわからないが――言葉を理解することは、ピトスの脳が全霊で拒んだ。

 身勝手で、醜悪すぎる不快な理論を、ピトスの常識が拒否している。


「死んでよ死んでよ死んでよ死んでよなんで死なないのなんで邪魔したんだから殺されるべきでしょ殺されてよ殺されてよ殺されてよ」


 黒猫が、ひとりの女性に姿を変えていた。

 鈍い銀の長髪。まるで手入れのされていないそれは、不純物の交じった水銀のようだった。ぼさぼさに伸びきった髪を振り回して、前髪に隠れて顔の見えない女性が狂乱する。

 水色をしたよれよれの外套ローブ。その下には何も着ていないのか、ところどころ破けた箇所からは肌が見えている。不健康なまでに真っ白な肌は、扇情的な格好ながら、はっきりとした不快感を見る者に抱かせた。

 豊満な胸も、折れそうなほど細い腰つきも、妖艶に紅い唇も、切れ目から覗く腿の白さも――全てが不快で仕方ない。

 彼女は両手で頭を掻き、外套の裾と長い髪を振り乱して口を利く。


「最悪だよ最悪だよ怒られる怒られる怒られる、《日輪》様に嫌われちゃう。そうなったら生きていけないのに死ぬしかないのに死にたくないのになんでなんでなんで生きてるんだよ。死ねよ、死ねよ死ねよ死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね――――死ね」


 ――突然に、ピトスは攻撃を受けた。

 前髪の隙間から濁りきった視線を向けてきた女は、けれどその外見からは想像もできないほど機敏な動きで、いきなりピトスへと踊りかかったのだ。

 爆ぜるように跳び出した女が、ピトスの首へ向けて腕を突き出してくる。

「く――!?」

 脈絡のない行動に、狼狽えながらも迎撃に移った。

 突き出された右腕を潜るように躱し、女の腹部へと掌底を叩き込む。

「ごが――、っあ」

 その衝撃に、女は口許から唾液を撒き散らした。

 だが止まらない。女は、むしろ笑っていた。

 もしピトスが本気で打撃すれば、女を殺してしまいかねなかったからだ。だから加減をして攻撃したピトスだったが、その判断は仇になって返る。

 懐へ飛び込んだピトスの髪を掴み、女は強引に横へと振り払う。

「――――っ!」

 予想だにしないその腕力に、ピトスは為すすべもなく吹き飛ばされた。

 横にあった校舎の壁に背中から叩きつけられ、堪らずピトスは息を漏らす。女はそのまま追撃するようにピトスの元へと駆け寄って、頭を掴もうと腕を伸ばした。

 だが、次の瞬間。

「――――!」

 女は、突如として上から(丶丶丶)現れたアイリスに首を掴まれ――そのまま。

 ――ごきり。

 と、首の骨を強引に捻り折られた。


「うぎぃあああああああああああああああああああああああっ!!」


 絶叫が、空気を震わせる。

 首の骨を折られたのだ。即死してもおかしくなかっただろう。

 にもかかわらず、女は地面でのた打ち回ると、直後に何もなかったかのように立ち上がったのだ。思えば先ほど、猫の姿を取っていたときも、この女は負傷から回復している。

 これではまるで不死身だ。

 もう何に驚けばいいのかわからない。


 ピトスは見ていた。アイリスが校舎の壁を駆け上げるかのように足場として、女の死角から背後に迫ったところを。

 空中で後ろに回転するようにアイリスは頭から落下し、そのまま両腕で女の首を掴むと、それを軸に身体を反転させて骨を捻り折ったのだ。

 普通の人間ならば、確実に死んでいただろう攻撃。

 それを為したアイリスにも、それを受けて立ち上がる女にも、ピトスは不理解以外の感覚を抱けない。


「ああ……ああああああ思い出した思い出した思い出したっ!」


 立ち上がった女は、アイリスを見据えて狂喜するように叫ぶ。

 本当なら、少女の耳を塞いでしまいたいくらいだ。だが、今のピトスは動くことができない。

 それほどに不可解さが大きかった。


「貴様、あのときのあのときのあのときの実験体(丶丶丶)だな……! なんで? なんでなんでなんで生きてるの? 処分したのに。仕事したのに。言われて全部始末したはずなのになんでなんでなんでなんでなんで――ッ!!」


 アイリスは聞いていなかった。

 軽く、それこそ寝台ベッドに倒れ込むときみたいな気楽さで跳ねると、その直後にはもう女の隣に現れて、延髄を蹴り抜いていた。

 まるで時間が跳んだみたいに、アイリスは意識の死角を自在に進む。

 その様は、たとえるなら野生の獣だ。


「ひぎぃ、あっ……あはっ、あはひいはひひひははははっ!!」


 アイリスの攻撃は全てが急所を抉っていた。その苛烈さには驚くが、不可解なことはほかにもある。

 女はピトスから攻撃を受けるより、なぜかアイリスの攻撃を受けるときのほうが明らかにダメージを――痛みを受けている様子だった。

 もちろん直後には回復して、女は何ごともなかったかのように立ち上がるのだが、それにしてもアイリスの攻撃を受けたときの絶叫は凄まじい。

 単純な威力で言うのなら、間違いなくピトスのほうが大きいはずだ。殺さないよう手加減してとはいえ、死ななければ治るのだから問題ない、というくらいの威力はピトスも込めていた。

 だがピトスの攻撃は通じない。正確には、通じてはいるが堪えていない。

 いったい何が違うのか。ピトスにはわからなかった。


「――報告しないと」

 ゆらりとした、力のない動きで女は立ち上がる。

 両手で顔を押さえ、もうピトスたちなど見えてもいないという風に、彼女はぶつぶつと言葉を発する。

「報告しないと報告しないと生きてたって生きてたって生きてたって! え、何よ貴女には関係ないでしょう放っておいて出てこないで出てこないで。なんだよお前じゃ勝てねえからオレが出てやろうっつうのに! いらないそんなこと頼んでない《日輪》様に報告を仰がなくちゃ。弱い奴だな、そんなんだからこんなガキどもに舐めた真似されるんだ! うるさいうるさい勝手な真似は許されないんだから許されないんだから許されないんだから……!」

 もう誰と、何を喋っているのか。

 女はひとり芝居でもするかのように、声音を変えながらふたり分の言葉を吐く。

 その不愉快さに眉を顰めつつ、ピトスは女に向かって訊ねた。

「……誰、なんですか。貴女……?」

 答えが返ってくるとは思っていない。

 それでも、このまま返すわけにはいかないとピトスは口を開く。


「――だあれ? いま、だあれって訊きましたかあ……?」


 しかし、予想に反して女はピトスの問いに反応を見せた。

 がくりとこちらへ傾く首。臆さずにピトスは言葉を重ねる。


「……答えてくれるんですか?」

「仕方ないのよ仕方ないのよ木星が木星が木星の奴が名前を言えって名前を言えって私に命令するんだからちょっと《日輪》様のお気に入りだからってあの男あの男あの男――ああ殺したい殺したい。じゃあ殺そうぜじゃあ殺そうぜじゃあ殺そうぜ、邪魔する奴らなんか皆殺しだ! うるさいうるさいうるさい今今今答えるところなんだから黙ってててててててててててててて」

「…………」

 気づけば、アイリスがいつの間にか、ピトスの横に戻っていた。ピトスは彼女の小さな手を強く握り締め、睨むような視線を女に向ける。

 女は、だらりと両腕から力を抜き、それからピトスに真顔で告げた。

 その声音は――それまでとはまったく異なる、冷静ではっきりとしたものだった。


「――ドラルウァ=マークリウス。七曜教団が一員、水星のマークリウスだ。以後、お見知りおきを」


 その言葉だけを残し、《水星》は煙のように一瞬で姿を消した。

 ピトスとアイリスの目の前には、もう、魔力の残滓さえ残されていない。

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