3-01『新しい家族』
――結果的には、ピトスが来てくれて助かった。
名のない少女に服を買う段となって、俺は心底からそう思っていた。
いや、だって女性服を売ってる店にこの子連れて入るとかハードル高すぎるし。
そもそもそんな店知らねえ。
一般庶民は、だいたい自分で服を繕っている世界だ。
「うーん……可愛いから、何着せても似合いそうで迷っちゃいますね」
商業区の片隅にある、ピトス曰く「手頃なお値段」の女性向け服飾店に俺たちは来ていた。
という割には(魔術製造の量産品しか買わない俺の基準で言えば)そこそこお高い気もするけれど、まあ女の子の服装に口など出そうものなら火傷は免れない。全て任せることにしていた。
ピトスは少女に、とっかえひっかえいろいろな服を合わせていく。なんだかものすごい楽しそうだ。
女子ってこういうときテンション上がるよなあ、と醒めた目で回顧する俺である。マイアやメロもそうだった。よく付き合わされては、いろいろと面倒な騒動に巻き込まれたものである。
……いや、これは普通じゃないなたぶん。
「うーん……これどっちのほうが似合いますかね? アスタくん、予算はどのくらいですか? なんならわたしも少し出します、っていうかむしろ払いたいくらいなんですけど! もう何着せても可愛くって!!」
嬉々として服を物色するピトスに、もはや俺は降参の構えである。
服なんて汚れるのが前提なんだから。安物でいいんだよ、安物で。
……なんて、言えるわけもなく。
まあ、この子のことを気に入ってくれたみたいだし。お兄ちゃんそれでよしとしちゃう。
任せきり、というか、もはや丸投げである。
「いいよ別に、いくら使っても」
エイラから受け取る報酬で、それなりに懐は潤う予定だ。
学生にしてすでに売れっ子の魔具職人である彼女は、一流どころの冒険者と比べても遜色ない稼ぎがある。魔具は単価が高いため、優秀な職人は儲かるのだ。
本人はその辺り、かなり適当っていうか杜撰なのだが、金払いは気前のいい女である。負傷手当てでも期待しておこう。
「じゃあいっそ両方買っちゃいましょうか!」
きゃーきゃー言いながら、楽しそうに買い物を続けるピトス。なんなら着る側である少女のほうが、むしろ置き去りになっているレベルだ。
着せ替え人形にされている少女は、無表情のままされるがままでいる。とはいえ嫌がっている様子でもないし、面喰らっている風でもない。
この子もこの子で大物だ。
――あのあと、ピトスにはすぐ事情を説明した。
彼女もまさか本当に俺が少女を買ったとは思っていなかったらしく、事態を理解すると、すぐ力になると言ってくれた。
この半月ほどで、それくらいの信頼は獲得できていたらしい。普段の振る舞いって大事だなあ、と改めて思わされる。
その後、食事を兼ねて三人で買い物に出かけることとなった。
今日の分の腕の治癒を施してくれたピトスが、乗りかかった船だからと同行を提案してくれたのだ。
わざわざ治療に出向いてもらった上、こちらの事情にまで巻き込むのは申し訳ないと一旦は固辞した俺だったが、ピトスに「アスタさん、女性ものの下着なんて買いにいけるんですか?」と問われてはぐうの音も出ない。
だって無理だもの。
「着古しで申しわけないですけど」と、一度自宅に戻って服まで持ってきてくれたピトスには、もはや頭が上がらない。
来てくれて本当に助かった。持つべきものは優しい友人だ。
こうして、ちょっとぶかぶかの服を着た少女を買い物へと連れ出すことができた。
途中の市場で果物を買い、腹の足しとしてから服屋を回る。
小さな口で、もくもくと果実を頬張る少女に、ピトスはノックアウトされたと言っていた。
「可愛いよう、めっちゃ可愛いよう!」
はしゃぐピトス。
こいつも迷宮から帰って以来、少し性格が変わったよなあ。
というか、被っていた猫を脱いだというか。
「……しかし、名前か……どうするかな」
次々に服を選んでいくピトスたちを遠目に見ながら(いくらするんだろう……)、俺はひとり思案する。
マイアも厄介な案件を残してくれたものだ。文字使いなんだし得意分野でしょ、の意味が微塵も理解できなかった。
ぜんぜん得意じゃない。ていうか関係ないだろうに。
とは言うものの、いつまでも名無しでは通せない。かといって暫定で名前を決めるというわけにもいかないだろう。
早急に、その上でいい名前を決めなければならなかった。
だから買い物の間中、俺はずっとそのことについて頭を悩ませていたのだが、何ひとつ答えは出てこない。
マイアはいったい、この子をどう呼んでいたのやら。
「……って、あれ?」
そういえば、とそこでひとつの疑問に思い至った。
あの子はそもそも、どうやってここへ来たのだろう。
気がついてみれば不思議な部分だ。
今、マイアがどこにいるのかは知らない。だがそこそこ遠くにいるだろうことは予測がつく。
その距離を、彼女がひとりで旅してきたとは到底思えない。
誰かに送ってもらったのだろうか――、
「――アスタさーん!」
そこでちょうど、ピトスから呼びかけられて思索が止まる。
――まあ大方、実はマイアが近くまで連れてきたとかいう程度のことだろう。
俺は疑問を忘れて、彼女たちのほうへと歩いていった。
「決まったか?」
「はい。最低限ですから、折を見て買い足す必要があるとは思いますけれど、しばらくの分は平気かと」
「そうか。いや助かったわ本当、サンキューな」
「いえ、私も堪能しましたから」
何をだよ、とは突っ込まない。
俺は少女に向き直り、
「それじゃ、買ってこようか」
「うん。……アスタ?」
きゅっ、と少女に服の裾を掴まれる。
弱いその感触に、俺は目線を合わせてしゃがみ込む。
「どうした?」
少女は、はにかむようにこう言った。
「あり……がと」
なんだか気恥ずかしくなって、俺は少女の頭をわしゃわしゃと撫でる。それで何かを誤魔化した。
それから立ち上がって店員を呼び、早々に支払いを済ませてしまう。
ちなみに、お会計は思ったより安く済んだ。
※
その後、俺たちは食材を買い込んで家に戻った。
どこかで外食も考えたのだが、ピトスが「わたしが作りましょうか?」と言ってくれたので、せっかくだからと甘えてしまった。
「――実は、初めからそのつもりで来たんです」
ピトスは言った。
どういうことかと聞き返した俺に、ピトスは苦い笑みを見せて答える。
「だって、アスタくん怪我してますから。食事くらいお世話させてください」
「……何度も言うが、別にお前が気にすることじゃないぞ?」
あれはあくまでも俺の自傷だ。俺はピトスに傷つけられたとは捉えていない。
もちろん、ピトスの側がそう簡単に割り切れないだろうことは察するが。それでも弱味に付け入るようで、なんとなく折り合いが悪かった。
「わたしが気にすることですよ。アスタくんがなんと言おうと、わたしが腕を折ったことに変わりはありません。アスタくんの優しさを言い訳にしちゃいけないんです」
「優しくしてるつもりもないんだがな……」
「だとするのなら」はにかみながらピトスは言う。「アスタくんもずいぶん、悪い男ですね」
「…………」
俺は無言で肩を竦めた。
なんというか、完全にやり込められている。
煙草屋の一階を借りて、ピトスに料理を作ってもらう。
親父さんはどこかへ出かけたらしく、姿がない。
腕が折れているせいで手伝いもできず、仕方なく、少女と一緒に机で待つ。
少女はさっそく、買ってきたばかりの服に着替えている。下着も着用済みだ。これで逮捕はなくなった。と思いたい。
着ているのは、薄い紫色を基調とした、割に落ち着いた感じの服装だ。この辺りの感覚が死滅している俺にはよくわからないが、褐色の肌を持つ少女の外見に、よく似合っているような気がした。
その少女自身は、果たして新しい服が気に入っているのかいないのか、無表情のままひらひらと布地を弄んでいた。
たぶん、気に入っているんじゃないかと思う。
「――その服、この子が選んだんですよ?」
と、奥の流し場からピトスの声。
俺は少し驚いて聞き返す。
「ピトスが選んだんじゃないのか?」
「持ってきたのはわたしですけど」ピトスは苦笑。「最終的に選ぶのはその子ですよ。わたしの服じゃないんですから」
「ま、それもそうか」
「唯一、その色にだけ興味を見せてくれたんです」
「……紫が好きなのか?」
俺は少女へ訊ねた。
彼女は一瞬、きょとんとした表情を見せると、それからゆっくり頷いて答える。
「うん」
「へえ……どうして?」
なんとなく訊ねた俺だが、少女の返答には思わず声を詰まらせた。
「――だって、アスタのいろ……だから」
「…………うぇい?」
動揺する俺だった。
マジかよ。なんか今ちょっとドキッとしたんだけど。
いや別に変な意味じゃなく。
「俺の色、ってのは……」
「マイアに、聞い……たよ? アスタはむらさきで、マイアはあか」
それは、かつて七星旅団のメンバーに、マイアが虹になぞらえてつけた色の割り振りだ。
リーダーのマイアが赤。俺は煙草の紫煙と掛けて紫。
ちなみにセルエが橙色で、メロが藍色である。当然、残りも青緑黄を、まあイメージカラーのように持っている。昔は、揃いで造った各色の飾りなんかも持っていた。
別に深い由来や意味はない。仲間内だけで決めた遊びであって、それ以上のものは特にないのだけれど。
「アスタと、いっしょ」
嬉しそうに――そう思うのは俺の錯覚だろうか――呟く彼女に対し、俺は言葉を返せない。
……あかん。まずい、今ちょっと絆されかけた。
義理の妹というか、いっそ娘ができたみたいな気持ちになりつつある。
「今日会ったばかり……でしたよね?」
と、奥から料理を運んでくるピトスが、首を傾げてそう言った。
「そう、だけど……」
「その割には、ずいぶんと懐いてるみたいですけど」
「……なんでだろうな?」
ふたり揃って首を傾げた。
マイアの義弟だからだろうか。あくまでマイアに懐いているのであって、家族の俺はその延長、と。
そういう感じでもないのだが。
「アスタくんのこと、好きですか?」
と、なんとピトスが少女に向かってこんなことを問う。
オイ待て何聞いてるんだよ。焦っちゃうだろ。
馬鹿なことを考えている俺だった。突然現れた義妹との、距離感が掴めていないのだ。
我が義妹の返答は、しかしあっさりとしたものだった。
「うん。アスタ、好きだよ」
「お、おう。そうか」
やばいどうしよう嬉しいぞこれ。
もう完全に絆されている俺である。我ながら超ちょろい。
「アスタ、いいにおい……する、から」
「匂い、ですか?」
首を傾げるピトスに、こくりと頷きを返す少女。
「うん。におい」
「どんなにおいですか?」
なんで掘り下げるんですか、と俺が訊きたい。
少女は少しだけ迷ってから答えた。
「うーん……おいし、そう?」
――食べ物かよ。
思わず脱力する俺と、吹き出すピトスだった。
「――それじゃあ、ご飯にしましょうか」
※
意外というか、ピトスは相伴せず、先に帰ると言い出した。
てっきり食べていくものだと思っていた俺は当然、驚いてピトスを引き止める。作らせるだけ作らせて、そのまま追い返すなんて真似はいくらなんでもできない。
だがピトスは首を振って、俺の誘いを断った。
「わたしはもう食べましたから。お昼には少し早いですし、ここでお暇します」
「そう、か……」そう言われては引き止められない。「なんか悪いな。いろいろ付き合わせた上に、食事まで作ってもらっちゃって」
「いえいえ。わたしも楽しかったので。またあの子に会わせてくださいね。――早く、名前も決めてあげてください」
「それは、もちろん」
告げると、ピトスはうっすら微笑んだ。
「何か、考えているものがあるんですか?」
「……まあ、案のひとつだけど」
首を傾げるピトス。せっかくなので、候補を聞いてもらうことにした。
第三者の意見も参考にしておきたかったのだ。せめて笑われない名前をつけてあげたいと思う。
別に、自信があるわけじゃないのだから。
「どんな名前なんですか?」
訊ねるピトスに、俺は案のひとつを告げる。
「――いい名前ですね」
と、ピトスは微笑んだ。
お世辞ではない。そう思っておくとしよう。
※
食後、俺は少女を連れて自室へと戻る。
意外にも、器用に食事をこなせる子だった。テーブルマナーはひと通りできている。
おそらくマイアが教えたのだろう。最低限の社会性は、かろうじて身についていた。
手のかからない子だ。幼さの割に静かで落ち着いている。
「……食事は、美味しかったか?」
いろいろと思うところはあったが、結局それを言葉にはしないで、代わりに別のことを訊く。
少女はこくりと頷いて、どこか嬉しそうに答えてくれた。
「おいしかった」
「そっか、それはよかった。ピトスに感謝だな」
「うん」
俺が使っている椅子の上に、ちょこんと腰を下ろしている少女。何も言わなければ、このままいつまでも待っていそうな気配がある。
言われたことはできる子だ。
でもきっと、言われていないことは何もできない。
――そろそろ、話をしなければならないだろう。
「……なあ?」
と、俺は訊いた。
確認するべきことを、確かめるために。
「なに、アスタ?」
俺はひと息挟み、それから問う。
「……いいのか、俺で。不満はないのか?」
極論、俺の意思はこの際、重要じゃない。大事なのは、あくまで彼女がどうしたいのかだ。
その段階を飛ばして一緒に暮らすことなんてできないし、するべきじゃないと思う。
選ぶのは彼女だ。
この子が別の道を選ぶのなら、俺はそれを助けてやりたいと思っていた。
この小さな女の子には名前がない。そしておそらく、頼るべき身寄りさえないのだろう。
けれど、そんな事情にいちいち感情移入して、同情を感じるのは間違っていると俺は思う。そんな浅い、浅ましい共感は決して抱くべきじゃない。
かつてこの世界に来たばかりの俺が、それを拒んでいたように。
確かに彼女は不幸な身の上だ。
主観はともかく、少なくとも一般的に不幸と呼ばれる境遇に身を置いていると言える。
だが言ってしまえば、この世界では、親のない子どもなんてありふれた存在だ。どこにでも転がっている程度の不幸だと――そう表現してしまって構わないと思う。
銀色鼠がいい例だろう。
あのクランにいる若い冒険者は、おそらく大半が身寄りのない子どもだと思われる。確認などしていないが、おそらく。
そうでもなければ、幼いうちから冒険者なんて稼業に身をやつすことはまずない。
俺だって、地球にはともかく、この世界には血縁者なんてひとりもいない。それを不幸だとは思わないし、同情されるのも不愉快だ。俺は自分を幸運な人間だと考えている。
結局のところ、大事なのは本人の意思なのだから。
俺は、マイアとこの子の関係さえ知らない。マイアは少女を《いもうと》と表したが、彼女のほうがどう思っているのかを聞いたわけじゃない。
わかるのは彼女が、ただ《マイアに言われたから》という理由でここへ来たことだけ。
俺はもう覚悟を決めた。どうなるかなどさっぱりわからないが、小さな女の子をひとり養うくらいの甲斐性はあるつもりだ。
けれど――この子がそれを望むかどうかはわからない。
「お前は、これからここで俺と暮らすことになる。――それでいいか?」
この展開の中に、彼女の意思は入っているのだろうか。
それを確かめない限り、この子と暮らすことなんてできない。
「もしも嫌なら言ってくれ。そのときは俺ができる限り、お前の希望に沿う暮らしができるよう取り計らってやる。まあ、事情はどうあれ、俺の義妹なわけだからな。それくらいはしよう」
「…………」
「いっしょに暮らすか、暮らさないか。今ここで決めてくれ。俺は一応、お前の義兄になるわけだが、初対面の男だからな。そう簡単に信用もできないだろ。何か望みがあるなら――」
「いっしょがいい」
少女は。まっすぐな瞳で断言した。
きちんと意思を示してくれた。
「マイア言ってた。アスタ、わたしになまえくれるって」
そのことが、俺には少しだけ意外だった。何も答えられないんじゃないかと思っていた。
そう勝手に見限った自分は、きっと酷く身勝手な存在だった。そのことを今さら気づかされる。
俺は単に、形だけの問いを出しただけだったのだ。
彼女の意思に委ねる、などと言いながら、どこかでこの子が、何かを選べないのだと決めつけていた。
なんて無様だ。自分の浅ましさに虫酸が走る。
「アスタ、きっとやさしくしてくれる」ひと息。「って、マイア、言ったから」
「……マイアが言ってただけだろう。お前自身はどうなんだ。信用できるのか、俺のこと。……いやまあ、いきなり訊かれてもわからないかもしれないけど」
「できるよ」
「――――」
「だってアスタ、いいにおい、する……から」
「また匂いか。いいのか、そんな理由で決めちゃって」
「いいの。マイアもいいにおいだった。アスタ、おんなじにおいする」
「……」
「だからきっと、アスタもいいひと。いっしょにいたい。わたし、ほかに行くところ、ない」
「そっか」
そう答えるほかにない。彼女が決めたことならば、俺はそれで構わなかった。
彼女が俺を選んだのだから。
俺が彼女を選んだのだから。
それで、きっと充分だ。
しかし匂いで決めるとは畏れ入る。俺から漂う香りなど、間違いなく煙草の匂いだと思うのだが。
けれどマイアは煙草を吸わない。七星に喫煙者は俺と教授だけだから。匂いとは別の話だろう。
たぶん彼女にしかわからない、なんらかの基準があったのだと思う。におい、とはきっとその比喩で。
どうやら俺は、なんとか合格できたみたいだ。
「――ここにいたら、だめ?」
少女はやはり、透明な表情のまま俺に訊ねる。
そこに感情の色を見つけることが、今の俺ではできそうにない。
少し不安そうな気はした。けれどそれが、俺の勘違いでないとは断言できない。わかったようなことは言えない。
俺たちはまだ会ったばかりで。
重ねるのは、だからこれからだ。
俺はようやくのように悟った。
彼女がどうして、俺を好きだといったのか。その理由に気がついてしまった。
考えてみれば当たり前で、なんの理由もなく懐かれるわけがない。
要するに、彼女は不安だったのだろう。
名前がなく、身寄りがない少女。事情を知らない俺だったが、それでも想像くらいはつく。
きっと彼女は、マイアに拾われるまで、ずっとひとりで生きてきた。彼女にとって、マイアは生まれて初めてできた家族だったのだ。
それを、その繋がりを失うことを、彼女はきっと恐れていた。
彼女は――俺に見捨てられることを恐れていたのだ。
そのことにようやく気がついた。きっと少女は、俺の一挙手一投足に怯えていた。
あえて悪い言い方をすれば、少女は俺に媚を売ったのだ。
捨てられたくないと。独りに戻されたくないと。
彼女はずっと怯えていた。
だがそのことに気がついた以上、俺の心も決まったようなものだ。
だから、俺は彼女に告げる。
「……菖蒲、でどうだ?」
「え……?」
「名前。――俺の故郷に咲く、紫色の花と同じ名前だ」
実のところ、これは知り合いである喫茶店店主からの受け売りだったが。
アイリス――つまり菖蒲という花は、もともとギリシア語で《虹》を意味するイリスに由来するのだという。
七星の名を持つ紫の花。
先ほどの会話で、俺はそんなことを思い出していた。
ぴったりだと思ったのだ。
「アイ、リス……」
少女は口の中で、俺が告げた名前を繰り返す。
実は人生でも過去最高に緊張していた俺だったのだが、そのことはひた隠しにただ問うた。
「どう、かな。気に入らないなら、また別の名前を考えるんだが――」
「ううん」
ふるふると首を振って、少女は答えた。
「うれしい。――ありがと、アスタ」
「……じゃあ」
「うん。わたし、アイリスになる」
少女は――いや、アイリスは。
そこで、初めて笑顔らしき表情を見せてそう言った。
一瞬だった。本当に笑ってくれたのかどうかも、今となっては怪しいくらいだ。
それでもどうやら、気に入ってくれたことは嘘じゃないと思うから。
勘違いでも錯覚でも、今は笑ってくれたと思おう。
「なら、今日からお前はアイリス=プレイアスだ」
「うん」
「――よろしくな、アイリス」
「うん。――よろしく、アスタ」
――こうして。
新しい家族との共同生活は、静かに始まりを告げたのだった。




