6-34『貴方に、想いを』
――嗚呼、
と、少女は思った。言葉にはならなかったし、する必要もないことを知っていた。
ただ、そこには歓喜が――それに類する感情だけが存在していた。
楽しかった。
これまで封じられていた全霊を出せる歓びがある。
全てを向けてなお立ち塞がってくれる好敵手がいる。
勝敗に保証がなく、未来はわからない。
その状況に賭けられる/懸けられることが楽しくして楽しくて仕方がない。
零れた笑みは、獰猛だった。
魂の奥底から湧き上がってくる熱量だけで、思わず達してしまいそうになるほどだ。
それは、求めることの許されなかった、未知との遭遇という歓喜だ。
わかりきった未来はない。
知り尽くした結末はない。
その、得られないかもしれないという状況を得られることだけで、最高だ。
――強い……!
レヴィ=ガードナーは、目の前に立つ《敵》をそう評する。
厚みの、深みのあるその強さは、膨大な経験と確固とした自信、そして自己に許された才能の全てを掴み取った者だけに許されるもの。魔術師として、いや、一個の人間としての完成形として評してもいいほどの存在感だ。
自分が知っていた彼の実力など、あくまでその表層でしかなかったのだと改めて思い知らされる。
七星旅団の六番目。
紫煙の記述師。
伝説と、そう呼ばれるに相応しいだけの――憧れの魔術師。
アスタ=プレイアス。
ごく単純な、魔術師としてのステータスを数値化するならば、総合的に見て自分が勝っている。
それは愉悦も落胆も含まない合理的な判断だ。《魔術師》として見るアスタ=プレイアスは二流以下の実力しか持たず、対するレヴィは控えめにも一流に超をつけていい魔術師だ。そこに彼が持ついくつかの反則を加味しても、レヴィが持つ汎用性の足元にさえ及ばない。
だが。
翻って《冒険者》として見るアスタ=プレイアスは、間違いなく世界最高峰。自分では足元にも及ばないと、レヴィは自然と判断する。劣等感どころか、その事実に感動さえ覚えるほど圧倒的な万能性。
一で十をこなす、汎用性の具現がレヴィであるのなら。
十を一ずつ持つ、万能性の権化がアスタだと言えよう。
何度驚かせてくれるのだろう。
そのことが、もはや楽しみにさえ思えてくる。
それほどに彼は想像を超え続けた。
――初手の目晦ましからしてそうだった。
熱を持つ蒸気による分断。この時点でレヴィが初めて見る魔術だったし、ただの目晦ましで終わるとは思わなかった。
逃げていくアスタの気配――。
レヴィは、それを万全に掴んでいる。
水蒸気ともなれば、それを剣で切り払うのは簡単ではない。
一部を削ったところでほかがすぐに埋めるからだ。これが魔術によるものでなければ、封印はできずとも、単なる力技で吹き飛ばすことも可能だっただろうが、魔術で隠匿の効果がかけられた蒸気ではそうもいかない。
――とはいえ、不可能ではなかっただろう。
何度も払い続ければいいだけだ。だがその行いには意味がない。初めから数秒程度しか持たない目晦ましを、さらに一秒二秒、短くしたところでその分が無駄なだけ。いや、どころか熱でダメージを負いかねない。
そもそもアスタの魔術である以上、目に見えるだけの効果とも限らない。
いや。相手がアスタでなくとも、わかりきった脅威に身を晒すなど馬鹿げた行為である。
それなら、さっさと回り込んで距離を詰めればいい。
現にアスタは、自分から距離を取ろうとしているようだから――。
――――…………。
それは、合理的な判断だった。
魔術師らしい理知であった。
ならばおそらく、それは間違っているとレヴィは思う。
本能ではない直感だ。
むしろ本能的な指向からは向きがずれている。
それでも。
それでもこの男ならば、きっと自分を騙してくる。
たぶん――自分はそれに逆らえない。
考えるだけ無駄。考えれば考えるほど、アスタの設置する偽りの解へ誘導される。まだしも動物的な直感に従ったほうが逃れられる確率は高いだろう――賢く、考える者ほど騙されやすいものだから。何も考えない愚者は騙せない。
だが、もちろん単に思考を捨てたら負けるだけの話である。こんなものはただの仮定だ。
そもそも、レヴィはその手の野生的な本能を所有しているわけではない。
それはつまり、騙されていることを前提とした単純な逆張りも、アスタ=プレイアスには通用しないということ。
ならば、どうするのか。
この男の裏をかく方法など存在しないのだろうか。
――そんなはずが、ない。
ゆえにレヴィが取った方法とは、騙されている自分を用意することをだった。
鍵刃による魔力の――否、魂の解放。
同時に行う自己の魔力封印。
それによって走り出していくのは、レヴィの分身体――それも、彼女の思う最適な行動をするものだった。
決して視覚的に相手を騙せるレベルの分身ではなかった。一般人ならばともかく、魔術師が見れば、それが魔力体であることなど一目瞭然だろう。教団にいた《水星》レベルの異能じみた分身生成はレヴィにもできない――いや、それは比べる相手が悪すぎるというものではあるが。
逆を言えば、その《水星》をも知っているアスタには本来、それ以下の分身魔術など通じるはずがないということ。
だが今のアスタは、視界を塞いでいる。
ならばこちらの行動を魔力感知で把握しているはずで、だからこそ単純な分身が活きてくる。
見えないからこそ。
走るその魂を、アスタは――本体ではないなどとは気づけない。
なにせ分身の取った行動は、彼女にとっての最適解なのだ。
決して、楽な戦いなどではない――それは翻せば、本来の彼女に最適解以外を選んでいる余裕などないということ。最適解とは、その先がたとえ罠に通じていると知っていても選ばざるを得ない必然を指す。わかっていてなお回避できない罠とは、すなわちそういう類いのものだ。
それをかなぐり捨てて、魔力さえ閉じてその場に留まり続けるというのは本来、勝利を諦めたも同然の行動だ。
当然だろう。これを読まれていた場合、もはやレヴィに次の一撃を防ぐすべなどない。完全なる無防備で攻撃を受けることになるのだから、アスタにその気がなかろうと、もはやレヴィの命さえ危うい――いや、直撃でも受ければ、本当にそのまま死ぬだろう。もっとも愚かな行いである。
そう。何もしないでその場に残る。
それは、最適解から最も遠い愚策。
意図にそぐう行動と、意図から最も外れた行動。
レヴィは、それを両立した。
どちらの選択でも読まれるのなら、どちらも選択すればいい。
理屈と呼ぶことすら烏滸がましいほどの暴挙。
だが直感は、それが正しいと伝えていた。
勘だ。
ただそれがレヴィ=ガードナーの、ある意味で最も頼みにする才能だった。
理屈ではない、けれどそれは一種の理屈。
明らかな魔術的異才。
ガードナーの完成形が生まれながらに発現していたその異能は、彼女自身に理屈を理解させず、にもかかわらず適切な解答へと本人を導く。
それは、いわば時間の短縮。
レヴィという個体に入力される周辺情報が、思考というプロセスを弾き出して解へ至る――少なくともレヴィ当人は、自信の能力をそのように理解していた。
だが。だからこそ。
未来予知、というよりは未来測定というほうが正しいだろう。そこに絶対性はなく、たとえば入力される情報が間違っていれば、あるいは正しくとも当のレヴィにバイアスがかけられていれば。
――その直感ごと騙すことも不可能ではない。
そして目の前の敵は、きっと、それを為し得る存在であると、レヴィは強く信頼している。
否。それは、いっそ信仰にも似た感情なのかもしれない。
だが当然なのだ。伝説と、そう呼ばれるに相応しい魔術師に対して、レヴィというひとりの人間が抱くべき正当な憧憬。
そのくらいの強敵でなければ。
まったく、張り合い甲斐もないではないか。
ゆえに――。
「そこ」
その場に留まり続ける、という思考する限り最悪の愚策を、あえてレヴィは選んだ。
信じたのは直感――より正確に言うなら、思考過程を破棄して回答を導き出すその即応性。つまり、速度。
完全な無防備であったとしても、自身の直感ならば窮地を最速で察知し、離脱することが可能であるとレヴィは信じた。いや、賭けた。
そして逆に、もし自己の思考が導き出した最善が、アスタによって作り出された罠であるのなら。
――最高の攻撃タイミングを、己が直感が必ず掬い上げる――。
霧を裂き、剣閃が走る。
視覚にとって、それは刹那の煌めきに過ぎない。最適を最速によって練り上げた一閃は、彼女自身ですらわからなかったアスタの正確な位置を、最も虚を突いた攻撃のチャンスを正確に縫い留める必殺の刃。
にもかかわらず。
にもかかわらず印刻使いは、その一撃を身を捻って回避した。
無様な回避。虚を突いたのは明白で、だからこそ完璧だったはずの攻撃を、それでも回避しきることがおかしかった。
まして彼は魔術師。決して身体運用に優れたタイプの戦闘者ではないというのに。
――直後、レヴィは再び直感する。
迫り来るは氷の棘。その反撃をレヴィは閉じる。
対応は完璧。
だが次の瞬間にアスタは、レヴィから遥か離れた位置へと高速で移動した。
理屈など、一切何もわからない。
呆れた高速移動だ。時間そのものが吹き飛ばされたと感じるほど。いったい何をすれば、攻撃で崩された体勢から、一瞬で離れた位置まで逃げ出すことができるというのか。何もわからなかった。
それでも。
それでもレヴィの攻撃は、アスタを捉えている。
彼女の攻撃は、なぜならすでに、アスタが現れる位置を直感で見抜いていたからだ。
自分でも、どうしてそんなことをしようと思ったのか理屈はわからない。
それでも彼女は、まだアスタが目の前にいる段階で、誰もいない遥か離れた壁際へと攻撃を解放した。
捉えた氷棘を、今度は自らの攻撃として開く。
その一撃は不意を打ち、アスタの魔術の媒介となる煙草を――その火を消し去ることに成功した。
それでもレヴィに、追撃はできない。
これは理屈だ。
だって、アスタが何をしたのかさっぱりわからないのだから。
――嗚呼。
と、レヴィは想う。背筋を突き刺す恐怖。理解を越えられる怖気。身震いする伝説の強さ。
その全てを、歓喜を持って迎え入れられることが――そういう自分であれることが、誇らしかった。
――すごい。すごく、強い。すごい――!
語彙の貧困な、子どものような感想で胸が満たされる。
救われている気がした。
それは、彼女にとってこの上ない贈り物だった。
今、ここに、この時間のあることが幸せだ。あるはずだった未練が果たされていく気がした。
――死ぬのならば、今がいい。
嘘偽りなく、レヴィ=ガードナーという個はそう感じる。
持つことの許されるはずなかった、わがままと言っていい感情。欲望。魔術師らしい――純粋な我欲。
初めてのその味わいは、どんな上等な葡萄酒よりも恍惚に酔わせてくれる甘露だ。
気持ちがいい、と本気で感じている。
意識を張っていなければ、絶頂を迎えてしまうのではないかとすら本気で思っていた。
心臓が高鳴っている。胸が熱い。自分という個の人生の意味が今、この時間に果たされている。
本当に。
自分には、過ぎるほど素晴らしい土産だろう。
ならば返さなければ。
それは魔術師として当然の思考だ。
貰うばかりでは芸がない。
その分、己が研鑽を返せずして何が魔術師だろう。
魂が、磨き上げてきたものがある。
彼女の能力は、母親によって迷宮の奥底に封じられてきた。
それは、言うなれば生きるにあたって、常に重しをつけられていたも同然の概念。
魂に、封印を。
ただ生きるだけで負荷のあったそれは今、十全に解放されている。
ゆえにこそレヴィ=ガードナーの全性能を今、最高の魔術師に魅せなくてどうするのか。
いくつかの言葉を躱した。
どう思うだろう、目の前の彼は。
喜んでくれればとは、思わなかった。
そんな、どこか歪んだことを考えているのは自分だけでいい。
ただ見せたい。
ただ伝えたかった。
意を。
礼を。
「開式鍵刃――」
私と、出会ってくれて、ありがとう――と。
貴方に、想いを、伝えるために。
「――弐刃」
レヴィ=ガードナーは、その全存在を乗せて刃を振るった。
ほんの少しでも構わないから。
すごいな、と。彼が驚いてくれるように。




