6-19『勝利に捧げよう。』
理屈は単純。
使ったルーンは原初の十六ルーンのうち、ふたつ。
すなわち二番《癒やしの印刻》と、十二番《死人の印刻》である。
「――はっきり言うが。原初のルーンを使うのに、お前はまったく向いていない」
その秘奥を教わったとき、師匠アーサー=クリスファウストはそう断言した。
通常の24+1印刻をひと通り使いこなせるようになったあとだった。このときすでに各種の印刻を合わせたり、逆式でもって概念を反転させる手法は概ね完成形に至っていた。
あとは自分をどれほど騙せるか。
都合のいい解釈、というたったひとつの手法で俺は全ての魔術を成立させなければならない。
ただまあ、ルーンも学んでしまえば漢字とあまり変わらない。
ルーン文字そのものは表音文字の一種なのだが、魔術的に扱う場合はどちらかというと表意文字に近いように思う。文字単体が秘める複数の概念を都合よく抽出し、あるいは組み合わせ、その意に従って世界法則を改変する。
俺が日本人であったことが功を奏したのかもしれない。
それ以前、そもそも十四なんて年齢になってから初めて魔術を学び始めたのだ。様々な魔術をひとつひとつ覚えるより、ルーンひとつで全てを賄うほうが理に適っていた。なにせ、時間は待ってはくれないのだから。
師匠は言った。
「そもそもお前は、厳密に言えばルーン魔術を使ってるわけじゃねえからな」
「いや、教えたのアンタだろ」
「うるせえな。お前の異常性をいちいち言葉で説明すんの面倒なんだ。察せバカ野郎」
「えぇ……」
「とにかくお前は通常の《ルーン魔術》の枠組みから逸脱した手法を取ってる。それ自体は問題ねえが……いいか、お前のやり方は、《原初のルーン》にはあんま通じねえんだよ」
なぜかと俺は問う。
まあ、そもそも違いがよくわかっていなかった。
師匠曰く、
「いいか。たとえば《火》というひとつの印刻があったとして。お前はここから、その意にそぐう魔術を解釈次第でいくらでも扱える。単に火を出すでもいい。《松明》の概念を抽出して明かりを灯すこともできるだろう。あるいは強い《情熱》と解釈して精神効果を与えるとか、《エネルギー》としての側面に着目することもできる。逆意を取れば鎮火や熱冷ましみたいな使い方もできる」
「……まあ」
「『まあ』、じゃねえんだけどな……まあ、いい。だが覚えておけ。原初のルーンでそれはできん」
「ん? ……どういうこと?」
「原初のルーンはな。文字の意味が決まってるんじゃない」
ひと息。師匠は告げる。
「文字を使って発動する魔術の効果が決まってるんだ」
それはとても重大な差異だ、と師匠の目は語っていた。
だが正直、このときの俺には意味がよく理解できていなかった。またぞろクソジジイがわけわかんないこと言い出した、くらいの認識だ。それというのも、師匠の奴が日頃から意味わからんことばかり宣ってたのが悪い。
――ともあれ。
「これはお前の適性に、はっきり言うがまったく合ってねえ。だから、いいか? 珍しく忠告してやるからよく聞け」
「珍しくって自分で言うんだな……」
「茶々入れんじゃねえよ教えんのやめんぞ、クソガキ」
「悪かったよクソジジイ」
蹴られた。そして。
「原初のルーンは効果値が非常に高い。これは他種の印刻と違って、初めから神の道具――要するに、人間が使うようには基本できてねえ。これでお前、無理な解釈でもしてみろ。フィードバックで自滅するぞ」
「んー……わかった。そういうものなんだなって理解しとく」
「それでいい。まあ脅すようなこと言ったが、実際にはそうはならんだろう。教えてみんことにはわからんが、少なくとも十六種全てを使いこなすことは、まあ無理だろうしな。十六番目は最初から無理だが」
「はあ……」
「回復系も適性的に無理だろう。上手くいって半分扱えりゃ御の字。そんくらいに思っとけ」
原初のルーン、その十六番目は大神オーディーンしか知らないのだという。
なんて、これはあとになってから珈琲屋――レンに聞いた話。
中学生の頃の俺は、北欧神話の知識なんて皆無だった。こっちに来て奴から聞いて初めて覚えた程度だ。
むしろよく珈琲屋は、珈琲屋のくせにそんなもん知ってたものだ。
――つーかそれを言うなら、そもそも原初のルーンの文字としての形なんて知らねえよ。
とかなんとか珈琲屋は言っていたが、さて。
本当に伝わっていないのか、それとも単にあいつの知識になかっただけなのかは、わからない。
そんなこんなで、いろいろ無理筋を使って俺はそれを学んだ。
今回、まず《癒やしの印刻》で、これ以上に傷が広がるのを防いだ。本来は傷や病を癒すルーンらしいが、治癒に適性のない俺にそこまでは扱えない。できてギリギリ負傷の固定化――それ以上に傷を広げず、深めず、時間を稼ぐくらい。
続いて使ったのが《死人の印刻》だ。
その前に俺は、前回の戦いでアイリスに敗北したクロノスが遺した《地脈移動》を用いて場所を移動している。ただその目的は物理的な移動ではなく、むしろ地脈、すなわち世界の裏側に入り込むことのほうにあった。
要するに魂を、自ら死後の世界へと近づけたのである。
それを用いることで、死者を操り、限定的に復活させる《死人の印刻》の効果の対象に、無理やり自分を当て嵌めたということ。
前回のアルベル戦の逆だ。
あのとき、俺の肉体は死んでいたが、魂魄が剥離する寸前に傷を癒すことで復活を果たした。つまり、死を生で偽装したということ。
今回、俺はまだ辛うじて生きていた――いや今も生きてはいる。だがこの状態を、《癒やしの印刻》で肉体的に《死んだも同然》である状態を固定、そして地脈移動により《魂魄が世界の裏側に行った》という概念を貼りつけ精神面もカバー。
体が死んで、心も死んだ。つまり死んだ、という魔術的な意味づけだ。
つまり、生を死で偽装したのである。
アルベルの言う通り、まあ実質的に自殺とほぼ大差がない。
どっちにしろ放っとけば死んだが、それでもまだ一応は生きていた自分を、概念上は魔術的に殺したので、まあ、うん。
仕方ないよね。
だってもう肉体を自力では動かせなかったからね。
生き物は操れなくても、死人なら操れるルーンがあったからね。
そしたら、まあ……死ぬよね?
うん。
どう考えても論理的であることは証明されたと言えよう。
みんなにバレたら、それこそ殺されかねない気がするが考えない。
ただまあ、それでもきっと、俺にはアルベルに応える義務があったのだと思う。
いや、権利と言い換えてもいいだろう。いずれにせよ選択の余地はあり、俺は強制されたのではなく、自らそうすることを選んでいるのだから。
アルベルは死を賭して戦った。
自分の終わりを――ひとりの男がその命の終着を、ただ俺のために費やしたのである。
その覚悟には応えなければならない。
そうでなければ俺は、あいつに勝つことができないだろう。
だから、あえて同じ土俵に立つと決めた。
これは俺の敗北と言っていい。
そうだ。原初のルーンなんて使っては、もう魔力が残らない。生き残る道がそもそもないも同然だが、仮に生き残ってもすでに俺はこれ以上、迷宮を潜ることができない。戦う力が残らない。
目的を、達成することができなくなった。
それは負けだ。戦略的な敗北――アルベルはそんなことは考えていないだろうが、もはや俺が迷宮に潜った理由は完全に失われてしまっている。
だから、この戦いに意味はないのだろう。
勝敗は決している。それが目的を遂げることを史上とする生命の競い合いならば俺の負けだ。
けれど――たとえそうだとしても。
まだ意地は貫き通せる。
お互いに。この無様で醜い、愚か者同士の競い合いにだけは、――必ず勝利したいという意志がある。
あとは、それをお互い、通すだけだった。
※
「《氷》」
呟きが、迷宮広間の空気を揺らす。
片手を突き上げ、空間へと魔力を浸透させた。
本当のところ、別に口に出す必要はないのだけれど。まあ、それも儀式の一環である。
言葉にするときにはとっくに発動済み。聞いてから対処なんてできないのだし、言っとくだけ得ということ。
「ふ――!」
アルベルが腕を振った。
放たれる電撃。腕ではなく上から降り注ぐそれが、けれど俺に当たるよりも前に防がれる。
「……空間を停止させたのか。無茶をする」
「そうでもねえよ。魔法使い連中なら一発で掻い潜る程度の小技だ」
「魔法使いでもなければ破れない時点で異常なんだけどな」
「そう言うな。……いや本当、お前が言うなっつーの」
皮肉な顔でアルベルは肩を竦めた。
やってやる。そのツラを絶対、歪ませてやる。
アルベルは怪訝そうに、けれどどこか愉快そうに問いかけてくる。
「今さらだけど。……腕も煙草も失って、どうやって文字を刻んでいるんだ?」
「おいおい、そりゃ本当に今さらの質問だな。つか訊いて答えると思うのか、俺が?」
「答える可能性はゼロじゃない。なら訊いておくだけ得だろう」
「……腹立たしいがまったく同意見だ。仕方ねえ、気が合ったことだし教えてやってもいいぞ」
「拝聴するよ」
「簡単な話だ。さっき、脇腹から赤い絵の具をいっぱい出しといたでしょ? まったくエコだよな俺って」
「…………………………………………」
「お陰様でお絵描きし放題だぜ、なあ、この野郎?」
「……なるほど。これは純粋な感想なんだが、――やっぱり君は頭がおかしい」
「そいつはご講評どうも。――それ、お前に言われたくないんだわ」
俺の脇腹から赤の絵の具を抽出した犯人、お前なんだよなあ。
自分のことを棚上げして相手を貶めるのよろしくない。
「さて」
手についた赤色で、俺は床に文字を描く。
矢印にも似たそのカタチ。目を細めるアルベルに、俺は笑みを向けて。
「《軍神》」
「――――」
「このルーンの意味がわかるか、おい?」
「……さてね。君が、その《軍神》をどう解釈するかなんて知ったことじゃないよ」
「まあ別に魔術でもねえさ。こんなもん単なる願掛けだよ」
「何?」
「《軍神》は勝利を意味するルーンだ。お前を倒すっつー、そういう宣言だよ」
「ふん。無駄なことをしている暇はないと思うけどね」
「無駄だと思うか?」
「思わないから、しているはずがないと言っているんだよ。僕は」
「……性格の悪い奴だ」
「君には劣る」
「あっそ。ならわかってんだろ? 原初のルーンなら俺は別に文字にしなくてもいいんだぜ。悠長かましてていいのか?」
「そういう君こそ。今の僕には攻撃が通じないことくらいはわかっていると思うけれど」
「なんだ? 一度破られたのを忘れたわけじゃねえよな?」
「同じ手段が二度通じると思うならやってみればいい」
「そういうこと言うとやっちゃうぞ?」
「できるならね。――今の君にそれだけの魔力が残っているなのなら、と言い換えようか」
「ああ言えばこう言いやがる」
「こちらの台詞だよ」
交錯は直後に再開された。
アルベルはまっすぐこちらへ走ってくる。思い切った判断だ。
今の俺の魔力量で《敵の印刻》――かつてアルベルの魔術を破ったもの――が使えないことはバレている。というか、今の俺ではもう原初のルーン自体がひとつも使えなかった。実は。
魔力が足りないからだ。
「ちっ」
仕方なく俺は逃げる。そもそもこの広間に留まっている理由がない。
さきほど位置を入れ替えたとき、実はとうに俺は下へ進む通路の側へと回っていた。廊下へ逃げ出す。
《氷》はそのための時間稼ぎに過ぎない。
「僕から逃げられるとでも――」
「――思ってるとでも思うか?」
追ってくるアルベルを迎撃。狭い通路なら狙いも適当で構わない。
ただまっすぐ後ろを撃つだけで、俺を追うアルベルのほうへ必ず向かう。
というわけで、俺は腹の傷に手を突っ込んだ。血を流す。
大丈夫。痛みは感じないからね。あんまりこういうことやりたくないんだけども――、
「《巨人》!」
魔力で構築した雷の棘がアルベルへ向かう。
だが奴は無視。避けるどころかそれを真正面から受けて――無傷。
奴の《ただあるがままに》は、言ってみりゃ《完全無敵》の魔術である。チートすぎ。バカ。
だが無論、そんなことは俺も読んでいるわけで。
「少しは怯むくらいしろや!」
「うるさいね」
角を折れる。追ってくるアルベルは、足を止めずに呟いた。
「受けろ」
「――《贈り物》」
瞬間、頭上が光る。雷撃の銃。
だが俺はそれを無視した。
そして雷撃は、こちらに当たる寸前にその向きを変え――通路を遡っていく。
「む……!?」
「《収穫》、《一日》、――《故郷》」
手は止めずにトラップの準備を続けていく。
力は再利用するに限るね。こっちの消費が少なくて済むから。
そのまま俺は広間に出た。真ん中あたりまで駆けていく。
振り向くと、奥から姿を現すのは無傷のアルベル。
「……やってくれるじゃないか。素直に称賛するよ」
「どうだよ、避雷針になった気分は」
一度目の《巨人》による雷撃は、いわばフェイクだ。
光による目晦まし。本命は同時に脇腹から地面へ零しておいた血のほう――《贈り物》のルーン。
「魔術が当たらないんじゃなく、当たっても効果がないだけだろ? より正確に言えば、当たったところで傷つけられないだけだ。当たることは当たる。でなけりゃ、攻撃はお前をすり抜けていいはずだ。影響から逃げているだけで、直撃を躱してるわけじゃない」
「だとしても、本来なら魔術効果も防げるはずなんだけどね」
「そりゃ攻撃だからだろ? だったら話は簡単、攻撃しなきゃいい。実際、お前を攻撃してるのはお前だぜ? 俺はただ、贈り物をしただけだ。それは攻撃じゃない」
「――――」
雷を当てる→そして贈り物のルーンを使う。
俺は奴に《雷に当たるもの》としての概念を付与したのである。避雷針に変えたのだ。
ただ奴の雷撃を防ぐためだけに。
こうなっては、もうアルベルが何度雷撃を撃とうと、それは全て奴に向かう。まあ効きやしないんだが、攻撃手段をひとつ封じただけで大きな戦果ではあった。
「同じ手段は二度通じないだっけか? バカ言うなよ――二度も同じ手段使うわけねーだろ」
「雷撃を封じただけで、ずいぶん喋るじゃないか。なんの時間稼ぎかな?」
「そんなつもりさらさらねえよ。――お前の《ただあるがままに》を貫通する手段くらい、いくらでも思いつくってだけだ!」
直後、さらにトラップを発動した。
アルベルの足元に光が生じる。
そして瞬間――迷宮の床が崩れ始めた。
「――く、」
咄嗟に逃げ出そうとするアルベルだったが、遅い。
そいつはただ床を壊したわけじゃない。というかそもそも俺が壊したのですらない。
「迷宮破壊――いや、これは!」
迷宮の壁は壊せない。だが迷宮そのものが自壊するのなら話は別だった。
ここは迷宮、ダンジョンだ。
本来なら山ほどのトラップが仕込まれている太古の魔術施設。その設定を忘れていたほうが悪い。
あらゆる迷宮にはそもそも大量のトラップがあるのだ。
オーステリアのそれは教団が解除したらしいが、術式自体はその場に残っている。ならば、
「――冒険者舐めんな」
回収して再利用するくらい、曲がりなりにも《七星旅団》の一員ができないとは思うまい。
いくら干渉を受けないといっても、もちろん足下が崩れれば下へ落ちる。
さきほどの意趣返し。なんてつもりはないが、崩落に巻き込まれたアルベルがひとつ下層へ落ちる――瞬間。
「君のほうこそ――」
「――んな!?」
「教団を舐めるなよ、冒険者」
体が、見えない力に引っ張られていく。
まずい、と思った瞬間にはすでに対処不能。奴の魔術は発動があまりに察知しづらい。
「《この指止まれ》」
ついに足が床から放れた。まるで自分の右腕が見えない何かに引っ張られているかのように、そのまま俺は無理やりアルベルが落ちた穴へと引きずり込まれていく。
いや、これ――やば――っ!!
「ようこそ」
穴に落ちた俺が見たもの。
それは片手の人差し指を立てるアルベルであり、
その指を俺が自ら掴む様子であり――、
「さようなら」
そのまま床へと叩き落とされ、さらに腹部へ蹴りが叩き込まれた。
吹き飛ばされる。
「ぐ、」
「《お手玉》」
「――づ、ぶ……!」
床へ跳ねた瞬間、その床が俺をさらに叩いた。
下に叩きつけられ、横に蹴られ、落ちると同時に今度は上へ跳ね上げられる。痛みこそないが、腕の骨から嫌な音が響いたことだけは自覚した。
さらに、
「《石蹴り》」
「《水》!! ――おっぐあ……っ!?」
崩れた迷宮の床――いや、天井。その破片を蹴りぬいたアルベル。
高速で、魔弾の如く飛んでくる礫を、俺は地面にブチ当たった際に零れた血液で止める。《水》のルーンで、液体として操り盾を作ったのだ。
そのまま落下して変な声が漏れてしまったが、まあ、……それでもまだ動ける。
「こふっ、……っ、――《車輪》」
そして逃げた。またしても通路へ、文字通り転がって逃げ込む。
「ち、――無様な」
背後から聞こえてきた声。そりゃ地べたを転がり回る俺はさぞ滑稽だろう。
また引き寄せられてはかなわない。おそらく効果半径はそう広くないだろうが、念のため《保護》を張りながら、立ち上がって逃げる。
あと少しだ。あと少しだけ体が前に動けば、それで……そんな考えは、甘いのかもしれない。
それ以前の問題だった。
「まったく――」
その声はすぐ真後ろから聞こえた。走って追いついてきた速度では絶対にない。
――間に、合わなかった。
俺が地脈で移動したのと同様のことは、そもそもアルベルにだってできるのだから。
奴の場合、そのまま向こうの世界に引っ張られて消えかねないとしても。
ああ、そうだった。
それくらいの賭けをこなせないほど、奴に覚悟のないはずがなかった――。
「っ……《防、」
「遅い!」
ルーンを描こうとして、それができないことを知った。
赤い色が、ない。
何をされた? わからない。だが血液を使って文字を刻む方法を防がれたのだ。
奴は色を操る魔術をそもそも使っている。おそらく何か、世界に《新しい色を刻ませない》魔術を使って――それは。
「《痛み分け》、だ」
「ぐ、づぁあああぁぁ……っ!!」
突如として、全身を圧倒的な苦痛に襲われた。
魔力の麻酔など貫通して。それは物理的な痛みではなく、精神を蝕む苦痛だから――。
「ぎ、ぐぁ――あ、づ……っは――ぁ」
「……ああ。そうだろうね」
アルベルの言葉が遠い。
そこから逃げるみたいにして、倒れながら這い回った。
苦痛に慣れろ。飲み込め。そう自分に言い聞かせることで精神を保って。
「その苦悶は僕が向こうの世界で蓄えたものだ。ぜひ君にもわけてやろうと思ったのさ。――贈り物は、防げないだろ?」
「ぎ――テ、メ……っ!!」
「それで正気を保っていることがおぞましい、とは言わないよ。そうだろうとも。常人なら発狂してもおかしくない精神の苦痛に呑まれても、ああ、君なら必ず耐えるだろう。そう信じていたよ。でなければ使うものかよ。狂気の世界に、君だけ逃がしてなるものか」
「っ――う……!」
「だけど。それでももう、……這うのが限界か」
少しずつ、足掻くように俺はアルベルから距離を取ろうとする。
ほとんど意味はない。匍匐前進なんてレベルでさえない、地を這う虫のように惨めな動き。
だとしても諦めないことだけが、俺にできる唯一だったから。
だから――、
「……僕の勝ちだ」
「づ――!?」
腕を、アルベルに踏みつけられる。
それだけで、俺の足掻きは全てが封じられた。
「本当に。その生き汚さだけは――いや」
一瞬だけ、アルベルが黙り込む。
だがそれも刹那。
再び口を開いたアルベルに迷いはなく。
「よそう。慈悲ではなく、脅威を封じるために今倒す」
頭はクリアだ。これが詰みの、一歩で前であることがすっきり理解できる。
まったく容赦がない。
ていうか、やっぱこっちの攻撃は通じないのに向こうからは攻撃し放題ってのはな……。
「――ああ……やっぱお前から、《逃げる》ってのは厳しいな……」
「……、……貴様」
「本当に――笑えるよな?」
直後だった。アルベルが、俺を踏んでいた足をどかして一歩を後ずさる。
そして、俺は足りなかった最後の一歩分を、埋めたのだ。
「――アスタ=プレイアス……お前!」
「ああ。アルベル=ボルドゥック――」
笑みを、俺は浮かべて。
最後まで笑うことのなかった男に向けて。
告げる。
「問題です。――俺が、最初に刻んだルーンはなんでしょう?」
直後。天井から光が降り注いだ。
※
アルベル=ボルドゥックは確かに、アスタ=プレイアスを打倒する、その寸前まで至った。
詰みの、ほんの一歩手前。
だからこそそれはまだ詰みには至っていなかった。一歩を埋められるか否かが勝負の分かれ目だった。
――ああ……。
アルベルは静かに思う。わからなかった。
いや、わかってしまったのだ。アスタの思惑ならば。
あのままでよかったのに。
足を外したのが、全ての失敗だった。本当に、勝っていたはずなのだ、自分は。
わからなかったのはその理由。
そうだ。なぜ自分が死ぬというのに笑える奴がいるというのか。
アルベルにはわからない。
心底から望んでいたこの戦いにおいてさえ、彼は心からの笑みなどついぞ一度だって浮かべなかった。
そんな方法を、知らなかった。
だって、そうだろう?
笑えるはずがない。自分という個の楽しみを求めたことなど、人生において一度だってないのだ。
わからない。だからわからない。認められない。
まるで戦いを――生きるために足掻く行い全てを認めるかの如く笑う意味が。
だから恐れたのだ。
あの状況で笑える理由がわからなかったから。
負けるのなら笑うはずがない。
だから、何かあるに違いないと後ずさってしまった。
なかったのに。
アスタを本当に詰ませることができたのに。
あの状況で――ただ笑える人間の精神というものが理解できなかったから。
だからアルベルは一歩を退き、
そしてアスタは一歩を進み、
ゆえに――勝敗は、ただそこに決することとなった。
頭上からの光。
そうだ。ここはどこだ?
そして目の前の男はなんだ。
アスタ=プレイアス。
冒険者集団《七星旅団》の一員。紫煙の記述師。迷宮探索における参謀補佐役。
トラップの再利用と同じ。彼はもともと、戦闘ではなく迷宮における補佐を主とする男だった。
地理の把握くらいわけはない。
それを求めれられて、あのとき彼はオーステリア迷宮に入ったのだから。
この場所は、さきほどまでふたりが戦っていた広間の、直下。
アスタが《軍神》を刻んだ、まさにその座標。
「づ――おぉああああぁぁぁぁ……っ!!」
勝負の分かれ目はここだ。アルベルは吠えた。
接近する。まだ勝負はわからない。
アスタは虫の息だ。ここで倒しきることができれば構わない。
そうだ。重要なのは勝敗であって、生死ではない。
今の自分は無敵だ。
いや。だからこそアスタはそれを抜いてくる。そんなことはわかっている。
であるがゆえにこそ距離を縮めろ。賭けずに得られる対価はない。動きで圧倒するしかない。
魔術の発動を待つ愚を犯すことなどするはずがなく、アルベルはひと息にアスタの元へと一歩を縮めた。
立ち上がったアスタ。
その懐に潜り込み、今度こそ止めるべく腕を発する。
アスタに避けることはできない。
彼の貫手はそのままアスタの心臓にぶつかり――、
それが、
勝敗を決した。
「――■■――」
腕が、止まった。それはアスタに当たらなかった。
いや違う。当たっている。ただその表面で止められているだけだ。
まるで動きを操られているかのように――。
――そうか。死者のルーン……っ!
死した者を操るルーン。
アスタはただ自分を動かすためだけに発動したわけではない。
最後に、ただ一度だけ、この場でアルベルの動きをほんの一瞬だけ止めるために費やされた伏線。
その通りだ。一度しか使えなかった。それをこの場所まで保持してみせたのが奇跡。
だが。それでもおかしい。
二度目に。たった今使った原初のルーン。
使えないはずだ。アスタにもうそんな魔力は残っていない。
敵の言うことを鵜呑みにしたわけではない。それが使えないことをアルベル自身が確信していた。
にもかかわらずどうして――。
――問題。最初に刻んだルーンは何か?
そうだ。そうだった。
奴が最初に刻んだのは《軍神》ではない。
この戦いのいちばん最初にアスタが刻んだルーンは、
――《秘密》……!!
隠していたのだ。あの場所に、初めから、自分自身の魔力を。
最後にただ一発だけ、アルベルに致命打を与えるためだけに張った伏線。それを《軍神》でこの場に落とした。
覚悟なら、あったのだ。
ずっと最初から。
アスタ=プレイアスは初めから、アルベル=ボルドゥックを相手に《隠蔽》と《逃亡》で戦ってみせていた。
それは決して慢心でも油断でもない。その逆だ。
アルベルを最大の敵と見做し、全力で倒すがゆえの仕込み。
見誤っていた。
障害の敵と見做した相手を――それでも。
「ああ……」
意識が、遠のいていく。
僕は負けた。
それがわかった。たとえこのままアスタが死ぬのだとしても。
元より自分は死んでいるのだとしても。
ただこのときの決着を、勝利を、得ることができなかったのだと知った。
敗着はわかっている。ルーンなら研究し尽くした。
原初のルーン、その十番目の呪法。すなわち《退魔の印刻》。
魂を、強制的に引きはがされ、裏側の世界に送り返される。
――敗北だ。
悔しかった。
悔しかった。
憧れだから。
だからこそ。
どうしても――勝ちたかったのに。
「くそ……くそ」
最悪の気分だ。こんな思いは味わったことがない。
あのとき殺されたことより最低の思い出だ。
それが人生の最期だということが、何より腹立たしくて仕方ない。
過程なんて問わなかった。
求めたのは結果だけ。
ならば自分は、何を果たすこともできず――何も変わらないまま無惨に負けていく。
その気分ときたら――
「本当に、……笑えてくるね」
ゆえにこそ、敗者は敗者らしく。
――その憧憬を、勝利に捧げよう。
※
そうしてアルベル=ボルドゥックは、この世界から姿を消した。
今度こそ戻ってこられまい。死後の世界に溶けただろう。それならそれで、冥福ではあるのかもしれないが。
それにしても。
「……最期に、笑うのかよ……畜生」
まるで勝ち逃げされた気分だ。
いや。実際これは戦略的な敗北というヤツだろう。
魔力を完全に使い果たしたのだから。
というか、もうそれどころの話ではない。
糸が切れたことを自覚する。立っていることすらもはや不可能だった。
「――っ、あ――」
前のめりに倒れ込む。受け身すら取れずに顎を打った。
ああ、痛え。
なんて言葉すらもはや口にはできず。
温かさを感じる気がした。
それは流れ出ていく血――生命の感触だろうか。
もうどうしようもない。
死ぬ。
勝利の達成感なんて、味わわせてもくれないらしい。
酷い話だ。
結局、無理を通そうとして失敗しただけ。
意識が遠のいていく。
繋ぎ止めることすらできない。
「――ああ……」
最後に、何か――光を見たような気がして。
温かさを感じながら、俺は。
※
血だまりに倒れ込み、意識を完全に手放した。
※
レヴィ=ガードナー奪還戦。
第四戦。
勝者――アスタ=プレイアス。
勝因:笑顔。
これはアイドル(なお死線)。




