5-29『vsクロノス=テーロ』
七曜教団幹部。魔人《土星》クロノス=テーロ。
鬼種最終にして最後の完成形たる彼の拳を、正面から受けて原形を保つ存在は限られる。
まして相対した挙句、それを押し返すほどの拳を振るえるとなれば、そんな者がいったい世界に何人いることだろう。
――それを為した人間が。
年端もいかぬ、華奢な矮躯の少女だなどと――いったい誰が信じるだろうか。
「っ――!」
押し負けたことを、冷静にクロノスは感じ取る。
差はわずか。だが確実に、クロノスの打撃はアイリスのそれに威力で劣る。
無論、膨大な魔力による加速と強化を重ね合わせた少女の打撃に、ただその場で立っているだけのクロノスが匹敵している以上、恐るべきはむしろ彼のほうなのは間違いあるまい。
それでも、それは確かに差だった。
明確な敗北の表れだった。
加えてこの場合、ただ押し負けた以上のダメージがクロノスには与えられている――否、奪われているのだから。被害は決して小さくない。
「…………!」
体内から、強引に魔力を《略奪》される感覚。その不快感は、無表情なクロノスをもってして顔を歪ませるほど。
魔力が精神力であり、そして生命力でもある以上、その吸収による急襲は見た目以上に被害をもたらす。酩酊にも似た感覚で、意識を大きく揺さぶられていた。
砕ける拳――だが回復に魔力を回す暇はない。
アイリスの異能を、自分が甘く見ていたのだとクロノスは自覚せざるを得なかった。
咄嗟に放った回し蹴りは、けれど身軽に回避された。ほとんど慣性を無視したような挙動で横に移るアイリスを、クロノスは目で追うのが限界だ。
――奪い得る総魔力量で言えば、クロノスはアイリスに圧倒的に勝る。
土台、空間そのものから魔力を汲み上げるクロノスと、所詮は一個の人間からしか魔力を奪えないアイリスとでは、その絶対量に大きな差があるのは言うまでもない。
だが一方、クロノスにも明確に負けている部分があった。
それは一瞬で奪う、瞬間的な魔力量だ。
広範囲から一斉に吸収するクロノスの場合、大した速度がなくても空間の魔力量などすぐに汲み上げ終えてしまう。だが打撃の際の一瞬の接触で、一気に魔力を奪うアイリスは、速度において遥かにクロノスを上回っていた。
まして今、彼女はその異能を全開にまで解放している。
吸った分を全て放出している以上、容量の問題は考える必要がない。アイリスというタンクがクロノスに大きさで劣っていても、一瞬で空になるのなら限界は考慮の埒外だ。
これまでアイリスは、意識的に異能を使ったことがほとんどなかった――その差だろう、これは。明確に《奪う》という意識が表に出たアイリスの吸収量は、それ単体で充分に脅威になっている。
だが。それでも。
その程度で、クロノス=テーロは倒せない。
部屋の中央に屹立するクロノス。その周囲を旋回するようにして死角を突き、アイリスは爆ぜて突貫する。
クロノスはもはや避けようともしなかった。
背後から、左脇腹に蹴りが突き刺さる。それをクロノスは無防備に受けた。
「……っ!」
「は――!」
肋骨に衝撃が浸透。息を漏らしながら、それでもクロノスは、後ろ向きのままアイリスの足を掴み取る。もちろんその間も、触れているだけで魔力を奪われていくが、その程度は払うべき代償だろう。
クロノスは右手を振り被って――捕らえたアイリスに突きを放つ。
それが直撃する寸前、アイリスは正面に向かって、推進用の魔力を放った。顔面にそれを受けたクロノスは、勢いに押され後退。辛くもアイリスはクロノスの打撃から逃れたが――
「……っ、う……、は……っ!!」
距離を取ったアイリスが、床に手をついて息を整える。
クロノスは、ただ正面からその様子を見据えた。
「息が、上がってきているようですね」
無理もない。アイリスのこの戦い方は、捨て身に等しい綱渡りだった。
アイリスは無限にも等しいクロノスの魔力を、何度となく突貫して削り取る必要がある。だがクロノスの側は、おそらく一撃でもまともに与えれば、華奢なアイリスなど二度と動けなくしてしまえるだろう。
時間稼ぎすら難しい。アイリスのこの高速機動には魔力を劇的に消費する。術式として使うのではなく、ただの魔力そのものを推進剤にしているせいだ。
魔力がインクならば、それを筆に浸して文字を描くのが魔術――このたとえに倣って言えば、今のアイリスはポンプで汲んだ魔力をホースから放っているに等しい。放って、そしてまだ奪う――この繰り返しが少しでも途切れた瞬間に、アイリスの速度は元に戻ってしまう。
そうなった場合、戦いがどう帰結するかは言うまでもないだろう。
一撃でも喰らったら敗北。
一撃を加えられなくなってもやはり死亡。
さらに言えば、彼女の小さな身体にこの高速移動はあまりに負荷が大きかった。魔力的な息切れがないのだとしても、やがては体のほうがついて行かなくなってしまう。
背負った三重苦はあまりに大きく、対するクロノスはまだ明らかに余力を残している。
「――相性は最悪。魔術師殺しとしてのあなたは、確かに鬼すら殺し得る」
クロノスは小さく言う。
言葉少なな彼には酷く珍しい、あるいは思い遣りとしての言葉。
「ですが、それ以上に地力の差は明白です。あなた如きでは、私を打倒することはできない」
「……わかん、ない」
だが。アイリスは首を振る。
「やって……みなくちゃ。まだ……何も!」
「そうまでして、あなたは私に立ち塞がりますか……その意地がどこまで続くか」
「――!」
見せてもらいましょう、とクロノスが言った。
その宣言は、同時に事態の変貌を告げる鐘でもあった。
幾度目かの交錯。
ここでクロノスは、ついに自ら攻撃に移ったのだ。
アイリスの魔力噴射とは異なり、ただ渦巻く膨大な魔力を身体強化によってのみ費やし、その反動全てを鬼として生まれ持った強靭極まりない肉体性能で抑え込む。
力任せなのは変わらない。
だが長い年月をそれで過ごしてきたクロノスの《力尽く》は、アイリスのそれを遥かに凌駕する質を持っていた。
――炸裂音。
空気が遅れて動くほどの勢いで、ひと息にクロノスがアイリスへ近づく。力を込めて蹴った床が、たったそれだけで砕けていた。
「……っ!」
アイリスの反応も早い。本能と反射――生来のものではなく、ただ後天的に脳髄へ埋め込まれたそれが、けれど少女の命を繋ぐ。
少女は逃げない。むしろ自分からクロノスに向かっていく。
速度で上回っていることは証明されたのだ。恐れる必要のあるはずがない。
斜め前に跳び上がったアイリスは、空中でさらに噴射の軌道を変え、今度は斜め下へと折れるような動きで落ちる。魔力噴射による強引な空中制御。それは目で終えても身体が反応できない異次元の動きだ。空間の管理権を握っているのは、果たしてアイリスかクロノスか。
鋭角に折れるように落下してきたアイリスの踵が、クロノスの肩を打ち下ろす。
クロノスは一切それを考慮に入れず、打たれたのとは逆の左手でアイリスに襲いかかった。鞭のようにしなる左腕の動きは、鬼の身体能力がもたらす人間には不可能な理屈の武道。アイリスは判断ではなく、本能によって力任せにそれを躱した。
魔力噴射による移動に欠点があるとすれば、短い距離の移動が難しい点、そしてまっすぐにしか動けない点のふたつだろう。一気に距離を取り、床に膝をついたアイリスだったが、その向かう先を読んでいたかのようにクロノスが迫ってくる。
――それをアイリスは読んでいた。
地面に突いていた手から、咄嗟に魔力を噴射。彼女は上に跳び上がる――その先には、さきほどアスタが開けた天井の大穴があった。
というより、あえてその位置に逃げてきたのだろう。
彼女の戦闘能力は、あくまで後天的に魔術で植えつけられたものに過ぎない。本来なら、それを十全に行使し得るだけの経験が彼女には欠けているはずだった。
アイリスは、それを自身が生まれ持った反射――コンマ以下での判断力を左右する戦闘嗅覚によって制御しきっている。彼女には確かに、戦う者としての才があったということだ。
けれど。
才能以上に経験を持つのがクロノスだ。
突進に等しい驀進。轢き飛ばされでもするだけで、アイリスの全身は骨ごと砕けよう。
それを回避して一階層上に避難するアイリスだったが、その動きはクロノスに完全に読まれていた。速度で上回っていても、動きを読まれていては意味がない。
クロノスが、真下から突き上げるように拳を振るう。
当然、いくらなんでもそんな位置から天井より向こうにいるアイリスに打撃は当たらない。
「……!」
だが忘れてはならない。
そもそも、クロノスは魔術師でもあるという事実を。
振るった拳が軌跡を描いた。その直線に沿う形で放たれたのは、拳大の炎の塊だ。撃ち込む腕を儀式に代え、速度と軌道を術式制御された炎塊――元素の魔弾がアイリスへ向かう。
アイリスは、咄嗟に腕を前へ差し出した。
放出系の魔術は彼女に通じない。その掌から吸引されていく魔力が、魔術そのものを終わらせてしまうせいだ。
――それが、隙だった。
あるいはアスタならば――アスタでなくとも魔術師ならば、障壁を作る、魔弾で相殺する、対抗魔術で術式そのものを破戒するなど、取れる選択肢はいくらでもあった。
しかし、アイリスにはそれがない。
回避するか、自身の腕で防御するか――その二択だ。そして速度の問題上、回避が選択肢として選び得ないことがわかっていれば、実質一択。彼女は魔術を吸い込むしかない。
クロノスはそれを理解していた。
経験において、クロノスはアイリスを完全に凌駕している。
詰将棋のようなその行動は、アイリスの兄を思わせる理詰めの策。
そう。アイリスはここまで自分で逃げてきたのではない。
この場所に逃げ込むよう、クロノスに誘導されていただけだ。
「――やはり」
その声が耳に届いたとき、クロノスはすでにアイリスの目の前にいた。
炎の魔弾、それ自体が目晦ましとなって、クロノスが上まで跳び上がってくるのを見逃した――わずかに反応が遅れてしまったのだ。
それでも身を捻って逃れようとするアイリス。
だが遅い。跳び上がってきた勢いが丸ごと乗せられた、クロノスの拳――。
アイリスには、回避することすらできなかった。
※
「あなたは、あまりに軽すぎる――」
まるで巨大な砲弾にでも撃ち抜かれたかのように、弾き飛ばされたアイリスが床を転がって壁に激突する。そのダメージは明白で、口腔から零れた赤が石造りの床を汚していた。
跳躍で上がってきたクロノスは、大穴の縁に立ってアイリスを見る。
「異能の能力臨界を見過ごしていたのは失態でしたが、それはすなわち、あなたがまだその力を使いこなせていないことも意味している。――吸収と放出は、同時には行えない。そうですね?」
答える声はない。
細い体の全てを衝撃に襲われた少女は、ぴくりとも動かず地面に横たわっている。
生きているかどうかすら、傍目には疑わしい有り様だった。というより、普通なら死んでいると判断する事態だろう。
それでもクロノスが語りかけるのは。
否。語りかけはしても追撃はしないことには意味がある。
攻撃を受ける、その瞬間。
アイリスは、最悪の中で最善を掴んでいた。
「自ら後ろへ跳んで衝撃を逃がしましたか。さて――気絶はしていないと見ますが」
言葉で言えば単純だ。だが、そんなものは通常、なんの慰めにもならない。
それは打たれる速度より早く自らを撃つという行いだからだ。
致命傷を避けるために自ら大怪我を追うような選択。いったいどこの誰から悪影響を受けたのか、などとクロノスは冷静に考えていた。
ただでさえ無理のある戦い方だ。その小さすぎる肉体に、どれほどの負荷がかかっているのかは想像に難くない。
想定外、ではあった。正直、今の一瞬で確実に止められるとクロノスは踏んでいたからだ。
だがアイリスの《強奪》が掌に限らず、全身のどこであれ触れてさえいれば魔力を奪えるものである以上、その逆である噴射もまた全身どこからでもできるのが道理だ。掌から魔力を出していたのは、単なる姿勢の問題でしかない。後先考えず、身体の中途半端な場所から魔力を放出すれば、こうして無理やり逃げることも不可能ではないということ。それを見逃していたことは、クロノスの落ち度かもしれない。
そんなことを、冷静に考えるクロノスだった。
ぴくりとも動かないアイリス。
本当に気絶しているのか、それとも動けない振りをしているだけか。
定石ならば、魔弾などで距離を取ったまま確認するのがデフォルトだろう。
――だからこそ、クロノスはそんな選択肢を選ばない。
「…………」
クロノスが右手を握り込む。関節がこきりと鳴る音が響いた。
彼は、アイリスをまったく舐めていない。
それは彼が生来から油断とは無縁な性格だからとか、アイリスが舐めていい相手ではないからとか、そういった事情とはかけ離れたところに理由があった。
自分でも、その感情らしき何かを明確に言語化することはできない。
自覚できているかどうかも怪しかった。
それは理性ではなく、本能が伝える言葉だったから。
――目の前の相手だけは。
この少女だけは。
確実に打倒しておかなければならない。
でなければ、彼女に打ち崩されるのは自分のほうだ――。
目の前の少女が、自らの性能を引き継いだ鬼の光景だからだろうか。
わからない。因果が明白ではない。
けれど、なぜか。クロノスはそう強く確信していた。
ゆえに迷いはなかった。
彼は最短で、かつ最も確実な方法でアイリスの停止を確実させんと狙う。
すなわち、ただ最速で近づき、その拳を無防備な少女の肉体に叩き込まんとして――、
直前。
アイリスが目を見開き、そして地面を打ち殴った。
半壊して脆くなっていた床は、おそらく横たわったままアイリスがわずかずつ魔力を流していたのだろう――その一撃でついに全壊する。
穴が開いたというより、完全に一面が抜ける形で崩落する狭い一室。当然、クロノスもその余波に巻き込まれて下へと落ちていく。
だが彼は。
同時に、その視線の先に捉えていた。
身軽な少女が。
その軽さこそを武器にして。
崩落する瓦礫を、踏み越える形で迫っている――。
「な――」
正確には違う。もちろん落下する瓦礫を踏み越えていくような真似、いくらアイリスだろうと不可能だ。
だが、その瓦礫を壁代わりの足場として、蹴り飛ばすことくらいは可能だった。噴射する魔力の軌道を整え、姿勢を維持するための――いわば制御盤。それはクロノスには絶対に、真似のできない挙動。
体重が軽く、魔力の噴射で宙を駆ける――アイリスだからこそ可能な動き。
刹那を、ひとつ分。
それだけの時間を費やして、アイリスはクロノスに肉薄した。
秒を数えるその頃には、空中で回転するアイリスの肘が、その鳩尾に突き刺さっていた。
「――、ぐ……あ!」
地面に叩きつけられるクロノス。抉られる衝撃と、付加となる重力。それが重なったダメージより、重たいのは何より魔力を奪われることだった。
アイリスはすでに距離を取って退避しており、落ちてくる瓦礫の崩落に彼は巻き込まれる。
無論、その程度の衝撃はクロノスに傷ひとつつけない。彼の肉体は莫大な魔力に覆われることで強靭な防御力を誇っているからだ――それを生身で貫通し得るのは、おそらくこの世にただひとりだけ。
しかしクロノスは、それでも揺らぐことはない。
すでに空間に魔力はない。
だが、その程度で――クロノスの魔力は空にならない。
当然の話だ。
見過ごしてはならない。
彼が、そもそも魔人であるという事実を。
《強奪》の異能により世界の表側から、そして魔人としての権能により世界の裏側から。
白髪の鬼才――クロノス=テーロは同時に魔力を奪っている。
それを思えば、この戦いはあまりに悲劇的だ。
アイリスにとっての勝利条件など、初めから存在していなかったようなものなのだから。
「ず――ああっ!!」
クロノスは立ち上がると同時に、湧き出る魔力で辺りの瓦礫を弾き飛ばす。
もちろん、その程度ではできて目晦ましだ。無茶苦茶に爆散した瓦礫の雹の中を、アイリスは踊るように抜き出て再びクロノスに迫っていた。
左手を後ろに。
それを噴出孔として、吐き出された魔力流がアイリスを押し出す。
クロノスは、それを正面から受けて立った。
何度やっても同じことだ。いや、同じことだからこそ、クロノスの対応力が上がっていくことで同じですらなくなっていく。
まっすぐに飛来するアイリス。
それを、今度こそ完璧な形で迎え撃とうとするクロノスの目の前で。
――アイリスが、止まった。
「な――」
「――……っ!!」
――フェイント。
まっすぐ突っ込んでくると見せかけて、実は噴射の威力を弱めに設定していた。目の前で立ち止まるアイリスを見て、迎撃に動いていたクロノスはタイミングを外される。
だが、それはそれだけなら、それだけのことでしかなかった。
むしろ悪手だ。その程度のフェイントで生める隙などわずかでしかなく、何よりアイリスは噴射した分の魔力をクロノスから《略奪》しなければ次がない。
――何を、考えて……!
おそらくクロノスは、そのとき初めて混乱した。
アイリスの取った行動が理解できない。
だが理解できなかろうと、クロノスに選び得る選択肢はひとつだけ。
よってクロノスは、再び当初の予定通りアイリスへ、その鬼の腕を伸ばした。
その腕を。
アイリスは正面から、優しく包み込むように。
小さな体で、抱き締めるように受け止める。
その行動に最も衝撃を受けたのは、ほかでもないクロノスだ。
精神的な意味ではない。クロノスは物理的な意味で、強い衝撃を受けて思わず屈み込んでしまう。
「ず、っあ――ッ!?」
まるで全身に強烈な電気を流し込まれたかのようなショック。
そのたとえが、そう的を外していないことを、次の瞬間にクロノスは自覚した。
――アイリスがやったことは、逆だ。
奪ったのではない。
与えたのだ。
触れた掌から異能を通じ、所有していた魔力をクロノス向けて逆流させたということ。一切の抵抗なく、持っていた魔力のほぼ全てを。
いわば今まで行っていた魔力噴射を、クロノスは肉体の内部へ直接流し込まれたに等しい。
「こ、れ……はっ!?」
吸収の性能限界を圧倒的に上回る、強制的な魔力供給。
アイリスとクロノス。その瞬間吸収量の格差が、ここで大きな意味を持った。
魔力酔い、などという表現ではあまりに生温い過剰摂取。魔競祭でピトスが治癒魔術を用いて行ったことと理屈は似ているが、その力任せ具合は次元が違う。いかな魔人とはいえ、個体として許容できる魔力には限度があるということ。
必然、身に余る魔力はその出入り口となる肉体を破壊していく。
呪いに蝕まれたアスタが、反動で血を吐くのと理屈としては同じ――違うのはその規模だ。
クロノスは瞬間、行動を完全に停止させる。
魔力をまったく扱えない。肉体の防御力をゼロにされている。魔力を与えることで魔術を奪うという、まるで矛盾したような行い――アイリスはいつの間にか、そんなことさえ想定できるほどの経験を積んでいた。いや、それをできる人間をずっと見ていたのだろう。
それが少女の狙いだった。
細い細い綱渡りの先。そこにただ一度だけ、ただ一瞬だけ見出せる勝利条件。
アイリスは、それを構築してみせた。
このとき、この瞬間に限れば、アイリスでもクロノスの防御を打ち抜ける。
いかな鬼とはいえ、魔力による底上げのあるアイリスと、魔力なき生身で比べては劣ってしまう。そもそも鬼の強さの大半が、その莫大な魔力量に裏打ちされている。アイリスが魔力を奪う異能を発現したのは、魔力なき身で《鬼》を再現するためでもあったのだろう。
クロノスは――。
それでも、まだ動きを止めなかった。
元より肉体の負荷を無視して動くことには慣れている。
強靭な肉体を所有しているということは、それだけ無理を通せるということ。
魔力全てが肉体を染め上げ、動きを止めようとしてくる中、それでもなおクロノスは動く。
鬼はなお止まらない。
そして、再び。
ふたりの鬼の拳が、真正面から激突し合う――。
※
人里へ降りた鬼が見たのは、無残な虐殺の現場だった。
鬼の男は、下界で争い合う人間の事情なんてまるで知らなかった。
ただ、なんらかの理由があって村は攻められ、人々はそれに抗うため戦っていた。
理解できたのは、それだけだった。
鬼もまた、外見的には人間となんら変わらない。
そのせいだろう。村人からは異邦人と、攻め入る兵たちからは村の住人と見做され、その両方から攻撃を受けた。
鬼は特段の抵抗をしなかった。
理由は単純で、単にする必要がなかったというだけ。村人がどんな武器を振るおうとも、兵士たちが魔術を用いようとも、鬼には傷ひとつつけることができなかったのだから。
争いに介入する理由はなかった。
村を歩いたのは、ただ単にあの少女を探していたから。
言葉を交わす相手がほかに思いつかず、ゆえに彼女ならこの事態の意味を教えてくれるのだろうと、いつものように問わずとも請わずとも語るだろうと――そう思ったから。
やがて鬼は、少女に行き遭った。
「ごめん。ごめんねえ……××」
少女は語った。
相変わらず一方的に、何を言うよりも前に言葉を放った。
それが理解できなかったことだけが、鬼にとっての驚きだった。
いや、謝罪の言葉であることだけはわかる。
わからないのは、なぜ謝罪を鬼に向かって口にするのかという点だけだ。
――なぜ、少女が鬼を殺そうとしたのかという点だけだ。
少女は強かった――と、一般的には、おそらくそう評されるのだろう。
鬼にはそれがわからなかったが、少なくとも周囲のほかの人間たちよりは、明らかにひとつ抜き出た力を持っていた。相対的に見て、彼女は強い人間だった。
――絶対的に見れば。
それでも、鬼にはまるで及ばなかったとしても。
鬼は、やはり攻撃された理由を問わない。
報復さえ想像しない。
そもそも脅威になっていないのだ。ただ無理解だけが相互に流れるだけで。
それこそが、彼が人間とは相容れないのだと、ただそれだけの絶対的な事実を突きつける。
「……は。あはは……やっぱり無理かあ。強いよねえ、××は」
「なんで……」
鬼は訊ねた。
絶望も無念もない。悲しみの感情なんて欠片も抱かない。ただただ理解できなかった。
その無理解がもたらした悲劇は、ただ少女の側にのみ覆い被さる。
「わかんない、か……だよね。わかんないよね、××にはさ」
「…………」
「それが理由だよ。わからないからだよ。わたしには××がぜんぜんわかんないし、××にも人間のことはぜんぜんわかんない」
――だから。
「わからないものを。理解できないものを。理解しちゃいけないモノをね――××。人間は、バケモノって呼ぶんだよ」
「……バケモノ」
「私たちはバケモノがこわい。ただあるだけで火種を招く。わかんないよね、こうやってこの村が攻められている理由が、わたしたちが滅ぼされようとしている理由が、××にあるなんてこと。××のせいだなんてこと――あなたに理解できるわけがない」
「…………」
「ううん、違うの。ほんとはわかってる。そんなの言い訳。あなたはなんにも悪くない。何も悪いことなんてしないで、ただ静かに、大好きな森で暮らしているだけのあなたを、わたしたちが責めるなんてことあっちゃいけないんだよ。――みんな、それくらいわかってるはずなんだよ」
「…………」
「それでも――それでもね、××。それでも人間たちは、あなたのことがこわいんだ。あなたがちょっとでもその気になれば、わたしたちは何もできずに殺されるしかない。あなたは魔物と同じ扱いだった。そして――そんなことを一切気にしていなかった」
「…………」
「あなたは人間たちのことなんか、何ひとつ気にしてなかったんだ」
答える言葉はなかった。
だって、その通りだったから。
「いろいろあるんだ……わたしにもわかんないんだけどさ、ホント言えば。政治とか、宗教だとか、善とか悪とか正義とか、なんだとかこうだとか……そういういろいろがあって、わたしたちは殺されることになった。そりゃ抵抗するよね……抵抗するんだ。嫌なんだよ、こわいんだよ、わたしたちは。あなたには理解できないだろうけど――わたしたちはこわいんだ」
「…………」
「だから、これは八つ当たり。その遠因があなたにあって、なのにこのまま自滅する人間たちとは違って、あなたはきっと生き残る――はは。それくらい、最初からわかってるはずなのにね……なんでこんな馬鹿なことやってんだろ、みんな。馬鹿だよね。救えないよ」
「…………」
「ね。わかってるはずなのに――それでもこうなっちゃうんだよ、人間ってのはさ。どうしようもないんだ。だって、ひとりじゃ生きられないんだもん。みんなひとりがこわいんだ。求められないことが、価値がないと思われることが、自分のことを――自分じゃない誰かに認められないことが、わたしたちはこわい。わたしたちは――弱いから」
「…………」
「あなたは違うよね……だってあなたは強いから。わたしたちがこんなになってまで嫌がったことを、あなたは最初から受け入れてしまってる。今だってそうだよ――わたしは、あなたを殺そうとしたんだよ? ねえ、いくら敵にもならないからってさ……傷ひとつつかないからってさ。だからって――傷つかないのは違うじゃない」
「…………」
「ともだちだったんだよ、わたしたち。違ったかな……そんな風に思ったことなかったかな。だとしたら間抜けなもんだけどさ。それでも、ねえ――どうして。おかしいよ。そんなの、あんまり酷すぎるよ……恨むくらいしてよ。ねえ。わたしを恨んでよ。呪ってよ。憎んでよ。疎んでよ。嫌ってよ。厭ってよ。敵だと思ってよ……わたしの存在を認めてよ。最後の最後に一回くらい、こっちを見てくれたっていいじゃない……!」
「…………」
「なんてね――全部嘘だよ。びっくりした? ××にはわかんないだろうけどさ、人間ってのは嘘をつく生き物なんだよね。意味がある嘘もつくし、意味がない嘘もつく。はは――本当にさ。こんな世界、滅んじゃえばいいのに」
鬼は、少女の言葉をずっと、ただ、黙ったままで聞いていた。
少女はずっと話していた――いつまでもずっと。
命を落とすそのときまで。
少女は、やがて鬼の目の前で死んだ。
流れ矢に当たったのだ。呆気ない最期だった。
人間同士が殺し合う絶望の巷で、クロノスはひとり、そこに佇み続けていた。
何もしなかった。
何もしなくても。
やがて、自分以外に動く者がいなくなっていた。
森はすでに燃えている。
鬼が帰る場所がなくなったということだ。
彼にはやはり、少女が残した言葉の意味が何ひとつわからなかった。
それは一方的な恨み言だったし、勝手な物言いだったし、馬鹿な人間が自滅したことの咎を擦りつけるだけの、救いのない最低の発言だった。そう言ってしまって構わないだろう。
だとしても。
鬼は、それが事実だと思った。
嘘ではないことは間違いなかったかもしれない。
――運命とはそこで出会ったのだ。
彼にはわからない。
求められないことの怖さが。
認められないことの恐怖が。
自身が自身だけで完結している鬼には、人の恐怖が理解できない。
理由としては、それだけだ。
最初に自分を求めたのが偶然にもその男だったから。
そいつに請われるがままに生きたというだけ。
――そう、思っていたというのに。
※
クロノスの拳は、アイリスの目の前で止まっていた。
同じく。アイリスの拳もまた、クロノスに突き刺さる寸前で止まっている。
「――……なぜ」
と、クロノスは言う。
それこそ理解できなかった。
「なぜ、止めたのですか」
「…………」
「さきほどの、あの瞬間を除いて――あなたが私に勝つ方法はなかった」
事実ではあっただろう。相性だけで覆せる実力差ではない。
その機会を捨て去ってしまった今、もうアイリスがクロノスに勝つ手段はない。そう言ってしまって構わないレベルだ。
「それなのに――どうして」
「だっ……て」
と、アイリスは答える。
姉が弟の疑問に答えるかのように。
兄の欺瞞を妹が暴くみたいに。
「クロノス、も……手、止めてる……よ?」
「……あなたは私を殺すつもりだったんじゃないんですか」
「それ、だめ」
ふるふると、アイリスが首を振る。
「ころすの……だめ。それ、アスタが、だめって……言った、から」
「……あの男」
「それに、アスタ……言ってた」
「――――」
「クロノス……わたし、殺さない……って」
結果論だ。クロノスは本気でアイリスを殺すつもりだった――少なくとも、死んだら死んだで構わないと思っていた。
生き残ったのなら確かに、無理にとどめを刺そうとまでは思わない。クロノスはそう言う自由を許されている。彼は一番目に対し理解も共感もないのだから。
「……ね」
と、アイリスが言った。
クロノスはしばし迷ってから問い返す。
「なんです?」
「わたし……は」
「……はあ」
「ひとり、じゃ――なくなっ、た……よ?」
「……だとすれば、それが私とあなたの違いで――」
「ちがうよ」
ふるふると少女は首を振った。
「クロノスも、ひとり、じゃ……ない、でしょ?」
「……教団のことを言っているのなら」
「ちがう。がっこう」
「――――」
「わたし……見てたよ、おまつりで」
「――――」
「たのしかった……でしょ?」
――馬鹿げている、と。そう思った。
何を言い出すかと思えば、まさかそんなことを。
理解できるとかできないとか、敵に言う言葉じゃないとか場面とか状況とか。素言うことを言いたいわけじゃない。
アイリスが。
よりにもよってこの少女が、よりにもよって自分にそんなことを言う――その運命が酷く馬鹿げている。
「……かもしれませんが。だからなんだ、という話でしょう。今さら」
クロノスは当然のことを言う。
だからアイリスも、当然のようにこう返す。
「今さら、とか……そういうの、だめ」
「…………」
「おそく、ない。かってに、きめない、の」
「……いや」
「めー」
「…………」
結局のところ。
どこで敗北したのかを問うのなら――それは相対したその瞬間だったのだろう。
わざわざ《水星》の洗脳術式を、大した役にも立たないと知りながら起動してみたり。直接戦うことを避け、言葉による決着を柄にもなく求めていた時点で、この結末は知れていた。
クロノスは知っている。
アイリスが、まだ別の名前でいた頃から――その始まりから全てを余すところなく。
何者にも傷つけられなかった彼と違い。
あらゆる全てに虐げられてきた少女が。
それでも、恐れながらも誰かを求めていたことに。求められることを恐れなかったことに。
――きっとクロノス自身が、誰より恐怖していたのだろう。
「覚悟の違い……というヤツですかね」
クロノスは呟く。所詮、なんの理念もなく戦場に立っていただけの自分と、傷つきながらも自ら戦場に出ることを選んだ人間とでは、同じ場所にいるようで決定的に地平が異なる。
だって、クロノス=テーロは。
名前すらなかった、最後に遺されたただひとりの鬼は。
確かに誰からも求められなかった。
人間の恐怖を理解できんかった。
ただ在るだけで、どこに行くこともできなかった。
森を喪った顛末を失敗だと思っていた。
誰かの価値を見出してやれず、
誰からも意味を認められず、
それでも。
――誰かを傷つけたいと願ったことなんて一度だってなかったのだから。
誰かを恨めようはずがない。
だってその鬼は、誰よりも優しかったのだから。
魔競祭でのときだってそうだ。
足止めを命じられた、などと言えば役割を果たしたようでいて、その実――クロノスは、アスタを殺そうと思えば不可能ではなかったはずだ。それを全て《水星》に投げた、そのこと自体がそもそもおかしい。
「……おぼえて、る……よ?」
と、アイリスが呟く。
視線を向けたクロノスは、そこで呼吸を止めてしまう。
向けられている表情のせいだった。
少女が、笑っているせいだった。
「わた、し……ひとり、だった……けど。でも、わたしに、たたかいかた……おしえて、くれた、の――クロノス……でしょ?」
「……忘れていたんじゃなかったんですか」
そう。いくら魔術で鬼としての知識を植えつけられようとも限界がある。
どこかで必ず、その技術の持ち主当人から、扱い方を教わる必要があったのだ。
実験体として後継機であるクロノスは、ゆえにアイリスを姉と呼んだ。
だが真っ当に考えれば、それを姉と呼ぶのは違うだろう。誰が聞いたって違和感がある。
そうだ。彼は意図的にアイリスを姉とした。
妹とは思わないようにしていた。
自らの力を受け継ぎ、それを教えた少女に対し作っていた、それが壁だった。
――それこそ妹のように。
自らが教えた技術は残っても、記憶は残らないように。
互いが干渉することがないように。
人間だった少女が、たとえ鬼になったとしても、決してバケモノにはならないように。
そんな思いが、込められた呼び方だった。
不器用で。
遠回りで。
悲劇的なほどすれ違って。
喜劇的なほど相容れずに。
どこまでも矛盾した、
けれどまっすぐな、
それは――兄から妹への贈り物。
「……あなたの」
だから、クロノスは。
決別の言葉を、口にする。
「あなたの名前は、なんですか?」
なぜそれを訊ねたのか。クロノスにもきっとわかっていない。
それが確認であったことを、答えるアイリスだって理解していない。
それでも、通じるものはあったから。
ゆえに少女は、満面の笑顔でこう答えるのだ。
「アイリス。――アイリス=プレイアス」
「……ではアイリス」
その名前を名乗るのなら。
かつてを受け入れた上でなお、自分が立つ場所を選べるのなら。
先を行く自分が、同じことをしなくてどうするというのか。
「あなたの兄に伝えておいてください」
「……なに?」
「――私は。クロノス=テーロは今をもって、七曜教団を脱退すると」
「……どうする、の?」
「いや。ああ……そうだな」
ふっと。
鬼の表情が、綻ぶ。
「どうしたいのかは、アイリス。君に教わった」
かつて、救えなかった誰かを思う。
鬼は何も知らなかった。
何も理解しなかった。
けれどその一方で、確かに得たものはあったのだ。
それを捨てようとここに来て、それでも間に合うのだと教えられて。
思い出すことがあった。
「――俺にも、確かにやりたいことはあったんだ」
なぜ、《日輪》はクロノスに、学院にいろと告げたのか。
運命を知るあの男なら、この展開が予測できなかったはずがないのだ。
だがクロノスは、思い出してしまった。
あの街で起こったことを。
オーステリアで、学生として暮らしていた日々のことを。
それは彼だけの思い出だ。
語る必要はない。
けれど、あの《紫煙》すら変えた魔術師の街だ。ひと筋縄ではいかないことが、たくさんあったのは間違いないのだろう。
「俺を受け入れてくれる場所があった。好きだと言ってくれた人間がいた――楽しかった日々があったことを、嘘にするにはまだ早いらしい」
「……ん」
「報いは受ける。それでいいし、きっとそうあるべきだろう――だけどその前に、ああ、そうだ。やりたいことをやりたいだけ、魔術師らしくやってくることにする」
クロノスは、そして踵を返した。
「先に行くと、そう言っておいてくれ。一番目のことだ、奴はこうなることすら知っていたのだろうが……だとするなら、俺に《クロノス》という名を与えたこと自体が奴なりの皮肉なのかな――あるいは、奴は俺が離反することすら望んでいたのかもしれないが」
「クロノス……?」
「戯言だ。責任を取らせてもらう――それだけの話だ。お前らはあとから来い。俺が先に行っておく。道は繋いでおくから、紫煙なら上手く使えるだろう。結局のところ、お前らが奴に勝てるとは今をもってなお信じられないが……まあ、俺の想像くらい超えてもらわないとな」
「……ん」
そして。
七曜教団幹部《土星》。
魔人にして鬼。
元学生。
クロノス=テーロは。
「奴のことは任せた。代わりというわけではないが、あの街のことは任せておけ」
「行く……の?」
「ああ。オーステリアは、あの学院は――俺が救っておいてやる」
教団を離反し。
死に場所を求めて旅立った。




