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セブンスターズの印刻使い  作者: 白河黒船/涼暮皐
第五章 学院都市陥落
224/308

5-27『アイリス=プレイアス』

※今回、少しエグいのでご注意を。

 ――浮かび上がってくる記憶があった。

 消されたわけでも、失くしたわけでもないのだから。たぶん心とか、そういう場所のずっと深いところに、ただ蓋をして、沈めて、仕舞い込まれていただけで。

 忘れていたわけではないのだろう。


 幼い――いや、その表現では足りないほど古い時分の、言うなれば始まりの記憶。

 あるいはそれを覚えていた、認識できていたこと自体が、ひとつの奇跡だったのかもしれない。問題は、奇跡とは単に稀少性を示すだけの言葉で、それによってもたらされるものが幸運か不運かはまた別の話だということ。

 もっとも。

 これも幸いかどうかは別として、彼女には幸も不幸も識別できなかったのだが。



「――いい子だから。■■ならちゃんと我慢できるね?」



 自らの親と定義される存在にかけられた言葉で、最も覚えているのがそれだった。

 というより、ほかのことなんて少女は何も記憶していない。彼女が両親からかけられた言葉のろいは、全てがそこに集約するからだ。

 ――いい子だから。

 耐えられる――。

 いい子でなければならないなんて、そんなことは自明だ。それを証明するのが耐えることならば、不平も不満も抱けるはずがない。痛みにも、理不尽にも、孤独にも、ただ我慢することだけを求められて、だからそのように徹していた。

 それが当然だった。


 強さとか、賢さとか、そういった何かでは決してない。

 単に当たり前のことだから、疑いもせず当たり前として受け入れていただけ。嫌がるとか拒むとか、そういった選択肢はそもそも存在から認知していない。常識以前の前提。理解未満の法則。

 少女にとって《生きる》とはそういうこと(丶丶丶丶丶丶)で。

 おそらく。

 少女はその時点で、《生きる》ことすらできていなかったのだろう。


 ――そんな《当然》の終焉は、けれど呆気なく訪れた。

 元より、少女の両親に魔術師としての才能はなかったのだろう。少なくとも、いっそ異常と呼べるような天才たちに並ぶ異才を、彼らは所有していなかった。

 責めることではない。むしろ本人たちが自覚的だっただけ、自己を知らぬ者よりは優れていたとさえ言える。


 彼らの研究は、端的に表現するなら《才能の拡張》、あるいは《後天的付与》だ。

 足りない自分の才能を、後付けで埋めて先に進もうとする偉業――あるいは異形の行い。

 そのための被験体として娘を選んだことは、魔術師として当然の選択だ。

 最終的に自らへ用いる実験だとしても、その確実性が保証されていなければ実行には移せない。ならば被験体に、自らと近い情報を持つ、血を分けた娘を選ぶなど当たり前だ。

 当たり前だったのだ。

 研究が実を結びさえすれば、娘は自分たちと同じく、本来なら辿り着けないはずだった遥か高みへと手をかけることができる。天の階を歩むことができる。そのために改造を施すのだから――それを愛情と呼ばずして、いったいなんと呼べばいい?


「いい子だから」

「いずれ高みへ向かうために」

「我慢できるよね?」

「耐えられるだろう?」

「痛いのなんてすぐに終わるから」

「苦しいのなんて今だけさ」

「だいじょうぶだよ」

「心配することなんてないんだ」

「いい子だから」

「いい子だから」

「いい子だから――」

「――いい子だから」


 想像を絶する――そんな一山いくらの表現で、彼女の苦痛は表現できまい。

 けれど、そう表現する以外にはなかっただろう。

 当然の行いでも、そこに付随する痛みが、派生する苦しみが、寄り添う孤独が、果てのない拷問じみた魔力汚染の影響が。

 なかったことになるわけではない。

 つらいことが当然でも、それは当然につらいというだけの話でしかないのだから。


 いっそ、両親がもう少しだけ、あとほんの少しだけ無能ならよかった。

 研究が絶対に完成しないという事実を、現実が突きつけてくれるのであれば、少女は解放されたのかもしれない。当然に終わりが訪れたのかもしれない。

 だが両親の研究は遅々としながら、それでも確実に、ほんのわずかずつ前進していた。

 前進してしまっていたのだ。

 あるいはもう少しだけ有能なら、今度は果てのない苦しみに終わりが訪れたかもしれない。

 中途半端な有能さが、終わりを知らぬ無能さが、少女を掴んで離さない。口に出すのもおぞましい無間地獄が、少女にとっての日常だった。


 ――痛い。

 ――苦しい。

 ――つらい。

 ――さみしい。

 ――痛い。

 ――痛い。

 ――痛い、痛い。

 痛くて、

  痛くて、

   痛くて、

    痛くて、

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――。


 それが当たり前だったから。

 助けを求める、なんて発想はどこにもなくて。

 事実、両親は確かに愛情を注いでくれてはいたのだ。その愛が、彼女の痛みを、たとえほんのわずかだとしても雪いでくれてはいたのだろう。


 けれど少女は、次第に言葉を失っていった。

 日の大半を瘴気じみた魔力と狂気じみた実験に犯されて過ごしたのだから。

 当然でしかない痛みを、訴えることに意味はなかった。

 それでも、昼夜を問わず襲い来る絶望に、耐えるためには叫びが必要だった。


「い、あ――あ、ああああああっ、あっ! あ、ぃあ、い、っ――あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」


 口から出るのは言葉ではなく。

 痛みに耐え、苦しみを誤魔化し、全てを我慢するために必要な叫びだけ。

 言葉を忘れるのに、時間など必要ではなかった。

 喉など血を吐くための器官でしかなく、空気が通り抜けるたびに焼ける空洞を、わざわざほかのときにまで酷使する理由など、少女にはひとつも思いつかない。

 進歩だった。

 そう表現するのが近い。

 少女は、感情を殺すすべを覚えたのだから。

 どうせ食事など必要じゃない。腕に刺さる針から、必要な要素は補給されるのだから。何を食べても吐き戻す今、液体で栄養を補給できるのなら効率的だろう。実にいい。

 身体機能は、それでもまだ十全に保持されている。

 だから両親はまだ少女を愛していたし、少女を見捨てたりはしなかった。

 人間としての機能がある。

 女としては未熟だが、いずれ子を生める年が来るだろう。

 そうなれば、この子の子に実験を引き継げるときがくるはずだ。

 なに、種になるものはひとつしかない(丶丶丶丶丶丶丶)が、そんなものは大した問題じゃないだろう?


 だって、愛しているのだから――。


 ――人里離れた未開の土地だ。

 どれほど叫んでも、誰にも迷惑をかけることはない。

 自分の叫びが、両親にとって研究の進捗を報せる鐘ならば、むしろ素晴らしいことだろう。

 今も、自分はいい子のままでいる。

 そう在ることができている。

 だが日夜を問わず響き渡る悲鳴と悲嘆と悲痛とが、何者をも呼び寄せないことなどあるわけがなかった。

 いや、そもそもの研究内容自体、それは人間の進化を促進させる意図だ。


 ――それが教団に目をつけられない理由がなかった。


「嗚呼。ここは酷く――そう、酷く汚い。汚くて汚くて汚くて汚い。こんなのこんなのこんなのこんなの、こんなの本当に意味がないのににににににに」


 訪れた女の言葉を、理解する機能はもう残っていない。

 才能を付随させるために、喪失したものがあまりに大きすぎた。

 その本末転倒さを嗤う言葉が、理解できなかったことはむしろ幸運の類いか。

 いずれにせよ。

 少女は、教団に預けられることとなった。

 両親とともに招聘され、教団の管理下で実験が継続されることになった。


 ――そのあとの記憶はそもそも曖昧なものだ。

 度合いを増した苦痛に襲われ、そのたびに喉を切っていくだけ。

 何も変わらない。

 少しだけ場所が変わっただけのこと。

 ほんの少し、ぼやけた視界に映る人間の数が増えただけ。


 身体能力の向上のために筋肉を魔力に浸された。

 代謝性能の発達のために薬剤を全身に打たれた。

 特殊機能の発生のために脳髄へ鉄針を刺された。

 何も変わっていなかった。


 研究は飛躍的に進歩していった。

 そこで発現された異能が、何より《奪う》ことに特化していた意味はなんだろう。

 きっと、そんなことは誰にもわからない。

 食い物にされてきた少女が、逆に誰かを食い物にするために得た能力、などと劇的に表現するのは欺瞞だろう。そんな意識が、そもそも少女にあったかは酷く疑わしい。

 ただ、満足に食事もできない少女がエネルギーを得るのに、それは実に効率がよかった。


 ――そこが終着点だった。

 少女に、それ以上はないということが証明されてしまったから。


 となれば次なる実験台がいる。

 選ばれたのは両親だった。

 元より、ふたりともそうなること(丶丶丶丶丶丶)を望んでいたはずなのだから。

 恨む筋合いなどないはずだ。

 望みが叶ったことを感謝するべきですらあった。

 にもかかわらず。

 少女が生まれた直後から何年も耐えてきたその苦痛に、一度目で敗北して死ぬというのだから笑わせる。そう、こんなものは笑い話でしかなかった。

 あっさりと。

 なんの物語もなく。

 少女の両親は実験の影響で死んだ。

 少女の目の前で死んだ。

 目の前で死んだモノが何か、その頃の少女にはもうわかっていなかった。


 ――だって。

 みんな、自分より先に死んでいくんだから。


 積み重なった肉のひとつひとつを、個として理解する機能はとうにない。

 今までだって、何人もの実験体が入れ替わりに消費されてきた。

 我慢が足りていない。

 いい子ではなかったに違いない。


 ――だから死ぬんだ。

 みんな死ぬんだ。

 なってない。この程度で。


 それから、また月日が経って。

 いつの間にか苦痛から解放された少女には、今度、体の動かし方を覚えることが義務づけられた。実験体として役に立たない以上、あとは兵器としての運用が求められたわけだが、もちろん少女はそんな事情を理解できていない。

 失敗作が呼び寄せられ、集められた。

 その中で戦闘訓練を受けた。


 いろんな人に会った。

 両親以外の存在を人間として意識した、初めての機会だったかもしれない。

 絶望して泣き叫ぶだけの少女と会話した。逃げ出したいと言っていた。

 強くなっていつか逃げ出そうと語る男に会った。戦おうと言っていた。

 何も語らず機械的に死体的に蠢くだけのモノを見た。殺してほしいと言っていた。

 ぜんぶ、

 ぜんぶ、

 できそこないだ。

 なにをいってるのかわからない。

 いうって、なんだ。


 彼女だけが、たぶん、命じられた通りに身体運用を完成させた。

 求められるように振る舞うことで、彼女の右に出る者などいなかったのだろう。

 そして。

 あるとき少女は、新しい命令を受けたのだ。


 だから。

 助けてほしいと泣き叫ぶ少女を殺した。見るだけでモノを焼く発火の魔眼など、強奪の異能の前では無力だ。眼球を潰して涙を止めてやった。死んだ。

 驚異的な回復能力を持つ動く死体を殺した。所詮は魔力が動力なら、殴って殴って殴って動かなくなったところを潰して殺した。足を切れば動く死体は動けなくなったので、手を千切って血を流した。それでも回復して蠢く頭を、潰して魔力を奪った。死んだ。

 こんなことはやめろ、希望を捨てるなと語る男を殺した。少女を超える身体能力を持った男だったが、無抵抗だったので容易かった。うるさい喉を潰して、見開いた目など見ることなく心臓を潰した。苦しくはなかっただろうか。まあいい。だって死んだ。


 そうして兵器しょうじょが完成した。

 彼女は出荷を待つため、特殊な魔力剤に漬けられた。

 そして、そのまま、忘れられた。

 何日も日が経っていくうちに、少しずつ考えることがあった。

 実験が行われない。

 誰もいない。

 たぶん捨てられてしまったのだと思う。

 どうしてだろう。

 どうしてなんだろう。

 たえてきたのに。

 がまんしていたのに。

 わがままなんていわなかったのに。

 いわれたとおりにしていたのに。

 だれもいない。

 だれもいない。

 なにもない。

 みんな、みんな、しんじゃったから。

 でも、わたしはしんでない。

 しんでないのに。

 がんばったのに。

 すてられた。

 どうして。


 ――いいこじゃ、なかったから――。


 絶望が、そこにはあったのだろう。そんな安い表現では収まらないほどの。

 苦痛以外を知らない少女は、その苦痛だけが外部と交流する唯一の手段だった。

 苦痛を与えられないことが苦痛になってしまうほどに。

 自分は耐えていただけだった。

 我慢していただけだった。

 それは、そのせいで、望みに応えられなかったということだ。

 誰の望みだったのかなんて覚えていないというのに。

 ただそれだけに満足して努力を怠った。成果を出すことができなかった。求めに応じられなかった。何ひとつ為すことができなかった。生まれてきた意味がなかった。価値を否定されてしまった。それだけが、少女の存在する意味だったというのに。




「――そんなことはないよ」




 と。いつ以来だろう。

 言葉を、久し振りに耳にした。


「だいじょうぶ。うん――もうだいじょうぶだから」


 薬液の中から出されたのがいつ以来か。

 いや、感覚的には入れられたすぐあとと変わりないけれど。

 時間が経っていることはなんとなくわかる。

 でもそれ以外は、何ひとつわかっていなかった。


「だいじょうぶ」


 今がいつかもわからない。

 ここがどこかすらもう忘れそうなほどだ。

 自分が誰かは、初めから知らない。

 だから、目の前にいる誰かがなんなのかも、やっぱりわからなかった。


「あなたが何者でもないっていうんなら、これから何かになればいいんだから」


 だから。やっぱり。

 何を言っているかもわからないし。

 目の前で女性が涙を流している意味も、

 その柔らかく暖かな腕に抱かれている理由も、

 全ての感覚が少しずつ蘇っていく価値も、


「だから、そうだね。差し当たっては、私の妹になりなさい」


 少女には何もわからなかった。

 わからなかった。


「――だから。あなたがいつか、何かになる日まで――」


 けれど。思い出したことがある。

 誰かに触れるということだ。

 ずっと触れてこなかった。

 触れたとしても、それに相手が耐えられなくなってしまう。

 触れた相手の全てを奪ってしまうのが自分だから。

 死ぬ。

 みんな死ぬ。


 ――みんな、みんな。

 わたしのまわりのひとは、すぐに死んでいなくなっちゃう。

 わたしは、だから、すてられちゃう――。


「いつか融ける日が来るまでは。そんな記憶なんて、しばらく忘れていなさい」


 そうして。

 少女は起動した。



     ※



 ――アイリスの目が見開かれた。

 その瞳が、俺を映していることを認識する。


 もちろんすぐ傍まで、クロノスが迫っていることは理解していた。

 いや、だがそんなことは知ったことじゃないんだ。

 感動的な兄妹の再会を邪魔する野暮、お義兄ちゃん的には認めるわけにいかないのだから。

 ゆえに。


■■(じゃまだ)――」


 その障害の全てを。

 今、ここで排除してくれる。


「――■■(どいてろ)


 ぐ、っと世界が歪んでいく。

 近くまで迫っていたクロノスが、遠くに位置するシャルが。

 光景ごと歪んで、どこかへと消えていく。


 いや。正確には違う。

 消えているのは俺たちのほうだ。

 原初の印刻たる神の文字。そのうちのひとつである盾の呪法。

 これは《防御エイワズ》とは違い、敵からの攻撃を直接防ぐものではない。戦う者に、戦士に神の加護を与え、安全に戦場から逃がすための《ことば》。


 それを用いて、俺はまったく別の場所へとアイリスを連れて逃走した。

 ごりごりと減る魔力。驚異的に難易度の高い魔術制御。解釈を歪めるために焼け焦げそうなほど痛む頭。魔法使いの領域に手を出そうとする愚者への鉄槌。

 それらが代償として一気に俺の元へとリバウンドしてくる。

 当然、もう恒例みたいな感じで俺は血を吐いたが、ともあれ逃亡には成功した。


 ――転移とは違う。

 だって、奴らには消えたように見えただろうが、俺は何も転移をしたわけではないからだ。

 奴らが俺たちを見失っている内に、天井をぶち抜いて上の階に逃げただけ。いずれすぐに気づかれることだろう。《神の文字》は酷く扱いが難しいのだ。

 その効果も限定的だし、その癖に魔力だけはゴリゴリ持っていきやがる辺り使えない。

 こんなときでもなければ使わない。


「さて、アイリス。おはよう、目覚めは快調か?」

「ア……ス、タ……?」

「そ。お兄ちゃんだ」

「ぅ――あ」


 アイリスが、怯えたように俺から一歩身を引く。

 俺に怯えているのか。

 それとも、自分自身が怖いのか。


「……どうかした?」

「だ、だって……わたし、あ――」

「いいんだよ」


 と、俺は言う。

 だがアイリスは首を振った。

 子どものように無垢に。

 人間のように我を示し。

 意志を、俺に教えてくれている。

 不思議なものだ。そのことが、どうしようもなく嬉しいというのだから。

 マイアもかつては俺に対して――そんな気分だったのだろうか。


「つか、話してる時間もあんまりないしね。クロノスやシャルならすぐ気づく」

「…………」

「なんか、言いたいこと、ある?」

「わたし……約束、やぶった……」


 アイリスは俺に近づかず、小さく零す。

 そう、俺たちは話をするべきだ。

 この状況になって――アイリスが全てを思い出して。

 それでようやく話せることもあるはずだから。

 ……いや、それは言い訳か。

 だとしてもやることは変わらない。幸い時間は稼ぎ出せた――仮にも神の文字、それなりに時間は稼いでくれるだろう。奴らはなにせ、ただ普通に逃げた俺たちが、あたかもその場から消えたように見えているはずだから。


「約束、か」

「アスタ、に……きょーじゅに、言われてた、のに……」


 水星が遺した変心術式がアイリスに残っていることは、もちろん見抜いてあった。

 もっとも俺ではなく、教授の手柄だが。逆を言えばアイリスを教授に見せた俺のファインプレーと言って言えないこともないだろう。たぶん。

 それは呪いだ。呪いゆえに解呪できない。

 いや、やろうと思えば、教授ならおそらくできたのだろう。だがその行為は、間違いなくアイリスに負担をかける――ただでさえ、教授は言ったのだから。

 彼女の寿命が他人よりずっと短いだろうと。


 だから俺たちは、あえてそれを解呪することなく利用するほうを選んだ。

 アイリスは昔のことをあまり覚えていない。

 それを封印する理由など、教団側にはないだろう。いざとなれば操れる以上。

 ならば、それをやったのはマイアだ。ほかに考えられない。

 アイリスが兵器として運用されることを前提としていた以上、武器使いたるマイアには干渉可能だったはずだ。それくらいのことはできる。要は兵器としてのアイリスに、ストッパーをかけたようなものなのだから。


 賭けではあった。

 だがアイリスのことを考えるなら、ほかに手段はない。

 教団の野望を止めるため、なんてことは本気でどうだっていい。奴らなんぞのためにアイリスの人生を曲げてしまうことのほうが絶対に問題だ。ここは譲れない。

 マイアがかけた記憶のロックはいつか外されただろう。

 なんならレヴィにでも頼めば一発だった。

 それでも、俺は――アイリスには自分できちんと向き合ってほしいと思ってしまった。


「……アイリスもマイアの妹だからな。プレイアス家は基本的にスパルタなんだ」

「え……」

「ずっと考えてはいたんだ。どうしてマイアが俺のところにアイリスを送ってきたのか。何も言わず、何も教えずシグに託して……俺に託したのか」


 どれほどつらい記憶でも。

 忘れたい、忘れたほうがいい――忘れるべき記憶でも。

 断りなくマイアが勝手に封じるとは思えない。あいつはそんな柄じゃない。

 どんな理由でも、自らのモノを手放す人間ではないからだ、姉貴は。

 一時的な、どうしようもない措置だったのだと思う。


 俺はアイリスの事情を知らない。

 勝手に記憶を探ろうとは決して思わない。

 甘さと詰られても、弱さと断じられても答えは変わらないだろう。

 アイリスにも確認してあった。

 彼女がいずれ過去を取り戻したときにどうするのか。

 本当に、それでも俺の元にいたいと、アイリスが願ってくれるのかなんてわからない。

 選ぶのは俺ではない。

 アイリスだ。

 そう思っていたから俺は、あえて何もしなかった。

 アイリスもそれを含んでいたし、だから操られないようにするという意志を見せてくれたのだが……。


「わた、っ、わたし……うたが、った……」

「……何を?」

「こわ、かった」


 アイリスが震えている。

 その小さな身体に、どれほどの闇を抱えているのかわからない。


「棄て……られちゃうって、おもった、から……わたし、なに、も……できない、からっ」

「…………」

「やく、たたない。がまんするのしかでき、ない。でも……でもっ、わたし、っ」


 瞳から流れるモノを見た。

 こう言っては性格の悪い感じだけど、たぶん俺は、ずっとそれが見たかったんだろう。

 アイリスを泣かせてやりたかった。


 どこにも行けず、

 誰にも求められず、

 応えることだけに必死で、

 何も持たず、

 名前さえ失い、

 苦痛だけを拠りどころにして、

 ずっと独りでいた少女。

 ――そんなものを認められるはずがなかった。


 だから俺は言う。

 彼女に、こう告げる。

 それがきっと、兄としての俺の役割だ。

 かつて姉貴が俺に言ってくれた言葉がある。

 今度は、それを俺がアイリスに渡してあげなければならない。


 ……そうだろ、姉貴。

 ったく、こういうことは先に言っとけってんだ。


「アイリス」

 と、名を呼んだ。

「……っ」

 アイリスは肩を震わせる。

 彼女はずっと怯えていたからだ。

 何もないから。

 得たものを失うのが怖い。

 その気持ちは俺にもよく理解できた。

 俺だって、全てを失って異世界に来たんだから。

 だからこそ俺は、そのとき自分を救ってくれたものを知っている。

「アイリス」

 だからもう一度名前を呼ぶ。

 それが名前だ。

 彼女の名前。

 俺が決めた名前。

「……全部、思い出したみたいだな」

「う……うん」

「それ、別に訊こうとは思わない。本当は思い出したら、アイリス、俺んトコからいなくなるんじゃないかとか思ってたし。だってほら、俺、……割といろいろアレだから」

 どうせ俺は逃げられない。

 逃げようとしない。

 だから、せっかく日の当たるところに出てきた少女を、再び暗い場所まで連れて行かないといけなくなってしまう。

 それが怖かった。

 ああ――そうなんだよ、アイリス。

 ビビってたのは、きっと俺のほうだったんだ。


「話したくなったら聞くけどさ。無理にとまでは言わない。アイリスにどこか行きたい場所があるなら、それを止めようとも思わない」

「……っ!」

 びくりと肩を震わせる少女。

 涙が流れている。

 そんなことさえ許さなかった運命を、俺は一生許せそうにない。

 自分も。

 世界も。

「ああ、そうだ。そんなこと正直、聞きたくないんだよ。気分が悪くなるに決まってる。それくらい誰だって予想つくよな」

「……あ――」

「だから俺は、アイリス。――お前の口から、もっと楽しい話を聞きたい」


 些細なことでいい。

 何があったとか、

 何を見たとか、

 誰と会ったとか、

 どんなものを食べたとか、

 どんな話をしたとか、

 わがままでいい、

 欲しいものの話を聞きたい。

 未来の話がしたい。

 明るくて、下らなくて、どうでもいい、どこにでもある、どこにもなかったそれを受け入れた未来の話がしたい。


「……アイリス。オーステリアは好きか?」

「アス、タ……」

 こくり、と少女が頷いた。

「ピトスは? フェオはどうだ。親父さんともいっしょにいること多いだろ。オセルのモカとは友達になったんだよな。珈琲屋は……まあアイツはいい。ともかくさ。街の連中のこと、好きか?」

「う、ん……」

「最初に会ったのはマイアだったな。シグとも旅したんだろ。セルエにはかわいがってもらったよな。メロは相変わらずだけど、アレで意外と初めての年下に甘くなってんだぜ? ユゲルなんかは親戚のオッサンみたいな感じあるよな、意外と。――旅団のみんな、好きだろ?」

「うん……っ!」

「――俺は、ほら……正直割と社会不適合っていうか、でもそれきっと俺が悪いわけじゃないと思うんで大目に見てもらいたいっていうか、正直ちょっと甲斐性なしなのはさすがに否めない気がしてきた部分もありつつ……まあ、でも、なんだ。俺はアイリスの兄貴だしさ、それでも。なあ、アイリス。――俺のことは、好きか?」



「――好き、だよぅ……っ」



「そいつはよかった」俺は笑った。「この流れで嫌いって言われたら泣くとこだったよ、いやマジで」

「そん、な、こと……ないっ」

「うん――そうだな。だからアイリス、俺も、アイリスのこと好きだよ」


 怯えて。

 惑って。

 狼狽えて。

 寄り道で。

 迂回して、

 迂遠なまま、

 それでもここまでやって来て。

 出会いが云々とか、流れがどうとか、責任感とか、義務感とか。

 きっと、そういうことはどうだっていいんだ。

 俺は最初に言うべきだったことを言わずにいた。

 これまでだってそうだった。

 誰かに気持ちを伝えることに怯えていた。

 大事なモノを失うことを恐れていた。

 それでいて、当のキュオに説教されるまで気づきもしなかった大間抜けだ。

 だから、もう間違わない。

 やり直せると教えてもらった。

 始めるに遅いなんてことはない。

 言うべきだった、

 言わずにいた、

 言いたかったことを、

 今、ここで、ちゃんと言おう。

 俺たちはわがままを言うべきなんだ。

 魔術師らしく、通したい我を通すべきなんだ。

 強欲であるべきなんだ。


「だから決めたんだ、アイリス。――もうお前のことは離さない」

 なんだか告白してるみたいだと、思わず笑いそうになった。

 でもまあ、似たようなものかもしれない。

「嫌だって言っても傍にいる。そんなもんだろ、きょうだいなんて――仲悪かろうが嫌だろうが、なんだろうがもう、きょうだいはきょうだいなんだよ。その繋がりは、友達とか、恋人とかとは違う。――切れない絆なんだよ」

「……、ぅ」

「血の繋がりなんてなくても、一度できた繋がりはもう断たれない。そんできょうだいは、家族だから……気なんて使わない。文句があれば言うし、問題が起きたら頼るし、面倒な事態にも巻き込むし、――俺たちはわがままを言い合うんだ」

「ぁ……!」


 俺がどれだけ姉貴に振り回されたことか。

 死ぬような目に遭ったことなんて一度や二度じゃない。

 どれほど文句言ったって聞きやしない。そのくせ問題起こすたびに頼ってきて、尻拭いは全部俺。まったく面倒なんて次元じゃなかった。


 だとしても。

 それでも俺は、マイア=プレイアスの弟だから。


 今度は、アイリス=プレイアスの兄になる。


「だから言ってくれ――教えてくれ、アイリス」

「……っ」

「お前がどうしたいのか。お前が何をしたくてどこに行きたいのか。何になりたいのか」

「なに、に……」

「見たことないけど、きっと姉貴も同じこと言っただろ? だから教えてくれ。俺は、お前のわがままが聞きたい」

「で、でも……」

「でもも何もない。俺は言った。わがまま言ったし、いつも言いまくってるし、アイリスにも言った。わがままを言ってほしいっていう俺のわがままを押しつけてる。――いいんだよ、別にいい子じゃなくて。悪い子でも、どんな子でも、何してようがなんだろうが、もう俺たちはきょうだいなんだ。嫌われるとか捨てられるとか考えなくていい。そんなことは、あり得ないんだから」

「あ――……っ!」

「どうしたい? アイリス」


 問いに。

 少女が一歩、こちらへ近づいてくる。

 土台、言葉だけで恐怖は消えない。

 俺如きが何を言おうと、彼女の過去は決して変わらない。

 だとしても。

 そこから進み出してならないなどとは決まっていない。

 言う意味がないことを言うべきだ。

 口に出さずに手に入るものはない。

 その怯えを、恐れを、ここから少しずつ変えていけばいい。

 それを態度で示すのが、きっと兄貴の役目だから。


「わた、し――は」

「うん」

「わた、わた……っ、し……!」

「うん」

「アスタ、と、いたい……よ」

「……うん」

「いっしょが、いい。いっしょ、に……いたい」

「俺もだ」

「わたしが、いもう、とで……いい?」


 確認を求められてしまう。

 それでいいだろう。

 ここが一歩目。俺たちきょうだいの始まりだ。

 俺は右手を広げて、おいで、とアイリスに示した。

 少女はそれでも躊躇って、おずおずと、ゆっくり俺の近くに来る。

 片腕は失くしたが、まあ一本あれば充分だ。

 それでも、泣きじゃくる義妹を抱き締めてやることくらいは、できるのだから。


「ぅ――あぁ、あ……ごめんな、さい……ごめっ」


 腕の中でなく義妹の背を、ポンポンと優しく叩いてやる。

 本当の妹には、ちょっと悪い気がしてくるけど。

 それでも、この世界でできた義妹に、優しくしてやらない理由がない。

 ――魔力を奪われる感覚は、どこにもなかった。


「謝らなくていい。謝んなきゃいけないのは俺のほうだった」

「でも、アスタ……」

「うん?」

「腕、ない……っ」

「…………あっれほんとだ今気づいたー。あらーどっかに落としてきたかなー?」

「ばか……」

「ばかって言われた!?」

「ピトス、おこる……よ」

「……………………ばれなきゃだいじょうぶだとおもう」

「ばれるよ……」

「ばれるかー……」

「わたし、言う、から……」

「スパイ宣言!?」

「わたしも、おこって……る」


 ぎゅっ、と力強く胴を締められる。

 ……いや本当ごめんね。どうしようもなかったのよ?

 まあ、この程度はかわいいものだろう。

 言いたいことを、言ってくれるようになったのだから。

 それは喜ぶべきなのだ。


「――さて。妹を取り戻したところで……そろそろ移動するか。灯台下暗しとはいえ、感知を避け続けるにも限界がある」

 と、俺は言う。

 アイリスが俺から離れ、その瞳でこちらを見上げた。

「わたし、戦う」

「……平気か?」

「うん。わたしも……おとーと、たすける」

「……すげえな、アイリス」

 そう来たか、と俺は思った。

 そうなった場合、クロノスも俺の弟になるのだろうか……どうなんだろ。

 まあいい。

 本気になったアイリスなら――全力を出せる彼女なら。


 クロノス程度、敵じゃないだろ?


「んじゃ、クロノスの相手は任せる。気をつけろ、あいつつえーぞ」

「ん。でも、わたしも、つよいよ?」

「おお……言うようになったな。まあ確かにアイリスは本来、たぶんそのため(丶丶丶丶)の調整だろうけど……」

「そうじゃない」

「うん?」

「アスタ、いるから」

「……アカン涙腺にくる」

「わたしが、しっかり……しなきゃ、だめ」

「思ってたのと意味が違った……」

「ん?」

「いや――がんばれ」

「がんばる」

「俺も行かないとな……もうひとりの義妹が、思春期拗らせて反抗期だ」

「がんばれ」

「がんばる」


 ――さてさて。

 それじゃ、ふたり目の義妹を叩き起こしに行きますかね。


 俺は、ルーンを起動した。

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