5-23『七星旅団の六番目』
――そもそも印刻は変わった魔術だ。
魔術には種類に応じてそれぞれ特徴がある、というより使い方が少しでも違えば、それはもう完全に別の魔術だと言ってもいい。同じ魔弾でも使い手が違えば、いや、たとえ同じ人間が使ってもその日の体調や気分で少しずつ変化が表れる。完全に同一の魔術など存在しない、と言ったほうが正しいかもしれない。
とはいえ、それが現実的に大きな差異を生むわけではない。
だがルーンは違う。
ルーンの術式は文字そのものに規定される。つまり魔力さえあればいつだって完全に同一の魔術を使用することができるというわけだ。
それはメリットにもなればデメリットにもなる特徴だが、とはいえ、印刻使いアスタ=プレイアスが《生存に特化している》と称されるひとつの理由ではあるだろう。
これは言い換えれば、発動さえ可能な限り使い手の精神状態に左右されないという意味なのだから。追い詰められた魔術師が、焦りのあまり魔術を使えなくなることなどそう珍しい事態ではない。
そして。
精神状態に左右されないということは大きな意味がある。設置式の魔術として事後発動が容易なのも、それが理由だ。より正確に言うならば、精神状態に左右されないというより、精神をそもそも必要としない、よくも悪くも一切の影響がないと表現するほうが近い。
――ならば。
少なくとも理屈の上に限って言えば。
ルーン魔術は、術者の死後ですら発動が可能ということになる。
※
安堵はあった――それは事実だ。
アルベルにとって、そもそも《七星旅団》と呼ばれる伝説の魔術師たちは、逆立ちしても敵わない強大な怪物であったのだから。
魔人化して優位に立ったと考えるのは間違いだ。
そこまでのことをしなければ、まぐれでさえ殺せないほどの相手であったと自覚するべきである。
だから彼は、安堵はあれ、決して油断などしなかったのだ。
《木星》アルベル=ボルドゥックは、目の前でアスタ=プレイアスの死を確認してなお一切の気の緩みを生じさせない。ただ死んだ程度のことで、目の前の怪物が反撃をしてこないと考えるほど、アルベルは《紫煙の記述師》を過小評価していない。
最後にこちらを道連れにするくらいのことは、平気で狙ってくるだろう。
――非才で、いちばん弱い。
アスタ=プレイアスは平気でそんなことを言う。
事実ではあるのだろう。彼自身はそう信じているだろうし、それを嘘と断じるのはたぶん間違いだ。
彼は確かに、伝説の旅団の中ではいちばん戦闘能力に欠けているのだろう。その才能は、それこそ神に――運命に愛されてしまったとしか思えない他の六人と比較すれば、明らかに劣る程度のものでしかないのも頷けなくはない。
だがそれは、決して《紫煙の記述師》が弱いという意味ではない。
そもそも《七星旅団》の魔術師より強い魔術師など、この世にほとんど存在していない――いや、本当にいないかもしれない。かの旅団最大の特異性は、間違いなくその《強さ》にこそ存在する。魔術師として上はいても、冒険者として上を行く者などあり得ない。
五大迷宮の攻略とは、それほど異常な偉業だなのだ。
異形といっていい偉業なのだ。
そんな真正のバケモノどもと比較して《弱い》なんぞ当たり前の話だろう。誰だって同じ。比較するなら、七星旅団以外の魔術師と比べろという話である。
――その場合は言うまでもないだろう。
アスタ=プレイアスは、要するに世界で七番目に強い魔術師だというだけの話でしかない。
才能があって強い人間より、非才の癖に強い人間のほうが恐ろしいに決まっている。
そんな事実を、だが魔術師は意外にも見失いがちだった。
伝説の旅団の一員であったことは――《紫煙の記述師》と呼ばれていた事実は、決して伊達でも酔狂でもないのだ。
ルーンなどという廃れたに等しい稀少魔術で、王国の歴史に名を遺した存在を怪物と呼ばずなんと呼ぶ。おそらくは《七曜教団》において、アルベルが最もアスタを高く評価している。
――だが。
しかし。
とは言っても。
――いくらなんでも、生き返るとはまではさすがに考えていなかった。
※
まず反撃があった。
アルベルはそれを予期しており、死してなおこちらを攻撃してくる《紫煙》に畏怖と憐憫を抱きつつ、その攻撃を回避する。
奴のことだ。こちらの魔術を上回って、今のアルベルにすら攻撃を加える手段を最後に編み出していてもおかしくない。いっそ過剰評価とさえ言えるほどの臆病さが、アルベルに回避を選ばせていた。
けれど。
「……馬鹿な」
その過剰評価は、それでもまだ過少だった。
目の前に倒れるアスタ=プレイアス。
突き破られたその心臓が、目の前で急速に修復されていく。
それこそ時間が巻き戻ったかのように、穴の開いた胸部が肉と血を取り戻していく――その埒外に、アルベルは自己を喪った。
「あり得ない」
呆然と呟く。だってそうだろう。
死んだ人間は生き返らない。
そんなことは当然だ。三人の魔法使いでさえ、厳密な意味での死者蘇生は叶わない。魔術における最上位の不可能命題――それが死者蘇生であるはずだった。
《紫煙》が不条理であることなどとうに知っている。
だからこそ、強い恨みと執着を、アルベルは彼に抱いたのだから。
――だが、いくらなんでも、これはダメだ。
魔術の理論を、積み重ねられてきた歴史を、世界の理そのものを――運命を嘲笑い、捻じ曲げるに等しい暴挙。そんな横紙破りが許されていいはずがない。
「……ああ、そうだ。お前の言う通りだよ」
肉体の回復を終えた男が、目の前でゆっくりと立ち上がった。
そこに攻撃を加えることすらアルベルにはできない。あまりの衝撃に、魔術の構築そのものが揺らいでいるほどだった。
「当たり前だろ。――死んだ人間は生き返らない」
――これだ、とアルベルは思う。
奴は今までもこうして戦い、そのことごとくを勝利してきた。それが奴の戦法だ。
魔術師としては当たり前の行いであるのだろう。
だが、それを奴ほど厳密に体現する存在がほかにあるだろうか。アルベルですらそれは疑問だ。
「ならば――ならばなぜ、なぜお前は生き返った!」
ついに。アルベルは叫んだ。
叫んでしまった――訊ねてしまった。
それは魔術師の敗北宣言だと知りながら。
――わからない。
理解できない。把握できない。納得できない。知悉できない。自覚できない。
想像力を上回られてしまったことを、アルベルは認めてしまったのだ。
何をしているのかわからない。
それが、魔術を操る者にとって最大の武器である。
「生き返ってねえよ、別に。ていうか、そんなことお前に説明する理由があるか?」
「ぐ――、う」
「言ったろ、馬鹿めって――お前、俺がなんて呼ばれてるのか知らないわけないだろ?」
七星旅団が六番目。
純粋汚染の印刻使い。
紫煙の記述師。
印刻とは、すなわち秘密だ。
騙し、賺し、偽り、謀り、想像を超越し、思慮を裏切り、ただそこに在るだけで全てを俯瞰するかのように戦果を挙げる、伝説の旅団における陰の参謀役。
こと相手の理解を超えるということに関して、アスタ=プレイアスの右に出る者はない。
「――ふざけるな。ふざけるな、ふざけるなよ《紫煙》――!」
だが。
アルベルも、その程度で敗北を認めることはできなかった。
「運命を踏み躙る反逆者が! その勝手が世界を滅ぼすとまだわからないか!!」
世界のために戦ってきた。
それが悪逆と呼ばれることを受け入れて、それでも正しいと、ただ信じた。
名前を遺そうとは思わない。
教団の――《日輪》の威光に殉ずると決めた時点で、およそ魔術師らしい――人間らしい幸福の全てを諦め、地に棄てた。
栄光は訪れない。
福音はもたらされない。
あるのは報復と責任だけ。
それでよかった。
だって、自分を救ってくれた誰かを、彼はそれで救えるのだから――。
だというのに。
「この世界はこのままでは滅ぶんだ! それを救えるのは《日輪》だけだと、なぜ」
「――うるせえボケ知ったことか面倒臭え」
「な……!?」
目の前の男は、その殉教をたったひと言で切って捨てる。
「何が救うだ――馬鹿言うな。お前が信じたのは教えじゃなくて、ただひとりの人間――魔法使いだけだろうが。そういうのは思考停止っていうんだよ」
「何を……!」
「だったらお前、訊くけどさ。世界を救って、いったいそのあとどうすんだ?」
「そのあと、だと……」
「はい遅い答えが遅い考えてないこと丸わかり! だから馬鹿だっつってんだよ、この馬鹿。悪を気取っておきながら正義なんぞ謳うな。だからお前は俺に負けるんだ。――ある意味で、お前は哀れだよ、アルベル」
アスタ=プレイアスはアルベルをまっすぐに見つめて告げる。
そう。言葉通り、哀れみの感情を向けるかのように。
「きっと、本当の意味で世界を救いたいと思ってるのはお前だけなんだろう。それは、まあ、なんだ。素直に尊敬してもいいと思ってる。やり方は――いや、信じた人間は間違ってたけどな」
「なん、だと……」
「――《日輪》の目的はひとつだ。ここに来て確信したよ。お前らのボスは世界を救おうだなんてこれっぽっちも考えてねえ。奴の目的はその先だ。救った世界で、神にでもなるつもりなんじゃねえの? まあ、つまり――騙されてんだよ、お前」
その放言が、アルベルに火をつけたことは言うまでもないだろう。
「あの人を馬鹿にするなッ!!」
「してねえよ。何度も言ってるだろ――馬鹿はお前だ」
「貴様……!」
胸につけられたペンダントが、そのときちかちかと輝きを放った。
それが何かの言葉であったかのように、アスタ=プレイアスは表情を歪める。
「あ、はい。ごめんなさい。はい、そうです、その通りです。偉そうなこと言ってすみませんでした。はい――あの、二度としないんでその辺で許してください……今ちょっと格好つけるとこだったっていうか……あ、なんでもないです。なんでも。はい。馬鹿は私でした……全てキュオ様とエイラ様のお陰です、ごめんなさい……」
「……キュオネ=アルシオン、か」
歯噛みするアルベル。
七星の中で、ただひとり《彼女だけは先に殺しておけ》と、《日輪》が名指しで言った女。迷宮での顛末を利用して、彼女の排除を成し遂げたのはアルベルだったが――まさか、こんなところで再び障害になってくるとは。
「彼女の力を借りた蘇生……ということか」
そう理解したアルベルだが、それにはアスタが首を振った。
「いや、だから別に死んでねえよ。ほぼ死んだだけだ」
「…………」
「で、どうする。まだやるっていうなら相手になるが――先に言っておくぜ。俺は、もう勝っていると。勝負はついた。お前じゃもう、どうあっても俺には勝てねえよ」
挑発にしてはずいぶん安い台詞。
だが、ことアスタ=プレイアスが意味のない言葉を吐くとも思えない。
しかし――それでも負ける気はまだなかった。
「……たまたま一度、死を回避できただけで偉そうなことを。どんな手段を使ったかは知らないが、二度できるものじゃないのは間違いないだろう?」
「そうだな。花丸をやろうか?」
「余裕ぶってくれる――君はまだ、僕の魔術を打破できたわけじゃないだろう?」
「それもその通りだな。いや――実際マジですげえよ、お前は。その魔術、ひとつ編み出しただけで歴史に名前が残るレベルだ」
「……そんなもの、求めていない」
それは、アルベルに最後まで遺された、ただひとつのプライドだったのかもしれない。
――求めるものは勝利だけ。それを《日輪》に渡すことだけを意図とする。
魔人にまでなった。生涯をかけて開発した、オリジナルといっていい魔術を我が物とした。一方で相手は、未だに全盛期の力をすべて取り戻したわけですらない。
そんな状況で負けるなど、あってはならない。絶対に。
「――行くぜ、とは言わねえぜ。そうだろ、アルベル」
アスタ=プレイアスは言う。
その言葉にアルベルは前を見詰めた。
「挑戦者はお前だ。伝説に挑むなら覚悟しろ」
懐から取り出した煙草に、魔術師は火をつけてひと息吸った。
アルベルはことさらそれを止めない。止めようと足掻くことのほうが無意味で、むしろ隙を晒すと知っているからだ。
紫煙の記述師が煙草を魔術媒介にするという話は有名で。
それでも、目の前の男は勝ってきた。
「後悔しろ――その余裕を。その傲慢を。我欲に塗れたその生涯を」
「ま、その通りだけどな。俺は逃げるのやめたもんで――お前もそろそろ、逃げ隠れすんのやめたらどうだ」
「…………」
「受けて立ってやる――かかってこい。印刻の深奥――共通二十四字とは別系統の、原始の神秘を見せてやる」
紫煙vs木星。
同じく魔法使いに師事し、そしてまったく別の道を歩んだふたりの。
それが、最後の衝突になった。




