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セブンスターズの印刻使い  作者: 白河黒船/涼暮皐
第五章 学院都市陥落
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5-13『わたしのかんがえなかったさいきょうのえんぐん』

 ――始まりは、とても些細な欲だった。

 誰だって持っている程度の、とても小さく可愛らしい欲求。欲望というのもおこがましいモノ。

 ただ、知りたかったというだけでしかない。


 最初は家族のこと。幼い少女にとって、世界とはすなわち身の周りの人間を指した。平凡な農家に生まれた彼女にとって、だからせいぜい、自分の生まれ育つ小さな村だけが全てだった。

 その全てを、だから彼女は知りたいと思った。それだけのことだった。

 知ることは見ることだと思う。聞くことであり触れることであり吸い込むことであり味わうことだ。

 初めは確か、仕事に向かう父の後を追ったのだったか。家族のために働く父が、どんなことをしているのか知りたくなかった。だから覗き見た。仲間たちと共同で運営する広い農地で、畑仕事に勤しむ父の姿を覗き見た。汗を流して土と戯れる父の姿を、彼女は何より格好いいと思ったし、そうありたいと憧れた。

 家で帰りを待つ母の姿を観察したこともある。友人と遊びに行く振りをして、そのまま家に戻って、縫い物をしながら鼻歌を歌う母の声を盗み聞いた。おっとりとしていたが手先の器用だった母は、まるで魔法のように古着や古布に可愛らしい意匠を施してくれた。それを貰うことよりも、母がそうしてくれることを少女は喜んだ。それができる母親を愛していた。


 そうだ。少女は愛に満ち溢れていたのだ。

 溢れんばかりに受け取った愛に、同じだけの、あるいはさらに多くの愛で報いなければならない。

 何もできない自分にできることなんて、それだけだと思っていた。

 そのために、もっと多くのことを学ばなければならなかった。


 だから見聞を深めたのだ。

 足りないから。まだ足りないから。もっともっとずっと多くのことを知らなければ、愛に報いることができない。

 愛することは知ることだから。知るためには五感が必要だから。


 街を訪れる商人や配達員の後を追いかけた。友人が隠れて思う恋の秘密を探った。ときおり現れる魔物を退治する強い魔術師と知り合った。魔術を習った。彼らが死んだことも知った。村の周囲が迷宮化していることを教わった。村を捨てなければならないことがわかった。そのために行われる連日の議論に隠れて参加した。誰もが行き場を失っているらしいと判明した。あれほど仲のよかった両親が、このところ喧嘩ばかりしているのが聞こえていた。もっとだ。まだ足りない。知ることが多すぎる。だから増やした。自分を。自分がふたりいれば、知れることの量は二倍に増える。三人いれば三倍だ。足りない。知識が足りない。愛が足りない。自分が足りない。それでも知ろうとすることはやめなかった。知りたかった。全て知りたかった。愛には愛で報いなければならなかった。だから知りたかったのだ。愛する方法を。どうすれば人を、他人を愛することができるのかということを。

 彼女にはわからなかったのだ。

 人を愛するということが。どうしても理解できなかった。知ることと理解することの間に横たわる溝を知った。

 人間は好きだ。でも人を愛する方法なんて彼女にはまったくわからない。

 何を見たところで感情移入なんてできない。善も悪も感じない。五感ではそれを判断できなかった。悪性を見た。裏切りを見た。殺し合う人間たちを見た。害し合う愚か者どもを見た。けれど確かに善性も見ていた。そのどちらにも、彼女は共感できなかった。


 ――いつしか少女は。

 もはや、自分というものがわからなくなってしまっていた。



     ※



「結界……か。まあ、ひとまずは正解って言ってあげるべきなのかな」

 小さく呟いた《水星》ドラルウァ=マークリウスは、目の前で不敵に笑う少女を、特段の感情なく見つめている。

 彼女に感情はない。それは別の自分に任せてしまったから。残っているものは理性くらいで、それは倫理とはやはり切り離されたところに存在している。その事実さえ、彼女は客観的に見つめていたけれど。

 ――さて、どうしたものか。

 彼女は思案する。別に焦っているわけではなかったし、そもそも焦る意味を彼女は持っていなかったが、それなりに面倒な事態になっていることは確かだった。さして長くもない二百年程度(丶丶丶丶丶)の人生の中でも、かなり上のほうに位置する危機だということは、とりあえず認めてもいいだろう。


 ――ああ、そういえば……。


 オーステリア学院に潜入していたとき、自分ではない自分が耳にしていたことを思い出す。

 この年の生徒の中には、数百年に一度の天才が集まっている、のだったか。なるほど確かにそうでもなければ、ただの学生が《水星》を追い詰めることなどできなかっただろうが。

 それを彼女は哀れに思う――哀れに思っている自分がいる。もちろん楽しんでいる自分も悲しんでいる自分もいるし、自分の中の自分に至ってはなんとも思ってさえいなかったが、多数派としては哀れみの感情が占めている。

 才能はヒトを縛る。

 善かれ悪しかれ人間は自身の才能に沿った生き方を強いられてしまう。持ち得る才能が強く大きいほど、より顕著に。それを一概に不幸だと断じるつもりは寸毫もないし、むしろ大半の場合において、それは幸運なことなのだろうと思う。少なくとも客観的な視点では。


 まあ、どうでもいいのだが。


 およそ数百年振りに味わった、終わらない《痛み》に彼女は口角を歪めた。

 楽しかったとか苦しかったとかではなく、そうするものなのだろうと意味もなく思っただけ。意味もない行動が取れるということは幸せだ。それは自分で選べるということなのだから。


「――しかし、思い切ったことをするものだ」

 と《水星》は語る。挑発ではなく、目の前の少女に対する称賛の意味合いで述べた言葉だ。

 さすが《日輪》が目をつけただけのことはある、とでも言えばいいのか。特別な戦闘力を持たない彼女が、ゆえに死ぬはずだった彼女が、この局面でなお生き延びていること自体が、運命の強さを物語っている。

「《魔力殺し》の結界とは。おおよそ魔術師が使う魔術ではないね」

 それは中と外を断つ結界の中でも、最も難易度が高く――そして最も意味のない魔術だと言われている。

 要は結界の内外を、魔力が行き来することを阻害するだけの魔術だ。魔術で、つまり魔力で魔力を断つということの難しさは、取り立てて挙げることもないだろう。何より、それでも魔力を断つのと魔術を断つのでは違う。この結界は魔術は通す(丶丶丶丶丶)。だから難しいくせに無意味なのだ――本来は。

「だとしても」ピトス=ウォーターハウスは笑っていた。「あなたには有効でしょう、これ?」

「そういえば君は、治癒や格闘技術によらず、ただ補助魔術の技量だけで天才と呼ばれた人間だったね」

「……あの女から貰ったもので生きたくなかっただけですよ。まあ、それがこの局面で役に立つんですから、わたしの意地も意外と捨てたものではなかったということでしょう」

「なるほどね。この状態なら、私は自ら持ち得る魔力だけで戦わなければならない。そしてその状態なら――」

「ええ。――この状態なら、わたしひとりでも、あなたを殴り倒すことができる」

「私の変身の構造、その一端に気がついたというわけだ。実際、驚くべきことだと思うよ」

「そういうわけでもないんですけど」ピトスは軽く肩を竦めて言った。「まあ、そういうことにしておきましょう。フェオさんのお陰でしたしね、これは」


 ――実際のところ。ピトスはやはり《水星》が行う変身の理屈などまるで理解できていない。

 ほとんど固有魔術に近い、つまりが魔法使いの域に近い能力なのだ。いくらピトスでも解明なんて不可能だった。

 だから、あのときピトスが探っていたのは、この場に出てきた《水星》の目的だ。

 改めて考えてみることにする。

 すると疑問なのが、そもそもなぜ姿を現したのか(丶丶丶丶丶丶丶丶丶)ということだった。

 結界の解除を邪魔することが目的ならば、こちらをさっさと殺してしまうべきである。そうしない理由は何か。ひとつ考え得るのが、もしもピトスたち三人が敗れ去った場合、結局《水星》はユゲルと戦うことになるという点だ。


 七星旅団セブンスターズの三番目。

《全理学者》ユゲル=ティラコニア。


 魔人には勝てないと断言した彼だったが、だとしても戦えば相互に消耗は激しいだろう。そもそもピトスは、ユゲルの勝率が完全にゼロパーセントだとはまるで信じていない。

 彼らは――七星旅団セブンスターズの魔術師は、それほどにおそろしい戦闘能力を有している。そもそも七曜教団の面々が、魔人化しなければ勝てないとまで断言した連中なのだ。

 ピトスはそこに違和感があった。

 七曜教団と七星旅団を比べたとき、その違いはなんだろう。どちらも魔術師として特異な能力を持っているが、考えてみれば魔術師としてより異質なのは教団の側であり、旅団のほうではない。威力がおかしいだけで魔弾しか使えないシグウェルを筆頭に、セルエだって使い手のほとんどいない混沌魔術を用いるが、混沌魔術師として異常かと言われれば、たぶんそんなことはないだろう。ユゲルに至っては、魔術師として完全にスタンダードなタイプだ。いちばん関わるアスタとメロがおかしかったせいで勘違いしていたが、別に七星旅団は異質な魔術師が集まったわけではない。


 ならばその、最も顕著な特性とはなんなのか。

 決まっている――単に彼らが、あまりにも強すぎる(丶丶丶丶)という点だ。彼らの特徴は純粋に戦闘能力に偏っている。

 別段、七星旅団は特別な目的があって集められた集団ではないと聞いている。単に仲のいい連中が、遊びたいだけで集まったと当の本人たちから聞いていた。

 ――んなわけあるか。とピトスは思う。

 いや、本人たちの自覚としては、実際のところその程度のものなのかもしれない。けれどそこに、彼ら以外の何者かの――たとえばアスタやマイア=プレイアスの師匠であるという魔法使いなどの――意志が関わっていないとは限らない。

 だって、そうでもなければ、七人全員が揃って世界最強クラスの魔術師だなんてことがあり得るだろうか。


 彼らが《強さ》を最も特徴としていることをピトスは確信していた。

 だからユゲルが、そう簡単に負けるとも思わない。戦いを避けようとする姿勢は理解できる。

 ――だから逆に違うと思ったのだ。

 相手側もまた、こちらにそう思わせようとしているのではないか、と。確証はない。けれどやはり、《水星》がまるで全力を出していないことも疑いようがない。

 フェオとの戦いで、それが確信に変わった。

 ほぼ一方的に押され続ける《水星》。にもかかわらずなんの対処も取らない事実。そして、いつの間にか空気に消えていたこと。


 おそらく、目の前の《水星》は本体ではない。というかここに本体はいない。

 いくら戦っても魔力が減らないのは、そもそも大した魔力が送り込まれていなかったからだと。

 そう勘違いするように、《水星》は意図的に群体を消し、本体ひとつにした――ように見せかけた。あの流れなら高い確率で、残ったひとつが本体であるようにこちらは思い込んでしまうだろう。

 ――というかそもそも《水星》には、もはや本体などという概念は存在しないのだろうが。本体や分体がどうこうというより、彼女の能力の肝は全体の魔力をどのように配分するか――そこにあると思った。

 だって、これはあくまでも魔術なのだから。

 彼女は所有する魔力の全てを完全にゼロにした上で滅ぼさない限り生き残る。そんなことはピトスにはできない。

 だが、目の前の《水星》ひとつならば。

 いくら消耗してもいい程度の魔力しか注がれていないものならば。


 ――この結界の中でなら、倒しきることができるはずだ。


 魔力を断つこの結界の内部に限り、もはやほかのところから魔力を持ってくることはできない。当然、外に出すこともできない。

 この状態で彼女を倒すか、倒せずとも維持し続けることができれば、《水星》の数は確実に減る。

 だから。

 ピトスは駆けた。小細工も何もない。ただ正面から《水星》に向かって踊りかかる。

 その右の拳が、《水星》の顔面を貫いて吹き飛ばした。

 もともと虚弱な女性だ。それだけで彼女はぴくりとも動かなくなってしまう。


 どこまでも呆気ない幕切れだった。



     ※



 そして。直後。


「――ああ、まったく。珍しいこともあるものだ。君のこんな姿、僕は初めて見るけれど」


 気づけばそこに、ひとりの女性が立っていた。

 悠然と、オーステリアのほうからこちらに歩いてくる女性。

 その姿を見て――息を呑んだ。


 ――なんだ、この化物は。


 全身が警鐘を鳴らす。その感覚にピトスは敏感だった。

 これは駄目だ。マズい。やばい。今すぐ逃げろ。さもなくば必ず殺される。――全ての感覚がピトスに敗北を告げている。《水星》など可愛らしく思えるほど、目の前の生命は完全に常軌を逸していた。

 けれど、現れた女性は何も意に介さない。ただパチリと指を鳴らし――それだけで、ピトスの結界が崩壊する。


 わかる――わかってしまう。

《水星》がまるで本気を出していなかった理由が。いや、それがわかっていたからこそ勝負を急いだというのに。

 間に合ったのか、それとも間に合わなかったというべきなのか。

 ――敵の援軍が現れてしまった。


「しかしまあ、僕としてはよくやったと――そう言うべきなのかな。まあ、別にいいだろう。交代の時間だ」

「あな、たは……」


 震える声音でピトスは訊ねる。引けない。ここで引くことなんてできない。

 それに、やはり女性は酷く自然な声音で答えた。


「ん、ああ――名乗っていなかったっけ? よいしょっと」


 そんなことを言いながら、倒せ伏した《水星》の身体に女性が触れる。

 ピトスは咄嗟に背後へと飛び退った。何をするでもないのに、ただその女性が動くということが恐ろしい。

《水星》の肉体が、それで消える。魔力へと還っていった。


「見事だね。確かにひとり分、君は《水星》を滅ぼした。これはあの《紫煙》と同等の働きだよ? 誇ってもいいと思うけれど――さて」


 立ち上がり、こちらを見せる女性は。

 そして、名乗った。


「――《月輪》。ノート=ケニュクスだ。君たちをちょっと倒しに来た」

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