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EX-2『アスタとシグウェルの二年目 5』

 ――秘する意味はない。結論から言ってしまおう。

 アスタ=プレイアスとキュオネ=アルシオンが、ふたりがかりで戦ったとき、セルエ=マテノに勝ちうる可能性はゼロだ。作戦や戦術の問題ではない。もしそれでも勝とうとするのなら、打倒の可能性がなくともせめて逃げ出すとか、シグと合流するといった方針を取るのならば、それは彼女が顔を現す前でなければならなかった。

 正面から向き合わなければならない、という可能性だけに絞られた時点で、もはやふたりに選択肢は存在し得ない。本気の孤狼セルエを前にした段階で、アスタたちの運命は《一瞬で敗北する》というただひとつに決定されてしまう。運がよければ、あるいは殺されずに済むかもしれない――この段階ではまだ、それほどの実力差が厳然と存在している。


 もしも。もしもキュオがひとりならば、あるいは勝ち筋を見出す可能性がないとまでは言い切れないだろう。

 戦力差で言えば、それでも圧倒的にセルエが勝る。異次元とさえ言っていい才能を、真っ当な努力と修練で伸ばした魔術師に隙はない。あったところで届かない。

 だがキュオもまた、セルエと同じく選ばれた側の――選ばれてしまった側の人間だ。経験では負けていても、その才能は育てきることができれば最強の孤狼に匹敵する。勝ちの目がないとまでは言い切れまい。

 ひとりなら、だ。

 アスタという足手纏いを抱えた時点で、その前提は脆くも崩れ去っている。もちろん彼女に、アスタを見捨てるという思考はなかった。


 だから。


「――アスタ、逃げ――」

 と。彼女が言い掛けたことを、責められる者があるとすれば、それは庇われたアスタだけだろう。

 一瞬だった。キュオは気を抜いたわけではない。ただ全てをアスタのために刹那、費やしてしまっただけだ。

 それで充分すぎた。

 次の瞬間、キュオが後ろに吹き飛んでいく。先ほど彼女が魔術師たちを倒したように、その光景を焼き直すように、殴り飛ばされ壁に激突し、そのまま意識を失った。


「キュオ――っ!」


 叫ぶアスタ。だがその行為は、キュオが自分の身を守る全ての行為を捨てて、ただアスタに注意を促すためだけに作った一瞬。

 その全てがこの段階で無駄になった。

 否。なりかけた(丶丶丶丶丶)


 セルエが動く。彼女は魔術さえ使っていない。ただ近づいてきて、力任せに殴っているだけ。それがあまりにも隔絶した身体能力から為されているという――その一点が致命的だった。

 アスタに武術の心得はない。身体能力や反射速度は魔術で底上げできるし、肉体だってこの世界に来てから相当に鍛えられた。戦いの場における立ち回りだって、それなりに学習してはいる。

 ただ、そんなものは付け焼き刃にすらなりはしない。なったところで通用しない。

 その刃を上から素手で叩き折る怪物を前に、アスタは所詮、ただの素人でしかなかった。


 ――ばぎん、

 という音は身体の内側から響いたように思う。咄嗟に振り上げた左の腕が、偶然にもセルエの打撃を防御する形になったのだ。顔面を狙って振るわれた蹴りが、それより先に腕に当たった。

 もちろん、そんなものは盾にならない。

 むしろ妙な方向に力を加えられ、余計に左腕を折ったというだけのことである。骨が折れるときは、意外と大きな音がするものらしい。最近はもう聞き慣れてきた。

 アスタは、為すすべなく吹き飛ばされる。

 ちょうど横向きに、先ほど開いた大穴を通ってアスタは外へと弾き飛ばされる。地面をバウンドするように転がって、詰まる息に呻きながら無様に転がっている――そのことを自覚する。

 つまり、意識はまだ保たれていた。


 気絶しようと脳が喚く。泣き叫びたいほどの痛みに、意識を絶つことで対応しようとするかのように。

 だが、その痛みがアスタをなんとか現実に縫い止めていた。

「ぐ、――ぶっ」

 血が地面を濡らした。衝撃は内臓まで浸透したらしい。その怪我は、泣き叫んで許しを乞うのに充分足るほどのものだろう。少なくともただの素人ならば――あるいは訓練された兵士であっても、痛みへの忌避感は、死への恐怖感は平等だ。どんな屈強な男だって、死の淵には冷静でなどいられない。痛みとは、人間を支配するに足る要素だ。


「――……」


 その点でのみ言うならば、アスタにはきっと非凡な才能があった。

 あとになっても、この点で彼に勝るものは、きっと七星旅団セブンスターズの中にさえいなかったと、口を揃えて皆が言うだ。

 魔術の話ではない。それを統御するための、これは精神の話。

 ――アスタ=プレイアスは人一倍、痛みに強い性質だった。

 全てを投げ出してしまいたいほどの激痛に、思考をかなぐり捨てて狂いたくなるほどの恐怖に、彼は耐えることができる。できてしまう。

 あるいは、その事実がすでに、どこか狂っていることの証明なのか。

 アスタは冷静だった。痛みを感じていないわけじゃない。何もかもが嫌になるほどの痛みを真っ当に感じている上で、それでも理性を保っていられるというだけ。それはどこか、自分という人間を遠く高い場所から俯瞰しているかのような感覚に似ていた。


 ――何をしている。


 声がした。それはきっと錯覚だろうとアスタは思ったが、幻聴が聞こえるほどには自分も狂っているのだろうと認識したが、聞こえてきたことに変わりはない。

 その声に知らず、耳を傾ける。


 ――耐えるだけでは意味がない。反撃をするなら頭を回せ。


 その通りだった。追撃が来ないのは、向こうがこちらを舐めているからにほかならない。ならば、それは付け入る隙だ。

 正面から戦っては敵わない。――ならば正面からは戦わない。

 ひとりで戦っても勝ち目がない。――ならば誰かの力を借りる。

 地面に倒れ伏したまま、血に塗れた地面を手で拭った。必要なのは攻撃ではない。それでは、近くにいるキュオを巻き込んでしまいかねない。


 ――今するべきことを考えろ。


 声に従って文字を書く。頭の中で戦場を描く。それだけが、アスタ=プレイアスにできること。

 何をするべきか。あの怪物を、倒すことなんてきっとできない。それは前提だ。事実であり現実だ。都合のいい覚醒なんてあり得ないし、現状の全能力を攻撃に費やしたところで、あの化物には絶対に通用しない。

 ならどうする。

 決まっている――逃げればいい。

 勝てないなら逃げろ。キュオとシグを連れて全力で。それは恥ずべきことじゃない。


 怪物は、倒れ伏した魔術師たちに近づくと、なんだか不思議そうな表情を見せていた。

 アスタはそのことに気づかない。彼の位置から表情なんて見えなかったし、そもそも見ている余裕がない。


「……、《主神(Ansuz)》」


 それは知性を意味するルーン文字。主神アンサズ

 印刻魔術を学ぶ過程で、アスタが最初に疑問したことといえば、こういった《どう使うべきなのかわからない》類のルーンだ。たとえば《カノ》や《イサ》、あるいは《ラグズ》といった直接的に現象や物質の意味を持つルーンは想像しやすい。書けば火や氷や水が出る――アスタの持つ最も単純な魔術のイメージにもそぐうものだったし、事実としてアスタが最初にマスターした文字は《カノ》だ。

 また《防御エイワズ》や《駿馬エワズ》といったルーンも、攻撃を防ぐとか足を速くするとか、おおむね概念が想像しやすかったため、簡単に使うことができていた。

 問題は《主神アンサズ》を初めとする、それを書いたからといって何ができるのか、ちっとも想像できない類のルーン文字だ。割合としては、むしろそちらのほうが多かった。


 この問題に関して、師であるアーサーは言った。


「――いや知らねえよそんなん。自分でどうにかしろ」

「おい。仮にも師匠だろうがアンタ。もう少し弟子にヒントとかくれよ」

「だってオレ別にルーン魔術師じゃねえし。使えるけど」


 なんの役にも立たない。ただ、アスタもこの頃には一応、学んでいた。それなりに師を信頼していた。

 教えられて済む知識や常識ならば、アーサーは割とあっさり話してくれる。彼がそれをしないということは、自分で考えることに意味がある――自分で考えなければ意味のないことなのだと。それくらいには。

 とはいえ、とっかかりが掴めない。

 頭を悩ませるアスタに、アーサーがやがて溜息交じりに告げる。


「――アスタ。お前、マイアの馬鹿に連れられて迷宮に行ったとき、《カノ》で火を出せたんだろ?」

「は? ――えっと、まあ、うん。あれ以来、俺も割と魔術の成功率がよくなってさ」

「知らねえってのは幸せなのかね……。つーより、たぶんお前には理解できねえんだろうが」

「……?」

「お前、そのときなんで《カノ》を書いた?」

「なんで、って訊かれても……」


 唐突な師の質問に、眉根を寄せながらもアスタは考え込む。

 それは当然、魔物を倒そうと思ったからだ。だが何もそんなことを訊かれているわけではないように思う。


「攻撃しようと思って……んで、火ってのが攻撃でいちばん想像しやすかったから」

「《カノ》を書けば火の魔術になる。そう思ってやったってことだろ?」


 ――そんなこと、普通できねえんだけどな。

 吐き捨てるように言ってから、アーサーはアスタに向き直ってさらに問う。


「ほかも一緒だ。どれも同じルーン文字なんだぜ、別々に分けて考えるほうが間違ってる」

「同じ、って……」

「《カノ》を書けば火が出ると思ったから(丶丶丶丶丶丶)書いた。それでその通りになった。お前がやったのはそういうことだろ? なら同じようにしてみろ」

「…………」

「その文字を書けば、どんな魔術が使えるのか。自分で想像しろ――自分で創造するんだよ。魔術ってのは世界の改変行為だ。それは印刻ルーンだって変わらねえ。お前がその文字の意味を、概念を借り受けて、どんな風に世界を改変したいのか。そういう様式を自分で設定すりゃいいだろ」

「そういうもんなのか……?」


 どうにもアスタはピンと来ない。要するに、アスタにとってルーン文字とはいわば魔法の呪文を唱えるような行為だというイメージがあるのだ。

 正しい呪文を詠唱することで、決まった効果の魔法が発生する。そんな感覚。《カノ》を書けば火が出る、という風に、たとえば《主神アンサズ》を書けばその効果が発生する――どちらかと言えば、だからアスタが師にした質問は、《主神アンサズ》を書けばどういうことができるのか、という意味合いだった。

 それを、自分で決めろと言われては困惑してしまう。

 だが違った。少なくともアスタ=プレイアスという魔術師にとっては。

 本来の印刻魔術は、確かにそう言うものだ。決まった文字を決まった道具で、決まった場所に決まった方法で書くことにより、初めて決まった効果を発揮する――そういう魔術。

 その意味合いにおいて、アスタが使っているものは、そもそも印刻魔術ではないと言える。


 そんな会話を、このとき思い出していた。


 主神アンサズ。それは確かに神を意味する文字であったが、同時に知性や、知識の習得、あるいは感性を高めるとか、なんなら口という意味まで持っている。ひとつのルーン文字が意味する概念がひとつとは限らない。それはあくまでも象徴であり、そこから派生する意味をルーン文字は持っている。

 その中からどんな意味を拾い上げ、それがどんな形で魔術として発揮されるのか――それを決めているのはアスタ本人だ。決して文字が決めているわけじゃない。

 ――ルーン文字の解釈。

 これは火という意味を持つ文字なので、書くことによって火ができる。と、アスタが決めている(丶丶丶丶丶丶丶丶丶)に過ぎなかった。


 地面を汚す血で文字を描く。

 知性。知ること。――解析するということ。その意味をアスタは拾い上げる。

 アスタは調べたのだ。魔術を使って、最初よりもより深く厳密に、この場所に張られた結界を精査する。

 気になったのは、先ほど倒した魔術師たちが使っていた魔術についてだ。彼らの実力を明らかに超えた魔術が、本人でさえ気づかないうちに使えるようになっていた――。

 それが、この場所に張られている結界の本当の効果だとアスタは読んだ。

 その通りだった。探知結界の内側に、ほとんど気づけないほど薄く存在感のない、けれど内部で行使される魔術の威力を飛躍的に高めるという強大な効果を持った結界が張られている。

 誰が張ったのかは知らないが、それは途轍もなく高度な技術による結界だ。アスタの知識でさえ、この場所に張られている結界の凄まじさがわかるほどに。アスタの知る限り、こんな結果はアーサーにすら作れないだろう。それくらい常軌を逸している。

 張るだけで、中にいる魔術のレベルを強制的に引き上げる結界。そんなものが普通に存在していてなるものか。

 さらに言えば、その効果の対象にアスタやキュオが入っていないということも驚きだ。この結界は、あの四人の魔術師たちだけを判別して効力を及ぼしている。キュオが知れば、間違いなく魔導師メイガス級の技量だと断じたことだろう。


 ただまあこの際、その結界の存在はどうでもいい。

 この結界のあり得ないところは、そうして威力の向上した魔術をもってしてなお、結界そのものを破壊できなかったという点だ。ふざけんな舐めてんのかとしか言えない強度をしている。おそらく一度入った以上、抜けることも難しい。かといってアスタの実力では、破壊することもできそうになかった。

 とはいえ、そうなっているのだから仕方ない。それはもうアスタにはどうしようもない。

 ならば、せいぜい利用してやればいい。


 ――主神アンサズ主神アンサズ主神アンサズ主神アンサズ――。


 同じルーン文字をアスタは重ねる。彼の強みは、ひとつの文字に別の解釈を与えることで、まったく別の魔術を成立させることが可能な点だ。

 書いた文字からある程度、使う魔術を推測されるというのがルーンの弱点のひとつであるはずが、アスタにはその理屈がまるで通用しない。彼以外の誰ひとり、アスタが何をしているのか(丶丶丶丶丶丶丶丶)判別できない(丶丶丶丶丶丶)

 理解できないから強い(丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶)という神秘まじゅつ本来の原則を、何より強く反映している。

 さらにアスタは、地面に倒れ伏したまま文字を重ねる。ただ指だけを動かして。

 描いた印刻ルーンは《人間マンナズ》。いったい何をどう解釈したのか、ただその一字だけで、アスタは結界を書き換えた(丶丶丶丶丶)

 その効果の範囲内に、自分自身を加えたのだ。


「――ぐ、ぶっ……かはっ」


 体内で暴れる魔力の影響を受け、アスタはさらに喀血する。

 俯せに地べたへ倒れ伏し、酷く醜い状態で彼は血にまみれていた。それでいい、と痛みを切り離す脳が現状を肯定する。魔力は人体にとって毒だが、それは痛覚をある程度まで和らげる効果があるという点において、必ずしもデメリットだけではない。より致命的な状態を招きかねないことだとしても。

 残る力を振り絞って、最後のルーンを書き記す。


「……、《(Hagaraz)》――」


ハガラズ》のルーン。それは古来より、人間にとっての破滅の象徴。農作物に壊滅的なダメージを与え、あらゆるモノを破壊する不可避の天災。アスタが持つ単一の文字の中では、《太陽ソウェイル》と並んで最大の破壊力をイメージできる。

 強烈な魔力が、館を中心にして集まり始めた。魔力を精密に、かつ静かに動かすことで隠していたアスタでも、これを隠すことはできない。

 当然。立ち止まっていたセルエは即座に気がつく。だがいくら彼女でも、もう間に合わない。

 防御や回避が、ということではない。彼女がひとりなら、この程度、いくらでも対処できただろう。だがさすがに発動を止めることまではできない。印刻ルーン。神が創り出した原初の文字。それに術式を代わらせるアスタの魔術は、こと質という点においてあらゆる魔術に勝る。ひとたび完成した術式を阻害されることはまずなかった。


「味方もろとも……っ!?」


 セルエが驚いたのはそこだ。

 この場には、倒れ伏すキュオの姿がある。彼にとって味方であるはずの少女を巻き込む形で、大規模な魔術攻撃を仕掛けるはずがない――そういう先入観があった。それが、瞬間の対応をほんのわずかだけ遅らせた。

 とはいえ、結局はそこまで。

 いくらセルエとて、この状況では身内である四人の魔術師を守るだけで精いっぱいだろう。それは逆を言えば、身内と自分を守り切るくらいのことならば失敗することはないという意味でもある。この程度では倒せない。


 そんなことはアスタにだってわかっていた。


 そうだ。アスタは信頼している。魔術師という存在の強さを、その埒外さを。

 まるで漫画やゲームの如く、人知を超えた破壊力を現実に為し得る魔術師という存在。多少はそれを齧ったアスタだったが、その程度で魔術の叡智を全て理解したなどとは思っていない。印刻ルーンしか使えない彼に、そんなことはそもそも不可能だ。アスタは自分の理解を遥かに超えた、本物の魔術師というものを知っている。

 信じている(丶丶丶丶丶)

 アスタの最大火力程度の攻撃(丶丶丶丶丶)など、セルエには通用しないと。

 だからキュオにも、シグにも通用しない。彼らなら自力で対処してみせると信じている――。


 ――そして。

 強烈な破壊力を伴った氷塊の嵐が、小さな小屋を完全に覆い隠した。

次回、シグ編ラスト。

……いや誰がなんと言おうとシグ編だからねコレ?

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