4-60『vsレファクール=ヴィナ』
――レファクール=ヴィナは魔物が好きだ。
その中でも特に幻獣、神獣と呼ばれるモノに心惹かれた。
見たことはない。普通に生きていて、いや、たとえ冒険者だろうと、神なる獣に行き遭うことなど一生の中でまずあり得ない。
それは五大クラスの迷宮の最深部、あるいは人跡未踏の秘跡、神域と呼ばれるような場所にしか棲息していないからだ。
魔術の定義上、魔物は《疑似生物》――つまり生物の外見を持っていても、生き物ではないモノ――とされてるが、魔物は《純粋生命》とされる。
魔力によって肉体を――見かけ上のモノではなく、実際に物理的なモノとしてのそれ――構成され、睡眠や食事を本質的には必要としない、単なる生物より高次元の生命。
命あるモノ。
定義的には魔人も同じだ。
違いがあるとすれば、神獣はヒトの幻想から発生するということ。
世界全ての人間が共有する幻想が、信仰が、形になって力を持つ。
だからこそ、人間ひとりでは決して敵わない存在だと言われている。
――今、それを。
レファクール=ヴィナは体現している。
絶望するのに――それは充分なだけの光景だったはずなのだ。
普通ならば。
だが、それでもふたりを潰すにはまだ足りない。
それもそうだろう。
片や、かつてたった七人だけで本物の幻獣を殺した男。
片や、かつて迷宮の底で幻獣を見て、それでも他者を助けた女。
――その意志は砕けない。
※
「――……」
当然の話ではあるが。俺にも、目の前で起きていることの理屈などわからない。
そして、わからないということが魔術師にとってどれほどの脅威であるか、同じく不可解こそを武器にする俺が理解していないはずもない。
――普通に考えれば当然、人間が魔物に変身するなど不可能だ。まして神獣など。
というか、魔物じゃなくたって《変身》なんてできない。魔法使いにだって不可能だ。それを可能とする魔術師は、この世界にただひとり――《水星》と呼ばれる女だけ。
ひとりいるのだからふたり目もいる、なんて考えは不合理だ。そこには必ず、何かしらのタネが存在する。
だから、
「いやもう知るかよ――《雹》」
俺は普通に攻撃した。考えてもわからないことなど、考え続ける意味がない。
たとえ今はわからないのだとしても、ヒントさえ揃えば解き明かせることもあるだろう。
ならば攻めるだけだ。
元より、考える時間をくれるほど、生温い相手ではないだろう――。
巻き起こるのは、氷塊を内に秘めた暴力的な旋風。
それは不死鳥と化した《金星》の、三メートルほどとなった全身を全て包み込むように暴れる。切り裂く暴風に、身を抉る氷撃に、全身をずたずたにされるはずの神獣は――けれど、一切堪える様子がなかった。
いや、効果自体はある。けれど傷つくや否や再生していくのではなんの意味もない。
――あ、ダメだこれ、通じてねえや。
俺は悟り、悟った瞬間に《雹》を中断した。効いていないのなら、攻撃する魔力はただの無駄だ。
魔力の渦に落ちたということは、俺は一度、肉体そのものを魔力に呑まれたという意味だ。
それを再構成する際、俺はキュオネの助けを借りて、魔力の出力口を元の大きさに戻すことを試みた。
結果から言えばそれは失敗だ。なんとか最低限の――オーステリアに来た頃くらいの大きさは確保したものの、呪い自体は俺の魂にまで根づいている。決して消えたわけじゃない。その進行を、多少なりとも強引に戻したというだけのことだった。
もちろん弊害もある。
一度、魔力にまで溶かされた肉体は、再構成の反動で随所に亀裂を走らせている。土台、人間が人間を完全に創ろうというほうが不可能なのだ。
自分の肉体だったこと。周囲が《知識》に溢れた世界の渦だったこと。治癒魔術師であるキュオの助けがあったこと――それらを含めた諸々の幸運があって、ようやく俺はこの状態だ。
それでも。
「――心配はしませんよ、アスタくん。今は」
横に立つピトスが笑った。最近はほとんど俺の主治医だった彼女だ、俺の肉体の状態など、あるいは俺以上に理解しているかもしれない。
それでも彼女は、俺を心配しないと言っている。
俺を信じてくれている。
「アスタくんなら、きっとなんとかするに決まってます。わたしは、そう信じます」
「……当たり前だろ。この程度、造作もねえよ」
「ええ。――だからアスタくんも、今はわたしを心配しないでくださいね?」
「お前……何するつもりだ?」
「突っ込みます」
「つ、」
「だからアスタくんは――奴を、倒す方法を見つけ出してください」
言うなり、ピトスは駆け出していく――突貫する。
「……っ、馬鹿やろっ!」
叫び、アスタは援護に回った。ピトスとて無策に突っ込んでいったわけではないだろう。
ならば――それを信じるのが俺の役目だ。自分が、信じてもらっている分は。
煙で印刻を励起。世界に刻む文字は《野牛》、《贈り物》、《防御》、《保護》、《太陽》、《軍神》、《駿馬》、《人間》、《水》――。
持てる力の全てを、加護としてピトスに贈与する。
当然、連続しての魔術の起動に、全身が悲鳴を上げている。痛みが軋みが苦しみが、魂の奥底から湧き上がってくるかのようだ。
――今さらだが。
もう、この程度の痛みには慣れてしまった。
ピトスが、自身に倍する以上の体長を持つ不死鳥の、懐まで潜り込んでいく。
同じ格闘の技術を持っているといっても、ピトスとセルエ、アイリスのそれは違った。一撃の威力を重視するのがセルエ、手数と小回りで戦うのがアイリス。
そしてピトスは――その中間に立つかのように、小柄な体で相手に近づき、致命の打撃を容赦なく叩き込む、殺すための戦いをする。
不死鳥の弱点とはどこか。
目立つものはない。とはいえ生きている以上、胸や頭を潰せば死ぬ。死ぬことは死ぬ。
不死鳥は、その名の通り死なない生命ではないのだから。たとえ死んでも、生き返るからこその不死鳥だ――。
体躯が大きい分、小回りならばピトスが勝っていた。彼女は飛びあがるように不死鳥の背後へと回ると、翼の付け根からその首元へと跳びついた。
「――んなっ」
無茶苦茶しやがって、と思うものの、今の俺にできることはただ彼女を遠距離から支えるだけ。いくら彼女が水の属性を持つ魔術師で、そして俺が《水》の加護をかけているとはいえ、肉体そのものが火炎を纏っている不死鳥に組みつくなど、無茶というレベルではないだろう。
文字通り、両の手で不死鳥の細い首を絞めるピトス。背を蹴った反動で彼女は器用に宙を飛び、その勢いのまま不死鳥の首を――捻り折る。
ごぎり、という嫌な音が響いた。
直後――ピトスがこちらへ吹き飛んでくる。
「――っ、危ねえっ!?」
咄嗟にその身体を抱き留め、そして揃って吹き飛ばされた。
俺を下敷きに、ふたりで迷宮の地面を滑る。割と洒落にならない痛みが響いた。
「ア――ホかお前はっ! 無茶しすぎだっ!!」
立ち上がりながらピトスに叫ぶ。
ピトスも立ち上がり、けれど俺の腕に抱えられたまま、前を向いて答えた。
「ちょっと顔と腕と胸と胴を火傷したくらいです。大したことありませんよ」
「大怪我じゃねえか……」
とんでもないことを言う娘だ。こんな子に育てた覚えはない。
実際、水の加護で火力を和らげていることに含め、彼女の治癒があれば治せる程度ではあるのだろうが。
それでも――火傷というのは、傷の中でも重症になりやすい部類なのだ。それを彼女が、わかっていないとは思えないが。
「……お前、命を大事にしない奴は嫌いなんじゃなかったのか」
「時と場合によります」あっさりとピトスは言う。「そんなことよりアスタくん」
「そんなことて」
「……今、わたし、蹴られました」
「何……?」
「人間の足で、です。どういうことかはわかりませんが……」
「……、そうか」
「それと、もうひとつ。――折った首の感触、なんか変でした。音だけだった見たいな感じです。手応えがない」
「……まあ、奴が本物の神獣を召喚した、とかいうことでは初めからないんだろうが」
不死鳥が、足で蹴ってくることはあるだろうか。
ないとは言えないかもしれない。だが、ピトスの隙をついて、ここまで吹き飛ばすほどの蹴りを与えられるとは到底思えない。
それは武術を使う者にしか不可能だ。
そして武術とは――あくまでも人間が使うものである。
不死鳥はこちらに寄ってこない。追撃をしてくることもなかった。
アレが、レファクールである以上、それでもこちらを警戒しているのだろう。
そう。奴は魔物使いだ。決して魔物ではない。
「――試すか」
こちらの攻撃は、本当に金星に通じていなかったのだろうか。
それとも――そもそも当たっていなかったのではないか。
不死鳥が、その両翼を広げて、こちらに攻撃の構えを取ってくる。
その背後に、幾何的な魔術の陣が浮かぶ。
炎弾。
原初の惑星に降り注ぐ、破壊の炎の疑似再現。不死鳥の魔術。
「……アスタ、くん」
ピトスの声は辛そうだ――無理もない。これだけ魔力を大量に放出しているのだから。
不死鳥にしがみついている間、彼女は常に自分を治癒し続けていた。そうでもなければ対抗できない。
彼女はもう、立っていることさえ限界だろう。
ふたりなら勝てる。
そう啖呵を切った俺たちが、ではひとりなら負けてしまうのか。
――違う。
「大丈夫。俺たちはひとりじゃないし」
俺は答えた。
胸に下げているペンダントを。中央に黄金の魔晶があしらわれたそれを懐から出す。
「ふたりでも――ないさ」
――そうだろ、キュオ?
俺の胸にある宝石を見て、ピトスがわずかに首を傾げる。
「それ、確かエイラさんに作ってもらっていた……」
「そうだよ。まったく、あいつは本当に天才だよなあ。俺は学院の中で、実はあいつをいちばん尊敬してんだよ」
不完全とはいえ、素材を提供したのが俺たちとはいえ、魂ひとつを封じ込められるだけの要領を持つ魔具を創るなど。
エイラの奴――単純な魔具の製作技術なら、とっくにマイアを超えている。
そして、不死鳥の攻撃が放たれた。
躱す隙間などなく、防げる威力などではなく。
空間全てを飽和する炎の魔弾は、いっそ美しいまでの光景を見せてこちらに迫ってくる。
これを魔術師が、単独で防ぐのは不可能だろう。ニセモノとはいえ、それでも神獣を疑似的に再現されているのだ。その火力はもはや、同じ埒外であるシグにさえ迫る。
だから。俺は――誰かの助けを借りるのだ。
「――《空白》」
俺の切り札。ブランクルーン。
存在しない運命の意味を持つ文字が、相手の攻撃全てを消し去る。
流星が、大気圏で燃え尽きるよりも唐突に。空間に満ちた煙が、込められた魔力が、金星の攻撃を無効化した。
「やって、くれるものですね」
声が聞こえた。不死鳥の口は動いていない。
けれどその場所から確かに、金星の声は届いていた。
「いやまあ……今さら驚きませんけどね」
苦笑するピトス。あの地獄見たいな光景を前に、慌てることさえ彼女はしない。
「ピトスはここにいろ。治せる範囲とはいえ……さっきから魔術を使いっ放しだろ? それに二連戦だ。そろそろ魔力、厳しいんじゃねえの?」
俺はそう訊ねる。というより決めつけていた。
元より治癒魔術は魔力の消費が激しい魔術なのだから。
「そうですね。じゃあ、あとはお任せしてもいいですか……?」
俺の腕の中で、背中から抱きかかえられた形のピトスが呟いた。
ピトスを抱える俺の手に、そっと彼女は手を重ねる。
その手を通じ、俺の体内に魔力が流れ込んでくる。
傷を癒し、疲労を慰める――誰より優しい治癒の魔術の温かさが。
「……実は、もう、結構厳しいんです。わたしにできるのは……これくらいです、ね」
「充分だ。よくがんばったよ、ありがとう――お陰で助かった」
「へへへ……」と、なぜかピトスは笑う。「アスタくんにそう言われると、なんだか照れちゃいますね」
「そうか? いつも、助けられっぱなしだと思うけどな」
「……でも今日は、アスタくんがわたしを助けてくれるんでしょう?」
手を離し、
その足取りは覚束ない。かなり無理をさせていたのだろう。
それでも謝りはしないけれど。述べる言葉なら、ありがとうのひと言で充分だ。
「――格好いいとこ、見せてください」
「ああ。今から格好つけてくるから、ちゃんと後ろで見ててくれ」
エイラに作ってもらったペンダントを、俺は右手で握り締めた。
それを通じて、ここにはいない、けれど確かにここにいる、最高の仲間に思いを伝える。
――また、俺を助けてくれるか、キュオ?
――仕方ないなあ。
そんな声が、心に届いてくる気がした。
死んだ人間は生き返らない。それは絶対だ。けれど思いは、心を通じてきっと残る。
たとえその命を落としても――世界には残るものがある。
だから俺たちは、今まで助けてくれたみんなに、命を落として来てしまったみんなに、顔を向けて、前に歩いて行くところを見せるしかないんだ。
――仕方ないから、わたしがアスタを助けてあげる。
「ありがとう」
ずっと俺を助けてくれて。ずっと、俺といっしょにいてくれて。
もう大丈夫。弱い俺は、ひとりでは最強になれないけれど。大した力もないけれど。
ここに、お前がいてくれるなら。
――アスタ=プレイアスは最強だ。
「行くぜ、《金星》。レファクール=ヴィナ。七星旅団の六番目が、《紫煙の記述師》が、お前に胸を貸してやる」
「……吠える、ものですね」
またしても声がした。それに、答えるように俺は言う。
「当たり前だろ。俺は――最強の七人の内のひとりだ」
※
――アスタ=プレイアスは、その場から動こうとはしなかった。
だから彼女も動かない。目の前の魔術師の実力を、レファクール=ヴィナは決して舐めていない。自分がこれまでに戦ってきた中で、最強の敵だと認識している。
そうでなければ意味がない。
そうでなければ――超える壁にすら値しない。
――さて、どうしたものですか。
レファクールは思案する。少なくとも能力的な数値では、こちらが圧倒的に勝っている。無限とも言える魔力。世界に接続したゆえの術式強度。魔物使いとしての肉体的能力。魔人として今、レファクールに望み得る最高の戦力が揃っていた。
こちらが何をしているのかは、どうやら見破られたらしい。
確信までは持っていないだろうが、それでも、確かめられればそれで終わりだ。
――《日輪》と《木星》が、こうまで《紫煙》に執心する意味。呪われてなお生き残り、私たちの敵となり得るその能力を、もう少し考慮すべきでしたかね……。
とはいえ、まあ、それでも――。
それでもレファクールが勝っていることに変わりはない。《木星》からそれは聞いている。
まあ、結局は力押しがいちばん効く。どうあれアスタ=プレイアスが、魔術師として能力に恵まれていないことは事実だ。
火力もない。耐久力もない。持久力もない。あるのは術的な強度、それだけ。それさえ印刻に限っている。
向こうから近づいてこないのなら、こちらから近づいていくだけだ。
そして、レファクールはごく普通に、ただ一歩を前に踏み出した。
自分の足で。二足歩行でレファクールは歩く。
そう。彼女は当然、魔物に変身などしていない。
魔人だって――ヒトはヒトだ。魔物になることなどできない。
できるのは、使うことだけ。文字通り、その手足として。
要するに、それは存在の偽装であり、魔物の能力を借り受けて、自分の能力だということにする――それが彼女の魔術だった。
だから彼女は、厳密な意味では魔物を召喚さえしていない。
片腕に、雷獣の能力を持たせていただけであり。自分そのものに魔物の情報を、概念を上書きし、世界を偽装し、自分という人間がその魔物の能力を持っている――その魔物に可能なことならば全てできるということにする。
だから、厳密にはその場所に魔物はいない。不死鳥はいない。
不死鳥の能力があるから、その肉体さえ存在するという風に偽装されているだけだ。
今までのレファクールならば、その幻影に攻撃されてしまえば破壊されていた。オーステリアでセルエ=マテノと相対したときのように。
魔術師らしい魔術といえばそうだろう。ヒトを、世界を、騙すものが魔術であるからだ。神を下ろす、という行為さえ、魔術の概念としてはごくありきたりなものだろう。
しかし、とはいえ。
――普通、そんなからくりに、こうもあっさり気がつきますかね……?
氷の刃が飛んでくる。レファクールは当然、そんな直射の魔弾など防ぐのも躱すのも容易だった。一歩を横に跳んで回避した。
だが当然、レファクールが横に躱すということは、まるで身体を囲うように存在する不死鳥の偽装も同時に横にずれるということ。
こちらを見て――偽装に騙されていれば遭わないはずの目が交錯し――紫煙の記述師が薄く笑みを見せる。
不可解さの、無理解の演出が魔術の構築なら、その解体はすなわち魔術の破戒だ。
ルールを破られる。タネの割れた手品に価値などない。
その洞察力が――アスタ=プレイアスは並外れて高かった。数値に表れない、言うなればその小賢しさが彼の武器だ。
――付き合う必要を、レファクールは感じない。
次の瞬間、レファクールは不死鳥の偽装を消し去った。あのオーステリアの地下にあった不死鳥は、当然ながら彼女の制作だ。彼女自身、幻獣の中でも不死鳥の美しさは抜きん出て好ましいものでもあった。
だが、どうやら紫煙には通じない。こちらの魔弾を消すあの魔術――他者の魔力に干渉し、防ぐのでも躱すのでも解体するのでもなく、ただ問答無用で消してしまうあの技術。あれがもし彼の切り札で、いくらでも扱えるものならば――このまま行っては勝ち目がない。
いかに魔人化したレファクールとはいえ、見たこともない不死鳥の能力を完全に再現することは不可能なのだから。それができれば――こんな戦いは初めから成立しない。
ピトスが脱落した今ならば、より適した魔物を降ろすだけだ。
「――次は、こちらでどうでしょう?」
ふっ、とレファクールは片腕を振り上げた。
人間として自分の姿を現したレファクールは直後、今度は鬼種の姿を取った。
鬼。ヒトの姿を持ちながら、ヒトを遥かに超えた能力を持つ存在。こちらはヒトに近い分、そして何よりクロノス=テーロというサンプルがあった以上、不死鳥より高い再現度を発揮できる。
こちらだって、紫煙の記述師の情報は得ているのだ。
ここ最近、彼が敗北した戦いを思い出すのなら――それこそ、タラス迷宮でピトス=ウォーターハウスと戦闘したときのものであり。
そして――それ以前、彼がオーステリア迷宮でレヴィ=ガードナーと戦闘したときのものだ。
そこに心理的な要因が大きく関わっていたことは考慮の上で。
――彼は、典型的な後衛型の魔術師である紫煙は、近接戦闘を得意とする高速機動型の戦闘者とすこぶる相性が悪い。
何より呪われている現状では。力づくで策を破られることが、彼のような魔術師には最も効く。
だから、鬼だ。ヒトを超える鬼種の膂力。それを魔人の身体に降霊、適用する。
殴り、蹴る。最も原始的な暴力は、それだけで充分に魔術師を殺し得るもので。
だから――紫煙を殴殺するためだけに駆け出したレファクールは。
一歩目を踏み出した瞬間に、その足を、何かに取られて転倒した。それはもう、笑ってしまうほど見事な転び方だった。受け身さえ取れず、ただ顔だけを咄嗟に庇って、腕から無様に地面にぶつかる。――彼女ほどの戦闘者には、あり得ない隙の晒し方だった。
読まれていた。
「――は……?」
その口から飛び出した音は、意味を為さない吐息だった。それが何より、わからないということの証明だと、彼女は知っていたはずなのに。
鬼の幻影を纏い、肉体が二重にぶれていた彼女が、ただひとりの存在に戻っている。
魔術が、解けている。何をされたわけでもないのに。精神が乱れたせいで、感情を揺さぶられたせいで――それだけで魔術を破戒されている。
足下を、彼女は見た。そこには何もない。ただの床があるだけだ。足を取られるような魔術の痕跡などなければ、百歩譲っても小石や床の亀裂さえない。
転ぶはずが、あり得ない。
あり得ないことを、起こされた。
「――ぐぶ、っう……っ」
直後、転んだ胴体の真下から生えてきた氷の棘に、レファクールは脇腹を抉られる。噴き出す鮮血を見て初めて、自分が咄嗟に攻撃を回避できたのだと知った。
咄嗟に不死鳥の特性を発揮し、肉体の再生を試みる。炎が傷口を燃やし、その炎が最高級の治癒魔術のようにレファクールの肉体を治、
――その途中で炎が凍りつく。
がぎん、と、まるで火炎そのものが凍りに一瞬で変化したかのように傷口から内部を侵していた。炎を氷で止められた。停止の概念が活性を止めていた。
読まれていた。
不死鳥が火の属性に象徴される以上、対立する水や氷といった概念には影響を受けやすい。特に熱の、上昇の、活性の概念は氷が持つ停止の概念と正反対だ。だが、それがわかっていたところで、魔人となった自分の魔術に真っ向から対立するなど――。
――違う。できる。
この男にはそれができるのだ――。
なぜなら紫煙は印刻使いだ。魔人が身体を魔力に変え、世界そのものと接続して正解を引き出しているのと同じで、彼も正解を知っている。
ルーン文字は魔術の文字だ。世界の記述そのものだ。その概念の強度は、あらゆる魔術に優先される。彼は印刻使いであるというだけで、魔人である自分と同じ術式の質を誇る。
だからこそ、彼は他人の魔術に、自分の術式を優先させることができるというのに。
何もわかっていなかった。紫煙の術式強度の高さは、初めから知っていたはずなのに。
舐めていたのだ。質が強かろうと、物量と速度で押し切れると、そう勝手に判断してしまっていた。奴がそういう、印刻魔術師としての常識を一切無視していることはわかっていたのに。
――こちらの動きが読まれている以上、奴は私より早く魔術を作る。
速くなくとも早ければ。先んじることはできるのだ。
「……なん、て、ふざけた……っ!」
と、そのとき自らの口から悪態がついて出たことを、レファクールは自覚していない。
焦らされているから。惑わされているから。
印刻使いが記述した通りの戦場に、呑み込まれてしまっているから。
少なくとも、このまま不死鳥としての特性を保持し続けることはできない。氷の侵食が止まれないからだ。肉体の性質を変えなければならない。
だから、次はまた別の幻獣に力を借り受ける必要がある。
咄嗟に思い浮かんだのは、やはり、鬼だった。それが最も簡単だし、先程も失敗したとはいえ、それが紫煙にとって相性の悪い魔物であることは事実だ。鬼の膂力に、レファクールの格闘技術が備われば、あるいは魔法使いにさえその拳は届き得るだろう。
彼もまた、先読みしてまで接近を防いだということは、そうされるのを嫌ったということの裏返しだ。一度失敗したことを、再びやるということまで読んでいるだろうか。
脇腹を押えていた腕を、レファクールが上に振り上げる――その途中でまたしても邪魔された。
ごん、と細い棒にでも打ちつけたみたいに、腕の動きが止まってしまう。
読まれていた。
レファクールは目を見開き、憎々しげな視線を紫煙に向ける。
「お前さ――」
視線の先で、紫煙は薄く笑って告げる。
「――身体を動かさないと、魔物を召喚できないだろ?」
図星だった。たった三度見ただけで、奴はそれを見抜いていた。
――健全なる精神は、健全なる肉体に宿る。
それがレファクールの信条で、だからその肉体に魔物を、彼女にとって最も素晴らしい存在を降ろすためには、肉体の動きが儀式として不可欠だった。
いや、それを見抜かれるくらいならいい。肉体の儀式くらい、この男なら見抜いてもおかしくはない。
だが見抜いたからといって、それを簡単に阻止できるかといえば別の問題だろう。
わからない。何もわからない。
いったいいつ魔術を起動した。どうしてレファクールの動きが、やろうとしていることが全て読めた。いったい何に動きを阻害された。
あり得ない。どうして。まるで目に見えない何かにぶつかったかのように――。
――目に、見えない?
違う。見えている。先程からレファクールは、ずっとそれを目にしている。
ただそれをそこにあるものとして、意識していなかっただけだ。
「……貴方、まさか、煙を――」
「《紫煙の記述師》だって、そう名乗ったと思うけどな」
知らないのかよ、と紫煙は言う。
余裕で、泰然として、レファクール如きは敵でさえないとばかりに、彼は。
「――煙だって俺の武器だ。もともと、魔術の属性は火なんでな」
魔力を通して、彼は煙を操って文字にしている。
同じ魔力である以上、魔人の肉体に干渉できない理由はなく――。
次の瞬間。
「――《巨人》」
雷撃が。天から降り注ぐ神の裁きが、神を騙る《金星》の頭上から直撃した。
「あ――……が、っ」
――まずい。非常に、まずい――。
安易に鬼の姿など――ヒトとしての性質を多く残した魔物の姿を取ったことが災いした。
感電しては、筋肉は動かせなくなる。魔物に変わることができなくなる。
麻痺させられた。しかも、この威力は。
「……、……!」
遅まきに失して。ようやくレファクールは気がついた。動かない口が喘ぐように、ただ吐息だけを漏らしていた。
何が呪われているからだ。思えば紫煙は、ほんのわずかな期間とはいえ、呪いを解くことに成功していたはずではなかったか。
ならば今の彼が――その呪いから解放されていないなどと、どうした思い込んでいた。
呪いが、消えている。
レファクールの目の前に立つ男は、全盛期の印刻使い。
伝説と呼ばれた旅団の一角を為している、最強の魔術師のうちのひとり。
思えば彼は、初めからそう宣言していたではなかったか――。
――《紫煙の記述師》。
戦場において、ただの一歩たりとも動くことなく、まるでその場から全てを俯瞰しているかのように、その進行全てを描き出す、煙草の煙を纏った魔術師。
その二つ名通りの戦いを、ただ見せられていただけならば。
「――う、お、ぁ――ああ、っ、ぎ――いいぃああああぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ!」
レファクールが、そのとき、吠えた。咆哮した。
こんなところで死ぬわけにはいかないから。自分はまだ、目的を達成できていない。
魔人にまで至ったというのに――。
あの、理想の魔物に、レファクールまだ至っていない。なれていない。
人間などという醜い存在に生まれてしまった。弱くて見苦しくて無様で格好悪くて汚くて最悪で最低でどうしようもない人間なんてまったく完璧じゃない。死ぬほど嫌だ。
だから憧れた。
あの、最強の幻獣に憧れた。それが手に届くまで、あと、もう少しだったというのに――。
「わたし――は……竜、に――」
「いいや、なれない。お前はもう、何者にも」
紫煙が、首を振って言う。
初めて見たときは、弱く力のない道端の石のような子どもだった、彼が。
「――人間のまま死ぬんだよ」
あのとき。殺しておくべきだったのか。
いや、そんな仮定に意味はない。彼は運命を乗り越え、自分にはそれができなかったというだけのことだ。
愛しき我が子を遺して死ぬのは、いささか心残りではあるけれど。
「――見事。貴方の強さは、本物だ――」
直後、アスタの描き出した《太陽》のルーンが、《金星》レファクール=ヴィナの肉体を完全に消滅させていく。
肉体を焼かれ、もはや感覚さえ失われ、それでも魔力の残滓が世界に残り続けようとする、その意志さえもが熱に溶かされて。
――その強さにこそ、本物の魔が宿るでしょう――。
そんな、予言のような言葉を最期に。
七曜教団幹部。魔人、《金星》レファクール=ヴィナは死亡した。
前回にも追記しましたが、活動報告でキャラデザ紹介しております。
よければどうぞ! すごいいいよ!!




