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セブンスターズの印刻使い  作者: 白河黒船/涼暮皐
第四章 王都事変
143/308

4-33『くゆる煙は天高く』

 キュオネ=アルシオンは、なんというか、至って普通の少女という感じだった。

 少なくともアスタが見る限りにおいて、ほかの魔術師たちが覗かせる特異で突飛な人格は所持していないよう見受けられる。

 もっとも、出会ったばかりの相手に対して、知った風なことを言うつもりもない。ただ、優しい奴ではあるのだろう、と。そんなことを思うだけだ。

 治癒魔術に適性を持つ人間とは、ともすれば総じて、そんな奴なのかもしれなかった。


「――それで、えっと。マイアがどこいるか、心当たり、あるかな?」

「ああ……」


 答えながらも、頭は別のことばかり考えてしまう。

 言うまでもなくパンのことだ。

 アスタが何よりショックだったのは、パンの死に思っていたほどの衝撃を受けていないという、その一点だった。もっと悲しんでも、もっと絶望してもいいはずだ。むしろそうでなければおかしいと、そう思うにもかかわらず。

 泣いて、叫んで、喚いて、狂って。

 そうできない自分が、なんだかとても汚らわしく恐ろしいモノのように思えてならない。


 最後のとき、もしかしてパンは自分を庇ったのではないだろうか。

 根拠もないのに、なぜだがそう思えてしまう。あの位置関係でもしパンがレファクールの攻撃を躱していたら、代わりに死んでいたのはアスタだった。

 偶然だ。彼女は最後まで、自身を襲うモノに気がついていなかったはずだ。

 理性は今もそう判断している。だが感情は別だ。ともすれば頭のどこかで、彼女の死を意味のあるものにしようという、そうでなければ気が済まないという身勝手な思いが働いているのかもしれない。

 そんな自分の卑劣さが、吐き気を催すほどに気持ち悪い。


「えっと、アスタ? どうしたの?」

「……すまん」静かに首を振る。「マイアたちなら、今はまだ迷宮にいるはずだ」

 そこまで告げて、そこでようやく思い出した。

 そもそもパンと自分は、迷宮に閉じ込められたふたりを助けるために過去へ戻ってきたはずだったことを。

 任された役目を、結局は果たせていない。そんな余裕も能力もなかったが、かといって、それで自分の体たらくを肯定できるわけでもなかった。

 ――本当に。

 何も、何ひとつ為せてはいなかった。


「迷宮……ああ、あそこか。通りすぎてきちゃったなあ。というか、『たち』って?」

 アスタの言葉に、きょとんとキュオネは首を傾げる。

「アーサー……ナントカっていう奴と一緒に、迷宮に閉じ込められてるんだよ」

「……それ、もしかしてアーサー=クリスファウストのこと?」

「ああ。そう、そのヒト」

「うわあ。マイア、じゃあほんとに追いついたんだ。やるなあ」

 おかしそうに微笑むキュオネを見据えながら、アスタは考え込む。

 ――ふたりを迷宮に閉じ込めた犯人は、レファクールではない。少なくともその可能性が高い。

 そうアスタは推測している。根拠と呼べるほどのものはなかったが、それでも。

 では、レファクールでないのならいったい誰か。

 ここで可能性が高いのは、目の前の謎の少女ではないだろうか。


「それにしても、閉じ込められる……ねえ。なんで?」

「知らない」

「……誰に、どうやって」

「それも知らない」

「ん、んん……まあ、それもそうか。アスタ、言ったら悪いかもだけど、まだ魔術師としては駆け出しくらいだよね? でなきゃ魔力切れで倒れたりしないだろし」

 唐突な質問。別に隠す理由もないため、普通に首肯した。

 同時に、自分がどうやら魔力切れを理由に気絶していたのだとも知る。

「そうだね。初めて習ってから、まだひと月も経ってないと思う」

「……それはそれでなんかおかしいような気、するけど」キュオネが首を振る。「それは措くとして。そんなアスタに裏をかかれる程度のヒトが、マイアだけならともかく、魔法使いを出し抜けるとは思えないんだけどなあ」

 キュオネには、すでに今日までの顛末をある程度は伝えてある。

 首を傾げる少女を横目に、アスタは考えた。たぶん、彼女が犯人ということはないだろうと。

 これもまた根拠はない。マイアを探しに来た、という自己申告に証拠はないが、たぶん、悪い奴ではないのだろう、と何なんとなく思うだけだった。

 見ず知らずのアスタでさえ慰めてくれるほどの性格なのだ。信じていいように思う。

 ――まあ、要するに。

 信じてもいいということは、言い換えるなら裏切られてもいいということだ。そのときは一切の容赦なく、きっと殺し合うことができるから。

 そう、普通に判断した。

 してしまえるようになっていた。


「それで、君はこれからどうするの?」

 ふと話題を変えるようにかけられた問いに、アスタは言葉を失くしてしまう。

 そんなこと、まるで考えていなかった。

 だが町が滅んだ以上、この場に留まり続けることはできない。どうあれアスタは、今後の身の振り方を考える必要がある。

「詳しくは聞かないけどさ。アスタ、君、この町の人間じゃないんでしょ?」

 ちょうど町まで戻ってきたところだ。ひと気の絶えた、死んだ町に。

 押しつけがましく気遣うでも、下手な慰めを口にするでもなく、ただ必要なことだけを問う彼女の言葉。

 それに救われるような気がしたし、だからこそ不愉快でもある気がした。

「何か考え、あるの?」

 心がざわついた。アスタはここで明確に自覚する。

 自分は、目の前の少女が苦手だと。話しているだけで落ち着かないと。

 馴れ馴れしいとも、思慮が浅いとも言わない。だがそれでいてどこかパーソナルスペースの詰め方が速いというか、酷く心を搔き乱されるような気分になる。

 まるで――誰かを思い出させるように。

「俺、は……」いったい。

 この先、何をするべきなのか。

 その答えを出すよりも早く、かけられた声に顔を上げた。


「――アスタ! ありがと、お陰で助かったよ!!」


 聞き覚えのある声。通りの奥から、マイア=プレイアスが手を振って駆けてくるのが見て取れる。その背後には咥え煙草の、見るからに不機嫌そうなアーサー=クリスファウストの姿もあった。

 マイアはアスタの前まで走り寄ると、人のいい笑みを見せて言う。


「あのあと、師匠とすぐ出てみたんだけどね。三日の間に、ちゃんとやってくれたんだ」

 ということは、あれからもう三日経っているらしい。でなければふたりが出てきているわけもないのだが。

 どうやら丸一日ほど意識を失っていたようだ。

「……それで、って……あれ? キュオ?」

 と、ようやくのようにマイアが少女の存在に気づく。

 というよりも、アスタの後ろにいるのが、パンではないことに気づいたというべきか。

「久し振り、マイア。まったく、いつもいつも勝手にいなくならないでよ」

「あー、ごめんごめん。でも、よくここがわかったね?」

「だってマイア、どこ行っても目立つから。簡単だったよ」

「む。なるほどー、それでいつも私は見つけられてしまうのか。参ったね!」

 まるで悪びれないマイアに、キュオネも苦笑を返すほかないようだ。

「ほんとにもう。シグも怒ってるよ、きっと」

「ええ……シグがこんなことで怒るかなあ。想像つかないけど」

「どうかなー。内心はわからないよ? それに、少なくともユゲルさんは間違いなく怒ってるし」

「……うわ。どうしよ、キュオ」

「知らないよ。謝るしかないんじゃないかな」

 誰の話なのかはわからないが、どうやら共通の知人の話題で盛り上がっているらしい。

 その間、アーサーは無言を貫いていたし、アスタも口を開かない。

 だがやがてマイアは視線をアスタのほうに戻し、不思議そうに首を傾げて問う。


「――それで、パンちゃんはどこに?」


「死んだよ」すぐに答えた。「殺された」

 用意していた答えだ。すらすらと口にすることができた。

 実際、意を決して言葉にしてみれば、やはり思ったほどの衝撃は受けていないような気がする。それとも単に、麻痺しているだけなのか。

 マイアが息を飲み、キュオネが静かに視線を逸らした。

 だから、いちばん大きな反応を見せたのは、意外にもアーサーだったということになる。

「――なんだと?」

 ずかずかと。不機嫌に口を閉ざしていたアーサーが、アスタの正面まで歩いてくる。

 その表情には、どこか驚きに近い色が見えた。確信していた未来が、けれど訪れなかったかというような。

「どういうことだ?」

「どうって」口ごもりながらも、答える。「言葉の通りだよ。レファクールって魔術師に殺されて、それで死んだ」

「本当だろうな? なら死体はどこにある?」

 怒ってもよかったのかもしれない。アーサーの言葉は、少なくとも友人を亡くしたばかりの相手には明らかに配慮が足りなかったし、無神経だとも言えた。

 けれど、それでも怒る気にはなれない。そんな行為は八つ当たりだと理解していたし、ならば自分にそれを許すことはできなかった。

「心臓に穴を空けられて、それでも死んでないっていうなら別だろうけど。パンは、あのまま湖に沈んでいったよ」

「……ちょ、ちょっと師匠、それくらいに!」

 そこまで言ったところでマイアが止めに入った。

 彼女とて魔術師。感情より理屈を優先することのできる人間だ。だが、それでも淡々と無感動に語るアスタを、見ていられなかったようだ。

 本当に。なんとも思えていないのだろうか。自分は。

 アスタの疑問に答えはない。

 だがアーサーは言った。


「ああ……そうだな。悪かった、無神経だったな」

 瞬間、硬直してしまった。それほどに予想外の言葉だった。

 窘めたマイアでさえ、驚きに目を見開いている。どう考えても、目の前の男がここで殊勝に謝るような人格には見えないからだ。というか絶対に違うだろう。それこそ《人間なんざ死ぬときは死ぬだろう。それだけのことだ》くらいのことは平然と言い放つはずだ。

 そのアーサーが、あっさりと頭を下げていた。

「――それで、お前はこれからどうするんだ」

 続けて問われる。ちょうど、キュオネにも同じことを問われていた。

 その問いに対する答えは見つかっていない。ただ、アーサーはこう提案する。

「その気があるなら、身を守る方法くらいは俺が教えてやる。どうせ、一度でも魔力で手を汚した人間は、二度と元の道には戻れねえ」

「それは……」

 そうなのかもしれない。

 あらゆる意味でアスタはもう、この世界に来る前の明日多ではない。

 一ノ瀬明日多は、きっと、この世界に来た時点で死んだのだ。

 なら、ここにいるのは。

「魔術師として生きていく気があるなら、しばらくの間だけ面倒見てやるってことだ」

 どうする? と、そう問われた。簡単に決められることだろうか。

 ただ、思う。もし少しでも逡巡するようなら、アーサーは二度とその話を持ち出すことはないだろう。彼は言っているのだ。今、この場で決めろ、と。

 だから即答した。


「――お願いします。俺に、魔術を教えてください」


 頭を下げた。魔術を習うのならば、目の前の相手以上はそういないだろう。

 初めから心は決まっていた。アスタは、すでに魔術師となっているのだから。

 願いなんてない。目的なんて持っていない。

 ただ、死にたくないと思うだけだ。

 生きていたいと思うだけだ。

 あるいは――死んではならないと思っているだけだった。


 それがどんな感情に起因しているのかはわからない。

 逃避なのか。決意なのか。衝動なのか。何も考えていないのか。

 いずれにせよ、答えだけは変わらなかった。


 ――魔術師として生きていこう。

 自分だけが生き残った、それがせめて報いる方法だから。


「なんのために魔道を歩む」

 アーサーが問う。アスタは答えた。

「それ以外に、歩む道を知らないから」

「なんのために魔術を使う」

「生きるために」

「は。最悪の答えだ」アーサーは吐き捨てた。「だから矯正してやる。言っておくが、俺について来る以上は生半な道は歩けねえぞ。覚悟しろとは言わねえが、せめて頭の隅には置いておけ」

 言ってアーサーは、煙草の煙を大きく吐き出した。

 そしてそのまま踵を返すと、

「行くぞ。もう、これ以上ここに留まっている意味はない」

 揺れる煙を視線で追った。そしてふと、思いついたことがある。

 その考えを言葉にした。

「その前に。少しだけ、時間が欲しい」

「……なんだ?」

 アーサーはもう振り返らなかった。それでいいのだろう。

 魔術師は過去を想わない。たとえ時間に干渉する目の前の男でさえ。

 だから、これが最後だ。終わればもう、振り返らない。


「――最後に、弔いだけはさせてください」



     ※



 火葬、という概念はこの世界にもあるらしい。

 だから、それに倣う。今のアスタなら、カノのルーンで簡単にできる。

 アスタは町に火を放った。

 この場所はすでに死んでいる。生きる者のいなくなった町は、単なる残骸でしかない。

 その全てを、焼却してしまおうと思ったのだ。

 遺体なんて残っていないけれど。パンは湖に消えてしまったようだし、ほかの住人たちはみんな魔力へと還元されてしまっている。

 それでも、儀式くらいはいると思った。

 だから全てを燃やし尽くし、灰と煙に変えてしまう。アーサーも、マイアもキュオネも。それを手伝わないでいてくれた。全てをアスタに任せてくれた。

 町だったものが、ゆっくりと空に昇っていく。


「ねえ、師匠。……煙草、一本だけ貰えますか」

 町から延びる林道の途中から、燃え盛る廃墟を振り返って言う。

 この辺りで、ちょうどパンと初めて出会ったのだ。

「……好きにしろ」

 投げ寄越された煙草。その一本を口に挟み、魔術を使って火をつける。

 まったく上達したものだ、となんとなく笑いたくなった。結局は笑えなかったけれど。町ひとつ燃やすのも、煙草に火をつけるのも、今では自由自在なくらいだった。

 着火し、肺いっぱいに煙を吸い込み、そしてアスタは噎せ込んだ。

 煙草を吸った経験があるはずもなかった。息を吸わなければ火が着かない、という程度の知識はあったが、いきなりまともにめるはずもない。

 まあ、どうせ異世界だ。喫煙に年齢制限なんてない。気にはしなかった。

「っ、げほっ……ああ、もう……なんだよこれ、ちっとも美味しくないじゃんか……」

 煙草を手に持ち、咳き込みながら言った。

 本当に、まるで美味いとは思えない。こんなものを好んで吸う人間の気が知れない。


「……ほんとに。くそ、涙出てきた。ああ、不味……最悪だ、こんなん……っ」


 目尻を濡らすものに気づいていた。たぶん煙草が不味いせいだろう。

 だからそれ以上は吸い込まず、アスタは手を前に伸ばすと、その先から立ち昇る煙を眺め続けていた。

 火葬の文化はあっても、さすがに線香まではないと思う。だがアスタの貧弱な知識では、ほかに死者を悼むための方法が思いつかなかった。

 だから、この煙はその代わりだ。せめてもの手向けのつもりだった。

 紫煙が天へと昇っていく。それをアスタは見届ける。

 もっと高く、もっと遠くへ届けばいい。


 一本が完全に燃え尽きるまで、アスタはただ煙を眺め続けていた。



     ※




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     ※



 ――ここまでが、彼の語れる物語。

 ヒトが語れるのは、当然だが自らが知るものだけになる。だが、それで物語の全貌を把握できるわけではない。

 もしひとつの視点で全てを把握しようと思うのなら、それこそ運命を俯瞰する存在――神とも呼ぶべき概念を仮定しない限りは不可能だ。

 だが。もし仮に。それに近い存在があるとすれば。


 そう――ここから先は、彼さえ知りえなかった物語だ。

 あるいは知ることもできたのだろうか。たとえば、いつの間にか町から消えた、ひとつの死体のことに気づいていれば。

 とはいえ、辿らなかった運命を夢想することに意味はない。


 時間は、少し遡る――。



     ※



 レファクール=ヴィナが目を覚ましたとき、なぜか湖の畔にいた。

 意味がわからなかった。

 あのとき、あの魔竜ドラゴンに呑まれて、レファクールは確かに死んだと思ったからだ。にもかかわらず、ふと気づけば先程までと同じ場所にいる。

 気絶していた、のかもわからない。少なくとも今、レファクールは自分の足で、地面に直立しているからだ。慌てたせいでバランスは崩したが、それくらい。倒れてはいなかった。

 まるで、時間ごと消えてしまったかのようだ。


「――ああ。起きたみたいだね。ちょうどいいところだった」


 ふと届いた声に、レファクールは静かに振り返り、湖の方向へ目をやった。

 突然のことに驚きはしない。いや、驚いてはいるが、その驚きの原因ならばわかっていたのだ。

 彼以外に、こんなことができる存在をレファクールは知らない。


「……申し訳ありませんでした、と。そう言うべきでしょうね」

 その相手に、口を開くやレファクールは謝罪した。

 彼女は常に敬語を使うが、今の言葉には、明確に上位者へ対する畏敬が含まれている。そうわかるような声色だ。

 一方、謝罪を受けた相手は気にした様子もなく腕を振る。

「いやいや。別に気にする必要はない。君の願いは、どうせここでは叶えられなかった運命だからね。それは君だってわかっていただろう?」

「それでも試さずにはいられない。そういうことだってありますから」

「そうだね、その通りだ」男は快活に笑った。「もともと、お互いの利害が一致したから、それで手を組んだだけだからね。契約関係としては同等だし、何よりぼくのほうは目的を達成している。ぼくからしてみれば、君には少し町のほうで騒ぎを起こしてもらいさせすれば充分だったんだから。まあ、この言い方は君には悪いと思うけど」

「……なぜ、この町だったんですか?」

「たまたまだよ。運命かな」


 よく笑う、そしてよく喋る男だった。レファクールはレファクールで、その相手に気をよくすることも、逆に悪くすることもないらしい。

 その淡々とした反応を好んでか、男は言葉を続ける。


「ところで、どうだろう。互いの利益を考えるに、これから本格的にぼくの組織に入ってもらいたいと考えているんだよね。この間は断られちゃったけどさ、どうだろう? お互い、悪くない話だと思うんだ。席はまだぜんぜん空いてるんだ」

「……そうですね」しばしの間があってから、彼女は答えた。「ええ。私でお役に立つのなら、お手伝いさせていただくのも悪くないかもしれません」

「ありがとう、助かるよ! その代わり、ぼくも可能な限りで君を手助けすると誓おう」

 男が片手を伸ばし、レファクールに握手を求めた。

 しばし迷って、けれど結局は応じざるを得ず、レファクールもまた片手を伸ばす。

 そして気がついた。

 男の肩に、何やら血のようなものが付着している事実に。


 まさか彼が怪我をしたとも思えない。たとえば目の前の存在が、ふと気紛れに、特段の理由もなく、ただなんとなく今ここでレファクールを殺そうと思ったとしよう。

 そのとき、彼女は一切の抵抗をしないだろう。

 もちろん普通に考えれば、まさかそんなことはあり得まい。だがあり得ない相手にあり得ないことなどそれこそあり得ないわけで、つまるところこの男はレファクールに可能な認識の範疇を大きく逸脱した存在だ。

 抗おうだなんて間違っても思わないし、だからそんな相手に傷をつける存在もあり得ないと考える。


 なにせ目の前の男は、世界にたった三人しかいない魔法使いにして、その頂点たる《いちばん最初》のひとり。

 運命の魔法使い、その人なのだから。


「――ああ、これ?」レファクールの視線に気づいてか、男は困ったように笑う。「いや、ちょうど魔竜ドラゴンを殺したところでね。返り血がついちゃったな」

「……あれを、殺したんですか」

「邪魔だったからね。本当、フィリーの先見の明は凄まじいよ」

 あっさりと、とんでもないことを言ってのける男に、レファクールは言及の意志を放棄した。

 もう考えるほうが馬鹿らしい。これは、そういうものだ。その認識でいい。

 事実、男はこれまたあっさりと話題を変えた。

「ところで、そうだな……君は、うん。《金星》についてもらおうかな」

 これまた意味不明だったが、さすがに自分に関係しているのならば問い返す必要もある。

「……それは、いったい?」

「うん? ああ、星の名前だよ。ぼくらは同志をそう呼び合うことにしている。なにぶん、身を隠していないといけない立場だからね。あとほら、格好いいし」

「はあ。そうですか」

「そうだとも。だから君のことはこれから金星と呼ぶことにするよ。ヴィーナスだからね。ぴったりだろう?」

「…………」

 なんだか思っていたよりだいぶ下らない理由だった気がするが、やはり突っ込まない。

 どうせ初めから、何を言っているのかなんてわかるわけもないのだから。

 だから、金星なんて天体は(丶丶丶丶丶丶丶丶)知らない(丶丶丶丶)けれど、そのことにも彼女は言及しなかった。

 代わりに訊ねる。

「では、貴方のことはなんてお呼びすれば?」

「――ぼくのことは、《日輪》と呼んでくれればいい」

「日輪、ですか」

「その通り。いずれ仲間も紹介するよ。楽しみにしててほしいな」

「わかりました」

 頷き、そのままレファクール=ヴィナ――金星は言う。


「日輪――エドワード=クロスレガリス。貴方を私の王と認め、これからお仕えします」


 魔法使いにして、日輪。

 銀色の髪に金色の瞳を持ち、冴えない風貌で眼鏡かけた、エドと名乗る男が。

 笑顔で、レファクールに答えていた。


「あんまり固くならなくていいよ。ぼくは、運命に抗おうとする人間は大好きなんだ」

「運命に抗う、ですか」

「そう」エドはかつてアスタに向けたのと同じ笑みを作る。「たとえばアーサーやフィリーのように。たとえばぼくの仲間たちのように。たとえば君のように。たとえば――あのアスタくんのように」

 その視線が、湖畔で倒れているアスタに注がれた。

 レファクールはその視線を追う。

「ここで死んでもおかしくはなかっただろう。だが彼は運命を変えた。素晴らしいね」

「……はあ」

「おっと、君を責めているわけじゃない。ルーンにはそのもの《運命》というものもあるからね。彼はそれで、君が《魔竜ドラゴンに呑まれる》という運命を創り出した。もちろん仕込みは必要だけれどね。魔術だけでどうにかできるわけじゃない。この湖まで逃げてきた事実も重要さ。まあ、アーサーが彼の額に刻んだルーンの力も大きかったけれどね」

「……ルーンですか」

「そう。知性のルーンだね。君も見ただろう? 普通に考えて、戦いを知らず、平和に暮らしていた彼が、初めての実戦で冷静でいる――なんてあり得ないだろ? 補正されてたのさ」

「貴方がその気なら、簡単に殺せていたのでは?」

「いやいや。言っておくけれど、ぼくだってそう簡単には運命に干渉できないんだ。アーサーやフィリーのほうが、その意味ではよほど万能さ。ちまちま仕込んで、可能性を極力増やして、最後のひと押しに少しだけ……ぼくの力はその程度。重要なのは意志のほうだよ」

「そういう、ものですか」

「ああ。来てごらん」

 言うなり歩き出すエド。その後ろを追ったレファクールは、そこで驚愕に目を見開いた。

「生きて、る……? まさか」

「そう。まさかさ」

 呟くと、彼は横たわるパンの遺体の隣にしゃがみ込む。

 心臓に空洞が空き、迸るほどの血を噴き出した、無残な少女の遺体。


 それが、ほんのわずかながら傷を癒している。


「死んでなお肉体を癒そうとする力。運命に抗わんとする才覚。これこそが、ぼくが愛してやまない人間の力というものだよ」

「……まさか、生き返るん、ですか……?」

「それは無理だろう」エドは首を振る。「肉体を癒したところで、魂魄も精神も戻ってはこない。三要素揃ってヒトだ」

「三要素……」

「獣と人と神と。それぞれがそれぞれを内に秘めている。このままじゃ結局、遠からず完全に死ぬだろう」

「……でしょうね」

「これを単身で治すのはもう治癒ではなく蘇生の域だ。だけど、それは神様ってヤツの領分だからね。人間が手を出せる範疇にはない。悲しいことにね」

 ――だから、と。

 エドは、至極当たり前のように言った。


「助けてあげることにしよう」


「はい……?」

 意味がわからず、レファクールは目を見開く。

 だが魔法使いはやはり笑ったままで、

「おいおい、言ったろう? ぼくはがんばる人間が好きなんだ。命の危機で苦しんでいる少女を見捨てるなんて、そんな真似はできないよ」

「でも、だからって――どうやって」

「確かにぼくも治癒魔術は使えないよ。できることは、せいぜい彼女に力を貸してあげることくらいだ」

 言うなりエドは、パンの傍らに落ちていた魔晶を拾い上げる。レファクールが作った合成獣キメラの核になっていたものだ。

 多くの人間の魂を飲み込んだそれは、魔術的に凄まじい価値を持った結晶となっている。

「これを心臓の代わりにできれば、あるいは助かるかもしれないね」

 エドは、少女の胸元に空いた空洞へ、その魔晶をぐちゃりとねじ込んだ。

 途端、胸の傷が異常な勢いで修復されていく。それは辺りの魔力さえ吸い込む勢いで、どこか醜いほどの回復力だった。

 これには、さすがのエドも目を開く。


「……凄まじいな。驚いた。正直、助かる見込みは少なかったけれど……この分なら間違いないね。息を吹き返すだろう」

「治癒魔術とは、ここまでのことが可能でしたっけ」

「まさか! 尋常じゃない適性だ。あるいは蘇生にさえ至る才能だよ、これは。ともすれば彼女こそが四番目だったのかもしれない……」

 一笑に付すことなどできない。ほかでもない、一番目が言っているのだ。

「ははは――とんだ拾いものだ! そうか。道理で、なるほど、この町に来た甲斐があったというものだよ!!」

 諸手を挙げて、一番目の魔法使いは喜びを口にしている。

 レファクールにしてみれば、果たして、彼女がここで生き永らえることが幸せなのか疑問だった。

「……皮肉、ですね」

「ん、何がだい?」

「自ら手を下した町の人間に、ほかでもない彼女が救われるんですから」

「そうかもしれないね。うん? そういえば、彼女の名前はなんだったかな」

「確か、パン、と呼ばれていたはずですが」

「……調べてみよう」

 突然、エドは両の瞳を閉じた。その面持ちには、いつの間にか真剣みが増している。

「何をしているんですか?」

 理解できず問うたレファクールに、

「だから調べているんだよ。彼女のことをね」

「…………」

 運命の魔法使い。そう呼ばれる存在の能力の一端を、このときレファクールは目の当たりにする。

 文字通りに次元が違うかのようだ。まるで書物の登場人物欄を読む程度の気軽さで、彼はあっさりと人間の情報を運命ものがたりから引き出してしまう。


「は、はは――そういうことか……っ!!」

 やがて彼は、今までで最も楽しげな表情で笑った。

 狂喜するように。歓喜するように。

 魔法使いが快哉を上げ、心底からの感動に打ち震える。

「そうか! パンドラ(丶丶丶丶)か!! はは、まさかこんなところで希望の箱を見つけるだなんて、それこそ運命の神も粋なことをするじゃないか!! なんてことだ、ええ!?」

「パンドラ、という名前だったのですか? それがいったい――」

「わからないかい? こんなに愉快なことはないさ。そうだ、そうだよな、そりゃこんなところで死ぬような運命じゃ絶対にないよな――素晴らしいっ!!」

「……それで」エドの感動が微塵も理解できないレファクールは、だから代わりに訊ねる。「彼女を、これからどうするつもりですか?」

「あ、ああ、そうだね……ぼくとしたことが、つい我を失ってしまった。よくないね」

「いえ」

 はっきり言えば、確かにエドワードはレファクールから見てさえ狂人だった。そして同時に聖人でもある。だから理解できない。

「ぼくも忙しいし……そうだね。しばらく、君が彼女に生きるすべを教えてやってほしい」

「……それは」

「うん。彼女は、たぶん記憶が混乱してしまうだろうからね。心臓を失い、一度は精神が消失して魂魄も剥離する寸前だった。それは確実に人格へと影響を与えるだろう」

「つまり――」レファクールは言った。「彼女がひとり立ちするまで、私が面倒を見るということですか?」

「いいことじゃないか」

 エドは本心からそう言っているらしい。満面の笑みだった。

「どうせなら、君の格闘技術を彼女に仕込んであげるのも面白いと思うよ。君の魔術は、まあ彼女じゃ使えないだろうからね」

「……まあ、私は構いませんが」

「彼女の事情は、いつか君の口から教えてあげればいいさ」


 レファクールは自分の行いを一切、間違っているとは考えていない。自らを完全な正義だと認識しているし、後悔なんて死んだって覚えないだろう。

 だが、それが周囲の認識とずれていることは理解している。

 翻って、果たしてエドワードは、自らが為す行いを善行と考えているのだろうか。

 ――そうなのだろう、と彼女は思う。

 しかし、目の前の少女がどう思うかまでは知らなかった。

 記憶さえ失った少女は、家族も友人も全てを魔物に変えた張本人に育てられ、そうして生み出された合成獣キメラの核で命を繋いで。

 そのことを知って、果たしてどう思うのだろうか。

 それが少し気になったから、レファクールは提案に従うことを決めた。


「素性を隠すために、彼女には新しい名前が必要だね」

 エドが言う。憐れんでいるのか、楽しんでいるのか。

 その表情から窺い知ることはできない。

「……水瓶亭。水の都。それに希望の箱……よし、決めたよ」

「なんでしょう?」

 訊ねたレファクールに向けて、魔法使いが、新しい名前を口にする。








「――ピトス=ウォーターハウス」

「知ってた」禁止。


 あ、活動報告がありますので、よろしければ。

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