4-28『辿り着くことが決まっていた場所』
29日の26時なので深夜アニメ的に考えればセーフだと思うんです。
……本当にすみませんでした……。
翌朝。ふたりで水場を訪れ、身体や顔を洗い流す。
パンは水の属性を持っているらしく、だから水のある方向がなんとなくわかるのだとか。
「まあ、本当になんとなく、そんな感じがするかなあってくらいだけど」
とは本人の言葉だ。この辺りは町の付近と比べて少し小高く、おそらくはあの湖に繋がっているのだろう、小川を見つけることができた。
町の住民も、こちらのほうにはほとんど来ないらしい。
結局、パンがあのあと詳しいところを語ることはなかった。アスタは、彼女の意味深な言葉を聞かされ、ただ煩悶とするだけの夜を過ごすことになったわけだ。
翌朝になってもそれは同じだ。パンは何事もなかったかのように笑顔を見せていたし、だからアスタも昨夜の件に触れることはできなかった。
地べたに直の睡眠で、あまり疲れも取れていない。
それでも魔力は多少なりとも回復したし、気持ちのほうも幾分か整理がつけられた。なんだか昨日は、妙に長い一日だった気がする。
――実際、正確な二十四時間よりは微妙に長かったわけだけれど。
そんなことを思い、アスタはわずか苦笑する。異世界に来たと思ったら、今度は時間旅行をする羽目になるというのだから、まったく節操のないことだ。次は神様にでも遭遇するんじゃないだろうか、と自虐的な思考に駆られる。
「――それにしても、だ……」
服を脱ぎ、膝くらいの深さを持つ川に入って身体を清めながら、アスタはわざとらしく呟いた。
その声が聞こえていたのだろう。聞かせるつもりがあったわけではないが、聞こえていてもおかしくないとは思っていた。
パンが答える。
「なに? アスタ、今なんか言ったー?」
「……いや、何も言ってない」
「そう。ならいいけどー」
「よくねえよ……」と、今度は聞こえない音量で囁いた。
意味のない行いだ。つまり、それだけ緊張しているということ。
今、アスタの背後ではパンも身体を水につけている。
「こっち見ないでよー」と釘を刺されているし、実際のところ見る勇気なんてあるわけもなかったが、それでも、こう、なんと言うべきか。
「そういう問題じゃないと思うんだよなあ……!」
「アスタ、さっきからうっさい」
「……はい」
ちょっと振り返れば、いや、視線の向きさえ少しずらせば。
そこには、パンの裸体が待っている。いや待ってはいない何言ってんだ俺。ちょっと落ち着け。
思春期らしい、真っ当な羞恥と好奇の心が、アスタの内側で暴れている。そんな場合でないことはわかっているけれど、意識するまいと否定する、その心がすでに意識していることの証明だ。
――ていうか、普通こんなこと許すか?
と、ついにアスタは脳裏でパンを責め始める。いくら背中合わせとはいえ、その約束さえ守ればお互いに身体を見ることはないとはいえ。
そもそも、時間をずらせばそれでよかったんじゃないか、と思ってしまうのだ。
パンのほうからしてみれば、確かに見られるのは恥ずかしいが、だからといって時間をずらすという考えはそもそも浮かばないらしい。別に見なければいいだけで、ならいっしょに行けばいいんじゃない、と。それが当たり前であり、だからアスタが抱えている心境にはまったく気づかない。
周りに近い年の人間がいないという事実は、こういうところにも影響するものなのだろうか。そんな考察を無理矢理してみるが、それで平常心を取り戻せるわけでもない。思考は、ぐるぐると同じところを巡っていた。
ちゃぷ、と水の揺れる音。パンが身体を清める音が、鼓膜を揺らして意識を震わせる。
なんだか頭がぼうっとしてきた。いや、あるいは冴えているのか。
それさえよくわからない。ただ意識は完全に、背後の音を、気配を読み取ろうとしている。無心になれ無我に至れ、と自分に言い聞かせるたび、むしろ強く意識してしまう。意識が意志に逆らっている。かつてない集中を見せていると言ってよかった。よくはない。
「んー……気持ちいいね、アスタっ」
「――ソウダネ」
棒読みになった。ならざるを得なかった、というか。
――なんで自分はこんなに緊張しているんだ。
自問自答するアスタ。だが答えなんて出てこない。その間に、パンは普通に、なんの照れもなく身支度を済ませたらしく、
「わたし、先に戻ってるねー」
「……おう」
そう答えるほかなかった。
――ねえ、これ見ちゃ駄目なのかな。駄目か。駄目だよね。
そんなことを考えながらも、結局、何もできやしないアスタである。
「……馬鹿か、俺は」
ばかだよ。という言葉が聞こえたような気がしたが、幻聴である。
そう決めた。
※
朝食は抜いた。というより食べるものがない。
アスタにはもちろん、自然の中から食料を調達する技能はない。パンは一応、狩りなどの心得もないではないということだったが、今回は時間のほうを優先することにした。
規定の時間まで、あと二日弱。
それまでに、アスタたちは迷宮からアーサーとマイアを助け出す方法を探し出すしかない。
相談した結果、ひとまず迷宮のほうを捜索に行くという方針で話は纏まった。場合によっては、外からなら結界を破壊できるかもしれない、という考えだ。
それで駄目なら、もうレファクールとぶつかるしかない。
現状、レファクールがふたりを閉じこめた犯人である可能性は高い。というよりも、ほかに犯人が思いつかない。
結論として、まずは迷宮の探索。それでどうしようもない、なんの成果も得られなかった場合は――レファクールと戦う。
そういう方針だ。
「――もし、レファクールが犯人だったとして」
もう決まっているようなものなのに、それでもそういう言い回しをしてしまうのは甘えだろうか。
呼び捨てにすることで、敵と見なそうとすることに意味はあるのか。
アスタには、わからなかったけれど。
「迷宮の結界……? とやらを解くには、どうすればいいんだ」
「……結界を解くには、大きく分けて三つの方法があるの」
ほんのひと呼吸ほどの間があって、パンは答えた。
その視線は、まっすぐアスタを貫いている。まるで覚悟を問うているかのように。
「ひとつは強引に、力で結界を破壊する方法。だけど――これは難しいと思う」
「どうして?」
素直な疑問。パンは少し困った表情を作って、
「えと、確かに内部から破壊するよりも、外部からのほうが簡単ではあるんだけどね。結界は、基本的に内側に作用するものだから」
「…………」
「でも、あの魔法使いの……アーサー=クリスファウストの突破できなかった結界となると……正直、わたしたちじゃ、できないと思う」
「……まあ、あのおっさんが無理となるとなあ」
未だに理屈として理解できたわけではない。だが本能が、あの男がただ者ではないことを納得している。
あの男に不可能なことを、自分ができるというヴィジョンがアスタには浮かばなかった。
「んじゃ、ふたつ目は?」
「術者本人に解いてもらう、だね」パンは、これもまた望み薄であるように言った。「結界を作り出した本人なら、その結界を外すこともできるはずだから。要は術式を止めればいいだけだし」
「……つまり、レファクールに」
「うん。だけど……当たり前だけど、言って止めるとも思えない、よね。戦って、無理矢理に言うことを聞かせるくらいしか」
「ちなみに」これはもう、聞く前からわかっていて訊いた。「三つ目の方法ってのは?」
「術者本人を、殺すこと」
「……そうなるよね」
「あとは殺すまでいかなくても、魔力切れになれば結界は解けるかもしれない。けど、これは術式によっては確実とは言えないし、たぶん、普通に倒すより難しいんじゃないか。地力は、向こうのほうが上なんだから」
「もし、俺たちがレファクールを倒そうと思うなら」
「一撃必殺」パンは言い切った。「不意討ちで、反撃させる前に殺すしかない……と思う」
「…………」
戦えるか。そう訊こうと思って、やめた。
それは訊くべきことじゃない。訊く意味があるとも思えない。
だからアスタは、代わりにこう訊ねることにした。
「勝てると、思うか?」
「やるしかないもん。そうでしょ?」
「……そうだな」
短い会話。結局、それもまた訊くことではなかったのだろう。
重苦しい空気を振り切るように、ふたりは揃って身体のほうを動かし始める。
まずは、迷宮を目指した。
※
その違和感に、初めに気づいたのはパンだった。
「……え。嘘、あれ……?」
どこか呆然とした様子を見せるパンに、アスタは首を傾げて問う。
ちょうど迷宮の入口――先日、マイアと別れたあの場所だ――のすぐ前にまで来たときだ。
「どうかした?」
アスタの疑問に、パンは眉根を顰め、不思議そうに答える。
「……ない」
「ないって……何が?」
「結界」パンはアスタに振り返った。「この迷宮、何もされてないよ。普通に出たり入ったりできる。結界なんか、どこにもない」
「そう、なのか……?」
アスタは首を傾げる。いくら多少のルーンを覚えたからといって、その違いがわかるほど魔術に精通できたわけではない。何より、元から瘴気の――魔力の密度が高い場所だ。結界の有無なんて正直、よくわからないというのが本心だった。
「なんかこう、巧妙に隠されてるとかいう可能性は? ひと目見るだけだと、わからないようになってる的な」
「ない、とまでは断言できないけど……いや、やっぱりないよ。あるはずとまでわかってる結界を、こうも完全に隠しきるなんて、まず不可能じゃないかな」
魔術で何ができて、何ができないのかはいまいちわからないアスタだ。
とはいえ、この場ではパンの言うことを信じるしかない。彼女がこうまで断言するのなら、ひとまず信じていいだろう。
代わりに別の可能性を提示した。
「じゃあ、全体にかかってるわけじゃないのかもしれない」
「……どういうこと?」
「いや、要は中にいるアーサーとマイアを、外に出さなければいいってことだろ? なら、ふたりがいる場所にだけ結界が張られてるって可能性もあるかと思って」
「ああ、そういうことか……」パンは少し呆れたように言う。「そういうの、よく一瞬で思いつくよね」
「え? いや、少し考えれば思いつくと思うけど」
「少しも考えてなかったじゃん……」
「……そうかな」
取り沙汰するほどのことはしていないと思うアスタだ。
この辺りは、地球人だからこその発想、ということなのかもしれない。
「ともかく、どうしよっか? 中に入ってみるか、それとも引き返すか」
パンは、その判断をアスタに委ねるつもりのようだ。
別に異存はない。むしろパンのほうこそ、自分に任せてしまっていいのだろうかと、アスタとしてはそちらが気になる。
ともあれ。少し考えてから、答えた。
「――少し入ってみよう。どういう結界なのか知らないけど、気をつけてれば、俺たちまで巻き込まれるってことは……ない、よね?」
「たぶん。ない……と思う、けど」
「それじゃあ、行こう」
なんらかのヒントになるものが。たとえアスタには理解できなくても、パンにならわかるものがあるかもしれない。
たとえないのだとしても、その場合は、それがなかったということがわかるだけでも収穫だ。引き返して、今度こそレファクールの元に向かえばいい。
ともすると、それは単に、レファクールと相対することを恐れているだけなのかもしれない。アスタの頭の中の、どこか自分を俯瞰するように見つめる冷静な、もうひとりの自分が、そんなことを主張している。
その自覚があってなお、アスタは迷宮へ立ち入ることを選んだ。
それは進んでいることになるのか、それとも逃げていることになるのか。
やはり、判別はつかなかったけれど。
そして――。
「……ない」
と、今度はそう、アスタのほうが口にした。
先程は逆に、パンのほうが問い返す。
「ないって、何が?」
「ああ。前にマイアと来たとき、ここに……その」
血液で描かれた陣が。おどろおどろしい、惨劇の証が。
この場所には、刻み印されていたはずだったのに。
「やっぱりマイアさんと来てたんじゃん……」
「いや、今はそれどころじゃなくてだな」
さらり、と誤魔化しアスタは迷宮の奥に進む。
血の痕はもう、完全に消えていた。どのように洗い流したのか、まるで見当もつかないくらいに綺麗さっぱりだ。
「ここには、確か……血で描かれた陣みたいなものが」
「……確かに」と、パンが頷く。「少しだけだけど、血の臭いがする。陣って言ったっけ? 魔術陣ってこと?」
「ん――いや、よくわかんないけど。たぶんそう。そんな感じだった」
「魔力で描かれたんだろうね。役目を終えたから消えた、ってことじゃないのかな」
「……役目ってのは?」
「それは、わたしだって知らないよ……」
――そりゃそうだ。アスタは頷く。
ともあれ、これではなんの手がかりも得られない。どころか、手がかりになりそうなものが消えているくらいだ。
「…………」しばし、思考を回す。
考えること。それをやめないことだけがアスタの持つ唯一の武器なのだから。
その自覚はなかったけれど。パンも、マイアも、きっとアーサーでさえ認めていた彼の才能。それはきっと、この部分にある。
やがて静かに、と表するには少し口数多く、アスタは呟き始める。
「この迷宮の先に、町の人たちが隔離されている可能性は、どれくらいあると思う?」
「……ないと思うかな」パンは首を振った。「というか、そうならもう、ダメだと思う。瘴気がある迷宮じゃ、魔術師以外は生きられない」
「だとするなら、それはないか」アスタは呟きを続けた。「アーサーは、この事態を目論んだ奴の目的は《虐殺》にあると言っていた。殺したいだけなら、たぶん、レファクールなら簡単だろう。町の連中じゃ、魔術師には抗えない。殺すなら簡単だ……でも、わざわざ姿を隠した。隠した、のか……? 誰から? 隠す? 本当に?」
「アス、タ……?」
思考が加速する。もはやアスタは、パンの言葉を聞いているかどうかさえ怪しい。
「俺たちが、あの魔竜に呑まれて消えたのは、奴らにとって誤算だったのか? それとも計算されていた? レファクールは魔竜の存在を知っていた……わざわざ、俺たちをあの場所に連れて行くことにしたのも奴だ。……そういう、役目……だった? 待て。おかしい。おかしいだろ。タイムラグなんてなかったんだ。レファクールが、町の住民を隠せる時間なんてほとんどなかった。一瞬で別の場所に飛ばしたのか? そういう魔術……ああ違う、えっと、そう、確か転移は魔術師には使えないんだったっけ。じゃあ、待て……そうだ。誰がやったんだ……本当にレファクールなのか?」
アーサーが追っていたという魔術師。それを捜すために、彼は町ではなく迷宮に向かった。
思い返せ。思い出せ。
そもそもアスタがこの世界に初めて来たとき、なぜ魔物に襲われた? 迷宮以外にはいないはずの魔物が、なぜあの時点で外にいた? あのときアスタは、死体をひとつ見つけている。あの死体は……いったいなんだ。誰なんだ?
噛み合わない。噛み合わないことが多すぎて気持ちが悪い。
なら――いったいどうすれば全てが噛み合う?
「……不味い」
そのときアスタの脳裏に、ふとひとつの想像がよぎった。
最悪と表現して足りないほどの災厄。それが、あの町を襲っているのではないか。今もなお……いや。
今はもう、全て手遅れであるのかもしれない――。
「パン。……魔物ってのは、なんだ?」
そのとき、気づけばアスタはそんな風に訊ねていた。
それは論理的な思考だけで辿り着くには、いささか遠すぎる境地としての問い。まるで何もかに呼ばれたように、誘われたように。
あるいは、そう――運命であったかのように。
アスタはその場所辿り着く。
「なんだ、って訊かれても……なぜか人間だけを狙う、魔力から生まれた疑似生命としか」
「魔力から生まれるんだよな。ということは、だ。逆を言えば……魔力があれば、魔術師なら魔物を創れるってことじゃないのか?」
「無理だよ。単に命令に沿って動く使い魔ならともかく、魔物には少なくとも、命はあるとされている」
ならば。その命さえ、どこかから工面できるのであれば。
「――パン。町に戻ろう。ふざけたことを言ってる場合じゃなかった。一刻も早くレファクールを見つけないとまずい」
「ど、どういう……」
「説明してる暇はない! つーか俺にもわかんないんだよ、こんなもん単なる勘だ! 外れていればいいっていうだけの勘!!」
だからその勘が、外れていることだけを祈ってアスタは走り出す。
その思考が、どうか手遅れでないことを願って。今ならまだ間に合うと信じて、足を進める以外にない。
――結論から言おう。
このとき、運命はすでに決定しており。
事態はもう手遅れのところまで至っていて。
パンとの別れが、もう目の前までやってきていた。




