4-15『三者三様の惨状』
――そのとき、シャルロット=クリスファウストは。
「……っ、何……ここ?」
流れのままに訪れた魔法使いの城で、突如として暗い大穴に飲み込まれたことを思い出す。
それこそ冗談のように。座っていた椅子ごと、ぽっかりと開いた大穴に飲み込まれてしまう。笑えない距離を一直線に落下したシャルは、さて、それからどれくらいが経っただろう。気づけば暗闇の中で、ひとり呆然と立ち尽くしていた。
ここはいったいどこなのか。
何もわからない。
明かりはなく、周囲は黒一色に包まれている。不思議なのは、にもかかわらず視界が閉ざされているわけではないということだろう。
不思議な感覚だった。何も見えないわけではない。黒が見えているのだという感覚が、シャルの中には確固としてある。どう表現するのが正しいのかはわからないが、少なくとも行動不能な闇とは異なっていた。
左右も天地もわからない、黒一色の中にシャルはいる。
それが魔法使い――フィリー=パラヴァンハイムの仕業であることは疑いようもなかった。けれど逆を言えば、わかることなどそれくらいだ。
「――出てきて、クロちゃん」
思いつき、ふとシャルはそう呟く。
言葉とともに現れたのは、かつて迷宮で召喚した黒一色の使い魔。もこもことしたスポンジのような、シャルが《クロちゃん》と名づけた疑似生物である。
かつては召喚に魔晶を要したが、あれ以来、なんとなく気に入って多用してきた使い魔だ。今では詠唱さえ必要とせず、いつでも呼び出すことができる。
黒いもこもことした毛玉に、細い手足が生えたような使い魔だ。
当然、そんな形をした生物は存在しない。だからこそ、このクロちゃんは五感によらない活動を可能とする。迷宮のような暗闇であろうと、この子の感覚であれば自在に行動を可能とするだろう。
「……少しの間、私の眼になっててね」
シャルはクロちゃんにそう頼む。知覚を魔力に頼む使い魔は、たとえ光源がなくとも方向に迷うことはない。
何も見えないと言うよりも、あくまで闇が見えているという感覚の場所だったが、頼りがあるに越したことはなかった。
もこもことした使い魔を頭に乗せ、シャルは一歩を踏み出す。今のところ、危険らしい感覚をシャルは感じていなかった。
とはいえ、先程の顛末は覚えている。
ウェリウスが放り出されたのも、シャルが今いるのと同じような暗黒空間だった。あれがフィリーのひとり芝居でもない限り、おそらく彼は、この場所で凶悪な魔物と戦わされていたと見える。
ならば、この場所にも同じように魔物が存在するかもしれない。
今のところは、シャルの魔力知覚にそういった邪悪な存在は感知されていない。クロちゃんも同様のようで、何を考えているのやら、シャルの頭の上でときおり、ぴょんと跳ねながらも静かにしている。
あとは出口を探すのみだが、こればかりは自らの足で確認するしかないだろう。
魔力を使って、地形を把握することも不可能ではない。だが、このような理屈のわからない土地にいる場合は、基本的に魔力を温存するべきだろう。
そのことを、シャルはアスタを通じて学んでいた。
その意味で言えば、こんなもの、迷宮に潜るのと大した違いはない。
――そして。しばらく歩いた頃だった。
ふと、頭上のクロちゃんが全身の体毛を逆立てる。
何か見つけたらしい。それも、使い魔が警戒する類いの何かをだ。
「…………」
シャルは進む足を止める。
前方に、何かが現れていたからだ。
「誰?」
誰何する。答えを期待したわけじゃない。単に、こちらが気づいていることを、向こうにも知らしめようとしただけだ。
けれど、そんな牽制が効力を発揮するには、最低でも相手が人間でなければならない。
そのときシャルの目の前に現れたモノは、けれど人間ではなかった。
どころか、そもそも生物であるのかさえ疑わしい。
「――――」
すっと、影が姿を現した。
黒い闇の中でさえ、どうしてか《影》であると認識できる何か。それはシャルの行く手を遮るように正面を塞ぎ、無言のままに立っている。
いや、その謎の影に、果たして言葉を話す機能があるのかどうか。
ヒトガタだ。見た目には少なくとも、人間の形に見える。
けれど人間ではない。どころか、そもそも生物なのかさえ疑わしいだろう。
あくまで影だ。色を持たず、厚みを持たず、命を持たない。
けれど――それでいてなんらかの意志は持っている、まるで魔物のような何か。
認識できるのは輪郭だけ。
それがどうしてか。まるで、自分自身が鏡に映った存在のように見えて――。
「――! 防いでッ!!」
刹那の瞬間、シャルは叫んでいた。
言葉に反応するかの如く、頭上の使い魔が前方へと飛び降りる。そして黒い毛むくじゃらの身体が、いきなり平べったく膨れ上がった。
それは巨大なクッションだ。
前触れなく放たれた攻撃を防ぐ、障壁代わりの吸収素材。薄い布団のように延びた使い魔が、シャルの前面を覆い隠す。
撃ち出された魔弾は、びよんと広がった使い魔の身体に吸収された。魔力を吸い込み、クロちゃんはその力を増幅させる。
そして。
お返しとばかりに、魔弾がそのまま撃ち返された――。
「……!」
だが。跳ね返された魔弾を、影は軽く一歩、横に動くだけで避ける。
特筆するほど優れた身のこなしではない。影はただ横にずれだだけだ。
だが、だからこそ目を瞠るのだ。その程度で回避できることが、まるで攻撃を予期していたかのようだと思わせるから。
たったそれだけのやり取りで、手の内を見透かされているような感覚に襲われる。――いや、本当にそれだけなのだろうか。
違う。シャルはもう気づいていた。
その人影が――自分の輪郭とそっくり同じモノだということに。
光を反射しない鏡を覗いているみたいな、奇妙な感覚がある。目の前の影が自分であることを、シャルはすでに確信していた。
そいつが、そして――こちらに攻撃の意志を向けているということも。
「……どうやら、こいつを倒さないと出られないみたいね?」
シャルは、元の形に戻って頭の上に帰ってきた使い魔に、語り聞かせるよう呟いた。
クロちゃんはシャルの頭上で、戦意を表すみたいに膨らんだり萎んだりを繰り返している。言葉は話さずとも雄弁な、この友人がシャルは嫌いではない。元より、昔から使い魔の創造は得意だった。
「よくわからないけど……相手をするしかなさそうかな。手伝って、クロちゃん」
魔力を掌に集め、それを相手に向けながら言う。
元より、彼女は案外と好戦的だ。向けられた挑戦には遠慮をしない。
――最近、いろいろと考えることも増えてはきたけれど。
少なくともこの間だけは、煩わしい思考など忘れることができそうだ。
シャルは、魔弾を撃ち放った。
※
――そのとき、ピトス=ウォーターハウスは。
独りだった。前も後ろも、天地もわからぬ暗闇にいる。自分の身体さえ認識できない、闇という概念の中にいる。
彼女は知らないが、それはシャルやウェリウスが落とされた暗黒空間とは違う。この空間は、いわばピトスの精神世界だ。
闇に塗り潰されている、救いなどない暗闇だ。
亀裂を感じる。
それは傷だ。拭えない、治癒することのできない心の傷痕。
ピトスにあるのはこの闇だけだ。
かつて穿たれた深い傷は、今も癒えずに疼いている。どんな外傷を治せても、自分のことは治せない。
奪われたのだ。
持っていた全てを。彼女にとっての世界の全てを。
だからこそ、その復讐だけを胸に生きていた。ほかには何も望んでいない。ほかには何も必要としない。
ピトスの世界は、ただそれだけで完結してしまっているのだから。
そのために全てを利用した。
家族を、友人を、全てを殺したその仇から、ピトスは戦い方を習った。
――いずれ自分を殺しに来いと。
利用されていると知って、それでも相手を利用した。
それだけだ。善意も悪意も殺意も好意も、全て復讐のための道具でしかない。
使えるものならば全て利用する。戦う力を身につけ、癒す力で媚びを売り、強い魔術師に取り入っては、その心につけ込んできた。
感情は便利だ。元手なく、けれど高値で捌ける。
外見だって同じだ。背が低く華奢で、愛らしいと言える少女の容貌は、他人の友情を、愛情を、劣情を――同情を買うのに最適だった。
だから気づかない。だからピトスは気づかない。
目を塞ぎ、耳を閉じ、鼻をつまんで唇を噛む。
誰かを癒すための手は、誰とも繋がったことがない。
だから彼女は――その先の光に届かない。
いつだって。
いつまでだって。
少女の時間は、独りきりのまま止まっている。
※
――そのとき、ウェリウス=ギルヴァージルは。
すでに慣れ親しんだと言えるほど、何度となく訪れた暗黒空間をひとり彷徨っている。
この場所は、《空間の魔法使い》たるフィリーの独擅場。全ての法則が彼女の支配下にある、特殊な結界空間――異相次元だ。
いくら探したところで、フィリーが創らない限り出口はない。だから、この場所を脱出するのに必要なのは、ただひとつ。彼女の許可を得るだけでいい。
それが難題であることを、もちろんウェリウスは知っていた。
なにせ目の前には――凶悪で醜悪な、恐ろしい化け物の姿がある。
「……ふふ」
思わずウェリウスは笑みを零す。それを自制できないから。
見る者が見れば驚くだろう。彼の表情は、普段の繕った仮面のような笑みとは違った。
それは――怒りの感情から発露された笑みなのだ。
「ああ……師匠め。いくらなんでも、これはないんじゃないかなあ……」
肩を揺らし、ふふふふふ、と幽鬼の如くウェリウスは呟く。
だってそうだろう。これはない。
目の前の怪物は――だって、どう見たって。
「――魔竜はない」
黒い巨体。枯れ葉のような両翼は、それでも力強さを感じる。人間などひと飲みであろう大顎には、凄まじいまでの魔力の唸り。
およそあらゆる幻獣の中で、こと破壊と戦闘に限れば、この種は頂点に君臨している。
悪魔の化身。全魔の頂点。滅びの象徴にして最強種の一角。
それが――魔竜種。
本来、それは人間が敵う相手ではない。きっとこの魔竜も種族の中で見れば最下位に近い力しか持つまい。
けれど。魔竜だけは、ほかの幻獣とも一線を画す。
それはすなわち悪魔であり、存在として世界の法則そのものの側に属する概念存在。たとえ下位だろうと、これを打倒するにはこちらもまた概念干渉を可能とする――すなわち世界法則を直接変更できるだけの魔術でなければ通用しない。
魔竜に傷をつけるということは、世界そのものに傷を付けることに等しい。
掠り傷をつけるためでさえ、魔術の極みを必要とするのだ。
「ふざけてる……いくらなんでもあり得ない……ふふはははっ」
ウェリウスは半ば壊れていた。
特訓にしたって限度がある。こんなもの、普通に考えれば死刑宣告に等しいのだから。
いったいどうすればいい。
思い悩むウェリウスの脳内に、ふと、こんな声が聞こえてきた。
『――何をしてる、馬鹿弟子。その程度を倒せないようじゃ、今度こそ破門だぞ』
「師匠――」ウェリウスは笑った。「いくらなんでも魔竜なんて。いったいどこで見つけて来たんですか」
『案ずるな。魔竜の中じゃ最下位だよ。まだ生まれたばかりだからな』
「そういう問題じゃ――」
『負けたんだろう、印刻使いに』
「――――」
思わず、言葉を失った。
フィリーは声だけで続ける。
『まあ仕方ないさ。才能はともかく、経験は向こうが上だ。そもそもアレは世界側の魔術だからな。質の上では及ぶまい。よくやったよ』
「……っ」
『などと慰められるのは屈辱だろう?』
空間の魔法使いに、見えない場所などありはしない。
それこそ心の中でさえ、彼女は見透かすように言う。
『なら証明しろ。お前にできないはずがない。その程度の魔術しか教えなかったとなっては、それこそ私の名折れだからな。――というかだ』
呆れた口調でフィリーは言う。
それが、最も重要なことであるとばかりに。
『坊主の弟子に、私の弟子が負けて帰ってくるんじゃない』
「……そこですか」
『ほかに何があるんだ、この馬鹿。負ける要素などなかっただろう。油断するからそうなるんだ』
「本気を出したら、アスタを殺してしまいかねなかったので」
『それを言い訳にするからだろうが』
魔法使いはあくまで辛辣だ。
確かにウェリウスの言は正しい。そもそもの能力差が、封印状態にあるアスタと、なんの縛りもないウェリウスでは大きすぎるのだから。切る札を間違えれば、ウェリウスはアスタを殺していただろう。
あの試合で、そんなことができるわけもなかった。
けれど魔法使いは――それさえ怠慢だと語る。
『そこが差だ。だからこそ、もし互いに、なんのしがらみもなく殺し合ったとき――その差でお前はまた負ける』
「…………」
『決定的なことを何ひとつしてこなかったお前と、全てを選んできたあの印刻使いとの違いがそれだ。下らない。そんな甘えは今すぐ棄てろ』
「できなければ?」
『死ね』
「…………」
『そんな弟子は、存在そのものが私の恥だ。選べ。必死になれ。本気の出し方をここで学べ。実力に対して言い訳をするな。私の弟子になったとき――その時点で、お前はもう魔術師以外の生き方を棄てたんだ』
ウェリウス=ギルヴァージルは、魔術師として生きることを選んだ。
戦うことを決めたのだ。抗い続けると選んだのだ。
それを忘れて、ただ生きているだけならば、そんな人間は魔法使いの弟子として相応しくない。
だから――生きたければ、ここで死ね。
「そう、でしたね……師匠」
『せいぜい励めよ。本気を出せば、今のお前なら相討ちくらいには持っていけるだろうさ』
「それ、どう足掻いても死んでるんですが、僕」
『なら超えろ』
「無茶なことを、あっさりと言ってくれるよ、まったく……」
ウェリウスは苦笑する。だが、彼女の弟子を選んだ時点で、これはもう決まっていたことなのだから。
世界でも最強クラスの魔術師ならば、あるいは魔竜を打倒できよう。
ならば、今。
ここで最強に至ればいい。
「――さて。それじゃあひとつ、滅竜の称号に手をかけようか」
顔を上げる。前を、ただ前だけを見るために。
――挑むのは伝説だ。
そう。かつて七星旅団が、五大迷宮の一角で成し遂げたという幻獣退治の伝説。
その階に、手をかけよう。
伝説に挑め。並べ。いずれ超えるための手始めに。
そして。
「生きて戻ったら――次は魔法使いを泣かす」
――やってみろ。
と、魔法使いが笑っていた。




