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セブンスターズの印刻使い  作者: 白河黒船/涼暮皐
第四章 王都事変
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4-11『水の都』

 心地のいい倦怠が身体を包んでいた。惰眠を貪る贅沢は、何物にも代え難い快楽を与えてくれる。

 それでも目覚めは、朝は変わりなくやってくるものだ。

 窓から差し込む暴力的なまでの日差しに、一ノ瀬明日多は薄く開いた瞳を片腕で庇うように覆う。

 その瞬間だった。


「起っきろぉー、アスターっ!」

「ぬぐぅおぇぁっ!?」


 扉から駆け込んできた小さな人影が、寝台ベッドの上で眠る明日多の腹部に跳び込んできた。

 どすん、と。

 間の抜けた音と衝撃が、明日多を眠気から強制的に引きずり出す。

 まるで組み伏せられたかのような体勢で。

 仰向けに寝そべる明日多の上で、花の咲いたような笑顔を見せるひとりの少女。


「うん? 起きた?」

「……ああ起きたよバッチリだ」


 引き攣らせた笑みを明日多は見せる。

 このところ毎朝起きる事態だが、なにぶん朝には弱い明日多だ。未だに慣れない。

 けれど。そのことを、不愉快だと考えたことは一度もない。


「――おはよう、アスタ。いい朝だねっ!」


 快活な、そしてなんの穢れもない無垢な微笑み。

 明日多に朝の到来を伝える、異世界で出会ったはじめてのともだち。


「おはよう、パン。――いい朝だ」


 地球を離れておよそ二週間。

 明日多にとって、《水瓶亭》出迎える朝はすでに日常へと変わっていた。



     ※



「――ねえねえアスタ、今日は何しよっか?」


 水瓶亭の二階。階段を昇った先にある、廊下のいちばん奥の部屋が今、明日多の暮らしている場所だった。

 パンと連れ立って一階に降り、用意された朝食に舌鼓を打つ。

 地球にいた頃から見れば、粗末とさえ言えるような食事。けれど明日多は不満を感じたことがない。

 地球での生活を全て強制的に奪われ、わけのわからない怪物に襲われて。未だ中学生に過ぎない青年ならば、本来なら恐慌状態に陥ったっておかしくはない。

 諦観や覚悟があるわけじゃない。どころかむしろ、今の生活を楽しむくらいの余裕が彼にはあった。

 単に考えなしなのか、それともほかの理由があるのか。

 いずれにせよ明日多にとって――異世界での新生活が新鮮な刺激に富んだものであることは確かだった。


「そうだな……この家にある本は、割と読み尽くしたし。今日は久々に、町に出てみてもいいかもしれない」

「やった! それじゃいっしょに行こうよ!」


 はしゃぐパン。全身で嬉しさを表現する彼女に、明日多も思わず笑みを作る。

 この半月で、彼女にはずいぶんと懐かれた。すでに町の大人たちからは、明日多を指して《将来の婿候補》などと言われているくらいだ。

 もちろん地球に戻るつもりでいる明日多は、安易に跡取りになるなどとは言えないが。


「――夕方までには帰ってきなさいね。店の仕事もあるんだから」

 朝から働いているパンの母が、釘を指すように言う。けれどその表情は、どこか微笑ましい光景を見るように柔らかい。

 宿屋として経営されている《水瓶亭》だが、客は明日多を入れてもたった三組だ。仕事というほどの仕事はないのかもしれないが、やることがないわけでもない。

 それでも娘のわがままを許すのは、パンに同年代の友人ができたことを喜んでいるからだろうか。

 働く両親も、朝食を取る客も、無邪気な少女を温かく見つめている。

「わかってるよー。それじゃ行ってくるね、おかあさん!」

「ちょっと。お昼はどうするの?」

「どこかで買って食べるー!」

 言うなりパンは宿を飛び出し、早速のように町へと繰り出す。

 ただし、明日多を置き去りにしたまま。

 その数秒後、気がついたパンが「なんで来ないのさー!?」と頬を膨らませながら戻ってきて、全員が一斉に破顔した。


 そんな、平和な町だった。



     ※



 湖の町。水の都。

 それがこの町のあだ名だ。

 由来になったのは、町の北はずれにある巨大な湖。生活の大部分を支える巨大なそこには、かつて女神が住んでいたとの伝説があった。

 というような事実を、明日多はパンの口から、そして宿にあった子ども向けの書物から学んでいる。


 この二週間、明日多は文字の習得に明け暮れていた。

 本来、新しい言語を一から習得するのは決して簡単なことではない。英語さえあやふやな明日多が異世界語を習得するのには、多くの労力を要するはずだった。

 その問題を解決してくれたのが、あの魔法使いによって施された額の傷痕だ。

 あれ以来、明日多にはなぜか異世界の言語がわかる。

 少なくとも口で話す分には、誰とでも意思疎通が可能だった。

 けれど、その不可思議は文字にまで適用されていない。だから文字に関しては一から習得する必要があったのだが、言葉がわかるということがそれを大いに助けたのだ。

 口を開くごとに、あるいは文字を見るごとに感じる頭部の鈍痛を無視すれば。

 文字の習得は、そこまで難しいものではない。

 すでに子ども向けの童話くらいならば、十全に読める程度の能力を獲得できていた。


 だからといって、地球に帰る方法が見つかったわけでもなかったけれど。


「それじゃ、今日はどこに行こっか!」

 パンが笑顔で明日多の袖を引っ張っている。

 同年代の割に、なかなか子どもっぽい少女だった。けれどその素直で人懐こい様は、決して他人を不快にさせるものじゃない。

 この町には、パンと同年代の子どもがほとんどいないのだという。それより小さいか、それより大きい子ならばいるのだが。

 明日多にとって、パンが異世界で初めての友人であるように。パンにとってもまた、明日多は初めてできた同年代のともだちなのだ。

 彼女の性格は、その辺りに起因しているのかもしれないと、なんとなく思う。


「どこでもいいよ。パンの好きなところで」

「むー」明日多の言葉に、パンは頬を膨らませる。「そういうのいちばん困るなー」

「そう言われても」

「ちょっとー。もうちょっとなんかないのアスター?」

「いや。俺もまだ、この町のことよく知らないし」

「……ふむん。ならば仕方がないっ!」

 ふんすっ、とパンは鼻を鳴らした。

 年齢を考えればそれなりの胸を大きく逸らし、任せろとばかりに軽く叩く。

「では、わたしがこの町を案内してあげようっ!」

「……それじゃ、お願いしようかな?」

 悪戯っぽく微笑み返した明日多に、パンも気をよくした様子だ。

「任せなさい任せなさい! それじゃあ行っくぞー、冒険だー!!」

 意気揚々と歩き出す友人の背中を、明日多は小走りで追いかけていった。


 とはいえ。

 さすがに二週間も過ごせば、明日多だって町の地理には多少なりとも精通する。

 だから案内するのは、必然的に町の外となった。


「そういえば、俺もまだ例の湖は見てなかったなあ……」

「じゃあ行こう行こう!」

 パンはノリノリだ。明日多としても、特に断る理由はない。

 というか、やはりこの町の名所なのだから。見ておきたいと思っていた。

「なにせこの町でいちばんの自慢なんだからねっ! 綺麗なところだよっ」

「ちょっとしたピクニックだなあ……じゃあ、何か食べるものでも買っていこうか」

「ん? おおっ、そいつはいい考えだぜ、アスタくんっ!」

 そういうことになった。

 町で食料を入手し、ふたりは歩いて町外れの湖へと向かう。


 ――結論から言えば。

 その食料を自分で食べることはなかったのだが。



     ※



 ――さすがに壮観だ、と明日多は思う。

 美しい光景だ。地球では、少なくとも日本では絶対に見られないだろう壮大な自然。

 林を抜けた先に広がっている、端を見渡せないほどの広大な湖。周囲は遠くを峻嶮な山々に囲まれており、その山頂には雪も見えるほどだ。

 異世界の季節など明日多にはわからないが、体感的には春だ。そこから察するに、きっとかなり高度のある山なのだろう。


「……すごいな」

 思わず呟いた明日多。

 まるで自慢の宝箱を開陳したかのように、誇らしげな笑みでパンは呟く。

「これが、わたしの町のたからもの。すごいでしょ?」

「うん。なんていうか……圧倒される気がするよ」

「よかった、気に入ってもらえて」

 どこか照れるように微笑むパン。その意味は明日多にわからない。

 けれど、悪いものではないのだろう。こんなことで彼女が笑ってくれるなら、それでいいように思えていた。

 静かに、呟くようにパンは続ける。

「アスタには、見ておいてもらいたかったんだ」

「……そっか」

「うん。……そうだよ」

 パンの視線は、湖をまっすぐに見据えている。

 その瞳に映るものは、果たして目の前の光景だけなのだろうか。ほかの何かが、彼女には見えているのではないのだろうか。

 なんとなく、そんな風に明日多は思う。


 まあ。本当に見えるものがあったのだが。


「……さて。それじゃあお昼でも食べようか。意外と遠かったし――」

 無言がなんとなく嫌になり、明日多はそんな風に提案した。

 だが、なぜかパンは何も答えない。

 明日多は首を傾げる。少女の視線は、いつの間にか少し横の方向、湖の畔に注がれていた。

「どうかした……?」

 訊ねる明日多に、パンは視線の先へ指を向けて言う。

「いや、あそこにヒトが……」

「ヒト?」

「うん。……倒れてる」


 ――え。

 咄嗟に視線を指の先に向ける。

 すると言葉の通り、湖の隣に人がひとり、うつ伏せに倒れているのが見えた。

 全身は古ぼけたローブで隠されており、その性別は定かじゃない。だが胸がわずかに動いているようで、どうやら生きてはいるらしい。

 明日多は咄嗟に駆け寄った。その後ろをパンも追ってくる。


「大丈夫ですか!?」

 慌てながら、その人影を助け起こした。

 仰向けになるように抱き起こすと、被っていたフードが取れてしまう。

 その下に見えたのは、燃える炎のような赤毛だ。明るく鮮明で、強い生命力を感じさせる赤い髪が、肩の辺りまで伸びている。

 女性だった。

 その鮮やかな髪に反して、女性の表情は酷く力のないものだった。少しやつれていて、なんだか生気が削がれている。

 と――その瞬間。

 女性はカッと目を見開くと、驚くほど強い力で明日多の腕を握り締める。

「んな……っ!?」

 驚く明日多に、ぴくりと肩を反応させるパン。

 そして、女性が口を開く。


「――おなかすいた」


「……は?」「え……?」

 思わず視線を交わす明日多とパン。

 まさか、空腹で行き倒れているとは予想外だった。

 そんなふたりの驚きに構わず、女性は震える声音で言葉を続ける。

「何か……食べ物……ちょうだい……っ!」

「え、えーと……」

「私としたことが行き倒れるなんて……シグじゃあるまいし……」

「……あの」

 狼狽えつつも、明日多は昼食用に用意してあった食料を取り出して言う。

「これ、食べま――」

 最後まで言えなかった。

 次の瞬間、手に持った果物に、いきなり女性が齧りついてきたからだ。


「メシ――!」

「ぎゃ――っ!?」


 しゃりしゃりしゃりしゃり。明日多の手から果物を直接、貪り続ける謎の女。

 その後、涎で手がベットベトになるまで、女性は明日多を離してはくれなかった。

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