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セブンスターズの印刻使い  作者: 白河黒船/涼暮皐
第四章 王都事変
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4-05『生きるすべ』

 ――何かに、引きずられるみたいな感覚があった。

 その何かがなんなのか、明日多には表現することができない。白いのか黒いのか、いいものなのか悪いものなのか、何ひとつ判然としない。温度も感触も匂いもわからない。

 わかることは、その《何か》がきっと、自分を呼んでいるのだろうということだけ。どこにあるのか、なぜ自分を呼ぶのかも判断できない中で、その事実だけが頭の片隅にあった。


 それはきっと夢だ。

 まどろみの中でのみ出会える幻想のかけら。実態はなく、ゆえにきっと意味も価値もそこにはない。それを見いだせるモノがあるのだとすれば、おそらく明日多だけだった。

 光っているのか濁っているのか。それさえわからない何かに、ただ呼ばれているから、ただ求められているからという理由だけで手を伸ばす。

 まるで、自ら縋っているかのように。

 そうすることが、定められた義務だというかのように。


 少なくとも――この場所が暗闇だということだけは認識できていた。



     ※



「……っ、ぁ――」


 呻きとともに目を覚ます。それが最悪の覚醒であることは、一瞬で思い出せていた。

 乾き切った土の感触。肌も服も汚れていて、それ以上に全身を包む奇妙な倦怠感が不愉快だ。鈍い痛みが左肩で自己主張を始め、まるで十年来の友人だと言わんばかりに意識を埋める。

 じくじくとした筋肉の痛みを、ないものと見做して身体を起こした。

「――っ!!」

 後頭部に鋭い痛みが走る。肩口の痛みとは種類が違う、寝惚けた脳髄を無理やり叩き起こすかのような痛みだった。


「――起きたか」


 ふと、声が聞こえた。まだぼやけた視界が、徐々に明瞭さを取り戻していく。

 そうして把握した世界の輪郭。明日多はこの場所が、深い森の中であることを思い出した。

 突然に投げ出され、そして突然に襲われた、明日多の常識と異なる世界。死さえ幻視した暴力の淵で、明日多は見知らぬ男に助けられたことを思い出す。

 そういえば、確かにこんな声だった。

「まだ安静にしていろ。頭を打ったんだ、どこに影響が出ているか知らんぞ」

「……あんた、は?」

「最初の質問がそれか。ふん、それはこっちの台詞だがな」

 吐き捨てるような男の声。その主は、ゆらめく焚火の向こう側にいた。

 ようやく働き始めた脳味噌が、周囲の状況を認識する。

 夜の森だった。風景では判別できないが、おそらくは先ほど明日多が迷い込んだ森と同じ場所だろう。最後の記憶から、時間はそれなりに経っているらしい。


「まだ頭が回りきってねえな」

 男が言う。微妙に口が悪かった。まだ中学生に過ぎない明日多にしてみれば、威圧的な大人などそれだけで苦手なのだが、どうしてか警戒心は湧かない。

 炎が光源となって、男の顔を淡く照らす。

 年齢のわかりづらい容貌だ。色素が抜け落ちたみたいな髪は真っ白に乱れていて、老いた賢者を思わせる。そうでありながら、わずかに不精髭が覆うかんばせは凛々しく、そして雄々しい。何よりその黒い双眸の鋭さは、明日多がこれまで見たどんな人間より強い意志を感じさせる。

「……いや、大丈夫だ。えっと、あんたが助けてくれたんだよな?」

 わずかにかぶりを振って、それから明日多は口を開く。

 あえて《あんた》と呼んだのは、単なる見栄に過ぎなかったが。この状況で、頼れる相手がこの男だけだからこそ、弱味を隠そうという小細工だ。

 そんなものが、この男を相手にどれほど通用するものかわからないが。

「偶然だがな。まあ、俺が助けてやったことになる。せいぜい恩に着ろ」

「……ありがとう、ございます。助かりました」

 それだけは敬語で言った。同時に自覚する。

 先ほどの記憶が、やはり嘘でも夢でもないという事実を。

 もっとも、そんな言葉にさえ男は皮肉で返す。


「さあ? まだ助かったと決まったわけじゃねえけどな」

「え……?」

「そもそも応急手当しかしてねえし。いくら俺でも治癒魔術は使えんからな」

「…………」

 気になる言葉が出てきている。

 それを確認する意味も含めて明日多は言った。

「それで――えっと、いくつか質問があるんだけど、訊いてもいいか?」

 相手を窺うような視線で。

 少し話しただけで、少なくとも目の前の男が単なる善人だとは思えなくなっている。あるいは断られるかもしれない、と少し考えていた。

 幸いにも、その予想は外れる。男は簡単に頷いた。

「好きにしろ」

 言って男は、焚火の根元辺りに手を伸ばした。

 何か焼いていたらしい。串焼きにされた肉がいくつか地面に刺さっている。そのうちの一本を手に取って、つまらなそうな表情で口に運ぶ。

 それを見た瞬間、明日多は空腹を自覚した。死ぬような目に遭おうと、腹が減ることに違いはないらしい。

「食いたければ勝手に取れ」明日多を見すらせず男は言う。「乗りかかった船だ、明日までは面倒見てやる」

「……ありがとう」

 意外に優しいのかもしれない。

 と簡単に騙されてしまうくらいには、明日多も結局、追い詰められていたのだろう。


 なんの肉かもわからない串焼きを一本取って、口に運んだ。

 ――美味い。素直に、心底からそう思う。

 大した味つけもされていない、単に焼いただけの肉。固いし筋張ってるしで、はっきり言って褒められたものではなかったのだが。

 この状況だから美味しく感じるのだろうか。

 喉が渇けば、男から投げ渡された革製の水筒から飲み水を呷る。

 そしてひと心地つけば、多少なりとも思考が働き始めるというものだ。


 ――正直、この状況には違和感しか覚えない。

 まず目の前の男からしてそうだ。白い髪に黒い瞳――だが目鼻立ちは通っていて、どうにも東洋人には見えなかった。着ている服だって、なんだかファンタジー映画に出て来る旅人のような風情だ。少なくとも《洋服》という感じではない。投げ渡された革製の水筒に至っては、こんなもの、それこそ知識の中でしか知らないものだ。

 けれど男は日本語で喋っている。


「……なあ。ここ、どこなんだ? 日本じゃないのか……?」

 気づけば明日多は、そんな問いを言葉に変えていた。

 あえて《日本》などという大きな括りで訊ねていた時点で、あるいはもう、多少なりとも察しはついていたのかもしれない。

 男は粗末な串から肉を噛み取ると、空いたそれを地面に突き刺して皮肉げに笑う。

「日本……ね。いや、そんな国は(丶丶丶丶丶)この世界にねえよ」

「――は……?」

 明日多がもう少し冷静に聞いていれば、男の言葉にあった矛盾に思い至ったかもしれない。

 だが、このとき明日多はそれに気がつかなかった。それ以上の衝撃が、男の言葉に含まれていたからだ。

「レスレリア王国」

 男が、呟くように言う。それが国家の名前だと、明日多には認識できなかった。早口言葉か何かかとさえ思った。

「それがこの王国の名前だ。知ってるか?」

「……いや……」

 知らない。聞いたこともない。

 狼狽える明日多に、男は「だろうな」と軽く頷くだけだ。そのあっさりとした様子が逆に、男の言葉が嘘でないという説得力として感じられた。

 ――いや。やはりどこかで、もう気づいていたはずだ。

 あの害意の塊のような怪物を見た瞬間に。あるいは、その動きをあっさりと止める男の技術を目の当たりにしたときに。

 きっとわかっていたはずだった。


「――ここは、地球じゃない、のか……?」

「初めまして異世界人」


 明日多の呟きに、男が呼応して笑みを見せる。

 懐から煙草を取り出すと、豪胆にも焚火に顔を近づけて着火し、


「お前。名前は?」

「え……」

「だから名前、名前だよ。なんて呼べばいいんだ?」

「あ、ああ……明日多。一ノ瀬明日多だ」

「そうか。俺はアーサー=クリスファウスト。魔法使いだ」


 その名前が、この世界のおいて持つ意味を明日多はまだ知らない。

 だから、軽く頷くだけだった。

 その反応に、魔法使いは初めて愉快そうに笑って言う。


「――ようこそレスレリア王国へ。もっともアスタ、歓迎してもらえるとは思わないほうがいいだろう」


 薄暗い魔の森の空に、ゆったりと紫煙を吐き出した。



     ※



 ――この世界における二度目の覚醒は、一度目よりいくぶんあっさりとしていた。

 とはいえ、それは単に一度目より眠りが浅かっただけかもしれない。固い地面の感覚と、それでいながら絡みつく泥の感触に辟易しながら、明日多はゆっくりと身体を起こす。

 決して心地いいと言える寝床ではなかった。野外で眠った経験なんて、せいぜい小学生のとき校外学習として参加したキャンプ合宿くらいのものだ。それだってテントくらいはあったため、地面で直接眠ったのは初めてである。

 もっとも、それでも眠ることができただけマシというものだろう。

 魔法使いを名乗る謎の男――アーサーがいなければ、明日多は安心して眠ることなんてできなかっただろう。

 この森には怪物が――魔法使いの言葉を借りれば《魔物》が――跋扈しているのだから。


「起きたか」

 その声は背後からかかった。

 振り返るまでもない。魔法使いの声である。

「結界は解除してきたからな、いつまでも寝てるとあっという間に魔物の餌だぞ」

「……ああ、わかった」

「いちばん近い町まで行く。ついて来い」

 焚き火はすでに消されていた。それを見てから、明日多は小さく頷く。

「わかった。……頼む」

 アーサーは答えず、歩き始めた。ついて来いということなのだろう。

 そう勝手に解釈して、明日多は魔法使いの後を追う。

「……その町までは、どれくらいかかるんだ?」

「大して時間はかからん。小一時間も歩けば着くだろう」

「そう、か……」

 それ以降、会話はひとつもなかった。


 道中、特に魔物と遭遇するということはなかった。さしずめハイキングでもしているかのように、静かな森を歩くだけ。

 魔法使いが何かをしているのかもしれないし、違うのかもしれない。明日多にわかるはずもなかった。

 なんとなくわかるのは、きっとこの男はかなり強い魔法使いなのだろう、ということくらい。別に根拠はない。ただの勘だ。でも、きっと当たっている。

 しばらく歩くと、やがて森を抜けて平地に入った。そこでようやく、先ほどまでいたのが小高い山だったということに気がつく。道理で歩きにくかった。

 木々が減り、開けた視線の先に町が見えた。

 遠目で見る限り、半数が石造り、もう半数が木造の建物だろうと思われる。少なくともコンクリートや金属を使っているようには見えない。

 近づくにつれ、ここが地球ではない異世界なのだ、ということが浮き彫りになる気がした。


「――ウォーターホール」

 魔法使いが唐突に言う。明日多は顔を上げ、首を傾げた。

 彼はどこからか煙草を取り出すと、燐寸もなしに火をつけて一服する。なんでもないところで《魔法》を見せられると、さすがに驚かざるを得ない。

「あの町の名前だ。その通り大きな湖が中心にある」

「はあ……」

「小さな町だが旅人は多い。お前みたいな不審者でも宿は取れる」

「いや、不審者って……」

「不審者だろ、異世界人なんざ」

「…………」そうかもしれない。

 否定する言葉を持たず、明日多は押し黙った。魔法使いは構わずに続ける。

「これを持て」

「え? ――わっ!?」

 いきなり投げ渡された革袋を、明日多は反射的に受け取った。掌に、ずしんとした振動が伝わる。意外に重かった。

「――金だ。しばらく分にはなるだろう」

「え、あ、でも……いいのか?」

 驚く明日多。ここまでしてもらえるなんて予想外だ。

「駄目なら渡してねえよ、下らねえこと訊くな」

「……ありがとう」

「礼には及ばねえ。それからひとつ言っておくが、お前が異世界から来たことは周りに秘密にしておいたほうがいい」

「どうして?」

「頭がおかしいと思われるのが関の山だからだ。いいか、お前はこれから、この世界で生きるすべを探すことになる」

「…………」

 どこか真剣みを増したアーサーの様子に、明日多は言葉もない。

「死にたくなければ甘えるな。元の世界じゃどうだったか知らんが、この世界じゃ、お前を助けてくれる人間なんざどこにもいない。自分の力で生きるしかない。――それを、肝に銘じておけ。でなけりゃ死ぬだけだ」

 その言葉は。明日多の中にすとんと落ち込み、おそらく一生忘れないだろうほど深く刻まれた。

 呪い、と言い換えてもいいほどだろう。

 生きるすべを。この世界で探さなければ、一ノ瀬明日多はきっとあっさり命を落とす。

 ここは、そういう世界(丶丶丶丶丶丶)なのだ。

「わかったか。わかったならこっちを向け」

「なんだよ、もう……」

 明日多はもう、男をまるで警戒していなかった。

 口は悪いが意外と優しく、むしろ善人であるとさえ思っていた。実際、明日多を助けたところで得るものなんてないはずなのに、魔法使いは驚くほど親身だったのだから。それを油断と呼ぶのは厳しすぎるだろう。


 ――突然だった。

 鋭い、熱を持った痛みが額で暴れだした。


「づ――あぁっ!?」

 咄嗟に頭を押さえ、明日多は転げ回る。その勢いで肩の傷を痛め、さらに呻くことになる。

 何が起きたのか、咄嗟には判断できなかった。だが額に走った熱さと、魔法使いの目を見て理解する。

 ――煙草の火を、額に押し当てられたのだ。

「な、なん……でっ!」

「親切心だ」

 涙を滲ませながら、明日多は魔法使いを睨みつける。もちろんアーサーは明日多の視線など意に介した様子もなく肩を竦める。

「すぐにわかる。単なる印刻だ、大袈裟に喚くな鬱陶しい」

「……なんだってんだよ……」

「最低限のことはやってやったっつってんだよ。あとはもう勝手にしろ」

「…………」

 納得いかないが、助けられたのも事実だから文句は言いづらい。

 おそるおそる明日多は、火を押し当てられた額に手をやる。だがなぜか、傷痕はどこにもないようだった。いつの間にか痛みまで消えている。

 今、確かに火種を押し当てられたはずだったのに。

「……? なあ――」

 いったい何をしたんだよ、と。そう言いかけた瞬間だ。

 明日多は気づく。


 魔法使いの姿がすでに、どこにもないという事実に。


「な――はあっ!?」

 さすがに叫び声を上げてしまった。だって意味がわからない。

 つい先ほどまで、目の前にいたはずなのに。明日多は咄嗟に周囲を見渡したが、魔法使いの影はどこを探しても見当たらない。

 本当に、それこそ煙のように姿を消してしまっている。

 異世界の魔法使いなら、誰もがこんなことができるのだろうか。幽霊と会話していたみたいな気分である。アーサーが残した硬貨入りの革袋がなければ、本当にそう信じたかもしれない。

「ワケわからん……」

 いろいろなことがありすぎて、正直いっぱいいっぱいだ。

 できることなら、泣き喚いてしまいたい。

 そして、それができない自分を、明日多は不思議にさえ思わなかった。


 ――とりあえず、目の前の町を目指そう。

 そう決める。人がいる場所なら、あるいは地球に帰る手段が見つかるかもしれない。

 かぶりを振ってから、明日多は改めて町の方向に歩き始める。

 そして、その瞬間、またしても別の要因に明日多は歩みを止められた。


「――あれ? 旅人さんですかっ?」


 突然の声はまたしても、明日多の背後から届いた。少女の声だった。

 さすがに今回は驚きもしない。明日多は普通に振り向いて頷く。

 ――声を聞いた刹那の、わずかな頭の痛みは無視して。

 言葉がわかる。それがおかしい(丶丶丶丶)という事実が、なぜかはっきりと理解できた。


 だって、ここは異世界なのだから。

 日本語が通じるはずがない。

 そんなことは、一切わかっていないのだろう。少女は可憐に微笑んで、明日多に向かってこう告げる。


「――いきなりですけど、宿をお探しじゃないですかっ!」


 少女が日本語を話していない、ということだけは、なぜかはっきりと理解できていた。だって少女は明らかに知らない言語で話している。

 それが、なぜか日本語として理解できるだけで。


「――うん。探してる」

 明日多はそう、日本語で答えた。

 少女はゆったりと微笑むと、嬉しそうにこう続ける。

「ではではぜひっ! 今夜のお宿に《水瓶亭》はいかがでしょうかっ! お安くしておきますよーっ」

 軽快なセールストーク。

 英語に似た謎の言語として聞こえるのに、それが日本語として理解できるという異常。それがアーサーの魔法の効果だということくらいは、さすがに察することができた。

「よろしければ、ご案内いたしますけれどー?」

「……そう、だね。お願いしてもいいかな」

「――やたっ! お客さん確保っ」

 嬉しそうに笑う少女。薄橙の髪を持つ、明日多よりひとつかふたつくらい年下と思しき容貌をしている。

 その、明日多にとっては異世界人である少女――けれど地球人との違いなどどこにあるものか――を見ながら、ふと悟っていた。


 ――きっと俺は、もう地球に帰れないのだろう、と。

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[気になる点] 初対面の大人にタメ語なの違和感。伏線かな
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