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第九章 ガラス山幽閉局

 闇の刻が徐々に明けていく中、朧の館から逃げてきた僕とカナは無事ギルバードの事務所まで辿り着くことができた。

 「ハァ、ハァ、ここまで来ればもう大丈夫だ」

 「うん」

 僕は息を切らせながらも安堵の表情を浮かべて事務所の扉を開けた。そしてカナと一緒に部屋の奥へと入っていくと、応接間に管理人の姿があった。

 「やっと戻ってきたね。闇の刻中、一体何処へ行っていたのですか?」

 管理人はそう言うと、手に持っていた数枚の書類をトントンと整えてテーブルの上に置き、ゆっくりとソファーから立ち上がった。

 「すみません。管理人さん。どうしても調べたいことがあって……」

 僕がそう謝ると、管理人は静かにため息をついた。

 「それはもしかして、あなたの母親に関することですか?」

 その質問に、僕はただ黙って頷いた。

 そこで管理人は、僕の後ろにいるカナの存在にようやく気が付いた。

 「マサト、その子は誰だい?」

 「あの、この子はグレイピープルに拉致されて、朧の館にいたカナという子です」

 「朧の館? マサトは母親を捜しに、朧の館に行っていたのですか?」

 「はい。けど残念ながら、そこに母はいませんでした」

 「そうでしたか」

 「それでその代わりという訳ではないのですが、菩提樹の長老にこの子を外に連れて行ってくれと頼まれました。管理人さんは菩提樹の長老のことはご存知ですか?」

 「勿論、存じていますよ」

 「菩提樹の長老は、この子には強い封印が施されていて、その封印を解かない限りこの子は来世に転生することができないと言っていたんです」

 「ほう。なるほど、強い封印……」

 そう言うと管理人は、カナに視線を移した。

 「おや、もしかして君が持っているのは『物忌の梢』ではないですか?」

 「そう、長老様には内緒で持ってきたの」カナはその物忌の梢というのを僕たちに見せてみた。

 それは菩提樹の長老の背中から生えていた、あの忌まわしき若枝だった。

 「ということは、その枝は菩提樹の長老から生えてきたのかい?」

 「うん。そうだよ」

 「そうですか。菩提樹の長老からあの忌まわしき若枝が、生えてきてしまいましたか……」管理人は肩を落とした。その言い方から、管理人はそれが病気であることを知っているようだった。

 「けど、僕がその枝を根っこから引き抜いたんで、きっと大丈夫ですよ」

 「いや、マサト。残念ですが、この枝を抜いたぐらいでは病気は治らないですよ」

 「えっ!」

 「痛みは一時的に治まるかも知れませんが、より太い若枝がそこからまた生えてくるだけです」

 「そんな……」僕はカナと目を合わせた。

 しかし、カナはそのことについて驚いてはいなかった。ただ黙って僕に頷いた。

 どうやら僕はカナのことを、まだ小さい女の子だと見くびっていたようだ。この子は忌まわしき若枝を抜いたぐらいでは、菩提樹の長老の病気が治らないということ知っていたのだ。そしてそれを承知の上で、あの屋敷から出ていったのだ。

 管理人は物忌の梢を眺めて言った。

 「菩提樹の長老のことは非常に残念ですが、物忌の梢を手に入れたということは我々にとって非常に幸運だったと言えるでしょう」

 「何かの役に立つんですか?」

 「これを使えば夜行さんの被害を、最小限に食い止められるかもしれない」

 「この枝が?」

 忌まわしいと言われたこの若枝に、一体どんな力があるというのだろう。僕は眉をひそめた。

 「そう、この枝は生えてきた樹にとっては病気以外の何物でもないが、一度根元から引き抜かれると、その枝は不浄を払う力が備わるといいます」

 「不浄を払う力……」

 「まあ、夜行さんを封じ込めるのは無理としても、夜行さんの強力な神通力から、身を守ることはできるかもしれない」

 管理人はカナの手から物忌の梢を受け取ると、何かを思い出しこう続けた。

 「封じるといえば、先ほど彼女に封印が施されていると言っていましたね」

 「ええ、菩提樹の長老がそう言っていました」

 「思うに、もしかすると彼女が睡蓮の鍵なのかもしれませんね」

 「えっ、魂の器の返還に必要だと言っていたあの鍵? なんで人が鍵なんですか?」

 そう言うと、管理人は僕の目をじっと見つめた。

 「マサト。君は鍵が何であるのか、本当は生きている時にすでに気付いているはずですよ」

 「えっ、どういうことですか? 分からないですよそんなこと。そもそも睡蓮の鍵って一体何なんですか?」

 混乱する僕を尻目に、管理人はテーブルの上にある書類を手に取った。

 「どうやら覚えていないようなので説明しましょう。私は先ほどまでここで、睡蓮の鍵に関する資料を調べていたのですが、それによると、マサトの魂の器の返還時に使用する睡蓮の鍵は、人間の女性に封印されていると書いているのです」

 「人間の女性……」

 「ですから菩提樹の長老が言う、彼女に施された強い封印というのは、睡蓮の鍵の封印ではないかと思うのです。そして、そうだとするのならば彼女自身が……」そこまで言うと、管理人は急に口ごもった。

 「なんですか?」

 「いや、これは仮定の話なので今は止めましょう。……とにかく彼女に鍵の封印が施されているなら、彼女をガラス山幽閉局に連れて行けばマサトの目的は達成されます」

 本当にそんな簡単な話なのだろうか。僕は管理人の言葉に疑問を感じた。

 「本当ですか?」

 「ええ、とにかく一度ガラス山に行きましょう」

 僕は考えを巡らせた。ガラス山に行けば目的は遂行される。それにガラス山幽閉局に連行されたギルバードのことも心配だ。

 だがしかし、僕はまだガラス山には行きたくなかった。

 「何か問題でもありますか?」

 「……」

 僕はその前に母を見つけ出したかったのだ。

 何か手掛かりがある訳ではないのだが、目的を達成し生まれ変わってしまう前に、もしここで会うことができるならば、最後にもう一度だけどうしても母に会いたかった。

 様々な感情が頭の中を錯綜し、その場に立ちつくしてしまっている僕に、管理人は半歩近づき、僕の肩にそっと手を置いた。

 「いいですかマサト。前にも言ったと思いますけど、ここで起こる真実は、現世での出来事と密接に繋がっています。マサトが目的を果たしたその時、全ての疑問は解決へ導かれるでしょう」

 「管理人さん……」

 「私を信じてください」

 少し思案した後、僕は管理人のその言葉を信じ強く頷いた。

 「分かりました。ガラス山に行きましょう」

 「ええ、ですが今のガラス山は、夜行さんの支配下にあり大変危険な状態なので、それだけは覚悟していてください」

 管理人は真剣な眼差しで僕にそう告げた。


 プラズマの熱風が、縦横無尽に吹き荒れる。

 ガラス山の麓には、瓦礫に覆われた荒地が広がっていた。かつてはこの地にも集落があったということだが、今は文明から取り残されてしまった遺跡のように、ただ風に浸食されてしまっている。

 辺りは山から吹き降ろす熱風で砂が巻き上げられ視界が極めて悪く、僕たちは腕で顔を塞ぎながら黙々と歩いた。

 しばらくすると大量の砂が舞う中、遠くの方から大きな人影のようなものが近づいてくることに気が付いた。あれは何なのだろうと思い耳を澄ますと、パカッ、パカッという馬の蹄のような音が微かに聞こえた。

 その音が聞こえると同時に管理人の動きが止まった。どうしたのかと思い顔を見ると、表情が固まり酷く震えている。

 「管理人さん?」

 「伏せるんだ」管理人は小声でそう言うと、僕とカナの頭を低く抑えた。

 緊迫した空気を感じ取った僕たちは瞬時に身を伏せた。徐々に馬の足音がこちらに近づいてくるのが分かる。

 もしかすると目の前にいる者こそが、管理人の言っていた夜行さんと呼ばれるものかと思い、僕は身を屈めつつも少しだけ上目で覗き込んだ。宙に舞う砂塵によって、その姿をうかがい知ることはできなかったが、馬が近くまできた時、薄っすらとその姿を確認することができた。

 黒い馬の脚が見える。競走馬のような筋肉質でしなやかな脚、そして引き締まった胴体は汗で薄っすらと湿り艶やかな光沢がある。もう少しだけ顔を上げてみると馬に乗っている人物の着ている極彩色の着物の一部が見えた。後は視界が悪くまるで見えない。ただ恐ろしいことに、その黒い馬には首から上がなかった。首のない馬に前が見えているのかは分からないが、真っ直ぐ確かな足取りで僕たちの横を通り過ぎて行った。

 黒い馬が見えなくなるまでやり過ごし、僕たちは身体を起こした。

 「管理人さん、今のが夜行さんですか?」

 「そうです」

 「乗っていた馬には、頭がありませんでした」

 「見たんですか。夜行さんを」管理人は細めた目で鋭い視線を浴びせてきた。

 「いえ、視界が悪くて夜行さんは見えませんでした。見たのは馬だけです」

 「……それはそうです。夜行さんと目が合っていたら、殺されてしまいますからね。この世界での死とは、すなわち消滅を意味します。十分気をつけてください」

 朧の館で見た山ほどの大きさの大入道に比べれば、まだ可愛いもののようにも思えたが管理人は夜行さんのことを、とても恐れているようだった。

 「しかしガラス山の外まで夜行さんが来ているとは、思いのほかテリトリー広げているようですね」

 「どこに行ったのでしょうか?」

 「それは私には分かりかねますが、もしかすると今がガラス山に行く好機かも知れませんね」管理人はそう言ってニッと笑った。

 「なるほど確かにそうですね、急ぎましょう」

 僕たちはガラス山に向けて先を急いだ。

 どのくらい進んだのだろうか、砂塵の中をしばらく歩いていると、急にパッと視界が開けた。

 「見えた、あれです。あれがガラス山です」

 空気に薄まるようにして消えていった砂の切れ間から小高い山が姿を現した。非常にゴツゴツとした岩肌には所々大きな水晶の塊が突き出し、そしてその上空には閃光する稲妻が結界のように張り巡らされていた。

 「よし。夜行さんが帰ってくる前にことを済ませましょう」

 「ええ」

 僕たちはガラス山のなだらかな裾野を駆け出した。

 「山の頂上に行けば良いのですか?」

 「いいえ。最初にやるべきは中腹にある幽閉局に行き、キャビネットのエージェントにギルバードの釈放を要求することです。ギルバードがいなければマサトの魂の器の返還もできませんし、それに彼は過去に一度だけ夜行さんを封じ込めた経験があるのです」

 「それじゃ、ギルバードさんが釈放されれば夜行さんを再び封じることができるんですね」

 「はい。エージェントたちもそれは分かっているはずなので、夜行さんの封印を条件にギルバードの解放請求の手続きを取ります。それはギルバード本人ではできないことなので……」

 僕は走りながら稲妻の結界に覆われた空を見上げた。

 「しかしエージェントたちは、こんな危険な状態になったガラス山にまだいるのでしょうか?」

 「彼らには、この山におられる月の女神を守らなくてはいけないという大義名分があります。緊急事態の時こそ、ここを守らなくてはいけないのです」

 「その、月の女神というのは一体どういう人物ですか?」

 「月の女神はガラス山がこの街に発生した時に現れた、森羅万象を司るまさに全知全能の神と言うべき存在。エージェントたちは命がけで守らなくてはいけません。そしてそれは私やギルバードにとっても同じ気持ちなのです」

 「ここの人たちにとって、大切な神様なんだね」

 「そういうことです」

 険しく続く山道を砂埃巻き上げながら走っていくと、やがて少し開けた道にでた。

 「見えました。あそこが幽閉局です」

 管理人の指差す先には、切り立った崖と重なるように地上三階建ての建物が建っていた。石造りの壁は色あせていて所々にひび割れが目立つその建物は、まるで断崖に掘られたインドの石窟寺院のように、厳かでありながら堂々とした姿でそこに佇んでいる。

 僕たちは早速大きなエントランスから中に入ると、神殿のような石柱が並ぶ閑散とした広いロビーにでた。

 「エージェントたちが見当たらないですね」

 「多分、二階の事務所にいるのでしょう」

 僕たちがそのまま広いロビーを前に進むと、ゴツゴツとした壁が見えてきた。そこは壁というより崖そのもので、その崖を掘るようにして幾つかの牢屋が並んでいた。見るとそのほとんどが開け放たれ空室になっていたようだが、一つだけ鉄格子が閉まられているところがあった。

 「ギルバード!」

 「おう、レド。遅かったじゃないか」

 鉄格子越しに、つまらなそうな顔をしてあぐらをかいているギルバードの姿が見えた。

 「大丈夫でしたか?」

 「当たり前だ。それより外は大丈夫なのか?」

 「ああ、まだ直接的な被害は……」と、そこまで言いかけた瞬間、いきなりもの凄い爆音が轟いた。

 「何ですか、今の音は!?」

 「まさか、もう夜行さんが戻ってきてしまったのか……」

 辺りを警戒すると、爆音を聴きつけてエージェントが二階からロビーに階段を駆け降りてきた。

 「何者だ、貴様たち!」

 それはギルバードを連れて行ったキャビネットのエージェントだった。

 「エージェント・ウォン!」

 「貴様は戸籍住民管理局のレド! 一体何をしに来た」

 ウォンは腰に帯びた刀を抜いてそう問いただすと、その声を聞きつけた他のエージェントたちも続々とロビーに現れた。

 「司法取引をしようじゃないか。夜行さんの封印することを条件にギルバードの解放を請求する」

 「何を言い出すかと思えば愚かなことを。夜行さんの封印など、我々の法力を持ってすれば恐れるに足らん」

 ウォンは甲高い声で言い放った。

 「君たちは、夜行さんの力を見くびっている」

 「生意気な口を聞いてくれるじゃないか、管理人レドよ」

 ウォンが合図を送ると、他のエージェントたちが管理人に詰め寄った。

 「さっきの爆音も貴様たちの仕業か?」

 「いや、あれは恐らく……」

 そう言って管理人が一歩身を引くと、その陰に隠れていたカナが突然前に出てきて、持っていた物忌の梢を天に向かって突き上げた。

 「何をしているんだ! カナ!」

 するとその物忌の梢から、とてつもないエネルギーの衝撃波が天に向かって走り、一階の天井を砕くと、二階三階の天井も順に破壊していき、頭上からその瓦礫の山が大量に落ちてきた。

 「なっ!!」

 エージェントたちは慌ててその場から離れ、僕たちも地面に身を伏せた。

 天井から瓦礫が落ちきると、辺りはしんと静まり返った。

 「よう、大丈夫か?」ギルバードは牢の中から、声を大きく張った。

 起き上がって見ると、カナを中心とした僕たちの周りだけ、何故か瓦礫が落ちていなかった。

 「どういうことだ……」僕は疑問符を浮かべた。

 「その娘が持っている物忌の梢から放たれた半球体の障壁が、お前たちを守っていたんだ」鉄格子越しに一部始終見ていたギルバードは言った。

 「カナが……」

 瓦礫から逃れたウォンは、驚きと怒りで頭が混乱した。

 「何をしてくれたのだ、この小娘!」

 しかしカナはそんなことは意にも介せずに落ち着いた様子で「あそこ」と、一階から三階まで破壊した天井を指差した。僕たちは破壊された天井の穴に目をやると、そこにはなんと首切れ馬に跨り宙に浮く夜行さんの姿があった。

 「えっ!」

 「まずい、夜行さんだ! 早くギルバードを解放するんだ!」管理人は叫んだ。

 「うるさい! 私に命令する気か!」

 実際に夜行さんの姿を見た為か、ウォンは激しく狼狽した。

 天に佇む夜行さんは極彩色の着物を身に纏い、顎にはたっぷりとした髭を蓄え、姿こそ人間に酷似していたが、顔の中心にあるその大きな一つ眼を見た瞬間、僕の背筋に絶望の淵に叩き落されるような戦慄が走った。

 夜行さんの一つ眼が下を睨みつけると、その強力な神通力によって残っていた天井が全て崩落した。

 「うわっ!」

 激しい音と共に、辺りには粉塵が舞い上がり、そして僕たちは瓦礫の下に埋まってしまった。

 夜行さんはその光景を天から見下ろし、首のない馬に付けられた手綱を引いた。首切れ馬は宙を闊歩し、ゆっくりとした速度で地上に降りてきた。

 僕たちはやっとの思いで瓦礫の中から脱出すると、もうもうと舞っている粉塵の向こう側に、地に降りた夜行さんの姿を確認した。

 「まずいぞ……」

 夜行さんの一つ眼が光った。

 その瞬間辺りが一気に明るくなり、気が付くと近くにいたウォンが急に跪き地面に倒れた。夜行さんの一つ眼から怪光線が放たれたのだ。

 第二波がくる。しかし僕はあまりの恐ろしさで身動きが取れない。

 夜行さんの一つ眼が再び光ると、カナの幼い表情がいきなり険しくなり、夜行さんに向かって物忌の梢を構えた。

 「ぅわ―――っ!」

 カナの柔らかな髪がふわりとなびき、物忌の梢の先端から衝撃波がほとばしった。夜行さんが同時に放った怪光線とその衝撃波がクロスし、辺りに激しい火花が飛び散った。すると怪光線は斜めに反れて崖側の壁に激突したが、衝撃波はそのまま真っ直ぐに飛び、夜行さんの身体に直撃した。

 「やった!」

 夜行さんはその衝撃に耐えられず、後ろに吹き飛ばされた。

 だがカナは攻撃の手を休めない。殺気立った顔で続けざまに小さい衝撃波を五、六発連続で叩き込むと、最後に四つの三角形でできた大きな四面体の結界を出現させ、その中に夜行さんを首切れ馬ごと封じ込めた。

 「カナ、凄い……」

 四面体の結界に閉じ込められた夜行さんはむくりと起き上がると、つまらなそうな顔をして横の首切れ馬の尻をぴしゃりと叩いた。するとそれに反応した首切れ馬は後ろ脚を高く上げ四面体の結界をいとも簡単に蹴り破った。

 やはり管理人が言っていた通り、物忌の梢では夜行さんには勝てないのだろうか。精神力を使い果たしたのか、カナはそのまま地面に膝を付いた。

 「いや、まだやれる」

 僕はカナの元に走った。

 「カナ。物忌の梢を貸してくれ!」

 カナは険しかった表情から一転してニコリ微笑み、物忌の梢を僕に渡した。

 しかし梢を受け取ったものの僕は、これの使い方が全く分からなかった。

 そうこうしているうちに、夜行さんの一つ眼が再び妖しく光った。

 「まずい!」

 僕はとっさに伏せたが間に合わず、夜行さんの放った怪光線が右肩をかすめた。

 「ぐっ!」

 「大丈夫か! マサト!」

 僕は倒れそうになりながらも、辛うじて踏みとどまった。

 「大丈夫。肩に少し当たっただけ……」

 天井がなくなった建物内に、熱風が吹きこんでくる。

 その時、ウォンが首に巻かれたストールをなびかせながら、夜行さんに向かって駆け出した。刀の柄に付いた数珠がじゃらりと音を立てると、頭上に振り上げた刀が夜行さんに向かって一気に叩きつけられた。

 すぐに激しい音が響いたが、夜行さんはウォンの憎悪にも似たその一撃を、いとも簡単に片腕で受け止めていた。

 刀が震えている。

 「腕一本が、なぜ斬れぬ……」

 ウォンはそのまま力で押し切ろうとしたが、夜行さんは身をひるがえしその刀を跳ね除けた。

 「あっ!」ウォンは青ざめた。

 その瞬間、夜行さんの手がウォンに向かって伸び、額を鷲掴みにした。ウォンの身体は宙に浮き足をバタつかせた。

 僕は思わず、怒りに身体を震わせた。

 「やめろ!!!」

 そう叫んだ瞬間、僕が無意識に構えていた物忌みの梢の先端から、夜行さんに向かって衝撃波がほとばしった。

 放たれた衝撃波は夜行さんの不意を撃ち、まともに喰らうと首切れ馬から転げ落ち、掴まれていたウォンもその場に落とされた。

 「やったか!?」

 夜行さんはその一撃で地に伏し、ウォンもその脇で気を失い倒れた。

 僕は今一度、衝撃波を発しようと物忌の梢を掲げたのだが、梢は何の反応も示さない。

 「何でなんだ! 止めを刺さないとやられちゃうじゃないか。お願いだから力を貸してくれ!」

 倒れていた夜行さんは、物忌の梢を掲げる僕の姿を見つけるとその一つ眼でギロリと睨みつけた。目が合ってしまった僕はその僅かな目線だけで恐怖におののき、成す術もなく物忌みの梢を掲げたままガクガクと震えた。

 こ、殺されてしまう……。

 倒れていた夜行さんは急に跳ね上がると、僕に向かって怪光線を放とうと眼を光らせた。

 まずい。やられる。

 僕は思わず目を瞑った。しかし、夜行さんが僕に気がとられている隙に起き上がっていたウォンが、抜き打ちに夜行さんの逆胴を払った。

 その殺気に気が付いた夜行さんは、僅かばかり身を引き何とかそれをかわしたが、ウォンは返す刀で頭上に掲げた刀を、思い切り右袈裟に斬り下ろした。

 切っ先が掠めたのか、夜行さんの頬から赤い血が流れた。

 「斬れた!?」

 ウォンは勢いづき、次の攻撃を仕掛けた。刀を片手で持ち返ると、もう片方の手で柄に付けられた数珠を強く握り締めた。

 「我らが法力の力、見せてくれる!」

 数珠を持ったウォンの手が光を帯び、肩から垂れたストールが宙を舞った。

 「六字の名号!」

 ウォンはそう言うと、フッと目を閉じて何かを唱え出した。

 耳の奥底から、地鳴りのような音が響いてくる。

 「何だ、この音は!?」

 すると夜行さんがいきなり苦しみだした。

 その間もウォンは目を閉じたまま何かを唱え続け、ついに夜行さんは悶えながらその場に跪いた。

 「これは、効いているのか?」

 地鳴りのような音が続く中、法力の力が強すぎる為か、ウォンの額には脂汗が滲み出て鼻の穴からは血が流れてきた。

 しかし、それでもウォンは夜行さんに向かい呪文を唱えることを止めなかった。

 もしかしたら倒せるかもしれない。そう思った次の瞬間、横から全速力で掛けてきた首切れ馬が、ウォンの胸元を激しく蹴り飛ばした。

 「ぐはっ!」

 骨が折れるような鈍い音と共にウォンは後ろに吹き飛び、夜行さんはその法力から解放された。

 「大丈夫か!」

 しかし、他人の心配をしている場合ではなかった。首切れ馬が、今度はこっちに向かって走ってきたのだ。

 「くそったれ!」

 僕は身構えた。

 「菩提樹の長老、僕に力を貸してください!」

 僕は祈るような気持ちで、物忌の梢を天に掲げた。首切れ馬が近づくと、物忌の梢は突然僕の手から離れ首切れ馬に向かって矢のようなスピードで飛んでいった。

 「当たれー!!!」

 そう叫んだ時、放たれた物忌の梢が首切れ馬の首元にグサリと突き刺さり、失速した首切れ馬はそのままその場に倒れた。

 「はあ、はあ……」

 僕は息を荒げた。

 法力から解放された夜行さんが首切れ馬の側に寄ると、突き刺さった物忌みの梢を抜き放った。梢を引き抜かれた首切れ馬は、身体をビクンと小さく跳ねて、そしてゆっくりと身体を起こした。

 「駄目だ、物忌の梢も奪われてしまった……」

 夜行さんは物忌の梢を忌々しげに握ると、粉々に砕いて再び首切れ馬に跨った。

 一体、どうすれば良いというのだ。

 一呼吸置くと、夜行さんを乗せた首切れ馬は天に向かって駆け上がって行った。

 まさか、逃げるつもりか?

 ありえないとは思ったが、そんな期待を込めて天に昇る夜行さんを見上げていると、十分に昇ったところで立ち止まり、一つ眼で上から睨みつけた。やはり去ってはくれないらしい。しかし物忌の梢を失った僕には、もうどうすることもできなかった。

 そして次の瞬間、首切れ馬は地上に立ち尽くす僕に向かって猛突進してきた。僕の瞳孔は大きく開いた。

 「マサトッ!!!」

 その時、横から走ってきたカナは僕の名前を叫びながら、小さな体で僕を思い切り突き飛ばした。それも、子供とは思えないような凄い力でだ。

 「えっ!」

 突き飛ばされて宙に浮いた時、僕の瞳に映ったカナの姿が、暴走する車から身を挺して助けてくれた母の姿に重なって見えた。

 「か、母さん!」

 そう言うと、カナはゆっくりとこちらに振り向き、にこっと笑った。しかしそれも束の間、カナは首切れ馬と激しく衝突し、小さな身体は大きく宙を舞って10メートル程吹き飛ばされ地面に叩きつけられた。

 「カナァァァ!!!」

 天を覆う稲妻の結界が、バリバリッと音を轟かせた。

 近くにいた管理人が、砂にまみれて倒れているカナを抱きあげた。こめかみの辺りから血を流し、ぐったりとしている。

 「マサト、やはり我々ではとても太刀打ちできません。何とかしてギルバードを助け出しましょう」

 上空から地面に向かって弾丸のように激突した夜行さんが、むっくりと立ち上がった。極彩色の着物が虹色に光っている。負のエネルギーが急激に増幅しているようだ。

 「くそっ」僕は武者震いがした。

 ギルバードを助け出したいのだが、目の前の化け物がそれをさせてくれそうにない。

 しばらく睨みあった後、夜行さんの着物から放たれた虹色の光がフッと消えた。

 いよいよ来るのか?

 次の瞬間、夜行さんの一つ眼から、さっきまでとは比べ物にならないくらい巨大な怪光線が放たれた。

 終わった……。

 一瞬の出来事だったと思う。どこからか現れた光の障壁が僕をその巨大な怪光線から守ってくれたのだ。

 「これは……」

 後ろから何者かが近づいてきた。

 「良いか、夜行さんの弱点は一つ眼だ。あの眼を狙うんだ」

 それは紛れもなくギルバードの姿だった。

 「ギルバードさん! 一体どうやってあの鉄格子を……」

 鉄格子の方を振り向くと、そこにはウォンの姿があった。どうやらウォンが隙を見て開放してくれたようだった。

 ギルバードは、こちらに歩きながら雷撃を放った。

 夜行さんはそれを軽く避け、ギルバードを一つ眼で睨んだ。

 「さすがに簡単には、当たってくれないようだな」

 再び、夜行さんの極彩色の着物が虹色に光った。

 「だが、これはどうかな」

 ギルバードは大きく息を吸い込み、おもむろに左手を天にかざした。周りの空気が一気に凝縮していく、以前味わったことのあるその感覚に僕は思わず耳を押さえた。

 「神解き」

 ギルバードがそう呟くと共に、天から巨大な稲妻がまばゆい光を発しながら落ちてきて、そして地上で大爆発を起こした。

 「うわーっ!」

 激しい爆発音と共に爆風が吹き荒れ、天井が崩れた時に発生した大量の粉塵が空中に飛散した。

 「ゴホッ、ゴホッ、何という威力だ」

 辺りには砂埃が舞い上がり、とても目が開けられる状態ではなかった。

 「夜行さんはどうなったんだ?」

 僕はギルバードが、夜行さんを倒していることを祈った。

 そして徐々に砂埃が晴れてきた。

 「……?」

 夜行さんがいない。

 「倒したのか?」

 「いや」

 ギルバードは気配を感じ、天を見上げた。

 「どうやら、うまく避けられたようだな」

 夜行さんは首切れ馬の手綱を引き、空を駆けていた。

 「また上から突っ込んで来るつもりか」

 それはカナを吹き飛ばした技だ。

 「あの技はまずいよ、ギルバードさん」

 「慌てるな。俺はさっき見ていたんだが、夜行さんは地面に急降下し激突した後、しばらくの間瓦礫に埋もれて身動きが取れずにいたんだ。その隙に夜行さんを、取り押さえることさえできれば、後は俺がなんとかする」

 「本当に?」

 「ああ、だから夜行さんが急降下してきたら、なるべくそれを紙一重で避けて、一気に首根っこを押さえつけるんだ」

 果たしてそんなことができるのだろうかと思ったが、そんなことを言っていられるような状況でないことは分かっていたので、僕は勢いで大きく頷いた。

 「……分かった、やってみる」

 首切れ馬は天に駆け上がり、僕たちを見下ろした。

 「さあ、どこに来る気だ」

 僕のところか、ギルバードのところか、管理人のところか、それともウォンのところか……。

 夜行さんの一つ眼が光った。その瞬間、首切れ馬は地に向かって駆け出した。

 「マサトの方に行くぞ!」

 そうギルバードが言った時には、既に馬は地面に激突して爆音が鳴り響いた。僕は首切れ馬をぎりぎり避けていたのだが、その後の爆風で吹き飛ばされてしまっていた。

 砂埃が舞う中、僕は起き上がり夜行さんを捜した。

 「捕まえたぞ!」

 それはギルバードの声だった。

 声の聞こえるほうに振り向くと、ギルバードが夜行さんに馬乗りになっていた。

 「よし、後は『銀のナイフ』を一つ眼に突き刺せば俺の勝ちだ」

 ギルバードはポケットから、その銀のナイフというものを取り出そうとしているようだが、どうも様子がおかしい。

 「くそっ! 銀のナイフも、現世に落としてきたブリーフケースに入れたままだった!」

 「ええっ!」

 「マサト! 何か持っていないか!」

 「ナイフなんて持ってないよ!」

 「違う、ナイフじゃない、銀だ、銀製品を夜行さんの一つ眼に押し付ければ良いんだ」

 「銀製品?!」

 僕は思い当たるものなど何もなかったが、それでもポケットの中を確かめた。勿論何もない。いや、パンツのポケットの奥で指先が何かに触れた。

 僕はそれをおもむろに取り出した。

 出てきたのは一枚のコイン。ミュールーク地区の入り口にいた老婆がくれた、一枚の銀貨がポケットに入っていた。

 「ギルバードさん! 銀貨がある!」

 「そいつをよこせ」ギルバードは鬼気迫る表情で、投げてよこせと合図を送った。

 僕はそれを必死で投げた。銀貨は、僕の手を離れると放物線を描き、回転しながらゆっくりとギルバードに向かって飛んでいった。ギルバードは必死で手を伸ばしてそれを取ろうとしたが、後数センチというところで夜行さんの神通力によって地面に叩き落された。

 「あっ!」

 万事休す。ギルバードが叩き落された銀貨に目を奪われたその瞬間、夜行さんはギルバードの顔面に向かって怪光線を放った。

 「うわっ!」

 ギルバードは至近距離から怪光線をまともに喰らい、後ろに卒倒した。

 その、ギルバードが倒れるか倒れないかの刹那の時、僕は夜行さんに向かい勢いよく駆け出していた。

 自分は強い人間じゃない。あんな化け物相手に戦うなんてもってのほかだ。

 だが、それでも僕は走っていた。そして夜行さんがギルバードに対して怪光線を出し切った時、僕は地面に落ちた銀貨を拾い、つんのめるような体勢で後ろに倒れたギルバードを飛び越え、無我夢中で夜行さんの瞳に銀貨を押し付けた。

 「はぁ……、はぁ……、さようなら、夜行さん」

 夜行さんの天に轟くような断末魔が耳をつんざいた。極彩色の着物が虹色に光り、夜行さんは必死の形相で僕の両腕に掴みかかってきた。尋常でない圧力が腕を押しつぶし骨がみしみしと軋んだが、僕はその一つ眼から絶対に手を放さなかった。やがて夜行さんの顔の皮膚が溶け、肉が崩れて、頭蓋骨が剥き出しになり僕の腕を掴んでいた手も骨となりカタカタと外れていくと、次第に全身が灰のようになり脆くも崩れ去った。

 辺りは急に、静寂に包まれた。

 ガラス山の上空から吹き下ろす熱風が、灰のようなものを舞い上げて散り散りに消えていった。

 僕はしばらく呆然として天を仰いだ。ガラス山を覆っていた稲妻の結界も、妖しく揺れるオーロラもそこにはもうなくなっていた。

 「よくやったな、マサト」顔の左半分に大きな火傷を負ったギルバードが、手を差し伸べてきた。

 僕は銀貨とギルバードの手を握り、そこから立ち上がった。

 瓦礫に埋もれていたエージェントたちも、起き上がり砂を掃った。そしてカナを背負った管理人が近づいてきた。

 「カナ、大丈夫か?」

 「うん」カナは頬を膨らませて笑った。

 「そうか、良かった」

 僕たちは顔を見合わせた。

 あんな化物との戦いに勝ったことが、未だに信じられなかった。けど勝ったからこそ今ここに皆の笑顔があるのだ。

 「それでは行きましょう。月の女神の元に」

 管理人の言葉に、ギルバードは山頂を見上げた。

 「ああ、魂の器を返還しようじゃないか」

 いよいよ、魂の取引を行った相手と会うことができるのだ。

 だがその前に僕は、灰色の街への召致依頼書を見た時から思っていた疑問をギルバードにぶつけてみた。

 「あの、ギルバードさん。一つだけ聞いても良いですか?」

 「何だ?」

 「何故ギルバードさんは、僕ともう一人の間に魂の取引を行ったんですか?」

 それを聞いたギルバードは薄く笑い「ここまで来たんだ。それは月の女神の下に行き、自分の目と耳で確かめてみろ」と言い、真相は語らなかった。

 「月の女神が、全て知っているんだね」

 「そういうことだ」

 ガラス山の頂上。そこに月の女神はいる。

 僕たちが幽閉局を後にし、ガラス山の頂上に向かおうとしたその時、急に後ろから怒鳴るような声が聞こえてきた。

 「ギルバード!」

 振り返ると、瓦礫と化した幽閉局の中からウォンが刀を構えてこちらを睨んでいた。

 「何だ、この期に及んでまだ俺を捕まえる気か!」ギルバードは睨み返した。

 「これより先は神域なるぞ。ルナ様の下に向かうなら身を清めてから行け!」

 ウォンはそう言って刀を鞘に収めると、ギルバードは少しはばかりながら「……ああ、頼む」と言った。

 ウォンはそれに黙って頷き、右手の人差し指と中指を自分の顔の前に立てて呪文を唱えた。

 「オン アビラウンケン ソワカ」

 ウォンの指先から光が滲み出た。

 するとその不思議な言葉によってギルバードの顔の火傷が回復し、僕の右肩に負った怪我もみるみる完治した。

 「傷が治った……」僕は左手で右肩を触った。

 「神苑では常に敬虔の念を忘れるな」

 そう言うと、ウォンは僕たちに背中を向けた。

 「ありがとう、エージェント・ウォン!」

 僕が礼を言ったが、ウォンは振り返らずにそこから姿を消した。


 ガラス山の山頂までは九十九折の山道が続いている。道が整っておらず足場が悪く歩くのも困難だったが、ここを登れば真実がわかる、ここを登れば全て終わる。そう思い、僕は急勾配の山道を突き進んだ。

 そうして道なき道を歩いていると、突然山頂の方から身体の疲れが癒されるような美しい音楽が聴こえてきて、僕たちは思わず足を止めた。

 なんという美しい音なのだろう。僕はその音色の元に向かうため、岩肌から突き出した水晶を掴み、地面を蹴るようにして上に飛びあがった。そこからふと山の頂上を見上げると、水晶でできた木々の中心に巨大な水晶岩があり、その上にはゆりかごのような椅子にもたれてハープを奏でる美しい女性の姿があった。

 「……」僕はその美しさにしばし言葉を失った。

 僕たちの姿を確認したその女性は、演奏を止めると僕たちを穏やかな表情で見下ろした。

 「待っておりました人の子よ」

 僕はその女性を見上げた。

 「あなたが月の女神ですね」

 「そう、私の名はルナ。月の女神と呼ばれる者です。よく試練を乗り越えてここまで来ました」

 その清流のように澄んだ声はとても誇り高く、それでありながら全てを包み込むような、包容力と慈愛に満ち溢れていた。

 「あの……」僕は喋ろうとしたが、緊張のあまりうまく言葉にならなかった。

 月の女神は僕の言わんとすることを、分かっているかの如く頷いた。

 「魂の取引が何故あなたに行われたのか、それが知りたいのですね」

 僕は小さく頷いた。

 「しかしまずは、あなたと魂の取引をした人物に会っていただきましょう」

 月の女神が下に目線をやると、彼女の乗っている水晶岩の前面から薄らと鉄格子の扉が現れた。

 「この牢屋の中に、僕と魂の取引を行った人がいるのですね」

 僕はそう言って牢屋を覗き込んだが、中は暗くて何も見えなかった。

 「さあ、今こそ扉を解き放つのです」

 月の女神はそう言って、ハープを奏でた。

 美しい音色が辺りに響くと、後ろにいたカナが、身体を青白く発光させながら重力に逆らって宙に浮いた。


  湖畔の乙女よ 睡蓮となり花を咲かせなさい

  暖かい陽の光で その花を咲かせなさい


 ハープによる序奏の後、月の女神は天使のような安らかな声で歌った。

 僕たちがその甘美な歌声に酔いしれていると、カナの周りに小さな塵旋風が吹き荒れ、青白い発光は更に光度を上げていった。


  花の心はあなたの心 全てを解き放って その温もりを届けて

  あなたは何も疑わなくて良い ただ美しく咲き誇るだけで


 その歌と共にカナの胸部から、大きな薄紅色の蕾が身体を突き抜けるように現れ、花弁を少しずつ広げながら大量の光を放出した。

 カナの胸元に咲いたのは、それは、それは、美しい睡蓮の花だった。


  私はここに咲いている あなたがそれを望むかぎり

  あなたをいう陽の光で 私は何度でも花咲かせる


 睡蓮の花が開ききると、花の中心から透明な鍵がスーッと出てきた。

 僕はその様子をただ呆然と見ていると、横から管理人が小声で話しかけてきた。

 「マサト。鍵を手に取るんだ」

 僕はその声にハッとして我に返り、宙に浮かんだカナの前に歩み寄った。

 「これが睡蓮の鍵……」

 僕はカナの胸元に咲いた睡蓮の花から、透明に光る大きな鍵を手に取った。


  けれどあなたは去っていく 私はあなたを眠るように待っています

  私は永遠にあなたの温もりを 忘れることはないでしょう


 歌が終わりを告げると同時に、睡蓮の花弁は一枚一枚落ちて身体から発せられていた光も徐々に失い、宙に浮く身体がゆっくりと地に付き、そして地面に倒れた。

 「大丈夫か、カナ!」

 僕は、ぐったりと倒れたカナの肩を抱き起こした。

 「心配いりません、気を失っているだけです。カナちゃんは私に任せてください。それよりもマサトは、やらなくてはいけないことがあるはずです」管理人はそう言ってカナを抱き寄せた。

 「はい……」

 僕は睡蓮の鍵を見た。

 透明に輝く美しい鍵がそこにあった。僕はギルバードの顔を見上げた。ギルバードは目を合わせると黙って頷いた。

 ああ、そうだ。僕は魂の器を返還するために、この街に来たのだ。

 鍵を握り締め一歩、一歩、この街での出来事を確認するように、ゆっくりと牢屋に近づいた。

 鉄格子の前まで来たが、やはり奥は真っ暗で中をうかがい知ることはできなかった。僕は扉の中央にある鍵穴に緊張する手で睡蓮の鍵を挿入した。

 カッシャン。小さな音を立てて鉄格子は開いた。中には何があるのだろうか? 僕は固唾を呑み込んだ。

 コツ、コツ、コツッ。

 鉄格子を開くと、水晶岩の牢の中から足音が聞こえてきた。暗闇の中から何者かがやって来る。僕は思わず身を構えた。

 そして暗闇から現れた人物を見て、僕は我が目を疑った。出てきたのは良く知っている人物、いや良く知っているどころの話ではない、何故ならそれは自分の父親だったのだから。

 「……と、父さん?」

 幼いころに生き別れて以来、色あせた写真でしかその姿を見ることがなかった父が、何故なのか今僕の目の前に立っている。それは本当に奇跡のような出来事だった。

 「久し振りだな、マサト」

 父はそう言って、少し照れくさそうに笑った。

 まさかこんなところで再開するなどと思っていなかった僕は、混乱する脳を抑えるのに必死になった。

 「なんで、父さんが僕と魂の取引を……?」

 僕のその問いには、ギルバードが答えた。

 「お前の親父、西嶋タカトシはある時、ひょんなことからマサトの寿命を知ってしまったのだ」

 「どういうこと? どうして父さんが僕の寿命を? えっ、えっ?」

 しっかりと順を追って考えようとしているのだが、思考が乱れていてまるで整理がつかなかった。

 「そして息子の寿命を知ってしまった西嶋タカトシは、マサトの寿命が後僅かとなったある日、自分の魂を引き換えにマサトの寿命を伸ばす取引を行ったのだ」

 ギルバードがそう言うと、少し間を置き父は遠くを見るように話し出した。

 「そうだった。父さんはある日、拾ったカバンの中に入っていた書類を見て愕然としたんだ。それはそうだろう、そこには自分の息子の寿命が書かれていたのだから。始めは性質の悪い悪戯かと思ったが、その翌日に持ち主を名乗る男がやって来たので、父さんはその男に、どういうつもりでこんな悪戯をしたのか問い詰めた。しかしその男から告げられた事実は、俄かに信じがたいものだったんだ……」


 それは時を遡ること、二十年前の出来事。

 その日は春だというのに急に振り出した雨がまるで台風のような嵐になり、外を歩く人も疎らだった。西嶋タカトシはそんな季節外れの嵐の中、会社から家路を辿り車で山道を走行していた。

 ワイパーをかけているにも関わらず、雨の飛沫で前方の視界がすこぶる悪かった。この山道は反対側が崖になっていたので、タカトシは慎重に運転していた。

 近くでは雷が鳴り、雷鳴が天を轟かしている中、走行中の車の中でタカトシは突然もの凄い衝撃に襲われた。何かが爆発するような音と共に地面が激しく揺れ、後輪が大きく右側にスリップした。

 咄嗟にブレーキを踏んだが、タイヤは雨に濡れる道で横滑りし反対車線まではみ出し、車体がガードレールにぶつかる寸前のところで何とか停止した。

 タカトシはほっとして、シートにもたれ掛かった。異様に汗ばんだ手をズボンで拭い、何が起こったのか考えてみた。地震にしては音が大き過ぎるし、雷で地面が揺れることなどありえない。考えても分からなかったので、車に傷がないか確かめるついでに雨の降る中一旦外に出た。

 「えっ!」タカトシはぞっとした。

 見ると車の頭上に巨大な黒い塊が、斜面に突き刺さるように埋まっていたのだ。

 タカトシはなんだか気味が悪くなって、その場を立ち去ろうとすると、今度は車の近くに空からブリーフケースが降ってきた。

 バカンッという大きな音を立てて地面に叩きつけられたブリーフケースは、その衝撃で口が開き中身が外に飛び出した。

 そのケースの中から出てきたのは、何枚かの書類と一本のナイフだった。

 タカトシはそれを見て恐ろしくなり辺りを見回したが、周辺には誰もいないようだった。

 そこから一刻も早く立ち去りたいタカトシは、急いで車に乗り込もうとしたが、何故なのかケースのことが気になってしまい、仕方なく散らばった書類を集めてケースに戻しそれごと回収して車の中に戻った。

 そしてタカトシは山を抜けたところで、車を停めて書類の内容を確認することにした。持ち主を特定することが書いてあるかもしれないと思ったからだ。

 ケースの中に入っていたのは数枚の書類とナイフ、その他には大きなコンパスのようなものと短い鉄の棒が入っているだけだった。一応、書類の方にも目と通してみると、その中の一枚に恐ろしいことが書いてあった。


   死亡日付通達書


 1985年5月24日 西嶋マサト 逝去


 書類にはただ、自分の息子が今月死ぬということだけ書かれていた。

 タカトシは車の中で顔が青ざめた。冗談にしては度が過ぎているし、不可解なことが度重なったので何故だか冗談とも言い切れないような気がしてきた。

 とはいえこれを信じる訳にはいかない。


 だが次の日、話は急展開した。ブリーフケースの落とし主を名乗る、柳原という人物が直接家までやってきたのだ。

 二人は場所を変えて話をするため、少し離れた街道沿いの喫茶店に移動した。

 タカトシは柳原という小太りの青年を、険しい表情で睨んでいた。

 しかし当の柳原はそんなことは意にも介さない様子で、目の前のチョコレートパフェを平らげていた。

 「いやあ、美味しいですね。西嶋さんも食べますか?」

 柳原は食べかけのパフェをタカトシに差し出した。

 「いや、結構」タカトシは苦虫を噛み潰したような顔で、自分が注文したブレンドコーヒーをすすった。

 老夫婦の経営するこの喫茶店は普段から客が少なく、今日もタカトシたち以外は二組の客しかいなかった。

 「ああ、美味しかった」柳原は満足そうな顔をしてお腹を押さえた。

 「それでは話をして頂けますか?」タカトシは苛立ちを抑えて言った。

 「そうですね。それじゃ、本題に入りましょう。いやあ、しかし西嶋マサト君のお父さんに拾われているとは思いませんでした。これも運命って奴ですかね」

 「どういうことですかな」

 「昨日、西嶋さんが拾われたブリーフケースの中に、死亡日付通達書という書類が入っていたかと思いますが、あれは残念ながら悪戯や冗談ではありません。現実に起こる事実なのです」

 更に柳原は、真剣な口調でこう続けた。

 「五月二十四日、西嶋マサト君はお亡くなりになります」

 タカトシは怒りを抑えきれずに、思い切りテーブルを叩いた。

 「君は、自分が何を言っているか分かっているのか!」

 閑散とした店内にタカトシの声が響き、二組の客も何事かと思いタカトシたちの座るテーブルを横目でうかがった。

 「落ち着いてください西嶋さん。ここからの話が重要なんですから」

 「そんなことを言われて、落ち着けるはずがないだろう!」

 「しかし、聞いてください。西嶋マサト君はこのまま何もしなければ亡くなってしまいますが、それを回避する方法も実はあるのです」

 柳原はテーブルに肘を着いて身を乗り出した。

 「……?」

 「あなたの魂とマサト君の魂を交換するのです。そうすればマサト君を助けることができます」

 タカトシは頭が混乱した。新興宗教の勧誘だってもっとマシなことを言ってくる。

 「そんな馬鹿げた話があるわけがないだろう! 常軌を逸している」

 「勿論、これを信じてくれと言っている訳ではありません。私はブリーフケースを拾っていただいたお礼に、チャンスを与えているだけなのですから。そのチャンスを生かすも殺すも西嶋さん次第です」

 「信じられる訳がない……」タカトシは呟くように言った。

 「まだ時間はありますので、ゆっくり考えてみてください。私は五月二十四日までこちらにいますから、それまでに気が変わりましたら、こちらに連絡してください」

 柳原は自分の名刺を渡した。

 「掛ける時は何処からでも市外局番なしで、そのまま入力すれば私のオフィスに繋がりますので……ああ、後、言い忘れましたが魂を交換するということは、西嶋タカトシさん、あなたが息子さんの代わりに五月二十四日に亡くなるということですので、それだけ忘れないでおいてください」

 柳原はニタッと笑ってブリーフケースを持つと、タカトシに一礼して店を出て行った。

 家に帰ったタカトシは、電話機の前で途方に暮れていた。

 「一体、どうすれば良いというのだ」

 タカトシもマサトが死ぬということに対して、思い当たる節がないわけではなかったので、柳原の言うことを少しずつではあるが信じ始めていた。

 まずはこの存在するはずのない十三桁の電話番号に掛けて、もし通じるようなことがあれば柳原の言うことを信じよう。そう心の中で呟き、タカトシはダイヤルを回した。

 最後の一桁を回すと電話が繋がった。あとは柳原が電話に出ればこのおかしな話も真実味が増す。心臓が高鳴った。

 「もしもし、西嶋さんですか? どうも、柳原です」

 「……」タカトシはこれを真実であると諦めた。

 「魂の取引をする気になられましたか?」

 「宜しくお願いします。息子の命をどうか救ってください」

 「かしこまりました。それではまた後日伺いまして、細かい規定のようなものを説明させていただきますね」


 それから数日後、タカトシが家族を連れて温泉宿に宿泊しているところに、柳原は直接やってきた。

 「……柳原さん」

 「本日はお出掛け先まで押しかけてしまって、誠に申し訳ございません」柳原は丁寧に挨拶をした。

 「いえ、結構です」

 「それじゃここではなんですので、ラウンジまでお出で願えますか?」

 タカトシは静かに頷き二人でラウンジまで移動すると、柳原は魂の取引の説明を始めた。

 「簡単に説明しますと、魂の取引とはお互いの寿命を交換するということ、西嶋さんと息子のマサト君が取引を行った場合、西嶋さんは五日後の五月二十四日に亡くなり、マサト君は西嶋さんの寿命を引き継ぎ、生きていくことになります」

 「魂の取引を行ったら、マサトは後何年生きられるのですか?」

 「それは西嶋さんの寿命次第ですが、それを教えることは規定違反なりますので申し訳ありませんが言うことができません。ただ、仮に西嶋さんの寿命が後三十年在るとした場合、マサト君には今後三十年間の寿命が約束される訳ですが、老衰で亡くなる場合と事件や事故、あるいは戦争などで命を落とした場合はその限りではなく、三十年待たずして亡くなります。まあ、老衰で亡くなることはないと思いますがね」

 タカトシはその仕組みについて、なんとなく理解した。

 「そうですか……」

 「以上のことを踏まえて、もう一度良く考えてみてください。一番悲しいのは死んでいく本人よりも、残された家族の方なんです」

 しかしタカトシの決意は固かった。

 「子供の死を目の前にして、助けない親などいませんよ柳原さん。マサトとの魂の取引、どうか宜しくお願いします」

 「そうですか、分かりました」

 柳原は持っていた封筒から、三魂取引申請書と書かれた書類をテーブルの上に出した。

 「それではこの書類にサインをお願いします」

 タカトシは震える手を押さえながら、書類にサインをした。

 柳原はそのサインをしっかりとチェックして封筒にしまった。

 「はい、確かに受け取りました。後はこちらの方で処理致しますので、当日は西嶋さん一人で私のところまで来てください」

 「柳原さんの職場にですか?」

 「ああ、まだ場所を説明しておりませんでしたね。場所は西嶋さんがブリーフケースを拾われた山の山中にありますので、そうですね、あの近くにダークマター……いや、大きな黒い岩があるのはご存知ですか?」

 「はい」

 「でしたら、その近くに獣道がありますので、そこを道なりに真っ直ぐ来ていただけますか。しばらく進みますと清水の湧き出る祠がありますので、そこに午前八時までにいらして下さい。もしも何らかの理由でその時間に間に合わない場合は、取引の申請は却下されマサト君が亡くなることになりますのでご注意ください」

 「分かりました」

 「貴重なお時間取らせてしまいまして、誠に申し訳ございませんでした。他に何かありましたら名刺の番号に電話してください。それでは失礼致します」

 そう言うと、柳原は温泉宿を後にした。

 タカトシは深く溜息をついて、しばらくラウンジのソファーでうな垂れていた。


 「そしてその当日、お前の親父は自らの寿命を息子であるお前に分け与え、山の中で一人死んだのだ」ギルバードはそう続けた。

 そうだったのだ、父さん……。

 本当であれば僕は二十年前に死んでいるはずだった。だけど父さんが自らの命を懸けて僕を生かしてくれていたのだ。

 「……父さん、ありがとう」

 僕は父の側に歩み寄った。幼い頃の思い出ではあんなに大きかった父なのに、今では僕の方が背が高くなってしまっていた。

 「始めは自分の命に代えても、マサトのことを守らなくてはと思っていたが、父さんが急にいなくなったことで、返って辛い思いをさせてしまったのかもしれない。母さんにも苦労を掛けたが、マサトにはもっと苦労を掛けてしまったな」

 「そんなことないよ……」

 僕は首を横に振った。

 「しかしマサトは本当に偉かった。母さんが亡くなってからは、一家の大黒柱として一生懸命に働き、まだ小さかったエミを立派に育ててくれた」

 「エミの花嫁姿、とっても綺麗だったよ」

 僕がそう言うと、父は笑って頷いた。

 「お前たちのことは、ここからずっと見ていたよ。父さんの変わりに良く頑張ったな。マサト」

 「……父さん、僕たちのことずっと見ていてくれたんだ」

 そう呟いた僕は、思わず子供のように泣いてしまった。鼻水を垂らして泣く僕の頭を、父は優しく撫でた。

 「マサト、ありがとう」

 僕が涙を抑えられず、父の前で棒のように立ち尽くしていると、月の女神が再びハープを奏で始めた。

 

  湖岸の乙女よ、睡蓮となり花を咲かせなさい

  暖かい陽の光で、その花を咲かせなさい

 

 今度は何が起こるのかと思い辺りを見回すと、急に後ろからぱっと光が放たれた。気を失い管理人に抱きかかえられていたカナが、再び青白く発光し始めたのだ。

 僕は眩しさに目を細めながら、呆然とそれを見た。


  花の心はあなたの心 全てを解き放って その温もりを届けて

  あなたは何も疑わなくて良い ただ美しく咲き誇るだけで 


 カナの身体が光に包まれた。

 「どうやら、カナさんに施されていた封印が、ようやく解かれようとしているようですね。マサト見ていてください」

 管理人はそう言ってきた。しかし僕は鍵が出てきたことで既にカナの封印は解かれていると思っていたので、これ以上一体何が起こるのだろうかとじっとカナを見つめた。

 青白く発光するカナの姿を見た父は、思わず驚きの表情を浮かべていた。

 「まさか……」

 父が両腕を伸ばすと、管理人はカナを父の手にそっと引き渡した。


  私はここに咲いている あなたがそれを望むかぎり

  あなたをいう陽の光で 私は何度でも花咲かせる


 そしてその時、僕の目の前で奇跡というべき出来事が起こった。

 封印が解かれたカナは、父の腕の中で子供の姿から大人の姿に変化していった。

 「カナエ……」

 父がそう呼んだのは母の名だ。

 「……あなた」

 母もそれに応え、二人はゆっくりと抱き合った。


  そしてあなたは帰ってくる 私が眠りから目覚めるころ

  私は永遠にあなたの優しさを 忘れることはないでしょう


 信じられなかった。まるで時間が遡ったかのようだ。

 パズルのように複雑だったこの街での出来事も、ようやく最後の1ピースがはまり、僕は管理人が言っていたことを思い出した。ここで起こる真実は現世での出来事と密接に繋がっている。

 「母さん……」

 僕が言うと、母は潤んだ瞳でこちらを振り向いた。

 「マー君」

 懐かしい響きに胸がときめいた。僕がマー君と呼ばれていたのは、小学生の時までだった。それを過ぎてからは、名前で呼ばれるようになっていたのに、母さんは何故か子供の頃のあだ名で僕を呼んだ。

 「会いたかったわ。マー君」

 ややあって僕は、自分の身体が小学生の頃に戻っていることに気が付いた。そしてそれはとても自然なことのように感じ、僕はそのまま父と母の元に駆け出した。姿は子供に戻っていたとしても、脳の意識は大人のままだった。しかしその時は気持ちまでも子供の頃に戻ったように、真っ直ぐに両親の元に走って行った。

 僕たちは長き時間を越えて今ここで出会い、そして肩を寄せ合って泣きあった。

 生きている時は、まさかこのような瞬間が来るなんて思ってもおらず、嬉しくてどうしても涙を止めることができなかった。

 父と母に貰ったこの命。父も母もその命の誕生を何よりも喜び、そして少しだけ小さく生まれてきたその命を、まるで天使に触るかのように大事に育てた。生後一年間は病院で過ごすことになった僕だったが、退院できた時は涙を流して喜んでくれた。夜中に熱を出した日は、父が僕を抱きかかえて診療してくれる病院を一軒一軒探し回った。保育園の徒競走で初めて一等賞取ったときは、周りの父兄がびっくりするくらい喜んでいた。その後家族で食べに行った洋食屋のハンバーグは、この世にこんな美味いものがあるのかと思うほど美味しさだった。そして妹が生まれ。父と母は僕たち兄妹に万遍なく愛情を注ぎ。父は僕のために自分の命を分け与え、母は僕と妹を暴走する車から身を挺して救ってくれた。

 大げさかもしれないが僕の父と母に対する感謝の気持ちは、地球上に存在するどんな素敵な感謝の言葉を並べても言い尽くせないのではないだろうか。

 その時、街の中心から鐘楼堂の鐘の音が聞こえてきた。

 カラーン、カラーン、カラーン―――

 「マサト、見てごらん」管理人は空を指差した。

 時はすでに月が真上にくる時刻。上空の巨大な満月が、僕たち家族を温かく見守っていた。

 「綺麗だ……」

 灰色の空に一際大きな箱舟が一隻、銀色の月を背に飛んでいった。

 僕はそれを見つめながら、自分たちが本当に不可思議な世界に来てしまったのだと再認識し、ここで 起きた全ての事実に深く感謝した。

 「それじゃマサト、そろそろ魂の器を返還しよう」

 ギルバードにそう言われ、僕は視線を地上に戻し辺りを見回した。横にいる父はさっきまでお腹の辺りから見上げていたのに、いつの間にか僕の目線より低い位置にいた。

 元の身体に戻った僕は、父と目を見合わせた。

 「父さんありがとう、魂の器返すね」

 「ああ」

 「それじゃ、二人ともそこに並んで目を閉じるんだ」

 ギルバードの言葉に、僕と父はゆっくりと目を閉じた。

 「それではいくぞ」

 ギルバードは人差し指で三角形を描き、呪文を唱えた。

 「天、地、人。魂の器を構成する三つの素子よ、死神ギルバードの名の下に、今こそあるべきところに還り給え!」

 目を閉じていると、肺の下が急に膨らんでみぞおちの辺りからそれが抜け出し、その後すぐに何か暖かいものが抜けたところに入ってきた。

 そして僕は瞼を開いた。

 「良し、これでお前たちの魂はあるべき形に戻った、また新しい世界で新しい生命となり生まれ変わるが良い」

 「はい。ありがとう、ギルバードさん」

 僕に課せられた行は、これで全て終了した。後はギルバードの言う通り、新しい命として生まれ変わるんだ。

 「それじゃ皆さん、新しい世界に出発致しましょう」管理人は言った。

 僕たち家族は顔を見回した。

 「はい」

 管理人は言っていた。魂ある限り、人は何度でも生まれ変わるのだと。


 駅前の大通りを真っ直ぐに歩いていくと、灰色の街の駅が見えてきた。後はそこから列車に乗れば新しい世界で生まれ変わることができる。短い間ではあったが、この世界ともこれでお別れのようだ。

 駅の改札口を潜り抜けて僕は言った。

 「管理人さん。今までありがとう。僕たちはこれでようやく、新しい世界に生まれ変われるんですよね」

 「ええ。しかし、事故で亡くなったカナエさんはもう一度同じ世界をやり直していただきますので、マサトとは行き先が異なってしまいます」

 「えっ?!」

 僕はそのことを、今の今まですっかり忘れてしまっていた。現世は二つあり通常亡くなった生命は別の世界で生まれ変わるのだが、事件や事故で亡くなった生命は灰色の街でのリハビリの後、以前いた世界をやり直さなければいけないのだ。

 僕は母の顔を見た。

 母は息を殺しながら「もう、会えないのね……」と言って涙ぐんだ。

 どうやらこれが本当に、最後の別れのようだ。

 「父は、父さんはどっちの世界に行くんですか?」

 管理人は黙って頷くと「この街の法令によって命を失った場合もまた然り。タカトシさんもカナエさんと同じくネセシティをやり直していただきます」と淡々と語った。

 父は僕の肩を強く掴んできた。

 「折角会えたのに、こんな形で別れたくはなかったな……。しかし、自分の選んだ道に後悔はしてないぞ。魂の取引をしていなかったら二十年前のあの時を最後に、もう二度と会うことは叶わなかった。一目こうして会えただけでも、どんなに幸せなことか……」

 そう言った父の目にも、僅かに涙が浮かんでいるようだった。

 静かな駅の構内に、遠くから列車の汽笛が響いてきた。とうとう別れの列車がやってきてしまう。                                                                                 

 僕はもう一度、父と母の顔を見つめた。

 「けど父さんと母さんが一緒で良かった。……管理人さん一つ聞いても良いですか?」

 「何でしょうか?」管理人は振り向いた。

 「来世で父さんと母さんは、また出会うことはできるでしょうか?」

 父と母は顔を見合わせた。

 「そうですね、残念ながらあの広い世界で再び会えるということは、確率で言えば0%に近い数字じゃないでしょうか」

 「そうですか……」

 「ただ、袖振り合うも多生の縁。前世で因縁があった人物とは、少なからず後世でも縁があるものだという話を聞いたことがあります」管理人はそう言ってニッと笑った。

 それを聞いた父と母はゆっくりと抱擁した。

 「父さん、次に生まれる時には母さんのこと絶対に見つけてあげてよ。そしてまた結婚して幸せな家庭を築いてね」

 「……ああ、分かった、約束するよ」

 「母さん。また父さんに幸せにして貰いなよ」

 「うん。だけどマー君が……」母は顔をくしゃくしゃにしながら僕に抱きついて「マー君も幸せになってね……」と呟くように言った。

 来世の幸せを願うなど滑稽なことなのかもしれない。だが、その時僕はただ「うん」と頷き母を強く抱きしめた。

 徐々に列車の近づいてくる音が近づいてくる。僕はこの時ほど時間が止まって欲しいと思ったことはなかった。しかしこの不可解な世界にも、残念ながら時間は刻一刻と流れている。

 ジュッ、ジュッ、と蒸気を上げながら走ってきた鋼鉄の塊が激しいブレーキ音をあげながらプラット フォームにゆっくりと滑り込んだ。

 シュ―――――

 列車の扉が開くと、車両の下から白煙が上がった。

 「灰色の街、灰色の街―――」

 相変わらず覇気のないアナウンスが、駅構内に流れた。

 管理人は乗車口の前に立つと、父と母に手を差し出した。

 「これはネセシティ行きの列車ですので、タカトシさんとカナエさん、どうぞご乗車ください」

 そう言われるや否や、父は「すみません。もう少しだけ時間をください」と言って僕の手を握り、しっかりと目を見つめてきた。

 「またお前を、一人にしてしまうようで心苦しいな」

 「僕、父さんには感謝しているよ。本当の寿命より長く生きたお陰で、色んなことを知ることができた。エミの花嫁姿も見ることができたよ」

 「もっと、長生きさせてやりたかったんだがな……」

 「……充分だよ」

 「そうか」

 父は、僕と母の肩を強く抱いた。

 母は悲しみで何も言えないのか、黙って僕の傍らで泣いていた。

 「じゃあね、母さん。最後に会えて本当に嬉しかった」

 リリリリリリリリリンッ!

 発車のベルが駅構内に響きわたった。

 「残念ながら、もう時間がありません。急いで乗車してください!」

 管理人が強い口調で言うと、母が必死で抵抗して叫んだ。

 「マー君ッッ!! マー君ッッッ!!!」

 泣きながら叫ぶ母を父がなだめ、最終的には管理人に無理やり押し込まれるような形で列車に乗車した。

 母の取り乱し方は尋常ではなかった。しかしそれも仕方がないだろう。これは今生の別れなのだから。

 「二番線、ネセシティ行きの列車が発車します。お見送りの方は列車から離れてください」

 プシュ―――――

 牽引する先頭列車が動き出すと連結部分がガシャンという音をたてて、ゆっくりと列車は走り出した。客席に移動した父は、勢いよく窓を開けこちらに向かって顔を出した。

 「マサト!」

 「父さん!」

 僕は走り出す列車を追いかけた。

 「マサト、向こうの世界でも幸せに暮らすんだぞ」

 僕は走りながら頷き、今度は窓越しに見える母に向かって叫んだ。

 「母さん! 母さん!」

 しかし列車の警笛によって、その声はかき消された。

 母も涙で声を詰まらせながら、懸命に手を振り何かを叫んだ。だが何を言っているのかは分からない。

 「聞こえないよ! 母さん!」

 もちろん僕の声も、すでに母の耳には届いていない。

 聞こえないことは分かりつつも、僕は走り去る列車に向かい腹の底から、ありったけの声を出して叫んだ。

 「母さん、ありがとう! さようなら!」

 列車は白煙を上げながら巨大な月を跨ぐ、長き橋の先へと消えていった。

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