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第五章 ネセシティ

 眩い光に包みこまれた真っ白な世界。やがて現れた濃密な霧の中を漂っていると、下から突き上げるような突風が吹き抜けて、その切れ間から青空が顔を出した。

 「ハハハッ、成層圏より現れる!」

 ギルバードは久しぶりの現世で、すこぶるご機嫌の様子だった。

 「えっ! ここ空の上?」

 驚き思わず足をバタつかせたが、確かに今僕は空に浮いている。

 「いかにも、時空の扉は天に現れるのだ」

 「高いところは苦手なんだけど……」

 バランスを左右に取りながら、宙に浮く身体を必死に支えてみたが、どうにも安定せずに足が持ち上がった。

 「手足は使わず、もっと腰を使って飛ぶんだ」

 ギルバードは言ったが、そう一朝一夕にはできない。しばらく腰に力を入れながら四苦八苦していたが、やはり身動きが取れない。

 「もっと、イメージしてみろ。お前だって夢の中で、空を飛んだことくらいあるだろう」

 「夢の中?」

 「ああ。ようはそれと同じことだ。人はいざという時のためにそうやって、空を飛ぶ訓練をしているんだ」

 本当にそうなのかと疑問に思いはしたが、一応それを思い出してみた。翼もないのに、まるで鳥のように大空を飛び回った夢のことを。そう、それはとても気持ちの良いものだった。夢の中で僕は風の吹く大草原の中、飛ぶためのイメージを膨らませる。そして両腕をいっぱいに広げると、何らかの力が働き体が空へと上昇していく。そうだ、この感覚。夢の中で空を飛ぶ時は、いつもこの感覚に陥る。

 その時、僕の尻が上に上がり、空中で四つんばいのような体勢になった。

 「背骨は真っ直ぐにしていれば良いんだ。真っ直ぐにして腰で支えるようにして移動する。分かるか?」

 そう言われて体を起こすと、そのままゆっくりと天に向かって上昇していった。

 「何だ、うまいじゃないか」

 「少しだけコツを摘みました」

 「そうか、だがこれから俺たちが向かうのは、そっちじゃなくて地上だ」

 ギルバードはそう言って下を指差した。

 「……そうでした」

 僕は体の自由が利くようになって、ようやく周りの景色にまで意識が及んだ。

 「これが空か……」

 「どうだ、空の上ってのは美しいもんだろう」

 見下ろすと薄い雲が幾つか散らばり、凛と引き締まる空気の中、鮮やかに澄み切った真っ青な空が、遠くどこまでも続いていた。

 「綺麗だ……」僕は息を呑んだ。

 「それはそうと、寒くはないか?」

 「ああ、少し寒いかな」

 「ちなみに今の気温は、マイナス50度といったところだ」

 「マイナス50度!」僕はなんだか急に体が震えてきた。

 「今のお前の体は仮初めの作り物で、痛みや熱さ寒さに非常に鈍感なんだ。だが痛みを感じ難いとはいえ、それ以上に丈夫に作られた身体だから心配はするな」

 ギルバードはそう言うと、勢いよく下降していった。

 「よし、一気に地表まで降りるぞ。楽しい空の旅の始まりだ!」

 僕もなれない腰つきで、ギルバードを追いかけた。

 速度を上げると、グオッという音とともに、僕の身体は風に包み込まれた。

 「どうだ、空を飛ぶ感想は?」

 「気持ち良い。夢で体感した時と一緒だ!」

 「そいつは良かったが、そう喜んでばかりもいられない。ここから先は強風地帯の対流圏界面だ。ジェットストリームに飛ばされないように気を付けろ」

 僕たちは風の渦となり、偏西風の吹き荒れる中に突っ込んだ。下降するにつれ徐々に風が強まってくる。

 「風で吹き飛びそうだ!」

 「この程度で泣きごと言っていたら、先が思いやられるな。この先にある気流のライン、あれがジェットストリームだ!」

 ギルバードに言われて下を見下ろした。まるで濁流のような轟音をたてて吹き荒れる、大気の流れがそこにあった。

 「あれが飛行機が速度を上げるために乗るっていう気流か……」

 それを前にした僕が恐怖のあまり二の足を踏んでいると、ギルバードは僕の首根っこを掴み無理やりジェットストリームの中に突っ込んでいった。

 「うわっ!」

 その化け物のような気流の勢いはまさに目も開けられない程で、僕はギルバードに掴まれていなかったら簡単に吹き飛ばされているだろう。

 ギルバードは気流に流される僕を引きながら、一気に下降した。

 そしてしばらく下降した時、凄まじい音をたてて一直線に吹き荒れる暴風の中、僕の耳元で何かの声が聞こえてきた。

 「あれっ? 何でこんなところに生き物がいるんだ?」

 「……?」

 風の音が凄く、他の音など耳に入らない状態だったのだが、突然風の音が全く聞こえなくなり何者かの声が聞こえてきたのだ。

 僕は少しだけ目を開いた。

 「誰かいるのか?」

 しかし見える範囲には誰もいない。

 「……君は僕のことが見えるの?」

 目には見えないが、やはり僕の側で誰かが語りかけている。それはギルバードの声ではない。小さな子供のような声だ。

 「いや、見えない。だが声は聞こえる」

 「へー、不思議だな。君は人間なのかな?」

 「そうだ。あなたは一体誰なんだ?」

 「僕は風の精霊だよ」

 「精霊だって?」

 「うん。気流を住処とする風の精霊さ。どうだいこの中は、とっても心地良いだろう?」

 「いや、寒いし、風がうるさいし、一刻も早くここから抜け出したいね」僕はそう言って再び目を閉じた。

 「そうか、やっぱり人間には合わないのかな。残念だな……」

 「風の精霊たちは、この中が居心地良いの?」

 「そりゃあそうさ。もちろん地表に近いところに住んでいる仲間もいるけどね」

 「ふうん」

 「君たちも地上に行くのなら、僕の仲間たちに宜しく伝えてくれ」

 「うん、分かった」

 「もうじき気流から抜け出せるよ。それじゃ、良い旅を……」そう言うと風の精霊は何処かに消えていったようだ。

 辺りの風が徐々に弱まり、僕はギルバードに掴まれたままジェットストリームから抜け出した。

 「やっと終わったか」ギルバードはそう言うと、掴んでいた僕の首根っこを離した。

 なんだか頭がくらくらする。僕は頭を軽く震わせて、さっき聞こえた声が幻だったのか現実だったのか考えた。

 「そういえばマサト、ジェットストリームの中で何かブツブツ言ってなかったか?」

 ギルバードは眉をしかめ僕の顔を覗き込んだ。

 「いや、別に……」

 幻覚だったのかもしれないが、やはり僕は誰かと会話をしていたようだ。

 ギルバードは僕のことをおかしな奴だと思ったのか、首を軽く傾げてから下を見下ろした。

 「今日はずいぶんとでかい高層雲が、覆い被さってやがるな」

 遥か下には、巨大な雲の絨毯が見渡す限り広がっている。ギルバードはブリーフケースの中から羅針盤のようなものを取り出し、その道具を使って何かを計測すると、斜め下の雲に向かっておもむろに指を差した。

 「あそこに雲の丘陵があるだろう?」

 ギルバードの指差す先には、雲が小高く盛り上がっている場所があった。

 「はい。丘になっているところですね」

 「あそこから中に進入して、そのまま垂直に雲を抜けるぞ!」

 ギルバードと僕はその雲の丘まで近づいていくと、一気に白い雲の中にダイブした。湿り気のある雲の中は、真っ白で視界がとても悪く1メートル先も見えなかった。

 「後は、真下に向かって降りていくだけだが雲の中では方向感覚を失う、俺の後にしっかりついてこいよ!」

 「はい!」

 雲の中をしばらく下に潜っていくと、光も届かなくなるのか段々薄暗くなってきた。

 僕は何度かギルバードの姿を見失いかけたが、その度にギルバードは速度を落とし、そして僕の視野の範囲に入るとまたスピードを上げた。雲の海はしばらく続き、僕たちの身体は雲の水滴で水浸しになった。

 やがて雲の中の明るさが取り戻してくると、真っ白い雲が少しずつ掠れてきた。

 「もうすぐ海抜1km、エクマン境界層に到着するぞ!」

 僕たちはようやく分厚い雲を突き抜け、その直下にある地表の姿を目にした。

 「見ろ! あそこが目的地だ」

 眼下には美しい山々が四方に広がり、その中心に目的地と思しき小さな町が見てとれた。

 「もうそろそろ時間だ。少々急ぐぞ!」

 ギルバードが更に加速度を上げると、下から強風が吹き上げてきた。

 その風によって身体が上へと持ち上げられた僕は、その風を防ぐように両腕で顔を覆うと、その腕の隙間から何かが上昇してくるのが見えた。何だろう、真下から吹き上げる気流に乗って何かがやってくる。強風に目を細めて下をじっと見つめると、大きく広がる羽根が見えた。鳥だ。大きな鳥が上昇気流に乗り、もの凄いスピードで迫ってくる。僕は慌てて避けようとしたのだが、強風で体勢を崩していたのでどうしても避けることができなかった。

 ぶつかる! 僕は思わず目を瞑り、身を縮こめた。

 ……!?

 しかし何故か何の感触もなかった。不思議に思い目を開けると、その大きな鳥はすでに遥か上空に舞い上がっていた。鳥の方が避けていったのだろうか? 確実にぶつかると思ったのだが、何かの具合でどうやらうまく避けられたようだ。

 「どうかしたのか?」

 遠く下方からギルバードにそう言われた僕は、ふと我に返り「何でもないです」とだけ言って追いかけるように加速度を上げて降下した。

 高度が低くなるにつれ、だんだんと町の輪郭が浮かんできた。そしてそれと同時に僕はその風景がなんだか、とても見覚えのあるものだということに気付きだした。

 「ギルバードさん、もしかしてこの町って僕の住んでいた町じゃないですか?」

 「そうだ、マサトの住んでいた町。そしてあの子供もまた、この町に住んでいたのだ」

 それを聞いたとき、確信ではないが僕の中である仮説が浮かんでいた。

 「良し、見えてきた。あの学校だ」

 それはまさしく僕の母校だった。

 僕の胸は激しく高鳴った。

 「もう少し高度を下げて、屋上の見える位置に移動しよう」

 僕たちは、学校の屋上から少し離れた上空で留まった。

 「ここで一体何をするんですか?」

 「なあに、見ていれば分かる」

 ギーッという音とともに屋上の扉が開き、そこから足を引きずった女の子が現れた。

 「あいつがそうだ。うちの事務所の前で座っていたのは、魂の核が抜かれた状態だったから印象はだいぶ違うが間違いない」

 「藤川リサちゃん……」

 僕は今、はっきりと思い出した。

 「んっ? マサト、あいつのことを知っていたのか?」

 リサは屋上を歩いていくと、ゆっくりと細い柵を乗り越えた。

 「駄目だ! リサちゃん!」

 僕は屋上に向かって、もの凄いスピードで降下した。リサが屋上から飛び降りるその瞬間、僕はそれを食い止めようと抱きしめたのだが、リサは遠くを見つめたまま、僕の体をスッとすり抜けてそのまま地上に落下していった。

 「なんで……」僕の交差した腕の中に、勿論リサはいなかった。

 ギルバードが、後ろからゆっくりと飛んできて言った。

 「残念だったな。俺たちは違法なルートで来たから、人間などの生き物には見ることもできなければ、触れることもできないんだ」

 「そんな……。それじゃ、どうやってリサちゃんを救えば良いんだ」

 「目的を間違えるな。俺たちが救うのはあいつの魂であって命そのものではない」

 「命が救えるなら、そのほうが良いじゃないですか!」僕は強く反発した。

 「馬鹿なことを言うな。死神は人の命を奪うことはあっても、救うことなどできやしない。与えられた本分に背く行為は、俺たちの世界では大罪だ」

 「ではどうやって魂を救うのですか?」

 「案ずるな。俺たちは人間に触ることも喋ることもできないが、違法なルートでやってきた利点が一つだけある」

 「何ですか?」

 ギルバードは下を指差した。

 「仏さんと会話ができる」

 校舎の横にはいつの間にか救急車とパトカーが来ていて、救急車はリサを乗せるとサイレンを鳴らし走っていった。

 警察が未だ現場を調べるなか、大きな血だまりの上にはリサの霊とでもいうべきものが留まっていた。

 「ここにいるのがいわゆる『魂の核』と呼ぶべきものだ。死んだ時こいつの『魂の器』は恐らく列車に乗ることができたのだろうが、自殺で死んだ場合は大抵『魂の核』は、その場に置き忘れちまう。だから列車に乗った『魂の器』も生まれ変わることができずに、灰色の街で降ろされるのさ」

 「魂が二つに分かれてしまうのですか?」

 「まあ、分かれてしまうというより、元々魂はその二つで構成されているのだ。俺の事務所の前に座っていたのが精神を司る魂の器で、ここに残っているのが本能を司る魂の核。通常は両方揃っていないと、的確な転生ができないのだ」

 「じゃ、この魂の核を灰色の街に連れていけば、リサは転生できるんですね」

 僕の質問にギルバードが頷いた。

 「だが、そう一筋縄ではいかない。魂の核が灰色の街に行くには、『魂の回帰』即ちこの世界で言うところの成仏というものを、させなければならない」

 僕はリサの霊を見下ろした。

 「リサちゃん。君は成仏できていなかったんだね……」

 「この魂の核を成仏させれば二つの魂は一つとなり、灰色の街にいる娘も救うことができるはずだ」 ギルバードは僕の肩に手を置きそう言った。

 「リサちゃんのこと、ちゃんと供養して成仏させてあげるよ」僕はリサの霊の前に立った。

 するとリサはゆっくりと視線を上げ、消えてしまうような儚い声で話した。

 「えして……、かえして……」

 「えっ、何を?」

 「あたしの足……、返して……」

 周りを見ると、リサの義足がなくなっていた。

 「あっ、義足は確か警察の人が持って行ったのかな?」

 「……ここにある」

 そう言うとリサは僕の左足を掴み、引きちぎれんばかりの力でおもむろに引っ張った。

 「痛い! ちょ、ちょっと、リサちゃん放して」

 こんな小さな体のどこにそんな力があるのかと思うくらいに、リサの握力は徐々に強くなっていき、いよいよ足が千切れそうになったとき「この足じゃない……」と言って僕の足から手を放した。

 僕は思わず後ろに倒れた。リサはうつむいたまま僕たちに背を向け、閉まっている校舎の扉の中に消えていった。

 「ちょっと待って、リサちゃん! どこに行くの!」

 「恐らく自分が死んだことに、気が付いていないのだろう」横からギルバードが言った。

 「追いかけなくて良いのですか?」

 「いや、大丈夫だ。すぐに戻ってくる」

 ギルバードには、リサがこの後どういう行動を取るか分かっていた。

 「戻ってくるって、何処に行くのか分かっているんですか?」

 「当然だろう。屋上を見てみろ」

 「屋上?」

 ギルバードに言われ上を見上げると、その瞬間、屋上から子供が落ちてきた。

 「うわっ!」

 思わず後ずさり、地面に倒れた子供を見ると、落ちてきたのはリサの霊体だった。

 「失礼するよ」

 ギルバードはそう言って身を屈めると、うずくまっているリサのうつろな瞼を指で広げ観察した。

 「こいつはまだ、まともに話せる状態じゃないな。目が濁っていて生気がない。まあ、死んでしまっているのだから当然と言えば当然だが」

 「会話もできないんですか?」

 「ああ。まずはこいつを、話ができる状態に持っていくことだな。どうやら自分が死んでいることに気が付いていないようだから、今のままでは死のうとする本能だけが働き、自殺の真似事を永遠に繰り返すだけだ」

 「どうすれば良いんでしょうか?」

 「さてなあ。こいつはさっき自分の足を探していたから、その義足とやらを渡してやれば、少しは話ができる状態になるんじゃないか?」

 「それなら、持っていった警察署に行ってみましょう」

 「そうしてくれ」

 ギルバードはそう言うと、胸のポケットから煙草を取り出した。

 「ギルバードさん、行かないんですか?」

 一緒に取り出した鉄製のライターのようなもので、煙草に火をつけると、それを大きく吸い込んで、そして深く煙を吐き出した。

 「言っただろ、お前がこいつの心の傷を、癒してやってくれって。俺は少し疲れたようだから、ここで暫し寝ることにする」

 そう言ってギルバードは、いきなり天に向かって思い切り飛び上がった。驚いて見上げると、近くに立っている、葉の生えていない枯れ木のような大木の上にいた。

 しかたなく僕も、のろのろと飛び上がりその大木に近づいた。

 「それじゃ、行ってきますよ」

 ギルバードは太い枝に腰掛け、紫煙をくゆらせながら「頼むぞ」と目で合図した。

 大木の上からは、遠くに警察署が見えた。古びたコンクリートでできた、簡素な警察署だ。僕がそこに向かって飛び立とうとすると、何かを思い出したかのようにギルバードが語りかけてきた。

 「今の俺たちは実体があって物に触ることもできるが、人間を始めとした生き物には見ることも触れることもできない。それだけ注意しておけ」

 僕は少しだけ振り返ってから黙って頷き、そのまま警察署に飛んで行った。


 学校から離れ更に上空に舞い上がると、目的の警察署がはっきり見てとれた。その警察署は僕が二十歳の頃、新しく立派な庁舎に建て替えていたのだが、この時はまだ古い庁舎のままだった。

 僕は警察署の上空まで飛んで行くと、その敷地内の駐車場に降り立った。つい十年ぐらい前まではこの建物だったのだが、今見ると何だかそれはとても小さく感じられた。

 そのまま庁舎まで歩いていると、入り口前の階段に警官が立っているのが見えた。本当に向こうからは見えていないのか不安になった僕は、入り口の前で立ち止まりその警官をじっと見つめた。

 しかし警官は僕のことなど何も気に留めない様子で、そのままそこにじっとしていた。

 僕はその警官の左腕をそっと触ろうとすると、手の触れた部分だけ半透明になり警官の腕をすっと通過した。信じていなかったわけではないが、ギルバードの言っていたことは、やはり本当だったようだ。

 僕は続いて入り口のドアに触れた。これはがっちりと掴むことができる。それなのに人間には見えないし触れることもできないなんて、なんとも不可解な気持ちになった。

 僕は掴んだドアノブを押して中に入ると、ドアの向こうにいた老人がぎょっとした表情で扉を凝視していた。一瞬、老人が自分のことを見ているのではと思ったが、すぐに誰もいないのに扉が開いたことに、驚いているのだと気が付いた。

 僕はそそくさと中に入り、そっと扉を閉めた。振り返ると老人は、少し離れた位置からまだいぶかしげにその扉を見つめていた。

 失敗したなと思ったが、まあ仕方がないと省みて先へ進んだ。

 入り口の正面にある大きなカウンターの前から左右を見渡すと、左手に関係者以外は入れないと思われる小さな扉を発見した。そこが怪しいと思い、とりあえずその前まで行きドアノブをひねってみた。すると鍵は掛かっていなかったので、僕は周りを伺い誰も見ていないことを見計らい、小さく扉を開き中にするりと入り込んだ。

 侵入した扉から廊下を進んでいくと、幾つかの部屋があった。しかし一体何処を探したら良いものか分からずただ漠然と歩いていると、交通課の扉の先に倉庫と書かれた扉があった。もしかしたらここではないのかと思い、僕はその扉をそっと開き、中を覗き込んだ。すると扉の奥では若い婦警がこちらを見て、急に開いた扉に驚き体を固まらせていた。

 先ほどの教訓が生かされず、また同じ過ちを犯してしまったようだ。僕は少し考えを巡らせてから、やはりここは後回しにしようと思い倉庫を後にすると、中から「ちょっと待ちなさい!」という大きな声が聞こえてきた。

 僕はその声に思わず足を止めた。まさかと思ったが、それは明らかに僕に言ってきたものだった。

 僕が再び倉庫の中を覗き込むと、その婦警は身構えながら「あなた誰? ここは関係者以外立ち入り禁止よ!」と言い放った。

 僕は少し躊躇いながら、小さい声で言った。

 「……僕のことが見えるんですか?」

 それを聞いた婦警は、ハッとした表情をしてゆっくり肩の力を抜いた。

 「あなた、もしかして幽霊か何かなの?」

 「そのようなものです。脅かせてしまってすみません。けど僕が生きた人間じゃないと何で分かったんですか?」

 「私は霊感が強いから見えるのよ。子供の頃からそう、おかげで怖い目にもあったけどあなたからは悪い気配を感じないから大丈夫みたい」

 「無断で入ってきましたが、悪意はないです」

 僕は少しだけ笑みを浮かべたのだが、婦警は怪訝そうな表情をして「ただあなたは幽霊にしては存在感があり過ぎる。それに霊感が強いといっても幽霊と会話をしたのは今日が初めてだわ」と言った。

 「そうですか。もしかすると僕は一般的に言われる幽霊というものとは、少し違うものかもしれません」

 「そうかもしれないわね、幽霊なのに扉を開けないと部屋に入ってこられないなんて不憫すぎるもの」

 「確かにそうですね」そう言うと、僕たちは顔を見合わせて笑った。

 僕はその婦警の笑った顔を見ながら、記憶の片隅にある何かを思い出していた。この人の醸し出す雰囲気は、生前会ったことがある誰かに似ているような気がする。

 「私は会計課の海老原っていうんだけど、あなた名前はあるの?」

 「西嶋と言います」

 僕はそう言って考えた。この人とはどこかで会っているような気もするのだが、残念ながら彼女の名に聞き覚えはない。それにここは確か十五年くらい前の時代のはず。記憶が曖昧なのは仕方がない。

 「それで西嶋さんは、警察署に何の御用かしら?」海老原という名の婦警はまるで、交番に尋ねてきた人を対応するような口調で問いかけた。

 「あの今日、堀川小学校で自殺があったと思うんですが、その自殺した女の子の義足を返していただきたくてこちらまで参りました」

 「義足? あなたがその義足をどうするっていうの?」

 「そこで自殺した藤川リサちゃんが何というのでしょうか、自分が死んだことを理解できてないようで、その場に留まってしまっているんですけど……」

 「いわゆる地縛霊ってやつ?」

 「そうです、そうです。その地縛霊のような状態になってしまっていて、そこから救うには恐らくその義足が必要だと思うんです」

 「他の霊を供養しようというの? 随分奇特な幽霊さんなのね」海老原は少し呆れたような顔をして笑った。

 「死んでからも、生きている以上に色々あるんですよ」

 「そうみたいね。私もあなたに協力してあげたいけど、私がここから義足を持ち出すのは不可能だと思うわ」

 そう言われ僕は静かに肩を落とした。

 「不可能なんですか?」

 「幾ら警察内部の人間だといっても、勝手に遺留品を持ち出すことはできないのよ」

 「けどリサを成仏させるためには、どうしても必要なんです」僕は必死に懇願した。

 「どうしても必要?」

 「それがないと魂を救うことができないんです」

 海老原は少し思案した。

 「あなたにその義足をあげることはできない。けど鑑識課に知り合いがいるから、内緒で少しの間借りられないか頼んでみることはできるわ」

 「本当ですか!」

 「ただし時間が掛かるかも知れないわよ。それでも良い?」

 「大丈夫です。ありがとうございます」

 「それじゃ借りられたら持っていくわ。一体何処に届ければ良いの?」

 「堀川小の校庭で待っていますんで、そこにお願いします」

 「分かったわ。だけどあまり期待しないで待っていてね」

 僕は義足の件は海老原に託して、一度小学校に戻った。


 「ギルバードさん、起きてください!」

 木の上で器用に寝ていたギルバードは、少し体をがくっと揺らせてから、むっくりと目を覚ました。

 「……どうした? 義足は持ってきたのか?」

 僕はギルバードに経緯を説明した。だがギルバードは、「それじゃ解決したら起こしてくれ」と言って、また眠ってしまった。

 とにかく待つしかない。僕は待ち続けた。その間、リサは屋上に上っては地面に落下する行動を何度も、何度も、繰り返し、ギルバードは相変わらず木の上で眠っていた。

 そして待つこと九日後の夜も明けぬ早朝、婦警は約束通り義足を持って学校に現れた。

 「海老原さん!」

 「ごめんなさい、待たせちゃったわね。鑑識課がどうしても貸してくれなかったから結局無断で持ってきちゃったわ」

 「本当ですか!? 何だかすみません。警察官なのに泥棒みたいな真似をさせてしまって」

 「うん、気にしないで。だけどすぐに持って帰らなきゃいけないから、早めに済ませてくれる」

 海老原はリサの存在に気が付き、「あの子がそうなのね」と言ってリサのことを見つめた。

 すると突然、上空から目覚めたギルバードがフワフワと降りてきて、僕たちを見下ろした。

 「丁度良かった、ギルバードさん。この人が前に言った海老原さんです。リサの義足を持ってきてくれましたよ」

 「ああ、そうか」

 そう言うと、ギルバードは地面に降り立ち、大きくあくびをしながら海老原を指差した。

 「おい、女。お前は俺たちのことが見えるらしいな」

 目の前の大男に少したじろいだ海老原は、小声でただ「はい」と答えた。

 「時々そういう人間がいるみたいだな。俺も何度かそういう人物に会ったことがある」

 ギルバードはそう言うと、不意に海老原の頭の辺りに手をかざした。海老原は思わず背筋がびくっと動いてゆっくりギルバードを見上げた。

 「あなたは一体……」

 海老原は一言そう言うと、何ともいえない表情で振り返り僕に義足を渡した。

 「どうかしましたか?」

 「いえ、大丈夫。早く義足を彼女に渡してあげて」

 僕はそれに頷き、義足をリサにそっと差し出した。

 「リサちゃんの義足持って来たよ」

 リサは虚空を見つめるような目で、その義足を見つめた。

 「これ、あたしの足……」

 しかし、しばらくすると興味がなくなったように振り返り、また校舎の中に入って行ってしまった。

 「どうやら、駄目だったようだな」ギルバードは言った。

 「そんな……」

 僕は海老原に目をやると、彼女も長年の勘からなのか今必要なのはその義足じゃないと感じとったようで、僕に向かって大きく首を振った。

 「一体どうすれば良いんだ」

 僕が頭を抱えると、海老原が近づいてきて言った。

 「とにかくその義足は、今日遺族に返却するらしいから、もう持って帰るわよ」

 「はい……」

 「まあ、そんなに気を落とさないで、彼女を助ける方法は一つだけじゃないはずよ。何だったら知り合いの霊媒師とかも紹介してあげるからね」

 そう言うと海老原は、足早に警察署に帰って行った。

 僕は落下現場で深くうなだれた。

 「どうすれば良いのだろう」

 やがて朝日が昇ってきた。東から眩しい光が校舎を照らした。

 その時、僕はいつまで経ってもリサが屋上から落ちてこないことに気が付いた。

 どうしたんだろう? いつもならすぐに落ちてくるのに何故なのか一向に落ちてこない。僕は不振に思い屋上に飛んで行った。

 リサは屋上の柵を越えたところで、ずっと朝日が昇るのを見ていた。義足を見たことで少しだけ行動パターンが変わったのかもしれない。

 僕はリサの横に立った。

 「朝日が眩しいね」

 小学校の屋上は、東の空から放たれる光に満ちていた。

 溢れる光の中、屋上の柵の下に朝日を受けてキラキラと光るものを発見した僕は、ふとそれを手に取ってみた。

 「なんだ、ビーズのアクセサリーか」

 するとリサは何かに気が付いたようにこちらに振り向き、そのアクセサリーを見て目の色を変えた。

 実体がなく物を触ることができないリサは、ビーズのアクセサリーをいとおしむように僕の手ごと、自分の両手で包み込みそのまましゃがみこんだ。

 「エミちゃんから貰ったブレスレッド」

 ギルバードから生気がないと言われたリサの目から涙の代わりに光の粒が溢れ出し、その小さな粒がキラキラと輝きながら宙を舞った。

 「……んなさい。エミちゃんごめんなさい。エミちゃんだけはずっと友達でいてくれたのに、裏切るようなことしてごめんなさい……」

 そのブレスレッドは妹がリサにプレゼントしたものだった。恐らくリサが屋上の柵を越えた際、そこに落としてしまったのだろう。

 「リサちゃん。エミに会いに行こうか」僕は言った。

 リサは光の溢れる目で僕を見上げた。

 「……あたし、エミちゃんに会いたい。会って、ちゃんと謝りたい」

 「僕が連れて行ってあげるよ。エミのところへ」

 この日は確か、僕が妹と二人でリサのお墓をお参りに行った日だった。

 「ギルバードさん!」

 僕は屋上から下に向かって大声で叫ぶと、ギルバードがフワフワと屋上に飛んできた。

 「どうした。話ができる状態になったか?」

 「はい。後は僕の妹のエミに会えば、成仏できるんじゃないかと思います」

 「そうか、なんだか良く分からないがそれなら良かった。早速お前の妹とやらに会いに行こうじゃないか」

 「はい!」

 僕たち三人は屋上を飛び立ち、墓地へと向かった。

 学校の屋上から大通りを越えて、町の上空を飛んでいくと、幾つもの建物が立ち並ぶ中、一ヶ所だけ緑に囲まれている広い場所があった。そこがリサのお墓がある墓地だ。見覚えのある役所の上を飛び越えるとその墓地が見えてきたが、朝早いせいかそこにはまだ誰も居らず辺りは静寂に包まれていた。

 「本当にこんな陰気なところに来るのか?」ギルバードが言った。

 「間違いないです。妹が病院を退院した翌日、僕は妹と二人でリサの墓参りに行ったんです」

 しばらく空の上で待っていると、小さい頃の僕と妹が墓地にやってきた。幼いころの自分が眼下にいる。

 「来た……」

 空を浮遊していたリサは、そのままゆっくりと下に降りて行くと、墓地の周りを囲む長く伸びた竹林の上で足を止めた。

 「リサちゃん、エミに声掛けてあげて」

 僕がリサに後押しすると、墓地から小さい妹の「う、うううっ、う……」という嗚咽が聞こえてきた。

 「……エミちゃん」

 リサの口から言葉が漏れると同時に、遥か後方から一陣の風が墓地に向かって一気に吹き抜けた。

 その時、リサの言葉が風に乗った。

 「エミちゃんごめんね! あたしエミちゃんが友達で本当に良かった。嬉しいことも悲しいことも二人で共有したから嬉しいことは二倍になって、悲しいことは半分にすることができた。あたしにはエミちゃんという最高の友達がいたのに、それに気が付かないで自らの命を絶ってしまうなんて本当に馬鹿だった。エミちゃん今までありがとう。どうか、あたしの分まで生きてっ!」

 リサはエミに思いが届くように、身を乗り出し何度も叫んだ。だがその言葉がエミに届くかは分からない。

 それでもリサは思いが届くことを信じて、沢山の光の粒を振り撒きながら何度も何度も叫び続けた。

 「ありがとう、ありがとう、エミちゃん」

 最後にそれだけ言うと、リサはスッキリとした表情で墓地から背を向けた。

 「ちゃんと謝ることはできた?」

 「うん。あたしの声、エミちゃんに届いたかな?」

 「死んだ人間の声が、生きている人間に届くはずがないだろう」ギルバードは無機質に言い放った。

 「そうか……」リサは残念そうに墓地を振り返った。

 「けど、届かなくてもエミにはきっと分かっているよ、リサちゃんの気持ち」

 「どうして……?」

 僕は持っていたビーズのブレスレッドを、リサに見せた。

 「だって二人は友達でしょう」

 「……うん」

 リサはとびきりの笑顔で答えた。するとリサの魂の核を形成する全てのものが、無数の光の粒子へと変化した。

 「ギルバードさん、リサちゃんが」

 「うむ」

 ギルバードはブリーフケースから、小さなガラス瓶を取り出して蓋を開けると、無数にあった光の粒子は一つになって、静かにガラス瓶の中に入っていった。

 「それが魂の核?」瓶の中で美しく輝く光を見ながら僕は言った。

 「そうだ、これを魂の器に戻せば魂の回帰の完了だ」

 ギルバードは蓋を閉めると、僕にそのガラス瓶を手渡した。

 「この魂はお前が持っていろ」

 僕は小さなガラス瓶を両手で受け取り、なくさないよう上着の内ポケットに入れた。

 「良し、これで任務完了。マサトご苦労だったな。お前のお陰でやっと事務所に入ることができそうだ。ありがとう」

 「僕もギルバードさんのお陰で、リサを成仏させてあげることができました。ありがとうございます」

 「ああ。それじゃ、灰色の街に戻るぞ」

 「はい」

 僕は十五年前の地上に別れを告げ、陽の傾きかけた空へと飛び立った。


 「もうすぐ黄昏時だな」ギルバードは柄にもなく夕日を見て感傷的になっていた。

 「夕暮れ時の空も綺麗ですね」

 だんだんと赤く染まる空を見ながら、僕は遠い昔に見た夕暮れの空を思い出した。それは小学生時代の記憶だったが、あの時父と温泉に入りながら見た川に落ちていく夕焼けは僕の脳裏に今でも鮮明に焼きついている。

 空には幾つもの巻雲が広がり夕日を浴びて金色に輝き、その下にはゆらゆらと漂う七色の光のようなものもあった。

 「なんだろうあれ? 虹が横真っ直ぐに伸びてる」

 「……真っ直ぐな虹だと!」

 ギルバードは慌てて振り返り、その虹を目にすると顔面が硬直した。

 「まずい! あれは環水平アークだ!」

 「カンスイヘイ? 虹じゃないんですか?」

 「あれは虹なんかじゃない。災いの予兆だ! 急いで成層圏に戻るぞ!」

 ギルバードは僕の腕を掴み、物凄い勢いで空へと上昇した。

 「どういうことですか! そんなにまずいことなんですか!」

 「ああ、急がないと取り返しのつかないことになる!」

 どれぐらいの速度が出ていたのだろう。空から降りてきた時とは桁違いのスピードで僕たちは空を上昇していった。

 幾つもの雲とジェットストリームを一気につき抜けようやく成層圏に到達したとき、そこには見覚えのある男が待ち構えていた。

 「やはりお前だったか、ギルバード」

 「レド、こんなところで何をしている!」

 その男は管理人だった。

 「それはこっちの台詞だ。お前が無許可で時空移動したせいで、灰色の街が大変なことになっているのだぞ」

 「どういうことだ!」

 「夜行さんが目覚めようとしているのだ」

 「なんだと!」ギルバードの顔がみるみる青くなった。

 「このままでは灰色の街だけでなく、二つの世界にも影響が出る恐れがある」

 「危機管理室の奴らは一体何をしているんだ」ギルバードは怒りを露わにした。

 「問題なのはそこだ。危機管理室は今回の覚醒を無許可で時空移動した者が起こしたタイムパラドックスによる『時軸の揺らぎ』が原因としているのだ」

 「馬鹿げている、論理的におかしいだろう。タイムパラドックスと夜行さんに、何の因果関係があるというのだ」

 「怒っていても仕方がない、とりあえず一旦灰色の街に戻ろう」

 管理人はギルバードを制して、呪文を唱えながら手を思い切り前に伸ばし、手のひらに力を集めた。すると管理人の手の先に、夕暮れ時には明る過ぎるほどの大きな光の玉ができあがった。

 「さあ、早く中へ入って!」

 僕は言われるままに、光の中に入ると全身が光の膜で包まれた。

 「わわっ、何ですかこれは?」

 自分の身体が光と同化するように輝き出した。

 「光と一体になるのです。光となり時空間を越えて行きます」

 後から入った管理人とギルバードの身体も、輝きに包まれた。

 「ふう、何とか間に合ったか……」

 ふと安心した瞬間、爆音が轟き僕たちの周りには激しく火花が飛び散った。

 「まずい、磁気嵐だ!」

 「ぐわっ!」

 僕たちの身体に容赦なく稲妻が襲ってきた。

 「なんとか持ちこたえろ!」

 しばらく稲妻に耐えていると突然周囲が真っ暗になり、ものすごい衝撃が頭上を襲った。

 何がなんだか分からなかったが、その衝撃とともに重力のような力が加わり僕たちは光の玉から押し出された。そして輝きを失った僕は、そのまま重力のような力に押され下に落ちていった。

 もの凄い勢いで落下していくと、突然ブレーキのような反発する力が加わり頭上からの力が弱まった。

 「今のうちに横に逃げろ!」ギルバードは大声で叫んだ。

 見るとギルバードが光の障壁で、上から加わる重力のような力を押さえつけていた。僕たちはその隙に重力のような力から逃れた。

 「ギルバード! お前も早く逃げろ!」

 ギルバードが押さえつけているのは巨大な漆黒の物体だった。

 ギルバードもそこから脱出しようと横に移動したがその瞬間、漆黒の物体を押さえつけていた光の障壁が崩壊してしまった。

 「ぐわっ!」

 ギルバードは横に弾き飛ばされ、漆黒の物体はそのまま地表に落下していった。

 「大丈夫か、ギルバード!」

 「ああ、……しかしなんだってんだ、あの黒いのは」ギルバードは片腕を押さえていた。

 「あれは時空の淵に漂う暗黒物質。夜行さんが現れた際に、一緒に飛んできたのさ」

 「ということは、もう覚醒しちまったってことか?」

 「いや、暗黒物質もこの磁気嵐も夜行さん覚醒による副産物だけど、夜行さん自身の目覚めはまだ100%ではないはずだ。時空に歪みが生じてしまう前に早く戻ろう」

 「ああ、そうなる前に急いで戻ろ……」

 そう言っている途中で、ギルバードは激しく狼狽した。

 「……ブリーフケースがない」

 それは暗黒物質に、弾き飛ばされた時に落としてしまったのだ。

 「まずい! 取りに行かないと」

 ギルバードは地上に行こうとしたが、管理人はそれを制止した。

 「今はそんな時間などない。後で部下にでも取りに行かせれば良いだろう」

 「……そうだな仕方がない。ちなみにさっき僅かに時空移動していたが、ここは何処で時代は一体何年だ?」

 そう言われ、管理人は懐中時計と羅針盤のようなものを取り出した。

 「どうやら磁気嵐の影響で時空の向きが逆転してしまったようだ。ここは先ほどの時代から更に遡ること五年前、座標はさっきの場所から緯度が-2度の誤差だ」

 「さっきの時代から更に五年前ということは、つまり時代的には二十年前の、場所は南に3.7kmといったところか、……わかった灰色の街に戻ったら早急に柳原にでも使いに行ってもらおう」

 「それが良いだろう」

 ギルバードは雨で濡れた髪をかきあげた。

 「時にマサト、魂の核は無事か?」

 僕は上着の内ポケットから、小さなガラス瓶を取り出してみせた。

 「大丈夫です」

 「そうか、そいつが無事で良かった」

 ギルバードは相変わらず厳しい表情をしていたが、少しほっとした様子で再び空に向かって上昇した。

 「そんなに大事なものが入っていたのか?」管理人は聞いた。

 「あのブリーフケースには、マサトの生命に関する資料が入っていたんだ」

 ギルバードは自分でそう言った後、何かに気付いた。

 「そうか、そういうことか……」

 「どうかしたのか?」

 「いや、何でもない」

 そして僕たちは大雨が降り続ける中、雷鳴轟く暗雲の中に消えていった。

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