何も残らなかった(後)――実籠美沙
続きます
そして七年が過ぎた。
特に変わったことはなかった。アラサーになった私は、いとこの子供にオバサンとか言われてムキになって可愛がりしたりする、大人げない大人で。
そして……、只のバツイチだった。
嗚呼、今だからわかる。ニッシーがおかしかったっていうのは、今だからこそわかる。
小学生のころ凄い病気をして、その時に何かダメージを負ったというような話は聞いていた。別にそういうので人を差別するわけでもなかったし、それが切っ掛けでニッシーが「強く」なったというのを、本人から聞いていた。だからそれは、それでいいのかなって思っていた。
別にそのことは、ニッシーが特別だってことにつながってるわけではなかった。
そんなことにも気づかないで、私は、今の、その時々のニッシーなんて見てないで、ただただ都合がよいように美化して、解釈していた。
いくらでも、いくらでも気づくことはできた――――ニッシーが暴力的だったのは、その衝動をスポーツで発散できなかった時は「私に」ぶつけていたし、でもそれが求められてるみたいでうれしかったのだけど。ニッシーが友達を「可愛がってた」ときも、私も一緒になって「可愛がって」、それで、彼が病院に行っても、何も不思議に思ってなかった。
中学生の時点で、そんなこと「おかしい」って気づく余地は、いくらでもあった。
気づけなかったから、今があった。
結婚しようって、ニッシーから言われた私は舞い上がっていた。
嗚呼、まるで犬のようだった。ご主人様からご褒美でももらえて、きゃんきゃん鳴きわめく犬のようだった。そのまま私は止まらず、犬のように駆け巡ってしまった。
本当、都合がよいことしか見ないで駆け巡って。
だから――――ニッシーが浮気というか、それこそ調教してるのも知ってたし、私もされてたし。
それがバレて訴えられると、ニッシーはトンと姿を消してしまった。
いつの間にか出された離婚届けは、結婚するときにプレイの一環として書かされたもの。
ニッシーのいない家で、赤ちゃんを一人生んで、そしてお金を負わされて……。
自分の両親は頼れない。こんな時でも、親は親のままだった。もう私からコミュニケーションをとることもないし、興味もない。
ただ……、今にして思えば、一度だけ。ユーイチと同棲前に顔合わせした時。
――――私たちが至らなかった娘ですが、どうか幸せにしてやってください。
――――美沙よ、お前はちゃんと、間違えるんじゃないぞ。
それはきっと子育てのことについて言ってたことで……、でも今更何そんなこと言ってんだクズって思って。ユーイチはその後、しばらく話を聞いて、私だけ先に帰って引っ越しの準備をして。
ユーイチは、それでも私の両親と、私の間を取り持とうとしてくれていた。
――――星に願うほどじゃないよ。ただ、二人はまだ冬だっただけだ。
――――僕らが、春の訪れを教えてあげることはできるんだよ。
それは……、両親の不仲が私に襲い掛かったといえど。それでも最後の最後のところでは、両親が私を捨てていなかったということを分かった上での言葉だったのかもしれないと。今の私は思う。
だってそれは、ユーイチからニッシーに相手が変わったときに、あの時の母親の呆然とした顔と、父親の睨むような顔が、まさにそれで。
離婚して、子供を育てられないと実の両親を頼れず。
慰謝料の支払いをしてもらう代わりに子供をお義母さんが引き取って育てるって話を受けざるを得なくって。
でも、お義母さまは「たとえ離婚してもあなたは私の娘だよ」って言ってくれて……、数か月後には完全に失踪してしまって。
お金こそ半額は払われてたけど、残りは私が払うしかない状態になっていて。
そこで泣きついて、頭を下げて、今までいっそ見下していた両親に土下座でもなんでもして。わずかながら、そこでようやく、私たちは「家族」に戻れた。
家族に、なれたのかもしれない。
後々、聞かされた話だった。
もともとお母さんが、お父さんが仕事にかまけてる間に近隣のヤクザっぽいのに襲われて。お母さんはそれで寂しさをうめて、お父さんはそれを知って、警察沙汰になって。お母さんも「所持容疑」で捕まって、でも子供を妊娠していて。お父さんの子かお母さんの子かわからなくって。
当時はDNA鑑定とかそんなの全然なくって。でも世間体があったから離婚できなくって、それで夫婦は冷え切って。
お母さんにとっても、お父さんにとっても、私はある意味で憎むべき相手みたいになってて。
でも、それでも最低限は育ててくれて。
――――変わり始めたきっかけは、ユーイチだった。
ユーイチが事情を聞いて。どうして二人が不仲なのかを聞いて。それでもユーイチはやさしかったって。あんまりに優しすぎて、こんな男の子が子供になってくれるならって思って。そんな男の子が選んだ私が、本当にダメなのかって思って。本当に憎むべきだけだったのかって考えなおし始めたって。
それが、やっぱり、私が西山姓になって、ニッシーをダーリンと呼ぶ前段階の時点で、取り返しがつかなくなって。
…………私がここに帰ってきたのは、偶然ではなかったけど。
それでも、偶然か、運命か、それとも幸福な未来か。
たまたま、本当にたまたま。私が頭を下げ続ける日々を繰り返してるときに、両親は、ユーイチの姿を見たって。
子供がいたって。奥さんがいたって。酷く幸せそうだったって。
声を掛けられたって。憔悴していた二人に、何があったのか聞いたって。
――――ご両親は、春なんです。
――――二人じゃなければ、彼女は雪から水に、川には戻れないんです。
たった、それだけだったけど。全く、ユーイチは変わってなかった。
二人は――――「お父さん」と「お母さん」は泣いて、私を迎えてくれて。
そんなことを知ってしまって、私は、私は…………。
もう戻れない。でも、謝りたいって。
でも、謝ることもできない……、ユーイチは、別に近所に暮らしているわけでもなかった、たまたまこっちの近くに寄っただけだったらしくって。
卒業生の集まりに出ても、ユーイチはいなかった。子供が熱を出して来れないって、それに相変わらずだってクラスの人たちが笑ってて。ユーイチのクラスの様子を聞いても、私は顔も出せなくって。私に残された数少ない、ユーイチと会える機会だったけど、それでも会えなくって。
今更、誰かから連絡先を聞くことはできなくって。
「だから言ったとおりになっちゃったじゃん」
シンドーちゃん……、もう結婚して苗字は変わったけど。それでもシンドーちゃんはシンドーちゃんのままだった。
旦那さんも一緒に来てて、そっちはそっちでユーイチとは別な感じで不思議な人で。
それで、よく覚えてるなってくらい高校のころの話をされて、飲み屋で、思わず私は泣いてしまった。
シンドーちゃんは、旦那さんと少しごにょごにょ話して。
「要点おさらいしよっか」
そんなこと言った。
恋人や夫婦の間での関係のこじれは、そのまま大きな爪痕になるってこと。
肉体だけに依存した時点でも、ニッシーはロクな男じゃなかったってこと。
ニッシーのお母さんも、たぶんニッシーだけが大事で他はなりふり構ってなかったってこと。
ユーイチは…………、気づいていたかは知らないけど、それでも早いうちなら、どうにかなったかもしれないこと。
まるで反省会だって、そんなことを言われて私は苦笑いを浮かべて。
アルコールが回って、そのまま寝落ちる私の耳に。
『――――なら、それを踏まえてやり直してみよう』
そんな囁きが聞こえて、私は目を閉じた。




