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お前が神を殺したいなら、とあなたは言った  作者: ふじやま
エピローグ:天に自由を、地に希望を、我らの魂に平穏あれ
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アルール歴2193年 5月8日(+249日)

――デリク卿の場合――

 朝からよく晴れていた。


 雲ひとつない……とまでは行かないが、空は抜けるように青く、吹き渡る風は爽やかだ。

 あたうことならこんな日はすべての仕事を棚上げにし、馬に乗って郊外で軽くひとあてしてから、野趣味あふれるランチを楽しみたいところだ。今の妻は私よりも腕の良い騎手だから、彼女もきっと楽しんでくれるだろう。倹約家の彼女は「またこんな贅沢をして」と眉をひそめもするだろうが。


 そんな妄想を転がしつつ窓外に広がる帝都の屋根屋根を眺めていると、背後から凛々しい声がかけられた。私は振り返って、待っていた報告を受ける。


「閣下、近衛部隊の準備が整いました。

 事前の打ち合わせどおり、装飾よりも実戦闘力に寄せた装備を徹底しました。ただし帝国法に基づき、弓とクロスボウは装備から除外しています。

 それから騎士エムスの風邪は完治せず、彼は本日の任務から外しています。本人の士気は旺盛ですし、体調管理の手順にも遺漏はありませんでしたが、こんなこともあります。彼は最大の努力をし、かつ本日の任務を放棄して治療に専念するという、下しがたき英断を下しました。後ほど彼に、ねぎらいの言葉をかけてやってください。

 また、主賓(・・)従士たち(・・・・)の準備も整ったと報告が届きました。閣下のご命令があり次第、作戦を開始できます」


 見事としか言いようのない、均整の取れた武人の立ち姿をごく自然に保ったまま、淀みなく長口上を口にしたのはレイナ――つまり私の妻だ。

 彼女にはさんざん「閣下はやめろ、あなた(・・・)と呼んでくれ」と言っているのだが、未だに彼女は絶対に他人の目がないと確信できる場所以外では、私のことを「閣下」と呼んでいる。


「わかった、レイナ。いつもどおり、細やかな配慮をしてくれてありがとう。

 では諸君、行くとしよう」


 普段なら私もここで彼女にキスのひとつもするところだが、今日ばかりはそうにもいかない。なぜならいま、彼女の背後にはデリク家に長く仕える精鋭たちが並んでいるのだから。

 私の言葉に、レイナの後ろに控えた19人(本来は20人だが風邪でエムスが欠席だ)の精悍な騎士たちは、一斉に「応」と短く唱和した。


 さて――

 決戦に、挑むとしよう。


          ■


 屋敷を出た我々は、整列して徒歩でアルール大聖堂前の広場へと向かった。

 本来は騎乗するところだが、興奮剤を使ったテロの一件を踏まえて、本日は馬の使用が禁じられている。個人的には「そもそも興奮剤は違法なのだから、流通ルートをしっかり遮断して管理しろ、バカバカしい」の一言に尽きるのだが、競馬関係の利権は「帝都に八名家あり」と言われていた時代から複雑怪奇な入り組み方をしている。私自身「そう思うならデリク卿が指揮して興奮剤を取り締まってはどうか」と言われると、そいつは無理だなという感想が先にこみ上げるというのが実情だ。


 結局、今の帝国も教会も、万事につけこれ(・・)なのだ。

 誰もが「これは問題だ」と理解しつつも、その問題を根底から解決する手段はなく、結果として本来は望ましからぬ違法状態を前提として新しい制度や法を作り、そうやって幾重にも張り巡らされた制度網は一周回って違法状態を肯定する。

 あるいは誰かが「この一行(ステートメント)を拡大解釈すれば政治的な優位を作れる」と思いついた結果、その拡大解釈が本当に社会実装されてしまい、やがてその社会実装は前例(・・)として再利用され、いつしかその最初の一行を書いた人間たちの意図など完全に無視した事例集が構築され、長い年月を経てそれは伝統となって――次はその伝統を拡大解釈した社会実装が試みられる。


 そうやって歪みに歪んだシステムには、必ず脆弱性が生まれる。

 そしてナオキのような男は、人間が生来持っている脆弱性と、システムが持つに至った脆弱性が一致しているポイントを、おぞましいまでの精度で狙い撃ってくる。


 無論、私はナオキを共犯者として信頼しているし、彼の特異な能力と知識に対しては畏敬の念すら覚える。そしてまた、彼が世俗世界に対する協力者として私を選んだということに、仄暗い誇りすら感じている。

 本日これから開催される、大会議の公開討論(この1000年くらいの間、完全にただの儀式と化していたイベントだ)に向けて彼が何を仕込んできたかも知っているし、彼が何を仕掛けるかも知っているし、それが彼の狙い通りの結果を発生させるだろうことも、私は予見できる。


 だがそれでも私は、心のどこかで、ナオキの策が決定的な失敗をしてくれることを望んでいる。


 帝国と教会が積み上げてきた伝統は、断じて無意味ではない。

 人間は愚かだが、愚かすぎもしない。

 ――そう信じたがっている自分を、私はどうしても心から追い出せずにいる。


 だから私は、自分の一歩左後ろを歩くレイナに、声をかけた。


「過ちに対して『それは過ちだ』と言える世界でありさえすれば、それでいいのにな」


 レイナはしばらく沈黙してから、いつもどおりの落ち着いた声で、私の迷いを払ってくれた。


「神は過たず、人は過つ。

 なのにいつのまにか、ほんの少し間違えただけで、あるいは間違いを選ぶしかなかったのに、間違えた人を人として扱わない世界が生まれてしまいました。だから私たちはおいそれと過ちに対して過ちだと言えません。それは過ちを為した人の生命と尊厳に対する挑戦になってしまいますから。

 きっと、私達はいつしか、神を見失ってしまったのでしょう。だからこそ、私たち自身が神であろうとした。そしてそのために、『間違えた人』という、自分たちより下の生き物(・・・)を創ったんです。

 私の望みも、本質的には閣下と同じです。

 人が、人としての尊厳を持って生きられる。そんな世界でありさえすれば、私はそれだけでいいんです――あなた(darling)


 いやはや。レイナのことを「小ライザンドラ司祭」と呼ぶ者どもがいるらしいが、なかなか見事な表現だ。

 その修辞的な言い回しはともあれ――あるいは私の中で今なおわずかに蠢く迷いはともあれ――老いたる夫としては、年若き妻の望みを叶えるべく、奮戦するとしよう。


          ■


 大聖堂前の広場は、既に大観衆で埋まっていた。あちこちに屋台が立っていて、完全に一種のお祭り騒ぎになっている。


 前回の大会議でもこの「公開討論」は行われたそうだが、そのときの時間はトータルで15分。道行く帝都市民は立ち止まることすらほぼなかったという。

 だが今回はあの(・・)ライザンドラ司祭が登壇して教皇と討論するという前評判が広がったことで、夜明け前から酒瓶と弁当片手に場所取り(・・・・)に勤しむ市民すら現れたらしい。そして討論開始まで1時間と迫ったいま、広場の現状はご覧のとおりだ。


 いやはや。公開討論は古エルマル語で行われるから、集まった市民が討論で何が語られているかを理解できる可能性はほぼゼロだ。

 しかも今回の大会議が招集される直接的な原因となったシドニウス・ライザンドラ論文は冒頭の要旨(abstract)からして既に難解極まる(少なくとも私にはまったく理解できなかったし、妻ですら30分くらい格闘した後「さっぱり分からないですね」と匙を投げた)。ほぼ疑いなく妻よりも教養の程度が低い帝都市民たちが、これから討議される問題について何らかの理解をしているとは思えない。


 要するに、この場に集まった市民たちは、ライザンドラ司祭を見に来たのだ。

 大貴族たるオルセン家に生まれたものの零落し、ついには辺境における最底辺の娼館で体を売るに至った彼女が、一度は帝都に戻るも再び追放され、それでもなお再び帝都に舞い戻って、「教皇との討論」という宗教者にとってほぼ最高のステージに立った――その姿を一度見てみたいという、わりと下卑た欲求に従って。


 だがその一方で、私はこの群衆たちが持つ、もはや本能的な嗅覚と呼ぶしかないものに、驚嘆と恐怖を覚えていた。


 言うまでもなく、これから始まるのは優雅かつ高度な討論ではない。ナオキがそんなわかりにくいもの(・・・・・・・・)を仕込むはずがない。

 これから始まろうとしているのは、あくまで見世物(・・・)だ。そのために我々全員が秘密に秘密を重ねるだけでなく、膨大な量の情報という形で欺瞞と擬態をばら撒き、ときには暗殺の刃を振るいすらしたが、そのゴールは一世一代の悪趣味なショーに過ぎない。

 しかるに彼ら群衆は、いまから何か楽しいこと(・・・・・・・)が始まろうとしていることを敏感に察知し、ここに集まった。確実を期すために前もってサクラを動員しているとはいえ、それでもこのイベントにこんなにも大量の市民が押し寄せることまでは、私は予想していなかった。


 いわく言い難い感情に心を震わせながら、我々は教会の見習いたちの誘導に従って、ライザンドラ司祭が待機する旅籠に入った。19人の護衛たちのほとんどは、宿の外で警備につく。

 旅籠はアルール大聖堂前の広場に隣接するだけあって、最高級の格式と設備を備えている。2階建ての古い建物で、広さもたかが知れているが、借りるときは原則的に全館を借りることになるので窮屈さは感じない。逆に言うといざ借りるとなると私ですら一瞬ドキリとするような金額を請求されることになるが、今回はライザンドラ司祭の帝都滞在期間全体(3週間)に渡って教会が費用を持ってくれているので、請求書を見た妻に「お話があります」と説教される心配はない。


 ロビーでは、併設されたバーカウンターで、ナオキが炭酸水を飲んでいた。普段どおり――つまりこの空間においてはいささか場違い感のある――質素な服を着た彼は、私達の姿を認めると、初めて会ったときのように不思議(アルカイック)な笑みを浮かべ、小さく手を振った。万事問題なし、のサイン。私も軽く手を挙げ、万事問題なしのサインを返す。

 再び炭酸水へと向き直った彼に背を向け、私達は二階の奥にある一室に向かう。さして広くもなければ狭くもなく、眺望が特に良いというわけでもないこの部屋に、ライザンドラ司祭はなぜか執着した。彼女がこの手の世俗的な要望を口にするのは、極めて珍しい。


 部屋に入ると、司祭は椅子に座って沈思黙考していた。

 部屋備え付けの瀟洒なソファではなく、後から運び込ませた事務仕事用の実用的な(とはいえ十分に高級な)椅子に腰掛けた彼女は、眼の前に置かれたソファに誰かが座っているかのように、虚空を見据えている。

 その傍らには、いつの間にか彼女が見つけてきた少女マレッタが控えていた。


 この少女(マレッタ)も実に不思議な人物で、生まれは帝都の平民だが、ネウイミナ男爵領にすら行ったことがあるという。〈アルフレッドの乱〉で育ての家族を失った彼女はサンサ教区に流れてきて、いくつかの偶然が重なった末、ライザンドラ司祭が弟子として引き取ることになったそうだ。

 念のため彼女の身元を洗ってみたところ、帝都の出生台帳と逮捕記録に彼女の名を見つけた。幼くして流行り病で家族を亡くした彼女は帝都のギャングたちに引き取られ、やがて風紀紊乱を理由に逮捕されて、ネウイミナ領に送られたようだ。


 彼女の身に何が起こったかは明らかだし、それゆえに教育らしき教育を受けていないのも間違いないのだが、帝都〜ネウイミナ領〜サンサ教区という大人でも簡単に死ぬ旅路を生き延びてきたバイタリティと幸運を鑑みれば、それだけでもライザンドラ司祭の弟子たるに相応しいとは言える。

 現状、彼女は司祭の導きによって急速に知識を深めており、こと教理においてはもう私では届かない高みへと達してしまった。つくづく、若いというのは、それだけで力なのだなと痛感する。


 老人の嘆きはさておき、部屋に入ってきた私達を認めたライザンドラ司祭は、優雅に立ち上がると丁寧な会釈をして、それから軽く咳き込んだ。少し前から彼女はときおり咳き込むようになっており、腕利きの医者(クリアモン修道士)に診てもらったものの、原因は不明だという。

 これまた困ったことに、審問会派で学んだという「最低限の鍛錬」を日々欠かさない彼女は、尋常ならざる体力の持ち主でもある。つまり私と彼女でどちらがより不健康かと問われれば、ライザンドラ司祭を診察するついでに私の健康診断もした医者がレイナに分厚い書類を渡し、デリク家のコック長と執事長を手懐けたレイナがスペシャルチームを編成してしまうくらいには、私の方が不健康だ。

 だがライザンドラ司祭の咳の音には、微かとはいえ誰の耳にも明らかな、あの音(・・・)が混じっている――つまり、死の音だ。彼女が弟子をとったのも、おそらくは己の死期を悟ってのことだろう。この世界では、人は驚くほどあっさりと、さしたる理由もなく死ぬ。


 ライザンドラ司祭を伴って階下に降りると、ロビーではナオキが待っていた。

 質素な服の上からミョルニル派の修道士が着るような茶色い長衣を被った彼には、曰く言い難い雰囲気(・・・)があった。かつて彼は「自分は教団の教祖として食っていた」と語ったことがあるが、この姿を見ると、その荒唐無稽な言葉にも納得できる。

 今の彼が帝都の街角に立ち、天を仰いで「滅びのときは近い」と叫べばそれなりの人だかりができるだろうし、審問会派だってただの狂人が妄言を吐いているだけだとして見逃したりはしないだろう。


 と、そのときアルール大聖堂の鐘が、正午を告げた


 準備は、完全に整った。


 先頭に立ったライザンドラ司祭がちらりと我々を振り返ると、「行きましょう」と声を発する。その声はけして大きくはなかったが、断固たる意思に支えられていた。

 

 かくして我ら総勢34名は、ライザンドラ司祭に導かれるようにして、旅籠を出た。


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