アルール歴2192年 9月1日(+147日)
――シーニーの場合――
「もとより私達は橋のないところで大河を渡ろうとしてるんですから、『危ない橋を選んで渡るのは辞めてくれ』なんてクレームをつけようとは思いませんが……それにしたって、いくらなんでも今回のやり方はハイリスクすぎましたよ。
もちろん結果オーライですが、そんなことが免罪符にはならないことくらい、あなたが一番分かってるでしょう?」
努めて平静な言葉を選んでいるつもりだが、どうしても口調が険しくなってしまうのは仕方ないと思う。なんにせよ、この程度で彼女が動揺することなどあり得ないのだし。
私の愚痴に対し、ライザンドラ司祭は深々と頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました。ライザンドラも、今回の進行にはアドリブが多くなりすぎたと反省しています。
ナオキからも『予定どおりにやれる部分は予定どおりにやってくれ。アドリブが必要だとしても、もうちょっと慎重にやれ』と叱られました」
反省の「は」の字も観測できない表情と声音をひっさげて反省の弁を語った彼女は、そこで軽く咳き込むと、テーブルの上にあったハーブティに口をつけた。今日は特に乾燥がひどくて、私もお茶が手放せない。
ともあれ、私としてはもう少しいろいろと追求したいことがある。だがこれ以上は何を言っても無駄だろうし、そんなことよりはもう少し建設的な話をする必要もある。我ら人の子にとって、時間は有限なのだ。
「まあ、いいでしょう。
ともあれ、まずは現状の確認を。私の認識に間違いがあったり、ライザンドラ司祭がついでに何か企んでいることがあれば、都度コメントを挟んでください」
私の要請に、ライザンドラ司祭は小さく頷く。彼女と最初に会ったときに比べると「歳を取ったな」と思わなくはないものの、どちらかと言えば「年齢不詳な美女」へと完全に脱皮したと表現するほうが妥当だろう。
ナオキに与えられたという衣装は、何度か仕立て直ししたり新調したりしているようだが基本的なデザインは変わっていないし、ものすごく下世話なことを言うと私は彼女の正装姿を見るたびに性的な欲求が高まるのを感じる。彼女を組み敷いて言うことを聞かせるのでも、彼女に組み敷かれて言うことを聞かされるのでも、どっちでもいい――いや、後者のほうが、より……
今はそんなことを考えているべき場合ではない。仕事に集中しよう。
「サンサ教区の世俗世界の概況ですが、〈サンサ自治区〉構想は事実上、有名無実化しました。帝国の公的な書類の上では自治区ですが、現皇帝とエイダ伯以外、サンサ教区におけるエイダ伯の自治権が機能していると考えている人はいないでしょうね。
むしろサンサ教区における最大の懸案事は、サンサが分裂寸前だということです。あえて言えば守旧派と革新派での分裂ですね。
守旧派は〈エイダの掟〉を重視する人々で、主にサンサ教区の東側に分布しています。革新派は帝国との交易拡大による経済的な発展を重視していて、こちらはダーヴの街を含んだ西側に分布しています」
もちろん、東西できっぱりと分断しているわけではない。西側にも守旧派の領主が守る土地があるし、東側にも革新派の領主の土地があるという、かなりまだらなパッチワーク状態だ。
ただ全体的な傾向として言えば、エイダ自治区における東西分裂は、もはや引き返せないレベルに達しようとしている。
「宗教世界の概況ですが、ライザンドラ司祭の仲裁と説法は効果絶大と言うほかありませんでした。『他者の思いに己の思いを重ね、他者の手に己の手を重ね、他者の言葉に己の言葉を重ねることが信仰であり、暴力に暴力を重ねることを信仰と呼ぶ者はいない』というお言葉、実に感動的でしたね。
なにはともあれ〈天の門〉問題での対立が即座に流血の惨事に至るという状況には、歯止めがかかりました。状況的に言えば『振り出しに戻る』というところでしょうか。
また帝都では〈天の門〉問題についてシドニウス司祭とライザンドラ司祭の共著で論文が提出され、その革新性と重要性を賢人会議が認めたこともあって、〈天の門〉問題には根底から疑義が突きつけられた形になっています。教理世界の技術的に言えばいろいろあるらしいんですが、私には理解不能ですのでそこは省略ということで。
いずれにしても、〈天の門〉問題については大会議が招集されるそうですね」
ライザンドラ司祭はハーブティのカップを手に少し沈黙していたが、一言だけ私の見解に対して付け加えた。
「帝都で行われる次の大会議で、〈天の門〉問題が収束することはありません。
ナオキが、それを許しません。
そして今の教会に、彼の揺さぶりを凌ぎ切るだけの力はありません」
……なるほど。確かに我らが悪辣なるボスが、〈天の門〉問題一点に集中して教会を動揺させるのであれば、もはや彼らはそれに耐えられないだろう。
まったく公的な力の裏付けを有さぬままにして教会の精鋭を叩き潰し得た彼が、公的なレベルで動揺している問題に対してその非人道的な策略を働かせるというのであれば、その先で生まれるのは膨大な灰燼のみだ。
教皇の名の下に開かれる大会議ですら〈天の門〉問題に対する結論が出なかったとなれば、教会の権威が失墜するだけでなく、ソーリア村の狂信者どものような有象無象が世界のあちこちで「俺たちは正しかった」と叫んで自分たちの教会を建てようとすると思って間違いない。
「そうなりますと、サンサ自治区は派手に荒れますね。サンサの守旧派と革新派は〈天の門〉の解釈を巡っても対立していますから、最悪の場合、サンサの人口は半減してしまうかもしれません。
内戦で荒れるサンサ自治区から脱出した大量の難民は、自治区周囲の帝国領も大いに動揺させるでしょうね。でもその頃には帝国でも〈天の門〉問題は大爆発していて、帝国からサンサ自治区に難民として逃れようとする人々も発生しているかもしれない。想像するだに混沌の極み、この世の地獄です」
そう言いながら、私は自分がその未来予想図にまったく動揺していないことに、少しだけ驚いていた。学生だった頃にそんな状況を想像したら、真っ青になって「許されるべきではない」とでも叫んでいただろうに。
きっとこれは、一種の慣れだ。私の知らない人間が、私の知らないところでたくさん死ぬことを想像して感じる痛み程度、私の心はもうそれを痛みとして感じられなくなっている。
私は自分のハーブティを一口飲んで喉を湿らせてから、事務的な質問をライザンドラ司祭にぶつける。
「それで、確認させてもらいますが、サンサ自治区においては守旧派と革新派、どちらを勝たせるんですか?
私としてはダーヴの街を抱える革新派が勝つシナリオのほうが簡単で良いですが、守旧派が勝つパターンにも対応できる備えはあります。
ただ、臨機応変に対応するというのは、避けたいんですよ。今の私の手持ちでは、そこまで高度な柔軟性を要求されるとなると、望ましからぬ規模での出血を覚悟せねばなりません」
私が最も信頼する武装集団である〈翠爪団〉は、ソーリア村を発端とした異端騒動においても縦横無尽の働きをしてくれたが、同時に手痛い損害も受けた。
特に、最古参にして精鋭中の精鋭だったブルーノを失ったのは、筆舌に尽くしがたいダメージだ。
数年前から、ブルーノからは「人生における目的を達成した」ような雰囲気を感じていたので、もしかしたらどこかで彼を失うかもしれないという予感はあった。だがほとんど片腕と言っても良いレベルの部下を喪失した精神的ダメージは想像よりも大きかったし、失うと分かっている仲間を失うことは、想定外の角度から私のトラウマを刺激した。
だから願わくば、次は同じ思いをしたくはない。どうせそうなると分かってはいるが、少なくとも回避のための努力はしたと自分を慰めたい。たとえそれが虚しい言い訳でしかなかったとしても、言い訳の余地すらないよりはマシだということを、私はよく知っている。
ライザンドラ司祭の回答は、とても明晰だった。
「ライザンドラたちの意思とは無関係に、勝つのは革新派です。守旧派は、その名とは裏腹に、多くのものを同時に変えようとしすぎています。
確かに、この地に古くから根付いていたルールは〈エイダの掟〉と呼ばれる古式ゆかしい掟です。それに〈天の門〉は正しき祈りをもって万人に対して開かれるという説だって、そこまで斬新なものではありません。
でも今日をこのサンサの地で生き、明日もまたこの地で生きようとする人々の一般的な社会通念は、帝国における社会通念により近いと言えます。もちろん死生観には若干の特殊性が認められますが、この数百年に渡りごくありふれた生活の根底を作ってきたのは、あくまで教会の教えと帝国の法でした。それに〈天の門〉だって、少なくともこの70年ほどは閉ざされてきました。
その両方を一度に変えて、なおかつサンサ自治区という崩れ去った野望を前提とした領地経営をしようとすれば、最も情熱的な〈戦士〉であってもどこかで息切れしてしまいます。これは、野心や情熱だけで乗り越えられるような挑戦ではないんです」
まったくもってご尤も、だ。
もちろん世の中にはバラディスタン自治区のように、自治区の伝統的なルールで社会通念が回っている地域もある。帝国法も教会法も同性愛を公認しているが、バラディスタンに伝わる古くからの慣習では同性愛は死をもって償われるべき罪であり、よってバラディスタン人の同性愛者は今なお同族によって執拗に暗殺の対象とされる……といったあたりが代表例だろう。
〈エイダの掟〉もまたその手の「自治区の伝統的なルール」ではあるが、これはあくまでサンサの世俗を支配する人々の内部で受け継がれてきたルール――つまり「お偉いさんが特別な行事のときにだけ蒸し返すお題目」だ。そんなものを日常に対して適用しようとすれば、サンサ教区に住む一般市民にとってみれば「馬鹿の人ですか?」以外には評価しようがないだろう。
確かにサンサの市民は帝都の慣習や思想を「軟弱」と軽蔑することが多いが、サンサ自治区の人々にとって一年で最も楽しみなのは、惰弱な帝都の教会が持ち込んだ「過ぎ越しのミサ」だ。それくらいには、彼らは帝国風であることを日常の隅々に取り込んでしまっている。
「変革の先にある理想郷を目指す〈戦士〉たちが一番やってはならないのは、疲れ果てた挙げ句にその足を止めてしまうことです。
信じる理想の未来に向かって自分たちが前進していると確信していればこそ必要な措置として共有できてきた粛清や弾圧は、その行き足が止まった瞬間、何もかもが無駄死にへと変わります。
そうなったが最後、絶望に挫けた者はその場から立ち上がれなくなり、なおも希望を信じる者は軟弱な裏切り者を食い物にしながら前進しようとするでしょう。
そんな集団が、長続きすることはありません」
守旧派に対する、残忍なまでに冷徹かつ冷酷な、死刑宣言。でも私としても「そうですね」以外に言葉を返しようはない。
だがそれだけに、各論部分には突っ込んでおく必要があるだろう。
「了解しました。私もその観測に全面的に同意します。
とはいえこの観測が正しかった場合、別の問題が発生します。
ライザンドラ司祭のお膝元ということもあり、現在のニリアン領は一種の不可侵地帯として理解されています。ですがニリアン卿の方針から言っても、ライザンドラ司祭の方針から言っても、ニリアン領は改革派に属すると考えていい。ですよね?」
ライザンドラ司祭は小さく頷く。
「そして現状、ニリアン領を筆頭とした霊峰サンサ包囲網を形成する村々は、守旧派が支配する領域にぽつねんと残された改革派の支配地域、ということになります。守旧派の統制がとれなくなったら、彼らの一部がサンサ包囲網を形成する村々に押し寄せるのは疑いありません。
サンサ包囲網はサンサ自治区において帝国と教会を代表する地域のひとつであり、かつ霊峰サンサは〈エイダの掟〉にとっても重要なシンボルです。守旧派のうち反帝国・反教会を強く主張する連中にしてみれば『回復すべき土地』の筆頭ですし、そうでなくても守旧派にいる賢い馬鹿が『ニリアン領を守旧派が焼けば、守旧派は団結して帝国と教会に対決するしかなくなる』ことに気づくでしょう。
他方、革新派にしてみればニリアン領は象徴的意味しか持たず、ダーヴの街から兵隊を出して守るほどの価値はありません。帝国や教会にとってみてもサンサ包囲網をいったん守旧派に奪わせ、それをもって守旧派を問答無用の異端認定してから殴り返したほうが、戦略的に見て合理的です。まあ、その頃の彼らにちゃんとした遠征軍を派遣するだけの力が残っているかどうかは分かりませんが。
ともあれ、事態がこのまま進めば、ニリアン領は焼け落ち、領民は皆殺しになります。これは避けられません。
明確化させておきたいのはニリアン領の未来ではなく、ニリアン卿の未来です。なんらかの理由をつけて彼女をダーヴの街に滞在させておき、惨事が始まっても彼女を拘束し続けるべきか。それとも彼女をニリアン領へと送り込むべきか。あるいは彼女の判断に任せるべきか。
この点については、どうお考えですか?」
個人的な感想を交えて良いのであれば、レイナ嬢にはすべてを捨ててでも生き延びてほしい。
彼女はサンサ自治区ではライザンドラ司祭の次くらいに人望があるし、その公明正大な対応と凛々しい風貌は派閥を越えて老若男女に評価されている。
また能力という面から見ても、彼女は天才ではないが、万能の秀才と言うべき人材だ。これまでも幾度か、後世の歴史家が「時代の転換点」と書き記すような決定的な場面の、その裏で起こっている厄介な局面を、いくつも柔軟かつ果敢に捌いてきた。
これだけの人物に死なれてしまうと、収まるものも収まらなくなってしまう状況が一気に増えるだろう。
そしてまたしても、ライザンドラ司祭の回答は明瞭だった。
だが今回、彼女の回答は明瞭であるのみならず、明後日の方角にぶっ飛んでいた。
「これはまだ極秘なのですが、ニリアン卿のご主人である、元マイス家の御三男ヘイズ様は、帝都にて病没されました。あるいは、されます。死因は、違法な薬物の過剰摂取による腹上死。とても公表できるような死に方ではありませんね。
ともあれ、ニリアン卿とヘイズ様の婚姻は解消されました。あわせてニリアン卿とデリク卿の婚約が発表され、8ヶ月後に結婚式です。ニリアン家はデリク家の分家の誰かが継ぐことになるでしょう。マイス家の五男だか八男だか、そのあたりでしょうね」
……なるほど。これからも戦いが続く以上、ニリアン卿のような有能な人材はますます欠かせない。そして彼女には自分自身の結婚というカードを切るだけの価値があるとデリク卿は判断したわけだ。
いくらなんでもなりふり構わなさすぎだろうと思わなくもないが、もう外聞をどうこう言っている状況でもない、か。
ニリアン卿は領民を見殺しにするという選択をしたようにも思えるが、彼女のことだから領民の中から若い男女の希望者を募り、村を脱出させたことだろう。
デリク卿の軍勢に囲まれたとき、かの村の人々は誰が生きて誰が死ぬべきかを何の気負いもなく選んだ。今回もまた、彼らは晩飯のメニューを決めるくらいの風情で人選を終えたに違いない。戦場において、もう助からない傷を負った兵士が友人にとどめを乞う、そんな表情で。
思い返してみれば、あの極貧の寒村は教会と帝国が300年前に作り上げた最前線基地だ。歴代ニリアン卿は村を戦地として維持し続けることをその任とし、それを最後まで勤め上げたということだろう。
万事了解、状況クリア。
となると残る疑問は1つ。
「で、一応。念の為。万が一を避けるため、伺います。礼儀として。
その子、何者です?」
話の水が自分に向いたことに反応して、ライザンドラ司祭の隣で座ってホットミルクを飲んでいた少女(もしかしたら極端に発育不良な若い女かもしれないが、私には少女にしか見えない)がぴょこりと姿勢を正した。ビビってすくみ上がるのではなく、堂々とした態度を保っているあたり、ただの少女ではないだろう。
その予想は、いたって正しかった。
「彼女はマレッタ。ライザンドラの弟子です」




