アルール歴2189年 12月31日(+24日)
――エイダ伯の場合――
不愉快極まる。
現状を要約するなら、それ以外に言葉もない。
いや、現状はもはや不愉快などという言葉で評価できるものではない。この危機的状況に際して、私はデリク卿を可及的速やかに吊るし、ラウレンツ皇太子を闇に葬って、アルフレッド皇太子に対する支持を――いや、それはダメだ。
教会対策を考えるとデリク卿を吊るすのが最善手となるが、教会の支持を得るためにデリク卿を吊るせば反教会を鮮烈に打ち出しているアルフレッド副皇太子と正面からぶつからざるを得ない。
南の猿と戦争して一方的に負けるとは思わないが、こちらとしては「あの悪辣極まるデリク卿が反アルフレッド軍を率いる」ことを売り文句にして仲間を募ったという弱みがある。そこで私がデリク卿を吊るしたということになれば、同志にとってみれば「トップが内輪揉めしている反乱軍になど加担できるか、降りさせてもらう」ということになるだろう。大変に不味い。
だからといってアルフレッド副皇太子と握手する方向で話を進めるとなると、必然的に、ラウレンツ皇太子は殺すしかなくなる。
皇太子殺しの実行犯をニリアン卿に押し付けて吊るすにしても、「皇太子は冬のサンサで不幸な事故に遭われた」ことにするにしても、「エイダ伯が皇太子を殺した」という事実は事実として暗黙のうちに共有されてしまう。つまり私はよりによってあのアルフレッド副皇太子と墓場まで一連托生ということになる。あり得ない選択だ。
クソが。
内心で悪態をつきながら、私はダーヴの教会に向かう道を歩く。
そのうち遠くに――教会の正門の前に、デリク卿の姿が見えてきた。
この卑劣な裏切り者めが。
私は憤怒を押し殺しながら最後の数歩を踏みしめ、デリク卿の前に立った。足元で、土と混じった氷がジャリジャリと嫌な音をたてる。薄笑いを浮かべたデリク卿が差し出してきた右手を無視して、私は教会の中に入ることにした。正門で軽く膝を折り、神と教会への敬意を示す。腹立たしい。何もかもが腹立たしい。
私の姿を認めた坊主どもが集まってきて、「よくいらっしゃいましたエイダ伯、控えの間はこちらになります」などと媚びへつらうのに対し、忌々しさを押し殺しながら頷き返す。クソどもが。「教会の屋根の下にあって、あらゆる信徒は平等」ではないのか? その程度の建前も守れぬような根性なしが、神の僕とは! 南の猿どもの惰弱さにはほとほと呆れ返る。
控えの間に案内された私は、口の中一杯に広がる激しい苦味のような苛立ちを噛み締めながら、どっかりとソファに座る。粗末なソファはミシリと嫌な音を立てたが、なんとか踏みとどまった。あんなに高い税金を巻き上げておいて、応接室のソファひとつまともなものにできぬとは。
所詮、この教会を預かる司祭などという輩は、帝都から嫌々このサンサに赴任してきたその日の夜から肥やせる限りの私服を肥やし続け、そうやってかき集めたカネを帝都の有力者に献金し続けることで、帝都への凱旋を夢見るような連中ばかりだ。そのことはこのソファ1つとっても明らかではないか!
とめどない怒りがあふれかえる。
教会という場であるがゆえに、この怒りを押し隠さねばならないというのが、さらに怒りを煽る。
そんな私の前に、デリク卿が腰を降ろした。顔には薄笑いとしか言いようがない表情が張り付いたままだ。
私は必死で己を押さえ込みながら、できるかぎり冷静に彼を譴責する。
「デリク卿。いったいどういうつもりなのか、釈明を願いたい。
貴殿のやったことは、明らかな裏切りだ!
納得できる説明がないならば、私は私で最善の努力をさせて頂く。無論その最初の一手は、我が剣で貴殿の首を落とすことからだ」
12月に入って、ダーヴの街は大いに揺れた。
最初に起こったのが、ハーマン司祭暗殺事件。10日の夜、ハーマン司祭は深夜の鐘が鳴らされても祈りの場に姿を見せなかった。不審に思ったヤナーチカ3級審問官が司祭の私室に迎えに行ったところ、司祭は心臓をナイフで一突きされて息絶えていた。ハーマン司祭の夕食には強い睡眠薬が混ぜられていたことが後の調査で判明し、これが計画的な犯行であることは疑う余地がなくなった。
ハーマン司祭暗殺事件から3日後、ダーヴ市民の前で復仇を叫んだデリク卿は容疑者を捕らえ、その首は街の広場に晒された。デリク卿が捕らえた容疑者は帝国が送り込んでいた間諜であり、睡眠薬や暗殺用の特殊なナイフなど、証拠品も大量に残っていた。ダーヴ市民は敬愛するハーマン司祭を殺した帝国の非道に憤慨し、デリク卿もまた偉大な才能が無為な暴力によって失われたことを大いに嘆いた。
だが問題はこれで終わりではなかった。
過ぎ越しのミサが、目前に迫っているのだ。
ハーマン司祭による説法があり得ぬものとなった以上、誰かがその代理を務めねばならない。しかしその非業の死をもって聖者がごとき崇拝を集めるようになったハーマン司祭の代理となると、なまじな人物では務まらない。
……の、だが。
大変に良くないことに、サンサ教区の司祭たちは先の帝都でのゴタゴタの影響で、ほぼ全員が「帝都から新しく送り込まれてきた人物」にすげ変わっていた。
一方、ニリアン領包囲のみならず、ハーマン司祭暗殺事件まで重なった結果、ダーヴ市民は帝国の政治に対して痛烈なヘイトを貯めている。
つまり何もかもが悪い連鎖をすれば、過ぎ越しのミサの席で、激発した市民が教壇に押し寄せ、「帝都から来たクソ司祭」の首を掲げて、正義の執行を神に叫びながら決起する――そんな展開すらあり得る。実際にそこまでのことが起きる確率はそこまで高くないが、起こり得る範囲にはあるし、起こってしまったら絶望的なまでに収拾がつかない。
この悩ましい懸念に対し、デリク卿は「ライザンドラ司祭を過ぎ越しのミサに呼ぶ」という決断を下した。
彼女はダーヴ市民の間で非常に人気が高く、神の真意を届ける聖者にして賢者として崇拝する者すらいる。だから彼女にミサを仕切らせるという選択が、「過ぎ越しのミサをきっかけとしてダーヴの街で大規模な反帝国蜂起が始まる」ことを予防するための最善手であるというのは、否定できない側面もある。
だが現教皇テオドヌス8世は、ライザンドラ司祭とニリアン領の焼却を求めている。
前皇帝からデリク卿にくだされた同趣旨の勅令はもはや正統性が揺らいでいるとはいえ、現教皇であるテオドヌス8世からの勅令は、まだ生きている――つまりデリク卿とライザンドラ司祭の関係を語るなら、「不倶戴天の敵」以外に適切な言葉は存在しないし、実際これまで二人はそのように振る舞ってきた。
にも関わらず、デリク卿は突如ライザンドラ司祭をダーヴの街に招き、ライザンドラ司祭はそれを受けた。どんな馬鹿であっても、二人の間には以前から何らかの密約があったことを悟るだろう。
さらに厄介なことに、デリク卿は「ライザンドラ司祭にミサで説法をさせる」という無茶――というか公然たる反乱――を、押し通す正式な権限を持っている。
なにせデリク卿は「ライザンドラ問題の解決に限り、この地における教皇の代理人」なのだ。「これが必要だ」とデリク卿が強く主張すれば、この地に派遣されてきた司祭たちはその決定に従うしかない。それを掣肘し得る権限を持っていたのは、死んだハーマン司祭だけなのだから。
要するにデリク卿は、入念な下準備をもって、教会に反旗を翻したのだ。
とはいえこの(教会にとっての)緊急事態は報告書となって、教会が持つ最速の情報連絡網に乗って帝都へと向かっただろう。冬のサンサ教区を情報(つまり人)が移動するには大いなる困難が伴うが、それでも年明け3月中旬には帝都にもこの知らせが届くと考えたほうがいい。
こうなればさすがの愚物アルフレッドと言えど、サンサで集められている軍が「ライザンドラ問題を解決するための軍ではない」ことを理解するだろう。つまりアルフレッド副皇太子はこちらの計画よりまるまる1ヶ月早い段階で、動員をかけられることになる。
そして何より、デリク卿の叛意が揺るがないとなれば、教会もアルフレッド副皇太子に協力するだろう。彼らが聖騎士団に動員をかければ、我々の敗北は確定だ。
私の詰問に対し、デリク卿はいたって平静な様子を崩すことなく――それでいて完全に予想外の答えを返してきた。
「エイダ伯。私が何か説明するよりも、まずはライザンドラ司祭の説法を聞いてみてください。
司祭の説法が終わった後、なお伯が私の決断に疑念を抱かれるのであれば、この素っ首などいかようにでも」
完全に虚を突かれた私は、思わず絶句してしまう。
反アルフレッド副皇太子の軍を動かすにあたって、貴様は勝手に策謀を動かす前に、私に対して報告と相談をする義務があったのではないか?
ハーマン司祭を殺したのも貴様だろう、いったい何を企んでいる?
――そんな問いが、うまく言葉にできぬままに、喉の奥に消えていく。
だがそんな回りくどい問いは、もう不要になったとも言える。いまこの男は確かに、「殺したければ殺せ」と言ったのだから。
「良かろう。
貴様が呼んだライザンドラ司祭の説法とやらを、聞こうじゃないか。
貴様を殺すのは、その後だ。
おい、お前ら! デリク卿を見張れ! 絶対に逃がすなよ!」
私は配下の戦士たちに命じ、デリク卿の周囲を固めさせる。デリク卿の護衛はとっさに主を守るべく動こうとするが、それをデリク卿は手で制した。
「ご提案を受け入れて頂き、感謝に絶えません。
さて、では行くとしましょう。教会の屋根の下にあって、万人は平等。少し早めに動いて良い席を抑えなければ、司祭の説法をちゃんと聞くのは難しいでしょうからな」
私はデリク卿の言葉を鼻で笑いつつも、席を立った。
確かに、過ぎ越しのミサにおける席次は、明確に決まっているわけではない。一般的に言って最前列は貴賓席となっているものだが、司祭によってはそういった席にわざと貧民を座らせることもある。座っているだけでケツが痛くなるような粗末な椅子に座らされるよりは、早めに動いて貴賓席を確保してしまうべきだろう。デリク卿もまた席を立つと、私の後ろに続いて控えの間を出た。
控えの前を出て主堂に足を一歩踏み入れると、そこは一種異様な熱気が立ち込めていた。思わず、足が止まる。
まだ、過ぎ越しのミサは始まっていない。
それどころか、開始までまだ30分近くある。
にも関わらず、主堂はほとんど満席になっていた。
そして主堂に集まった市民たちは一様に、いまだ無人の教壇を見つめている。
あたかも、そこにライザンドラ司祭の幻影を見ているかのように。
ごくりと、つばを飲み込む。
本当に、私は、教会にいるのか?
私はいつの間にか、異端の集会に連れ込まれたのでは?
そんなあり得ない疑念を心の片隅でもて遊びながら、私は最前列にぽっかりと残されていた空席に腰を降ろした。クッションと背もたれのある、まっとうな椅子だ。
デリク卿もまた、私の隣に残されていた貴賓席に腰を下ろす。周囲に空いていたベンチシートは、護衛たちが埋めた。
しかし……これは、あまりにも異様だ。異様に過ぎる。
普通、過ぎ越しのミサと言えば、振る舞われる料理や酒、菓子といったものが最も重要な位置を占める。だから普通は主堂の脇にはその手の食事が並んでいて、集まった信徒たちはそれらをつまみ食いしながらミサを待つものだ。ど田舎の貧乏教会でもない限り、過ぎ越しのミサとはそういうものなのだ。
実際、帝都での過ぎ越しのミサに至っては歌に踊りに芝居が連続し、年明けと同時に大舞踏会が始まるという、事実上「一年で一番大きなパーティ」と化している。私も数回、帝都での過ぎ越しのミサに出席したが、私ですら「これをミサと呼ぶのは如何なものか」と感じたものだ。
だがいま、ダーヴ教会の主堂に集まった市民たちは、無駄口ひとつ叩くことなく、静かに司祭の登壇を待っている。時折聞こえる小さな声は、神に捧げる聖句ばかり。ミサとしては「かくあるべし」なのだろうが――しかし、これは……こんなものが過ぎ越しのミサであって良いのか?
そうやって何とも居心地の悪い思いを転がしている間にも、市民たちは続々と主堂に集まってきた。既に席は完全に埋まっており、いわゆる立ち見の市民が増え続けている。
さすがにこのあたりからおおっぴらに私語をする市民も増え始めたし、それにつられるかのように大声で泣く赤子や、それをあやす母親の声も混じるようになった。
つまり、主堂に集まった人々は、ようやく普通の集団になった。
思わず、安堵のため息めいたものを漏らしてしまう。
だがそんな普通の時間と空間は、一瞬で拭い去られた。
ライザンドラ司祭が主堂に入場したのだ。
途端に、主堂は痛いまでの静寂に包まれた。
人がましい声といえば、赤子が泣く声のみ。
異様なほどに、緊張感が高まる。
私も若い頃、今の地位を父から継ぐ前は、野盗どもを吊るすために手勢を率い、自ら剣を握って戦ったことがある。
そうやって殺した咎人の数は1人や2人ではないし、忠実なる部下にして戦友が私のすぐ隣で息絶えたこともあった。
そんな生と死が交錯する場ですら、今のこの空気ほどには、張り詰めてはいない。
優雅、としか言いようのない足取りで教壇に立ったライザンドラ司祭は、すらりと背筋を伸ばすと、我々を睥睨した。
私は「睥睨する」という言葉の意味を、このとき初めて理解したと思う。
彼女は圧倒的に美しく、私がその美を言葉にするなら「孤高の美」とでも言うのが精一杯だ。側仕えの詩人が今の彼女を見たならば、数百行を費やしてその美を語っただろう。
教壇の上で彼女は大きく息を吸うと、その可憐な唇から心地よい音律が飛び出した。
そしてその時になってようやく、私は自分が過ぎ越しのミサを苦手をしていることを思い出した。
ダーヴ教会のように、ある程度以上にちゃんとした教会で行われる過ぎ越しのミサでの説法は、伝統的な古語で行われる(学者が古エルマル語とか呼ぶ言葉だ)。
古エルマル語は支配者階級にとって嗜みとされているが、私を含め、苦手にしている者は少なくない。帝都の貴族ですら、大貴族と呼ばれる格式を備えた家か、さもなくば教会に入って学者や司祭位を目指す連中でもなければ、古エルマル語は決まり文句を引用するのが精一杯という者が大半だ。
だから過ぎ越しのミサで古エルマル語の説法が始まると、私はどうしても眠くなってしまう。それはライザンドラ司祭の美声をもってしても同じことで、むしろ彼女の柔らかで伸びのある声は、一撃で私の意識を闇へとかっさらおうとした。
とはいえ世俗の支配者として、「過ぎ越しのミサの席で熟睡していました」なんて噂が立つのは最悪の事態だ。だから私は意識を保つため、いつものように太ももを強くつねろうとして――そして、一発で眠気は吹き飛んだ。
詰めかけた市民たちが、彼女の説法を前に、立ち上がって歓喜の叫びを上げたからだ。
馬鹿な。
そんなことが、あり得るものか。
けして短くない時間を古エルマル語の習得に費やした私でも、ライザンドラ司祭のおそろしく流暢な古エルマル語はまるで理解できない。辛うじて「神」とか「信じる」(「信仰」かもしれないが、そこまでの格変化にはついていけない)とか、あとはせいぜい否定形が耳に残る程度だ。
なのに、この無学な平民どもが、彼女の説法に喝采する、だと!?
だがその驚愕は、それほど長続きしなかった。
別段、市民どもはライザンドラ司祭の説法を理解などしていない。
連中はただ、彼女が「神」とか「信仰」とか「天」とかいう、自分にも理解できる単語を発音すると、それに反応して喝采しているだけだ。
事実、いま彼女は「人は信仰を誤ることがある」と言った(はずだ)が、主堂に鈴なりになった市民は「信仰」の言葉に対して拍手喝采した――無論、常識的に言ってこの一節は、拍手を送るべき一節ではない。
馬鹿げている。
こいつらは、馬鹿の群れだ。
すっかり呆れ返った私は、思わずデリク卿に視線を向けていた。
こんなものを私に見せることに、何の意味があるというのか。
私の視線に気づいたのか、デリク卿もまた私に視線を向けると、軽く苦笑いしてみせる。ひどい茶番でしょう、と言わんばかりに。
まったくだ。
こんな無茶苦茶な茶番、生まれて初めて見る。
けれどそのうち、私はあることに気づいた。
ライザンドラ司祭は意図的に、特定の一節を繰り返している。「主よ憐れみたまえ」というフレーズは、2単語で構成される定型句であり、私でも容易に聞き取れる。
そして不思議なことに、そうやって「自分にも聞き取れる」一節があると、いつもの眠気をまるで感じないということに私は気づいた。馬鹿どもは今なお文脈と無関係に歓声と拍手を送っているが、それがなくとも最初に感じた眠気は消え失せていた。
そうやって「自分にも聞き取れる美しい一節」に耳を澄ませているうちに、気がつくと私は「主よ憐れみたまえ」の一節に呼応して小さな拍手を送るようになっていた。
そんな自分が気恥ずかしくなって、ちらりとデリク卿を盗み見してしまう。
だが彼は拍手どころではなく、「主よ憐れみたまえ」の一節を、ライザンドラ司祭にあわせて小声で一緒に唱えていた。
ほのかに、対抗心が湧き上がる。
だから私は次のタイミングで、デリク卿よりも大きな声で、はっきりと「主よ憐れみたまえ」と唱えた。
似たようなことをしている平民たちもいるが、ちゃんとした教育を受けた私の発音にはかなわない。なにより「声を出す」のは世俗の支配者として仕事の一部だから、声質も声量も、そこらの平民と私では雲泥の差が出る。
周囲の平民たちの視線が、私に向けられる。
驚き、賞賛、感動、そして嫉妬。
そんな感情が入り混じった視線が私に向けられるのを、感じる。
なるほど。
市民たちが「神」や「信仰」といった単語に反応して拍手喝采するのも、理解できる。
これは、最初に思ったよりずっと、愉しいものなのだ。
だから気がつくと私は平民たちに混じってライザンドラ司祭の詠唱に喝采を送り、ときに同じ文句を唱え、ときに熱烈な拍手で彼女の祈りを迎え入れた。
一瞬、「自分は何をしているのか」と思ったが、教会の屋根の下にあって人は平等だ。私が恥じるべきことなど、なにもない。
それに、こんな愉快なものを、平民に独占させておくなど、許されてなるものか。
やがてライザンドラ司祭の説法は最高潮に達し、私達は彼女に導かれるがままに声をあげ、手をたたき、足を踏み鳴らした。
説法の最後は「主よ憐れみたまえ」の連呼となり、主堂に詰めかけた全員が一斉に「主よ憐れみたまえ」を唱和した。そして10回目の唱和が果てるのに合わせて深夜の鐘が鳴り、我々は新たな1年を迎えた喜びのままに、身分の上下も忘れて互いに抱き合った。
狂乱のごときいっときが過ぎ、気がつくと主堂には酒と料理と菓子が運び込まれていた。主堂に収まりきらない人数を着席させられるだけのテーブルなどあるまいにと思ったが、ライザンドラ司祭は「全員が立ったまま飲み食いする」ことを提案し、我々はそれを受け入れた。
料理も菓子も手でつまんで食べやすいように作られていたし、今のこの熱い一体感を思えば、平民と同じ粗末な木のカップで飲む酒も実に味わい深い。考えてみれば、こんなふうに地位だの名誉だのを剥ぎ取って、仲間として共に酒食を楽しむなど、父が死んでエイダ伯の名を継いでからこのかた、一度もなかった。〈エイダの掟〉には「戦士にとって最上の酒とは戦友とともに馬上で酌み交わす酒である」という格言があるにも関わらず、私はこういう酒の素晴らしさを、すっかり忘れていたのだ。
皆に食事と酒が行き渡り、酒精が市民たちの口を軽くし始めた頃、再びライザンドラ司祭が教壇に立った。皆が皆、期待と興奮に顔を赤らめて、司祭に注目する。私は木のカップを手に、「今度は拍手するというわけにはいかんな」と思っていた。
だがここで再び、ライザンドラ司祭は我々全員の予想を裏切った。
彼女は、いたって普通の口語で、説法を始めたのだ。
あり得ないことだ。これはけして、あり得ないことだ。
確かに、酒も食事も出せないような極貧の村では、この手の「貧者のための説法」が常態化している。司祭によっては聖書ではなく、コミカルな叙事詩を暗唱し、貧しい人々の心を楽しませるという。
だがそれは逆に言えば、「新年のミサにおいて口語で説法するのは貧しさの証」ということでもある。
つまり、この場で彼女が口語で説法するというのは、「サンサ教区は貧しい土地だ」と宣言するに等しい。それはこの教区における世俗の支配者である私にとって、顔に泥を塗られるも同然だ。
けれど私の心は、まるで怒りを覚えなかった。
理由など、言うまでもない。
サンサの地で得られる最高の酒、最高の肉、最高のパンよりも、彼女の説法のほうが素晴らしかったからだ。
「憎けりゃ殺す、人間ってそんなものなのか?」
「憎けりゃ殺す、人間ってそんなものだろう?」
そうやって古典演劇の一節を引用したかと思えば。
「我らは結局のところ、迷うしかない」
聖ユーリーンが遺した警句で心を突き刺す。
もしこの世に完璧な説法というものがあり得るならば、これがそうだ。
この場にいる誰もが、その確信を胸にしていた。
やがてライザンドラ司祭は新年のミサが終わったことを告げると、「新たなる一年に幸福が多からんことを、今宵ばかりは大いに食べ、飲み、歌うことをもって、その祈りと致しましょう」と冗談めかして語り、教壇を降りた。
そして興奮のままに駆け寄る市民たち一人ひとりと丁寧に握手をすると、修道院でのミサを執り行うため主堂を去っていった。司祭というのも、なかなかの激務だ。
しかし――なんとも忌々しいが、デリク卿の企みも今ならよく分かる。
「いかがでしたか」
だから私は、そう声をかけてきたデリク卿に、わざと渋面を作ってみせる。
それからそのあたりにあった酒瓶を引っつかむと、彼が手にしていた木製のカップになみなみと酒を注ぎ込んだ。
デリク卿は軽く鼻白んだような顔になったが、酒瓶を受け取ると、私が持つカップに酒を注ぐ。
「まずは、乾杯だ。去っていった1年と、これからの1年に」
そう言って杯を掲げると、デリク卿もそれに唱和して杯を掲げた。
「乾杯を。去っていった1年と、これからの1年に」
互いに一息で杯を干す。サンサの戦士の飲み方だ。
「彼女を担ぎ出せば、10万の軍勢を得たも同然よな。
彼女の祝福を受けたサンサの戦士は、1人で南の猿10匹を討ち取るだろう。
たとえそれが、昨日始めて槍を手にした、そこらの平民であっても、だ」
空になったカップに酒を注ぐデリク卿に向かってそう声をかけると、彼は昏い笑顔を浮かべた。陰謀家の笑み。
「それで、教会はどうする?
策はあってのことだとは思うが、概要だけ教えろ。
その程度の報告を聞いても、バチはあたるまい」
私の要求に、デリク卿は昏い笑みを崩さないまま、簡潔な答えをよこした。
「ライザンドラ司祭の死を求める勅令は、私が持っています。
彼女は異端者ではないという、ハーマン司祭の報告書も。
この2つの写しをまとめてジャービトン派に渡せば、連中は大喜びで審問会派を攻撃する材料にするでしょう。ハーマン司祭の報告書がある限り、ボニサグス派は審問会派に反対します。ライザンドラ司祭はミョルニル派ですから、本件に限ってはミョルニル派もジャービトン派の肩を持つでしょう。さすがの審問会派も、誰かに詰め腹を切らせてつつ撤退戦をするしかないでしょうね。
ですので我々は予定通り、アルフレッド副皇太子を討つのみです。ご指摘の通り、ライザンドラ司祭の助力があるいま、彼が1ヶ月余計に準備期間を確保したところで結果は何も変わりません。むしろ敵の数が多少多いくらいのほうが、サンサの戦士たちの恐ろしさを帝国市民に刻み込む戦いとなるでしょうな」
そういうことか。陰湿だが、堅実。デリク卿らしい鉄板の策だ。
だがそうなると、もう1つ聞くべきことができる。
「素晴らしい策だ。実に陰湿、かつ堅実だな。
ところでこの戦いの後、デリク家はどうするつもりだ?」
ライザンドラ司祭を担ぎ出し、ジャービトン派に利益供与して、アルフレッド副皇太子を討つ。当初より絵図が複雑になり、デリク家が得るものも明らかに多くなった。
このまますべてが上手く行けば、デリク家はかつてのガルシア家もかくやという権勢を振るうようになるが、その一方で次期皇帝となるラウレンツ皇太子には酷く恨まれているという、とてつもなく危険な状況が発生する。
皇帝となったラウレンツ皇太子はデリク卿を許すだろうが、反デリク派としてはラウレンツ皇太子を担いでデリク家を徹底的に攻撃すると考えたほうがいい。かといってそこでデリク家が半端に弱気を見せれば、ジャービトン派からラウレンツ皇太子まで、全員が総力を上げて口封じに動くだろう。もちろん私だってそれに乗っかる。
つまり私の見たところ、デリク家の未来は完全なデッドエンドだ。だがそんなことを予測できていないデリク卿ではないはずだ。
彼は何か、策を練っている。
そしてエイダ家が、彼の次なる策の踏み台にされるのでは、かなわない。
「ここだけの話ですが、デリク家はこの戦いを最後に、帝国の政治からは手を引こうかと。大雑把に言えば、教会との連携を深める方向を模索しています。
少なくともエイダ伯に何かをお願いしに上がることにはなりませんよ」
……なるほど。仮にも教皇が発した勅令に反する以上は、教会との関係を改善しながら騙し騙しやるしかないというのは、納得できる話だ。その上で、デリク卿が撤退戦を遂行する方向性で完全に腹を括っているのであれば、この男は必要に応じて苛烈極まる反撃を繰り出しつつ、それを最後までやり遂げるだろう。
こちらとしてもデリク卿とは「今後一切関係がない」のが望ましい(誰がこんな薄汚い陰謀家と関係を持ち続けたいと思うか!)から、今後しばらくは「ラウレンツ皇太子にとって最大の支持者」というポジションから逃げられないエイダ家としても、デリク家が帝国政治から手を引いてくれるというのは大変にありがたい。
そんなことを考えながら酒をちびちびと飲んでいると、デリク卿が昏い笑顔を貼り付けたまま、私に声をかけてきた。
「そういえばライザンドラ司祭から、エイダ伯に伝言を預かっています。伝言というのとも少し違いますかね。
ともあれ、なかなかお会いできる機会もないことですし、明日――もう今日ですね――の晩、夕刻の鐘が鳴った後にでも、個人的にお会いできまいか、とのことです」
ほほう。個人的に、ときたか。
なるほど……なかなか、彼女はよく政治が分かっている。
自分の強みがどこにあって、誰に対してその強みを売るべきか、正しく判断できている。
このあたり、さすがはライザンドラ・オルセンと言うべき、か。
「エイダ伯。ひとつだけ忠告させていただきたい。
彼女は、手強いですよ。大変に、手強い。
それだけは、肝に命じられたほうが宜しいかと」
デリク卿の忠告に、私は失笑を返す。
「バカバカしい!
確かに、彼女は優れた司祭だ。だが所詮、女ではないか。
彼女が私を取り込もうと企んでいるのであれば、私は彼女にサンサの男のなんたるかを教えてやろう。
なあに、明日の昼には彼女のほうから『今宵も』と言い出すようになる」




