アルール歴2189年 12月7日(+4日)
――ハーマン司祭の場合――
「何と言ってお詫びしたものか、本当に申し訳ない。
司祭殿――いや、特別顧問殿たってのお申し出であるというのに、約束の時刻にこれほどまでの遅参になるとは。
まこと、汗顔の至りだ。言い訳をさせて頂ければ、どうにもまだ雪道に慣れなくてな……」
約束の時間に30分ほど遅刻してきたデリク卿は、恥を忍んでといった風情で僕の執務室(と言っても教会の一角を改装しただけだが)に姿を見せた。
僕としても、彼が遅刻してきたことを責めようとは思わない。彼の多忙っぷりはよく知っているし、僕の個人的なお願いで呼び出せるような状況でもないのも理解している。
でもそれだけに、どこかで一度、彼と話をしてしまわねばならなかった。もしかしたら間に合わないかもという危惧感がないではなかったが、最悪の事態は回避できたようだ。幾重にも神に感謝すべき、僥倖と言える。
デリク卿が席に腰掛けたところで、僕は本題を切り出した。回りくどい前振りをしている暇なんてどこにもないし、僕自身そういうのは苦手だ。
僕は自分の机に置いた羊皮紙を一束手に取ると、デリク卿の前に差し出す。
「デリク卿に、たってのお願いがあります。
これは僕の、最後の研究となるものです。
どうかこれを、帝都中央神殿のアリア書付記研究室に届けてください。ハーマン司祭の論文だと言えば、それで先方は受領するはずです」
デリク卿は訝しげな目で――正確にはそういう演技をしながら――僕の表情を伺った。
この芝居に付き合うと面倒くさいことになるので、僕はさらに単刀直入に要点へと飛び込むことにする。
「デリク卿。僕はまったくの政治音痴ですが、それでもボニサグス派です。
状況を分析し、情報を整理し、そこから真実を解き明かすのは、僕たちにとってみれば呼吸をするのと変わりません。
ボニサグス派が一般に政治を苦手とするのは、普段はこの頭脳労働を100%教理の問題に向けているからです。
でもいま僕は、サンサ教区における極めて困難な政治的問題の解決に際し、帝国と教会から全権を与えられたデリク卿の、特別顧問として働いています。つまり世情を観測し、必要に応じて情報収集を行い、分析と推論を積み重ねていくのが、僕の仕事です」
そこまで口にした段階で、デリク卿は僕が何を言わんとしているのか、完全に理解したようだ。でも彼に口を挟ませてしまうと政治的な会話になってしまい、僕のペースを乱されるのは確実なので、無作法を承知で僕は自分語りを続ける。
「いささか入り組んだ話ですから、順番に解決していきましょう。
まずこれは確認なのですが、デリク卿はそう遠くないタイミングで――おそらくは来週中には――僕を殺します。
そして僕を殺した犯人を捕らえ、帝国が送り込んできた暗殺者だとして処刑する。
処刑される犯人は本当に帝国が送り込んできている諜報員です。してみると本日の遅刻は、デリク卿腹心の部下がこの地の雪にまだ完全には慣れていないがために、諜報員を生きたまま捕らえる作戦が予定よりも長引いたから――というところですかね」
何か言おうとするデリク卿を手で制して、僕は解説を続ける。
「デリク卿のこの計画について所感を申し上げますと、僕個人としては『勘弁してくれ』の一言に尽きます。
でも、この状況を覆せるだけの代案を提示できるかというと、無理なんですよ。なので遺憾ながら『仕方がない』としか申し上げようがない。
ですので僕としては、僕が特に何の抵抗もしない代償として、この論文を帝都まで届けて頂けまいかというご提案をしています。
僕からの話は以上です。僕の個人的な願いを、聞き届けて頂けますでしょうか?」
デリク卿はしばし黙り込んだが、覚悟を決めたといわんばかりの表情になって、深々と頷いた。
「ハーマン司祭たっての願い、全力を尽くして遂行することを約束する」
あらま、思ったよりゴネなかったか。このあたりはデリク卿も甘いというべきか、何と言うべきか。
念の為、もうひと押ししておこう。
「一応、申し上げておきますが、この論文の中にデリク卿を告発しようとか、そういった意図が含まれた文書は混じっていません。
無論、その点については部下の方にご確認頂いても結構です。ただまあ――あまり一般的ではない文書なので、専門の知識がないと特殊な暗号のように読めてしまうかもしれません。
ですのでこの点について、僕の言葉以外に保証足り得るものはないのが残念です」
僕としてはわりと必死の懇願だけど、しないわけにもいかない。
普通に考えれば「わかった」と言うだけ言って、この論文は燃やしてしまうだろう。僕がボニサグス派でなければ、僕だってそうする。さすがに僕もそこまで世間知らずではないから。
だからこそ僕としては、勝率の高いほうに賭けるしかない。つまりこれを政治の問題ではなく、名誉の問題にしてしまうという方向性だ。
「ハーマン司祭。私がこんなことを言うのは実に不誠実の極みだが、それでも誓わせて頂きたい。
神に誓って、この文書は必ずや安全に帝都まで運び、帝都中央神殿のアリア書付記研究室にお届けする。
あなたが――いや、おそらくは世の常識人がそう推測するように、この文書に火にくべて灰に返すようなことは、絶対にしない。
私はあくまで、歴史と伝統あるデリク家の当主だ。ハーマン司祭に対しこれほどまでに大きな借りを作った以上、それを返さぬことなど、あり得ない」
なるほど。ならば良かった。デリク卿であれば貸し借りという貴族のロジックに従って行動してくれるのではないかという読みは、外れなかったようだ。
僕は一気に気が抜けて、思わず大きなため息をついてしまう。
それを見たデリク卿は、狡猾さと羞恥心を半々に混ぜたような顔をしながら、僕に問いを立ててきた。
「ところで、その――ハーマン司祭はなぜ、私の計画を見抜かれたのか。
伺えるものなら、伺いたい。我ながら間の抜けた問いではあるが、これから私が行く道は、大量の流血なしには行けぬ道。その半ばにして、私もまた路傍の骸となる可能性は十分にある。
だがそんなことは、問題の本質ではない。私が最も恐れるのは、この戦いが私の予想を越えて長引き、互いに落とし所を失ってしまう可能性だ。こうなれば流れる血の量は、想像を絶することになる。
ハーマン司祭であれば、私が何を考えてこの愚かな覇道に乗り出したのか、察しておられよう。どうか、一滴でも流れる血の量を減らすためと思って、私がどこで何を間違ったのか、教えて頂けまいか」
ふむ。詭弁も詭弁、ここまで来るといっそ清々しいくらいの自己中心的な弁舌だが、貴族とはそんなものだ。
それに、僕には政治実務は分からない。僕としては「そもそもこんなことを思いついた段階でどうかしてる」と言ってやりたいし、言うつもりだけど、とはいえ世俗の支配者として最善を尽くそうとした結果がこれなのだと言われたら、「そうですか」というほかない。
まあ、いい。軽く謎解きをしておこう。
「そうですね。教理の世界から言わせて頂ければ、まずもって『必要な犠牲』などというものを前提とした計画だという段階で、何もかもが間違いだ、ということになります。
わかっておいでかと思いますが、これは『僕を殺すとはなんたることだ』という意味ではなく、『手の届く範囲の民草を守ろうという意図は健全だが、そのためなら手の届かない範囲の民草を消費して構わないというのは完全に間違いだ』という意味です。
これを先に言わないことには司祭として失格ですから、真っ先に強く申し上げておきましょう」
しばしばにして聖職者は「世間知らず」と言われるが、世の中が綺麗事だけで動かないことは、痛いほど知っている。
僕らは(理想的には)人が生まれた瞬間に立ち会い、死の間際にも立ち会うことを求められる仕事をしている。そうやって人の生死の土壇場に立ち会うということは、世のままならなさを徹底的に思い知らされるということだ。
だからこそ、僕たちは何度でも訴える。
世界は冷酷で、人生は汚い。それはどうやっても曲げられない、真実だ。
でもそのことと、冷酷なのが世界であり、汚いのが人生であることは、まったく異なる。人は他人を穢してでも己の命を抱きしめようとするものだが、他人を穢して己の命を抱きしめようとするのが人生ではない。世界も、人生も、もっともっと大きなものだ。
とまあ、集合論の基礎みたいな話はここまで。
「もともと特別顧問としての任務を受けた段階で、僕は遠からず殺されるだろうと判断していました。さすがにこれは自明でいいですよね? 証明しようと思えばいくらでもできますが、時間の無駄でしょう。
決定打になったのは、今年の過ぎ越しのミサに関する各種書類のチェックを、司祭代理をお願いしているヤナーチカ3級審問官に頼まれたことですね。
ああ、頼みますからこれを理由に彼女を殺すとか、やめてくださいよ? 聖職者殺しは無限の段階を踏んで無限の地獄に堕ちる、片道切符です。僕はデリク卿と僕を殺す暗殺者を許しますが、彼女まで殺すってなら話は別です。
話をもとに戻しましょう。ヤナーチカ3級審問官は、過ぎ越しのミサの実務責任者として仕事をするのはこれが初めてです。彼女なりに前年の資料などを見たのでしょうが、信徒にとってみれば一年で最大のお祭りですから、完璧を期すに越したことはない。というわけで生真面目な彼女は僕に今年の資料のチェックをしてくれ、と言ってきたわけです。
――もう、お気づきですね?」
デリク卿の顔が、「完全に理解した」と言わんばかりの顔になった。うーむ、帝都の大貴族様がここまで表情豊かでいいんだろうか。でもこうやって直接会って話してみると、これはこれで彼の人間的な魅力に大いに貢献しているな、とも思う。つまり、もしかしたらこれは彼なりの高度な戦術なのかもしれない。
「僕が書類をチェックしたところ、今年の過ぎ越しのミサのために用意されている資材には、ミョルニル派の様式でしか使われない資材がいくつか含まれていました。その書類にサインしたのはデリク卿です。
さて、僕はボニサグス派、ヤナーチカ3級審問官は審問会派。この周囲でミョルニル派の司祭はライザンドラ司祭だけ。あとは2足す2は4ってな具合ですね。
ダーヴの街の過ぎ越しのミサをライザンドラ司祭に主催させるなんていう、とんでもない無理筋を通すには、僕を説得するしかない。
でもいくら僕だって――いえ僕だからこそ――伝統的な序列は曲げられない。僕がサンサ教区の統括を教会から委ねられた以上、ダーヴ教会での過ぎ越しのミサは僕が仕切らなくてはならない。これはいわゆるライザンドラ問題とは無関係なことが明らかだから、デリク卿が教皇の勅令を盾に横車を押そうとしたって、僕は絶対に首を縦には振らない。
でもデリク卿は、ダーヴの街でミョルニル派が主催する過ぎ越しのミサを開こうとしている。となると、デリク卿は僕を説得するにあたって言葉よりも、もうちょっと強い何かを使おうとしていると考えるしかない。
……と、いう展開をライザンドラ司祭は読んでたんでしょうね。だから大胆不敵にもデリク卿を通じて、僕に向かって『デリク卿はミョルニル派に過ぎ越しのミサを仕切らせようとしていますよ』というメッセージを仕込んできた」
デリク卿はバツが悪そうな顔で、頭をボリボリと掻いた。
してみると彼は、その可能性には思い至っていたけれど、彼自身が行ったチェックの網目はすり抜けたといったところか。
そりゃあ仕方ない。僕とかユーリーン司祭みたいな行き着いた教理オタクでもない限り、各派が過ぎ越しのミサでどんな飾り付けをするかなんて、いちいち全部調査したりしない。つまりデリク卿が個人的に雇ったであろう「教理の専門家」が、ライザンドラ司祭が仕込んだメッセージを見抜けなかったのは、ほんとうに仕方ないことだ。
そしてこの状況に、デリク卿は入れ食い気味に食いついてきた。
「つまりハーマン司祭は、私が包囲下のニリアン領でライザンドラ司祭と二度目の会談を持ち、そこで私が彼女に依頼されたことが書類になったものを見て、その段階で自分の命が風前の灯だということに気づいておられた――そういうことになる。
質問に質問を重ねてしまって大変に恐縮だが、なぜその段階であなたは逃げるなり守りを固めるなり、あるいは積極的に反撃策を講じるなり、しなかったのか?」
おっと、そこですか。いやいや、そんなの自明でしょ。
「そこを疑問に感じるのは、デリク卿らしからぬことなのでは?
冷静に考えてください。デリク卿は500人の暴力の専門家をここに連れてきています。しかも現地でさらに、シーニー君が率いる翠爪団を雇っている。
そんなのを相手に逃げるとか戦うとか、可能性を考えるだけ時間の無駄ですよね?」
デリク卿はしばし「まったく理解できない」という顔をして、それでもその顔のまま、口を開こうとした。僕はそれを再び手で制する。
「デリク卿。それはダメです。それがダメだってことは、あなたも重々承知のはずでしょう。
僕が死んだことにして計画を前に進め、別人になりすました僕は軍師的なポジションであなたをサポートする。そんな計画、上手くいきっこありません。絶対に、ダメです。
そもそもあなたは世俗世界の専門家として、『流れる血の量が最も少なくなる可能性』を模索したんでしょう? ここで流れる血の量を増やす危険性を高めるのは、明確な悪手です」
デリク卿はしばし奥歯を食いしばって言葉を無理矢理飲むこんでから、大きなため息をついた。
それからゆっくりと、言葉を選びながら、問いを発する。
「――それでもひとつだけ、分からない。
なぜライザンドラ司祭は、あなたに警告を発したのか? ライザンドラ司祭であれば、警告を受け取ったあなたが何もしないことくらい、間違いなく見抜いていただろう。
にも関わらず、なぜ? なぜ彼女は、こんな無駄なことを?」
なるほど、そこでライザンドラ司祭か。
これはつまり、「自分が暗殺しようとしている人間に面と向かって説教される」という倫理と羞恥のどん詰まりにあるデリク卿が、そこで脳裏に思い浮かべるのがライザンドラ司祭ってことだ。
やれやれ。まったく、これだからホンモノは困る。
ともあれ、この問いには答えねばならないだろう。なにせ僕の利益に直結した問いだから。
「彼女に警告を受けたおかげで、僕はこの論文を完成させ得たんですよ。
だから彼女はあなたに裏切り者と罵られるリスクを犯してでも僕にメッセージを発したし、僕はその機会を最大限に活用した。それだけのことです」
デリク卿は「信じられない」と言わんばかりの顔で――いや、実際にそう呟いて――僕の顔をまじまじと見た。
「信じられん。なぜだ。なぜ、そこまで?
なぜそこまでして、この論文を?」
やれやれ。こうなってしまうと、僕としては自分の利益の最大化のためにも(あるいは利益保全のためにも)、すべてを話すしかない。僕がここまで固執する論文の本質を理解してもらわないことには、デリク卿は最後の最後で僕の論文を焼いてしまうだろうから。
まったく。ライザンドラ司祭はきっと、こうなることを読んでいたのだろう。彼女はたった1本のメッセージを通じて僕を動かし、デリク卿にボニサグス派司祭のなんたるかを教えさせようとした――そしてそれは見事に成就したというわけだ。
こんな怪物と日々向き合っていただなんて、ユーリーン司祭はどこまで太い神経を持っているのやら、だ。
「この論文の根底にあるアイデアは、聖ユーリーンが司祭位を取ったばかりの頃に、ボニサグス派のとある学会に提出した論文がベースになっています。
聖ユーリーンの論文は、アリア書研究における現状に対する批判的研究でした……あー、デリク卿にも分かりやすいように言いますと、ボニサグス派においてアリア書研究は、格が低いんです。
だいたい550年くらい前、ヴェルディティウス派に異端が浸透したとき、アリア書の原本が改ざんされかかるという重大事件が発生しました。それもあって、アリア書研究は立場が微妙なんですよ。『それは本当に改ざんの影響を受けていないテキストを元にした研究なのか』ってのを、執拗に攻撃されがちなんです。
要はアリア書研究ってのは、かつて一族の跳ねっ返りが皇帝に対して反乱を起こした過去を持つ貴族の家――くらいの扱いですね。家そのものの歴史はすごく古いから、それに免じて辛うじてお家断絶だけは免れた、程度の」
僕の説明を、デリク卿は興味深げに聞く。本当はもっといろいろややこしいのだが、ボニサグス派内部の政治に限って話をすれば、政治のプロともいえるデリク卿は素晴らしい速度で状況を理解してくれる。
「その状況に対して、『アリア書の研究は他の研究に劣ったものではない』と意気軒昂に叫んだ若き学者がいました。若きと言っても150年前のことなので、とうに死んでますが。
ともあれ彼の尽力もあってアリア書研究は復興し、400年間ほど形式上の存在でしかなかったアリア書研究室も復興しました。
これだけなら、良いことです」
デリク卿は真剣な顔で僕の講義を聞く。その目からは、僕の言葉を一言も聞き漏らすまいという強い意思が感じられる。
いやはや、生涯最後の講義の相手が自分を殺そうとしている男で、それがこんなにも良い生徒であるってのは、いったいいかなる神の采配なのか。
「問題はこの150年前の若き学者、ローシュ司祭は、学者というよりは政治家だったということです。
彼の研究は、控えめに言って、学術的価値がありませんでした。彼自身も不勉強を不勉強で塗り隠すようなタイプで、学者としては話になりません。
でも彼はとても政治が上手でした。しかも当時の皇帝は『新しい文化の創造』を目指した事業に補助金をバンバン出す人物でして、アリア書研究の復興っていうテーマは、皇帝にしてみると自分の文教政策にハクをつけるにあたって理想だったわけです。
そんなこんなで政治主導で再始動したアリア書研究は、必然的に、利権の巣窟になっていきました。帝室内部の政争に負けた王子様がジャービトン派に入って、アリア書研究室の顧問になるとか、そんな感じですね。
そういう状況なので、僕がかつて所属していたアリア書付記研究室は、アリア書を研究しようとする学者の間では、ほぼ人気ゼロでしたね。理由は簡単、研究室の名前に『付記』とついているので、『格下のような印象がある』からです」
デリク卿が苦虫を噛み潰したような顔になる。
僕の読みでは、彼はアルフレッド副皇太子のクーデターを潰す準備をしていると思う。でも僕が語った教理研究世界の腐敗は、アルフレッド副皇太子が批判――違うな、あれは「悪口を言う」レベルだ――する状況、そのものだ。
けれどデリク卿がローシュ司祭を腐敗していると思うなら、それもまた正確な理解ではない。帝室のミクロな政治を利用してでもアリア書研究を再起動させるという彼の強靭な意思がなければ、アリア書研究は未だに日陰に置かれていただろうから(だからといってローシュ司祭が学者としては無能だという評価までは変わらないが)。
で、あるならば。
なるほど、神が僕とデリク卿にこんな不思議な教室を準備してくれたのも、納得できる。
ああもう、なんでまた神ってのは、こうもお見事なのか。参ったね。
「ところがだいたい15年くらい前に、一人の信じがたい頑固者がこの状況に対して異を唱えました。それが通称『石頭ユーリーン』の論文です。
彼女の論文は、150年前にローシュ司祭が書いた論文を恐るべき精度で批判するものでした。草稿を読んだ――というか押し付けられた僕は、一週間ほど悔しさと興奮で不眠症を患ったくらいです。
ま、僕はあのとき彼女の才能に対する嫉妬に狂うだけじゃなくて、もうちょっと具体的な行動を起こすべきでした。でも僕もまだ、あの頃は若かったんですよね。
アリア書研究関係の予算や職位を利権化するだけでなく、その利権を『先祖代々の伝統』としている連中にとってみれば、ローシュ司祭の権威を破壊する論文など脊髄反射で異端と叫ぶべき対象です。
結果、かの論文が出されたその年のうちにユーリーン司祭はニリアン領に飛ばされ、彼女が書いたあらゆる論文は破棄されました。あの事件は背教者ローランドの陰謀ってことになってますし、聖ユーリーンの公式記録でもそういうことになってますけど、真実がどうなのかは神のみぞ知る、です」
ようやく、デリク卿の瞳に理解と――そして驚愕の光が灯った。
うん、実に良い生徒だ。賢い生徒を相手にすると、こっちも高揚する。
「もう、おわかりですね。
詳細は審問会派が隠匿していますが、550年前に起きたアリア書の汚染未遂事件。
そして150年前に始まった、ローシュ司祭によるアリア書研究の再起動と、政治利用。
15年前の、石頭ユーリーンによるアリア書研究の再定義。
僕らは、そういうスパンでの戦いを続けています」
デリク卿は、ゆっくりと頷く。
何度も、何度も、頷く。
これで彼の本質が変わるとは思わないが、将来的に彼が教理研究分野への投資でアレなことをしでかす確率は有意に下がった……と、思いたい。少なくとも彼が、僕らが何を見ているかということを理解してくれれば、それだけでも十分だ。
「デリク卿は、帝国とその市民の今後100年を見据えて、僕を殺し、おそらくは帝国に巨大な戦乱を引き起こそうとしている。
その判断に異を唱えられるほど、僕は政治を知りません。
でも僕は、550年前の敗北と、150年前に結果論として発生した2度目の敗北を、取り返したい。僕がそれを取り返せるとはこれっぽっちも思わないけれど、これから先、僕らを踏み台にして戦い続ける連中が、550年後にでも――いや5000年後にでも、5万年後であっても、なにかに届けば、それでいい。
だから僕の命と引き換えにこの論文を残せるなら、僕は勝ちなんです」
デリク卿の瞳に、ほのかに涙が溜まっていく。
でも、いまここで泣かないでほしい、僕の最後の弟子よ。
それは、今の君には、許されない。
「今後100年のことなんて、僕にはまったくわかりません。
だから、貴方に委ねます。
でも、もっと先のことであれば、僕にはビジョンがあります。
だから、そこは僕に任せてもらえませんか?」




