アルール歴2189年 12月4日(-3日)
エピローグ
――エレオノーラの場合――
「世の中は度し難い愚か者ばかりだな、エレオノーラ。
学問にも、もっとちゃんと世の中にとって有益なものがあるというのに、賢者ヅラした連中ときたらやれ数学だ歴史学だ美学だと、地に足のついた人生にとってみればまるで無益な虚像を褒めそやすばかりだ。
連中はもっと、市井の商人たちを見習うべきだ。彼らのように、己の望むことを己の稼ぎで実現してこそ、まっとうな仕事と胸も張れるというもの。今の彼らは社会の寄生虫に過ぎん。
まったくもって、不自然だ。競争と淘汰から切り離された世界を賛美するバカどもが、帝国を歪めている」
部屋に入るなりアルフレッド殿下はこの口上の3倍くらいの罵詈雑言を並べ立てながら、戸棚からグラスを取って手酌でワインを注いだ。愚痴の量も、酒の量も、もはや覆い隠し難いレベルで増えている。
私は殿下の横に座ると、あからさまに品位を欠いた量をグラスに注ぎ込もうとしている彼の手に指を添えた。安さがウリの庶民的な飲み屋だって、こんなにもなみなみと酒を注いだりはしない。
彼は大きく嘆息すると私の制止を受け入れたが、それ以上は私にも止めようもなく、非常識なくらいにワインが入ったグラスを一息で干した。この悪癖ゆえに、私はいちいち彼の手酌をコントロールしてやらねばならなくなっている。彼にしてみればこの一気飲みは己の男らしさを誇示する行為なので、こちらから強く踏み込めないのがなんとも苛だたしい。
「リーンハルト書記部長からは、今日も強く諌められたよ。
君側に侍る姦婦を廃すべし、とな。
あの老人は、実に扱い難い」
リーンハルト書記部長――一般的には老リーンハルトと呼ばれる人物――は、アルフレッド副皇太子を支持する人々の中では最も大きな政治権力を有する。
彼は昨今の帝都においては珍しく、家柄ではなく実力で地位を勝ち取ってきた人物だ。書記部とは帝室における統合的な兵站管理部門であり(なぜこれが書記部と呼ばれるのかは歴史学者の研究課題となっている)、勅令による遠征軍の派遣から定例の園遊会まで、帝室が主導する事案において動かすカネ・モノ・ヒトを管理する。その書記部のボスとして、老リーンハルトは帝室の縁の下を支え続けている。
そしてそんな人物であればこそ、アルフレッド殿下は老リーンハルトを重用した。彼は老リーンハルトのような、「実際に額に汗を流して働く人々」を過剰なまでに持ち上げる傾向がある。
老リーンハルトはクーデターを起こしたアルフレッド殿下からの熱烈なラブコールに対し長らく逡巡していたが、やがて、この若き野心家を支えることに決めた。親しい友人には「帝室に対する最後のご奉公」と言っているそうで、つまりはアルフレッド殿下が起こしたこのドタバタ劇による混乱を最小限に抑えることに、自分の名誉と命を捧げることにしたというわけだ。
そんな老リーンハルトなので、アルフレッド殿下の公然たる愛人である私に対し、面と向かって「姦婦」と罵倒することにも憚りがない。
「殿下。どうか、老リーンハルトを重用され続けますよう。
彼の能力は本物ですし、官吏という立場を鑑みれば必要な諫言です。
この件については、私が口をつぐめばよいだけのこと。何卒、大局を見誤られぬように願います」
老リーンハルトは、私がアルフレッド殿下を唆し、クーデターに至らしめたと訴えている。そして私利私欲を満たすため、今なおベッドから彼を操っている、と。
「まったくもって馬鹿げた話だ、エレオノーラ!
俺としてはお前の意見をもっと聞きたいのに、お前は『女が政治に口出しすべきではない』と頑なに口を閉ざすばかり。
老リーンハルトの懸念は完全に的外れだ」
私が政治に口出ししていないのは、本当のことだ。
正直なところ、私は政治実務にそこまで明るいわけではない。そして実務としての政治がどれほど奥深いかは、夫の仕事を横で見ているだけでも、嫌というほど理解できた。私のような素人が迂闊に口を挟むのは、百害あって一利なしの極みだ。
だからアルフレッド副皇太子に政策上のアドバイスをする仕事は、その道のプロに任せている。
私が口を出しているのは、社交における課題だ。
アルフレッド殿下は、世界を敵と味方の2色で塗り分けて理解している。そして「敵の敵は味方」程度の幼稚なノウハウをもって、自分のことを現実主義者だと考えている。
つまるところ、彼は子供だ。
とはいえ最初の頃は私も、そういう幼稚なアプローチで勝負に出て、いくつか手痛い(でも老リーンハルトが尽力すればリカバリー可能な範囲の)失敗をすれば、彼たりと言えどもそこから学ぶだろうと期待していた。
彼の教育には膨大な国家予算が注ぎ込まれてきたのだし、本当の実務を経験すれば「このままではマズい」と理解するだろう、と。
でも、彼は変わらなかった。学ばなかった。助言を仰ぐことも、しなかった。
彼はまさにいま、「俺はお前の意見を聞きたい」と口にしたが、これを正確な帝国公用語に翻訳すれば「俺はお前に褒めてほしい」という言葉になるだろう。
つまるところ、彼は永遠の子供なのだ。
もっとも、これもまたある程度までは予想された事態だ。
私(と協力者)はアルフレッド殿下に接触し、お忍びで彼が見たがっている「帝都の悲惨な現状」を見せ、彼が信じたがっている「帝都が抱える積年の課題」を見せ、彼が想像する通りの「帝都市民を苦しめる巨悪」を見せた。
それらは別段、架空のものではない。帝都は広く、歴史も長い。悲惨な現状にも、積年の課題にも、市民を苦しめる巨悪にも、事欠かない。それらは帝都における日常の、小さな小さな切片に過ぎない。
けれど私が見せたその幾多の切片はアルフレッド殿下の無垢な心に積もり積もっていき、やがて彼は義憤を爆発させた。叙事詩に登場する正義のヒーローに憧れる、子供のように。
かくして私の協力者の一人である老リーンハルトは園遊会の警備計画を操作し、アルフレッド殿下とその血気盛んな仲間たちはクーデターを成功させた。
その後、老リーンハルトは悩んだ末にアルフレッド殿下の支持者となって、政治実務を取り仕切るようになった。一方で私は、彼の社交性に改善が見られないか、観察と教育を担当している。老リーンハルトが公然と私を面罵するのは、事前に定めた符丁を用いた現状報告だ。
「――そういえば、書記部長がもう1つ、熱弁していたことがあったな。デリク卿の件だ。
デリク卿にくだされた勅令は撤回されているのだから、デリク卿がいつまでもサンサ教区で古い勅令の遂行のために動いているのは、もはや謀反の疑いありとして問い詰めねばならぬ状況である、だったか。
なんとも、杓子定規よな。
俺としては、デリク卿には申し訳ないことをしたと感じている。彼に対しては教皇からの勅令も発せられている以上、俺が帝国皇帝の勅令を撤回しても、彼は2つの勅令の間で板挟みにならざるを得ない。
それくらいの事情は、酌量してやるべきだろう?」
……まったく。老リーンハルトは、お人が良すぎる。
「とはいえ、かの老人が主張するように、デリク卿のもとに使者を送るというのは悪くない。冬の間は動けぬにしても、来年3月の初旬にキーエン港を出れば、4月には港開きの時期のサンサに着く。
老リーンハルトは、使者としてお前を送るのが最適だと強く訴えていたよ。お前が俺の側にいるのが、心底気に入らないらしい。
だが客観的に考えると、確かにデリク卿との交渉はとても重要だし、そうなるとお前の弁舌と機知に頼るのが最適では、ある」
つまり老リーンハルトは3月初旬の船に私を乗せ、帝都を脱出させようとしている。
デリク卿がサンサで決起するのは、当初の予定なら来年の3月。
それまでに多少の情報漏洩があったとしても、冬のサンサ~帝都間の情報伝達速度を考えると、帝都に決起の情報が伝わるまで1ヶ月は見たほうがいい。
だから3月1日に船に乗ってしまえば、私はほぼ確実に「状況外」に避難できる。
でも私はもう、十分に長く生きた。
そして2月にデリク卿と会ってからこのかた、無数の罪を犯してきた。
亡き夫が信奉した「公正」に反する行いを、繰り返した。
その報いは、この身で正しく受け止めるべきだろう。
今も隣で黙々と酒盃を傾ける哀れな子供が、最後まで私を信じるのか、それともどこかの段階で裏切りに気づくのか、それは分からない。
でもそのどちらであっても、彼は私を殺すだろう。
私に対する愛ゆえか、憎悪ゆえか、そのいずれかをもって、彼は私を殺すだろう。
その結末に、悔いはない。
どちらに転んでも「悲運の王子を誑かした悪女」として歴史に名を残すというのは、亡夫は憤慨するだろうけれど、なかなかに私らしいではないか。
そんなことより、デリク卿がライザンドラさんを殺しておらず、おそらくは彼女と協力することで計画を前進させているという現状を、私はこの上なく喜ばしく思う。
ライザンドラさんが何を望んでいるのかは、分からない。
でもその望みは、デリク卿をして価値を認めしむるようなものなのだ。
亡き夫にとって唯一の親しい友人だった老マルタが遺した、最後のお弟子さんは、何かとてつもないことをしでかそうとしている。
ならば、それでいい。
だから私は、アルフレッド殿下の手に、軽く自分の指を絡める。
それから軽く潤ませた目で、「帝都とサンサを往復すれば、どんなに短くても3ヶ月、長ければ半年はかかってしまいますね」と呟く。
当然のように、皇太子はこの言葉を「私はあなたと離れたくありません」という意味に取った。本当に、子供だ。
酒盃をテーブルに戻したアルフレッド殿下は、私の太ももに触れながら、「俺もそんなに長く、お前なしの生活に耐えられる自信がない」と囁いた。
「殿下。殿下は帝国のため、日々の激務を見事に果たしておられます。
そんな殿下をお慰めすることに、否はありません。
ですが、まだ夜というには……」
「殿下はやめろ、エレオノーラ。
もう夕刻の鐘は鳴った。為政者の営業時間は終了だ」
「……アルフレッド。
いかなる時であっても、慎みは大切な美徳――」
私にしてみればおそろしく退屈なトークは、アルフレッド副皇太子の唇で塞がれた。目を閉じて彼の唇を受け入れると、そのままソファに押し倒される。
本当に、本当に、どうしようもない子供だ。
だから私はそっと、心の中で祈る。
天に栄光を、地に繁栄を、人の魂に平穏あれと、静かに祈る。
そうやって祈りながら、獣欲を滾らせた子供の手が性急に黒いドレスを剥ぎ取っていくのを、私は他人事のように感じていた。




